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BY Kasumi Yahagi

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新作(AD2016)




2016/01/05

僕はカヌーのような形をした、小さなボートを漕いでいた。「すいませーん、乗せてくれませんかー?」
岸辺でひとりの女性が、こちらに向かって声を上げている。僕は何とかボートを陸に寄せて、その女性を船に乗せてあげた。
「ありがとう。この川、どこへ続いているのかしら?」「さぁ、どこへ行くのかなぁ」僕らは流れの行く先を見つめた。
ここは青空だが、向こうは空も景色も白っぽい。眩い光に包まれている。
女性はその美しい光を見つめて涙を流した。「どうしたの?」僕は彼女に涙のわけを聞いた。

婚約者の男に、裏切られたのだという。
勤め先にはそのまま黙って寿退社をし、流産して後、彼女は次の仕事を探した。しかし、職はなかなか見つからなかった。
そんな苦悩の中、彼が子を儲け、家を買い、順調に出世していることを友人から聞いた。
スマホ画面に並ぶ、幸せいっぱいの彼の家族。『俺、妻と子供のために頑張ります!』嘗て私が彼と語り、夢描いたものが、そこに並んでいた。
憎しみや悲しみに蝕まれ、不安定になっていく心。こんな自分は、もう嫌だ。彼女は疲れ果て、ふらふらとさ迷い歩いて、この川辺に辿り着いたのだという。
「あなたはどうしてここへ来たの?」彼女は涙を誤魔化すように言った。

しばらくの間、僕らは口を噤み、流れ行く小船に身をゆだねていた。
このとき、おそらく僕らは、同じことを考えていたに違いない。人生の意味について。生きる意味について。この命の意味について。
彼女の美しい横顔と、その頬を伝う涙を見ていたとき、僕はふとひとつの確信を抱いた。
彼女はここにいてはいけない。この人を、この先に行かせてはいけない!僕は急いでボートを川縁に寄せようとした。
性急な僕の行動に、おどろく彼女。しかし、川の流れはさっきよりもずっと早くなっていて、とてもボートを制御できそうにない。
「僕が川に飛び込んで、泳いで向こう岸に渡る!」
彼女は目に涙を浮かべ、嬉しいような、困ったような、複雑な笑みを浮かべていた。
僕は叫んだ「君の名前と住所を教えて!」「私は奏(かなで)。住所はー…」

どすんっ!!
急に体ごと放り出されるような衝撃を覚えて、僕は目を覚ました。視界には、天井から伸びた首吊り用のロープが揺れている。
(僕は失敗したのか…)いや、今はそんなことどうでもいい。奏!
驚くべきことに、奏の口にした住所は、うちの向かいにあるアパートの一室だった。
ふたりの距離は、彼女が川縁から僕のボートを呼んだ距離とほぼ一緒だ。
僕はアパートの階段を駆け上がり、廊下に設置してあった防災用の斧で、奏の部屋のドアを叩き壊した。
部屋はガスで充満していた。僕はガス線を閉めて、手当たり次第に部屋の窓を開けながら叫んだ。「奏!かなでー!」
彼女は居間で倒れていた。僕は彼女の細い体を抱き起こし、その名を何度も呼んだ。「奏!目を開けてくれ、奏!僕らは…僕らは!」
奏はうっすらと目を開き、僕の頬に手を伸ばす。そして、目に微笑みと涙を浮かべて言った。
「もう一度、生きてみます」



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よすが

2015/05/17

お前は分かっているのか。私に愛を語るということが、どいうことか。
お前は、私を忌み嫌い蔑む人間を、尊い敬えというのか?
明るい日の元で、己のしあわせを手いっぱいにひろげる人々の更なる幸福を
この暗がりから、一人ぼっちで祈れというのか?

フランケン博士よ、約束する。
私に、私を愛してくれる唯一の者を造り与えてくれるのなら、私はもう人を襲ったりはしない。
以前のように、石や棒で追い払われるようなことがあっても、人を傷つけたりはしない。
本当だ。
手の届かぬ愛を見せつけられても、それを憎んだりはしない。

私にだって、愛してくれる者さえいれば―

人間を学び、己を学び、お前の言う愛を学ぼう。

約束する。約束する。約束する。



ジュリアの鏡

2014/12/07

立派な墓石にユリの花を添える一人の女性。その背中に、教会の老神父が声をかけた。「彼女の葬儀は昨日終わりました。多くの人が参列してくれてね、とても盛大で華やかなものになりましたよ」
墓石に刻まれた名は、フリア(英名・ジュリア)・パストラーナ。1834 〜 1860年、享年26歳。彼女は『世界で最も醜い女性』と宣伝され、米国や欧州で見せ物にされた女性である。
フリアは死後約150年を経て、ここ、生まれ故郷のメキシコに帰り、埋葬された。「フリア・パストラーナ。彼女の人生は、きっと悲惨極まりないものだったでしょうね」女性が言った。
「なぜ、そう思うのです?」と神父は怪訝な顔をする。「だって、そうじゃない。多毛症という障害のせいで、見世物小屋で化物あつかいされながら一生を終えたのよ。
それだけじゃない。死後はミイラにされて、今日に至るまで、150年間も見世物にされ続けた。これが悲惨な人生じゃないのなら、なんだって言うの?」女性は悔しそうに言った。

フリア・パストラーナは、1834年メキシコ・シナロア州で生まれた。彼女は極端な多毛症のため、首から上は常に長い毛で覆われていた。いわゆるフリークス(奇形)だった。
そのため人目につく職にはつけず、10代前半まではお屋敷の倉で下働きをして暮らしていた。ある日、フリアの噂を聞きつけたセオドアという米国人興行者が彼女に近づき、こんな話をもちかけた。
「俺と一緒に来れば、こんな仕事にしばられずにすむぞ。君はショーに出て世界を駆け巡るんだ。金も今の何倍も稼げる」
フリアはこの話に乗った。いつも自分の未来を変えたいと思っていたし、それを実現するには、多少胡散臭くてもこの男の話に乗るより他になかった。
「そして彼女は、生涯を見世物小屋で暮らすことになったのです」神父は、墓石を見つめながら言った。

セオドアは彼女をこう宣伝した。『人間とオランウータンの交配!』『世界で最も醜い女!』『極端に不快な生き物!』
フリアは見世物小屋で、歌やダンスを仕込まれ、日々のショーをこなして行く。時には猿の物マネをさせられることもあった。
観客たちはハンカチで口元を押さえ、悲鳴を上げながら彼女を嘲笑した。偏見を看過する残酷な時代が、そこにあった。
しかし、特別に金を払いフリアと会ったという人は、彼女に対して別の印象を持った。

『彼女は美声の持ち主で、首から下は女性として完璧だった。豊かな胸、細い腕に長く美しい脚、ウエストなどたいへんに優美であった。性格も穏やかで優しく、少し話しをしただけで
その知性の高さが伺えた。しかも、各国をめぐる見世物巡業の中で、彼女は数ヶ国語を習得していた。さらに彼女は財を抱え込むようなことはせず、慈善団体への寄付を常としていたのである。
私はわからなくなった。彼女が人と違うことは確かだ。確かなのだが―。一体、彼女と我々の違いは、何なのであろう』

いつしかフリアにはファンがつくようになり、たびたび彼女に求婚する者が現れるようになった。彼女のお陰で金持ちになっていたセオドアは慌てた。
これを阻止しようと、セオドアはフリアと偽装結婚をする。その後、フリアに対する囲い込みはいっそう厳しくなり、フリアは見世物小屋から外へ出ることは許されなくなってしまった。

フリアは26歳の時に妊娠した。相手はわかっていない。夫のセオドアではないであろう。おそらく、ショーの後に金を払って通う男の中のひとりと思われる。
フリアは息子を出産した。自分と同じ多毛症の子供だった。フリアは自分とそっくりな赤ん坊が愛おしくてたまらず、寝る間も惜しんで我が子を愛でていたという。
しかし、この子には体力がなかったのか、数日後に死んでしまった。フリアは失望のあまり衰弱し、産後の肥立ちの悪さも重なって、終には命の危機を迎えてしまう。
「フリア姉さん!僕らを置いていかないで!」フリアと同じ境遇にある、見世物小屋の仲間たちが手を握る。「ごめんね」と力なく答えるフリア。そして彼女は、最期の言葉を残して、天国のわが子を追って逝った。
「私はね、しあわせのうちに死にます。だって私は、充分に愛されていましたから」

「フリアの物語は、ここまでです」神父は言った。「その後の話は、彼女とは関係のない、醜い人たちの物語です。夫セオドアは医師に金を払って2人をミイラにして興行を続けます。
その上新たに多毛症の女性を見つけて再婚。『フリアの妹』と宣伝し、さらに荒稼ぎをしてまわりました。今や大金持ちとなったセオドアですが、彼はある日のこと、突然発狂します。
セオドアは銀行から全財産を引き出すと、奇声を上げながらそれを川へばらまき、一瞬で無一文になりました。彼はモスクワの精神病院に送られ、誰も見舞いに来ないうちに、廊下の隅っこで
膝を抱えたまま亡くなりました。その後150年間。金の成る木として、悪党によって奪い奪われ続けてきたフリアとその子供のミイラ―
…ですが、そんなところにこの美しい親子の魂が、執着するわけがない。それはもう、フリアの物語ではないのです」

「確かに…、そうね」女性は一瞬優しい顔をみせたが、また鋭い視線を向けて言った。「それでも私はフリアが幸せだったとは思えないわ。人の倍の苦労があったはずだもの。
難病に苦しみ、偏見に苦しみ、不自由に苦しんだはずだもの。なぜ自分はこんな姿で生まれてきたのだと、それを恨んだりもしたはずよ。だって彼女は化物でも天使でもない、人間なんだから!」

「…あなたの言うとおりです。彼女は人より多くの傷を心に負いながら、その残酷な時代を生きたことでしょう。それでも、フリアは人を愛したんです。
社会貢献を続け、仲間たちを愛し、男性を愛し、我が子を愛したんです。だからこそ、彼女は愛された。フリアは自ら証明して見せてくれました。
―愛すること。どんな境遇にある人だって、それができないはずはないのだと」

向かい合う二人の間を、やさしい風が吹き抜けていく。風は、美しい木々の緑と、献花されたユリと、女性の長い前髪を揺らした。
鱗のように固くなった皮膚が、顔の左半分を覆っている。
その左目からは、大粒の涙が溢れていた。



メデューサの祈り

2014/09/22

お願い、来ないで!どうかそのまま…。私の方を見ないで、話を聞いてください。

私はこのお屋敷で、ひとりで住んでいます。ひとりぼっちになってから、もう随分と経ちます。
こんな姿ですから、人と話すことも、触れ合うこともない、冷たい日々です。美しい容姿を失ったことよりも、辛くて悲しいのは、この孤独です。

屋敷の外はどんな様子でしょうか。私を愛してくれたあの人は、お元気でしょうか。優しい姉さまたちは、達者で暮らしているのでしょうか。
みんながしあわせでいるのなら、私はとてもうれしい。もしあの人たちに会うことがあったのなら、どうか私は元気でいると、伝えてください。

庭の石造を見て、びっくりなさったでしょう。彼らは私を心配してこの屋敷へ足を踏み入れてしまった、町の人々です。
私はその何人かと目を合わせてしまい、それで彼らは、あのような姿になってしまいました。
私は弓と矢を作り、塔の上からその矢を放って、人々を追い払ってきました。やがて、町の人々は何らかの事情を察し、ここへはこなくなりました。
石化を解く方法は、私にもわかりません。毎日こうして庭に出て、彼らに触れて、元の姿に戻りますようにと、祈る日々です。

あなたは、なぜここへやって来たのですか?私のことを知って、危険を承知で、この屋敷へ入ってきたのですか?
一体、なぜ?あなたは―。…あぁ。そうですか…、それでここへ。…わかりました。
それでは、その大きな盾に私を映すとよいでしょう。それで、私の首に狙いを定めることができます。

その前にひとつ、私の願いを聞いてはくださいませんか?
どうか私に、祈る時間をください。
ひとりぼっちになってからは、辛いことばかりでしたけれど、でも私にも幸せなときがあって、愛した人たちがいて、守りたかったものが、たくさんあって―
どうか私に、手を組む時間をください。
祈る時間を。


氷上の翼

2014/02/08

オリンピック、フィギュアスケート女子シングル。演技終了直後、リングの中央で人一倍涙を流した選手がいた。
結果を聞く前にこれだけ涙するのは、どういうわけか。ミスのない演技に対する達成感か。メダルへの確信か。人々がその理由を知ったのは、大会後日のことだった。
IOC(国際オリンピック委員会)は、カナダ代表ユリア・ザワツキー選手の母親が、競技前日に急死したことを発表。追悼の意を表明した。
オリンピックという大舞台で、彼女がとてつもないものを背負っていたとを知り、世界は驚愕した。
しかも、彼女は評論家の辛辣な予想を裏切り、難しいジャンプを次々に成功させ、銅メダル獲得の快挙を成し遂げたのだった。

ユリアは選手村で母の死を伝えられた。死因は突然の心臓発作。競技を続行するべきか、棄権して母の元へ駆けつけるべきか。
一睡もせず、泣と苦悩の末に彼女が選んだ道は、競技の続行。彼女にそのことを決断させたのは、かつての母の言葉だった。
『お前は行かなきゃいけないよ』

ユリアはカナダマニトバ州の片田舎で、四人兄弟の末っ子として生まれた。父親は早くに他界。兄弟たちは勤勉だった父に倣い、経済界の一役者になろうと次々に家を飛び出していった。
やがて、家に残ったのは母とユリアのふたりだけとなった。「お前を見ていると、なんだかホッとするよ」母にそんなことを言われてしまうほどに、ユリアは心優しく、控えめで、おとなしい少女だった。
そんなユリアにも特技があった。それがスケートだ。ユリアは地元のフィギュアスケート大会で優勝し、新たな自分を発見する。
「何もないと思っていた私にも、特技があったんだ!」そのことが嬉しくて、ユリアはスケートに夢中になった。

16歳になったユリアに転機が訪れる。有名なスケートのコーチがユリアの才能を見込み、彼女を養子にしてもよいと名乗り出たのである。
通常、一流のフィギュアスケーターになるには、年に一千万円以上のお金がかかる。ユリアの家ではとても無理な話で、これはまたとないチャンスだった。
しかし、その矢先のことだった。母が脳梗塞で倒れたのだ。母は一命は取りとめたものの、左半身にいくらかの麻痺を残してしまった。
病院のベッドで横になる母の手を握りながら、ユリアは考えた。夢を取るか、ママを取るか。そんなの決まっている。ユリアは言った。
「ママ、大丈夫よ。ずっと私がそばにいるからね。絶対にママをひとりぼっちになんかしないからね」
娘の言葉を聞いて、母は目に喜色を浮かべた。しかし、急に厳しい顔つきになり、窓に顔を背け、涙を隠して言うのだった。
「いいや。お前は行かなきゃいけないよ」

そうして彼女は、ここまで来た。ユリアは母に与えられた翼を羽ばたかせ、氷上に舞い降りる。
そして、静かに始まるピアノの音色にのせて、踊り始めるのだった。


月と星

2014/01/22

とある一つの土地がある。その土地を、アラブ人はパレスチナと呼び、ユダヤ人はイスラエルと呼んでいる。
その昔、二つの民族は互いの宗教を尊重し合い、ここで仲良く暮らしていた。 しかし、世界戦争による勝者の世界分割により、民族間の関係は急激に悪化。この小さな土地を奪い合う事態に発展した。
先進国の援助を受けたイスラエルは、大きな武力で瞬く間に支配域を拡大。物資の少ないパレスチナは、ゲリラやテロでこれに応戦。四度もの大きな戦いを経て、争いは今なお続いている。
いわゆる、この『パレスチナ問題』を何とかしようと、これまでいろいろな試みが行われてきたが、民族間の悲しみと憎悪は根深く、やり遂げられた試しはない。
とある外国人ジャーナリストが、ユダヤ人エリカとアラブ人ソヘイラを引き合わせたのも、その一つだった。

二人の少女が文通を通して友情を育めば、武器を持った大人たちの心に和平への関心が芽生えるかも知れない。
パレスチナ問題解決の糸口となる物語が生まれるかも知れない。そう考えたのだ。しかし、それも失敗に終わった。
最初、ふたりの少女は確かに友情を育んでいたが、二十歳にもなるとお互いへの関心を失い、この国はそもそも自分たちの土地であることを主張するようになった。
二人が特別なのではない。それは、お互いが国から学んだとおりの、一般的な考え方だった。

12年後、二人は死海の浜辺で偶然の再会を果たす。二人はどこかよそよそしく、あたりさわりのない会話を始めた。
「元気だった?」「家族は?」「結婚は?」「子供はいるの?」「今はしあわせでいるの?」
ふたりはお互いの問いかけに対し、十分に答えることができなかった。
ソヘイラは言えなかった。数年前にイスラエル軍の占拠で家を失い、難民となってしまったことを。
エリカは言えなかった。家族がバス停で自爆テロに巻き込まれ、夫と息子が入院していることを。
別れ間際に、エリカが言った。「ソヘイラ、あなたの夢はなあに?」「家族と幸せに暮らすことよ。それしかないわ。エリカ、あなたの夢は?」
「うん、私も同じことを考えてた。おかしいよね…」そう言ってふたりは笑った。それから、抑えていた感情が爆発したかのように、ふたりは手を取り合って泣いた。
同じものを求めているのに、愛しているのに、なぜ私たちは分かり合えないのか。

平和に対するひとつひとつの思いは消えず、今も月と星の空をさ迷い続けている。


ひとりぼっちのクドリャフカ

2013/06/01

戦争で一番おそろしいのは何かって?あんた、あたしが「それは死ぬことだ」って答えると思ってるんだろ。あはは、ジャーナリストの考えなんてお見通しさ!
そうだね。戦争で一番恐ろしいのは、男物のパンツをはいていることだよ。これは嫌だった!もう恥ずかしくてさ。祖国のために死ぬ覚悟で戦地に居るのに、
はいているのは男物のパンツだなんて。がばがばでつるつるした生地で縫ってあって。まったく、どうしようもない!夏も冬も四年間だよ!

土豪の中には女兵士が二十人。それだけ女が集まれば、それなりのグループもできあがる。
そんな中、仲間のひとりがあたしに言ったんだ。「あなたの他にもうひとり、すごい美人がいるのよ!」みんなは、あたしとその子とどっちが美人かで、勝手にもりあがっていたのさ。
美人の名前は、クドリャフカ・アフメートワ。クドリャフカ(巻き毛ちゃん)なんて言うからどんな女なのかと思ったら、亜麻色の瞳に黒髪の― ふん、たしかに美人だった。
ありゃ、南部の生まれだろうね。あたしゃ、ああいう真っ直ぐの髪に憧れていたから、ライバルが自分にないものを持っているというのは、どうにも煮え切らない気持ちだったよ。
ふふ。あの頃は、あたしも若かったのさ。まわりが始めた美人合戦に気を取られてしまって、あたしもクドも、なんとなくお互いをさけるようになってしまっていた。
それが、クドと話す機会は突然に訪れたんだ。それは、クドが狙撃されたときだった。

衛生兵だった私は、狙撃されて二階の窓から落ちるクドのそばにかけよった。クドは狙撃手のくせに隠れるのがヘタクソで、狙撃にはまったく向いていなかった。…いいや、もともとあの子は、
銃を握ること自体に向いていなかったんだ。「私、家族がいないの」クドが何を言っているのか、最初は分からなかった。出血に意識が朦朧として、うわ言を呟いているのだと思ったよ。
「・・・ずっと、ひとりぼっちだったの。だから・・・」「しゃべるのは助かってからよ!」あたしはそう言い捨てたんだけど、クドは喋り続けるんだ。
「あなたに憧れていたの。青い瞳。潤った唇。なめらかなブロンドの髪。なんて綺麗な人なんだろうって…。こんな人と友達になれたら素敵だなって、ずっと思ってた。なのに、話す機会を失ってしまって…」
こんなところで、いきなり素直になられて、全く困るじゃないか。あたしゃ言ってやったよ。「あんた、こんな男物の下着をつけたままくたばる気?ドイツ人に見つかったら、弄ばれた挙句に、笑いものにされるのよ!
冗談じゃない!あんたも、そう思うでしょ?!だったら生きて―」クドはあたしの腹立ちが可笑しかったのか、一度だけクスリと笑ってみせた。
可愛らしい、こっちもつられて微笑んでしまうような、そんな笑顔だったよ。それから私は、クドの瞳が動かなくなってからも、彼女を自分の陣地へとひきずって運び続けた。
男物の下着をつけたクドを、あんなところに放っておけやしなかったのさ。戦争の中にいたって、あたし達は女だった。あんたも女ならわかるだろう?プライドさ。
当時の私達にとって、それは命と同じくらい大切なものだったんだよ。その後、ソ連の国境を越えたポーランドの最初の村で、やっと女物の下着が支給されたのさ。
これでぶざまな死様をさらさなくてすむ。あたしたちは、今まで履いていた男物の下着を頭上でくるくる回しながら大喜びしたよ。
想像してごらんよ!こんなおかしな光景ったらないだろうに!あっはははは―

どうして笑わないのさ。あんた、泣いてるのかい。どうして?


乳母桜

2013/04/22

私には幼い頃の記憶がない。それは、子供の頃に命に関わるほどの重い病にかかったからだと、母は言った。
それが、ある日私は思い出したのである。そのころに慣れしたんだ、玩具、着物、友達。そして、私に乳を飲ませ、あやし、添い寝をしてくれた、もうひとりの母のことを。
とある桜の木の下で、突然に、私は自分の過去を知った。ふと振り返ると、父と母が私の後ろに立っていた。私が何を思い出したのか分かっている、そんな顔をしていた。
私は自分の記憶を、父と母に訴えた。私を愛してくれた、もうひとりの母のことも。すると母は、もう一人の母、乳母のお袖のことを、私に話して聞かせてくれた。

重い病に倒れ、医者にもう長くはないと言われた、幼子の私。涙に暮れる父と母。ところが、翌朝私はまるで何もなかったかのように健康を取り戻した。
屋敷中が大きな喜びに沸きたった。父は近所の人々を招き、この奇跡を祝って宴を催したほどだった。しかし、宴が夜を迎えると、にわかに乳母のお袖が具合を悪くしてしまう。
一体彼女の身に、何が起こっているのか。お袖は翌日、眩い朝日の中で、その若い命を終えた。

お袖は死の床で父と母に言った。「私の祈りは聞き届けられました。実は、私は不動様にこの子の代わりに、自分が死ぬことをお許し頂けませんかと、懇願したのでございます。
願いは叶えられました。私は今、とてもしあわせです。なぜなら、この命を愛する人のために使うことができたのですから。ご主人様、私からひとつお願いがございます・・・」
主人はお袖の手を握り、涙ながらに言った。「なんでも言ってくれ!」
「私は不動様と約束しました。願いが果たされたなら、お寺の境内に桜の木を植えると。ですが、今の私にはもう、自分でそこに木を植える力が残っておりません。ご主人様。
どうか、私に替わってこの約束を―」力強く頷く父と母。お袖はそれに応え、口元に笑みを浮かべたまま、息をひきとったという。
お袖の葬儀が済むと、父と母は探し得る中で最上の桜の若木を、西法寺の境内に植えた。

それが、今私の目の前に聳え立つ桜の木。美しい乳白色の花びらを散らしている―。
なぜ、乳母の存在を隠していたのかと私が問うと、母は涙ながらに言った。それが、お袖の願いだったからだと。
この子には、ひとりの優しいお母さまがいる。それで、十分ではありませんかと。
そこに、悲しい物語はいらないのだと。


起原

2013/01/21

イラクのシャニダールで旧石器時代の少女が発掘された。
腰に獣の皮を巻きつけ、打製石器でマンモスを追い回す。伸ばしっぱなしの髭や髪。会話は息遣いとジェスチャーのみ。
原始時代のそんなイメージは、この発見により一変する。

少女の周辺だけに、8種類もの花の成分が検出されたのだ。献花されたものであると思われる。
花を美しいと思うのなら、その精神は清潔を好んだであろう。身を着飾っていた可能性も高い。
人の死を悼む気持ちがあるということは、それ相応の道徳も持ち合わせていたはずだ。
彼らの感性は、私たち現代人に限りなく近かったということになる。

花を手に少女を弔う人々。そこには、どんな物語があったのだろう。少女は一体、どんな人生を送ったのだろう。
私たちと同じように、天の彩雲をあおぎ、星に手を伸ばし、自分とは何かを考えたりしたのだろうか。




2012/12/25

とある国で、背中に翼のある子供が生まれた。「天使さまだ」大人たちはそうはやし立て、少女を神に祀りあげた。
大人たちは豊穣や貿易の成功を少女に感謝し、また更なる富を少女に祈った。
実際、少女にそんな力はなかった。それどころか。生まれた時から現人神として扱われてきた少女は、自分の意思すら示すすべを持たなかった。
それでも、人としての本能や感性が、ないわけではない。少女は、自分と同じくらいの子供たちのはしゃぎ声に、自由に空を飛ぶ鳥たちに、ずっと憧れていた。
神通力も飛行能力もない、飾り物の翼。いつか大人になったら、この翼で飛べるようになるのだろうか。ここを出て、自由になれるのだろうか。
空に思う願いだけが、少女に許された唯一の自由だった。

「神の子を独占するな」「あれは、我が国のものである」大人たちは少女をめぐり、戦争を始めた。
大勢の人が犠牲となり、数知れぬ悲劇が生まれた。各国が戦いに疲れきった頃、とある賢者がこう言いだした。
「人々よ、目を覚ませ。神の子などいるから、多くの血が流されるのだ!」

少女は捕えられた。各国の調査官が少女に神の証明を強いた。「この岩を砕いて見せよ」「この水をブドウ酒に変えて見せよ」
できるわけがない。少女の背にある翼は神とはなんの関係もない。単なる身体的特徴でしかないのだから。
「この子は神ではないことが証明された」大人たちはそう宣言し、少女の羽を毟り、牢獄に閉じ込めてしまった。
議会は少女を災いの子と断罪し、処刑を決定する。彼女にはもう、流す涙さえなかった。

刑執行の前夜、牢の天窓からひとりの男が現れた。「姉さん」呼びかける青年。この人は?「僕は姉さんの弟だよ」
青年は上着を脱ぎ、自分の翼を見せて言った。「母さんは、姉さんを奪われてから、僕には翼を隠して生きるように言ったんだ」
「私の、お母さん…」少女はつぶやく。私に家族が…。
「さぁ、行こう。父さんも母さんも、姉さんを待っている。家族みんなで旅立とう!」
少女は初めて自分の意思で手を伸ばす。自分に家族がいる。それを知ったとき、少女は初めて、声をあげて泣いた。
「さぁ、姉さん。どこへ行こうか?」微笑む弟の問いに、少女は星の夜空を仰いで言った。

悲しみのない、自由な空へ。


風と桜

2012/12/10

『Arigato』Thank you.
After the Great East Japan Earthquake and tsunami had occurred in Japan,
we got many supports, assistances, and words of encouragement from People in the world.

Many lives were saved because of you. Water Blankets Hotcoffee More importantly….
Love and Courage. Lots of Love and Courage. Thank you so much.
We still have a long way to go. Little by little…, We'll keep moving forward.
Please continue your support. We will remember you. Always remember you.
Thank you from all my heart.

From distressed area, Urayasu JPN.


狐たち

2012/09/15

娘がひとり、屋台に並んだ面を見つめている。青年は興味を持ち、娘に声をかけた。「見かけない顔だね。どこから来たの?」
後ずさりする娘。青年は不躾な言葉を詫び、笑顔で言った。「村の祭りは初めてかい?歓迎するよ」娘は軽く会釈を返し、また並ぶ面に視線を戻した。
青年もそれとなく陳列している屋台の面に目を向ける。そして、小さく驚きの声を上げた。全ての面が、狐面だったのである。
「ほ・・・欲しい面があるのかい?」娘はこくんと頷いた。右端にかかっている面を指差す。「あの面が、お父さんに似ているのです」
「お父さん?」「私は父を探す旅をしておりました。ここへ寄ったのは、その帰り道でございます」「旅…」どう見ても、旅人という風ではない。浴衣の振袖が、夜風になびいている。
「お父さん、見つかったの?」「はい。戦場で」「戦場?!」「合戦の跡、残ったたくさんの骸の中に、足軽の姿で倒れている父を見つけました」
狐の面を撫でる娘。そのときのことを、思い出しているのだろう。

「あぁ、お父さん!」「・・・お前。どうして、ここに・・・」男は虫の息で娘の顔に手を伸ばした。愛しい娘の姿を、死際の翳んだ意識で受け入れる。
「どうしてこんなことに・・・」人間の姿で血を流す父に、娘はどうしてよいのかわからず、その手を握り締めては、おろおろするばかりだった。
「・・・お前、俺を探してここまできたのかい?人間に化けてまで・・・」父の言葉に、娘はうんうんと頷いてみせた。
「俺は・・・、獣の生活に飽きあきして・・・。生まれ変わりたかった。違うものになりたかったんだ・・・」父は、家族を見放した理由を語り始めた。
「やはり、人間がいい。立派な家を建て、暖かい着物を着て、食料を蓄える知恵がある。
命懸けで冬を越える必要もない。それが、いざ人間になってみたら・・・」
灰色の空を見つめる父の頬に、娘の涙が落ちる。その涙は、まるで父が泣いているかのように、頬を伝って地に落ちた。

「何者になろうと、生きる苦しみからは逃れられなかったよ」

気がつくと、そこに娘の姿はなかった。ふと見ると、ずらりと並んでいた狐面は全て、ひょっとこやら、お多福やら、翁やら、別の面に変わっている。
「あんちゃん、どうだいひとつ」屋台の主人が呆けている青年に声をかけた。青年は咄嗟の事に、口も頭もまわらない。「きっ、きつね!ここにあった狐の面は?!」
「狐の面?あぁ、残念。ひとつだけあったんだけどねぇ、さっき綺麗な娘さんが買って行ってしまったよ。お母さんに持って帰るんだと言っていたなぁ」


泣いた赤鬼

2012/04/25

『 ボクハ コレカラ タビニデルコトニ シマシタ。ナガイ ナガイ タビニ ナルカモ シレマセン。
ケレドモ ボクハ イツデモ キミヲ ワスレマイ。イツカ ドコカデ マタアエルカモ シレマセン。
サヨウナラ キミ。カラダヲ ダイジニ シテクダサイ。ボクハ ドコマデモ キミノ トモダチ。 −青オニ 』


コーヒーミル

2011/10/24

「57、58、59・・・」コーヒー豆を数える私。それを見ていた黒猫が、興味を持ってそこに手を延ばした。
「ああ!混ぜちゃだめよ、ベートーヴェン!」ベートーヴェンとは、私が銘々したこの黒猫の名前だ。
私はその豆をコーヒーミルに入れてハンドルを回した。磨り潰されるコーヒー豆。芳ばしい香りが立ち込める。
「『私の飲むコーヒーは丁度60粒でなければならない』だって」ご主人様の口真似をして言う私。
「・・・本当に味とかわかってるのかな?」愚痴る私に、ベートーヴェンは小首を傾げた。
「ふふ、ちょっといたずらしちゃおうか?」

「失礼します」ご主人様は、机に向かってすごい勢いで何かを書き込んでいる。
私の方を見ないので気づいていないのかと思いきや、ご主人様は手を休めずに「ありがとう」と言った。
私はテーブルにコーヒーカップを置き、メモ帳にこう書いてご主人様に見せた。『昨夜も寝ていないのでしょう?少しお休みされてはいかがですか?』
ご主人様はメモをちらっと見て、それから少し考えた後に、羽ペンを机に置いた。

ご主人様はある日突然聴覚を失った。一時はそれに絶望し、自殺を考えたこともあった。けれど彼は、遺書を書きながらそのあやまちに気づく。
前半絶望を記す遺書の内容は、後半になって生きる内容を帯びはじめ、最後はこう締めくくられていた。
「私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちに、この世を去ってゆくことはできない」
泣きながら書いたのだろう。遺書は吸った涙の乾いた跡でヨレヨレになっていた。

ご主人様はもう大丈夫。それからと言うもの、あの気難しいご主人さまが、最近は冗談まで言うようになった。
いいえ。本当は元より気難しい人ではなかったのかも知れない。
思えば、ご主人さまは事細かい指示はするものの、それに対する失敗を責めるようなことは一度もなかった。

「不思議なものだ。聞こえなくなればなるほど、まわりのことがわかるようになった。故に、聴覚を失ってから気づいたことが沢山ある」
私はメモに書いて聞いてみた『たとえば、どんなことでしょうか?』。
「そうだな。たとえば君が、近所の猫に私の名前をつけていることとか」
私は赤面してうつむいてしまった。うわっ、知ってたんだ。
ご主人様はくすっと笑って、コーヒーカップに口をつける。そして、眉間に微かな皺を寄せて言った。
「一粒多い」


姉弟

2011/04/10

「コラー!待ちなさいお前たち!!」母の叱責に逃げ出す姉と弟。台所の砂糖を勝手に食べていたことがばれてしまったのだ。
二人はごめんなさいと大声でわめきながら庭裏の雑木林へと逃げていく。「とうとう見つかっちゃった。どうしよう?」
ふたりは砂糖を舐めながら解決策を模索したが、いい案など浮かぶわけもなく、日が暮れれば母の待つあの家へ帰らなければならない。
「しょうがない・・・。ふたりで謝ろ」姉は弟の手を引いて、家路へとむかった。

おそるおそる家に近づくと、家の前に一台のトラックが止まっていた。
兵士に促され、荷台に乗りこもうとする母。ふたりは怒られていたことも忘れて駆け寄った。「どこへ行くの?お母・・・」
「あっちへお行き!!」母は怒鳴った。「あたしゃ、こんな子供知らないね!早く行っておくれ!」
「お前の子ではないのか?」兵士が問う。「あたしに子供なんかいないよ!知らない子さ!」
「そんな・・・、ごめんなさい!ごめんなさい!行かないで!もう悪いことはしないから!」
二人は泣きながら母の腕にすがった。その様子を兵士が注意深<眺めている。母親はふたりを乱暴に突き放した。
「お前など愛していない」それがふたりの聞いた、母の最後の言葉だった。

置き去りにされた姉弟。「おねえちゃん。ママは僕たちのこと・・・。僕たちが悪いことばかりするから」
「そんなことない!ママは私たちを愛してる。確かに怒られてばかりだったけれど、だけど・・・。同じくらいいっぱい、私たちを抱きしめて
くれたじゃない。お洋服を縫ってくれたり、感謝祭にはケーキを焼いてくれた。他にもいっぱい、私たちのためにママは、ママはー」
否定する姉も涙が止まらなかった。二人とも母の愛は十分に分っている。しかし、まだ幼い二人の心は、あの辛い言葉に耐えられるように
できてはいなかった。その夜、二人は手を取り合って一緒に床に入った。背中で泣き止まない弟に姉は語りかける。
「ねぇ。もし…。もしも、ママが帰ってこなかったら。私がママの代わりになるよ」「…おねえちゃん」「なあに?」
弟は涙を拭いて言った。「大好きだよ」

あの時、母の身に何が起こっていたのか。二人がその真相にたどり着いたのは、母を捜して17年目のことだった。
アウシュビッツ収容所資料館の職員が、展示ケースからそれを取り出して二人に手渡す。
懐かしい、薄紫色の母の服。その袖裏に織り込まれていた、一枚の写真。幼い日の自分たちが、手を繋いで写っている。
「姉さん。母さんは僕らのこと・・・」「うん」二人は母の思い出の前で、写真と同じようにもう一度手をつないだ。



遣い

2010/11/28

「私も手をあわせてよいかな?」母の墓前で手を合わせる娘に、慎之譲は声をかけた。
「慎之譲さま。なぜこちらへ?」「や。ちょっと涼みに・・・」墓地に涼みにとは、滑稽な言い訳である。
幼少の頃、慎之譲はよく娘をいじめっ子から守ってあげた。墓を掘り返す子供と、噂の絶えなかった娘。しかも、それは事実であった。
娘は毎日のようにこの墓地に何かを埋めては、またそれを掘り返していた。一体何をしていたのか。
それを思わぬでもないが、慎之譲の中では瑣末な問題に過ぎない。慎之譲は今も、初恋のこの娘に想いを寄せ続けている。
ふと目に留まった、墓石に彫られた命日に、慎之譲は首を傾げた。「はて。私とあなたは同じ歳のはず。今は元和二年で、母上の亡くなられた年が…」
「月日が合わぬと?」娘の妖美な瞳に覗き込まれて、慎之譲は眩暈すら覚える。
「ある晩の事です。一軒の飴屋にひとりの女がやってきました」娘は唐突に、物語をはじめた。

女は主人に「飴を下さい」と一文銭を差し出します。主人はこんな夜分にと怪しみますが、女が悲しそうに頼むので飴を売ってやりました。
ところが。翌晩もその次の日も、女はやってきて「飴を下さい」と一文銭を差し出すのです。銭はちゃんと払うのだからと、主人は女を受け入れます。
そして、六日目の夜。「今夜が最後です。銭がもうないのです」と、女は一文銭を置いて、寂しそうに店を出て行きました。
外から泣き止まぬ赤子の鳴き声。それをあやす、女の子守唄。主人は一体何が起こっているのかと、歌の聞こえる方へと足を運びます。
やがて辿り着いたのは寺の墓地。埋葬されたばかりの、新しい墓の前。声はふと、そこで途切れるのでした。
翌朝、住職と役人立ち会いのもと、その墓を掘り返してみると、棺の中で女の亡骸に抱かれた赤ん坊が、飴をしゃぶっていました。
亡くなった妊婦が、埋葬後に赤ん坊を産んでいたのです。棺の中に入れておいた六道銭は、使い果たされて無くなっていました。
「子供を育てるために幽霊となって飴を買いに来たのか・・・」飴屋の主人は赤ん坊を墓穴から救い出しながら言いました。
「この子はお前のかわりに、私が立派に育てるからな」そう言うと、それまで天を仰いでいた母の亡骸が、頷くように頭をがくりと落としました。
その赤ん坊は、飴屋の主人に引き取られ。・・・今はこうして、しあわせに暮らしているのでした。

娘の話に唖然とする慎之譲。我に返り、ふとあることに気がつく。
「まさか・・・。あの頃、あなたが地に埋めていたのは、六文銭。また母が訪ねてきてくれるようにと・・・」
「でも決まって、銭は地に残っておりました」娘は遠い目をして言った。
「人は母を『飴買い幽霊』と呼びます。だけど、私にとってその人は、お母さんなのです。死して尚私を守ってくれた。たった一人の―」
そこで、娘ははっとして言葉を止めた。慎之譲の頬を伝う、涙。
「そうか。会いたかったのだな・・・。どうしても、会いたかったのだな!」
その涙に触れたとき。娘は一瞬、母の腕に抱かれた気がした。


ともだち2

2010/07/09

とあるペットショップに、一人の少女がやってきた。
「いらっしゃい。どんな子を探しているんだい?」店主は少女に声をかけ、様々な子犬を抱かせて見せる。
しばらくして、少女は店のすみにおかれたゲージを指差して、店主に言った。「あの子を、見せて下さい」
ずっと売れ残っていたのだろう、もう子犬ではない。犬は片足を引きずりながらゲージから出てきた。
「こいつは足が悪いんだ」どうせ興味を引くことはないだろう。店主はトーンを落として言った。
しかし、少女はもうその犬しか目に入らなくなっているようで、他の犬には見向きもしない。
「この子を下さい」「え?!ビッコなんだよ?この足はもうどうしたって治らないよ。それでもいいのかい?」
「この子がいいんです」少女の言葉に、迷いはない。
正直、お荷物になった犬を手放すことができて店主は嬉しかった。つい、口も軽くなる。
「そうか!それじゃあ、足が悪いぶん思いっきり安くしとくよ!どうだい?」
喜ぶと思ってそういったのだが、少女は喜ぶどころか、視線を落として黙り込んでしまった。
首を傾げる店主。少女は犬に触れながら、静かに言った。「値札どおりのお金で、ゆずってください」

後日。店主は近くの公園で、家族と休日を楽しんでいた。
キャッチボールで取り損ねたボールを追いかけてゆくと、大きな木の下で、見覚えのある犬が主人に寄り添っている。
例のビッコの犬だ。と言うことは、その横でうたた寝しているのは、あの気丈な娘だろうか。
数歩近づいてみて、彼は目を見張った。以前は、少女があまりにも自然に歩いていたので気づかなかった。
そこには、義足の少女と、曲がった片足を抱えた犬が、しあわせそうに寄り添って眠っていた。


ブラックピンク

2009/02/05

1968年アメリカ南部。一人のプロレスラーの元に、一通のファンレターが届いた。
「ファンレター?私に?」ヒール(悪役)の自分に手紙など初めてだった。

 「ブラックピンクさんへ。ぼくはブラックピンクさんがだいすきです。ブラックピンクさんは、おおきくてつよそうで、やさしいめをしています。
  きょうもまけちゃったけれど、ぼくはブラックピンクさんがいつかきっとかてるとしんじています。あしたはきっとかってください」

「うれしい・・・」。しかし、その分悲しみも深い。彼女は目を伏せて手紙を折り畳む。
マネージャが彼女の肩に手を置いて言った。「気にするなよ。これはショーじゃないか」

いつものように、ブラックピンクへのブーイングと、ロザリーエンジェルへの拍手喝采により試合は始まった。
憎き黒人レスラーが、美人の白人レスラーに投げ飛ばされる姿は爽快だ。「黒い悪魔め!」「やっちまえ!」
ようやく訪れようとしていた黒人と白人の平等な社会。その変化を恐れる一部の輩が、ブラックピンクを見下すことでウサ晴らしをしている。
成すがままに討たれマットに平伏すブラックピンク。その最中、彼女が目にしたのは、総立ちの観客の中で自分を涙ながらに見守る小さな子供の姿だった。
(・・・手紙の子)自分と同じ黒人の子だと思っていたら、それは、白人の男の子だった。
彼女は冷静になろうとした。やっとの思いで見つけた仕事だ。約束を破り首になってしまったら家族はどうなる。
まだ働けない幼い弟たちはどうやって食べていけばいい。このまま床に平伏せていれば職を失わずにすむ。
エンジェルが勝たないとお客はこない。これが私の仕事なんだ。彼女は自分に言い聞かせた。
しかし、もう一度その男の子を見たとき。うつむいて大粒の涙を流す少年の姿に、彼女は抗うことができなかった。

ブラックピンクは自分を足蹴にしていたアイドルレスラーを持ち上げ、リングの外に放り投げてしまった。
静まる場内。リングの下で、一番人気の美人レスラーが目を回している。
「オーマイガっ!なっ、なんということでしょう!我らがアイドル!ロザリーエンジェルがブラックピンクに
やられてしまいましたっ!信じられませんっ!!」客席から大ブーイングが沸き起こった。
彼女は、悪魔の付け爪と牙、耳に翼、コスチュームに付けられた滑稽な装飾を外してゆく。
大層な衣装とメイクの下に隠されたていたのは、まだあどけなさの残る17歳の少女の素顔だった。
観客もロザリーエンジェルも目を見張った。自分たちが足蹴にしていたのは、悪魔という抽象的な存在ではなく
自分たちと同じ、傷つきやすい生身の人間だった。
少女は、投げつけられたゴミの中から少年の投げた一輪の花を拾いあげると、静かにリングを去っていった。

翌日、切符係りのおじさんが少年に言った。「残念だけれどブラックピンクはもういないよ。ここを去ったんだ」
その人は誇らしげにそう言ういうと、ブラックピンクから預かったという手紙を少年に手渡した。

応援してくれてありがとう。あなたのおかげで、勝つことができました。
私はもう負ません。この先どんなことがあっても、きっと勝ってみせます。
ブラック・ピンク



ツキノワグマ

2009/08/19

ドンドンドン!早朝、乱暴にドアを叩く音。何事かと布団から這い出てドアを開けると、そこには一頭のツキノワグマが立っていた。
「テレビだ!テレビをつけろ!」驚く間も与えず部屋に押し入るツキノワグマ。テーブルのリモコンを手に取り、その大きな爪で
器用にスイッチを押した。「こちらは東京動物園。ツキノワグマが脱走してから一時間!依然行方は判っておりません!」
レポーターが騒いでいる。「ここも安全ではない。東京を脱出するんだ!協力してくれ!」本物のクマが日本語でそう迫ってくる。
僕は逆らわないように夢中で首を縦に振りながら、必死でその現実を受けいれようとしていた。

それからツキノワグマとの逃走劇が始まった。レンタカーでワゴン車を借り、食料を買い込み、僕らは高速道路を使って東京を脱出する。
途中、パーキングで人に見つかり大騒ぎになった。「子供が腹をつつくわ、抱きついて記念写真撮るわ、剥製のフリにも限界があるわっ!」
なみだ目で訴えるツキノワグマ。それでも何とか関東を脱出し、彼の言う目的の山に辿り着いたのはもう日の暮れる頃だった。

ツキノワグマの先導で山中を歩いて行く。とある所までくると、今夜はここで休もうとツキノワグマが言った。
そこは、眠る穴蔵があり、泉があり、なんと温泉まで湧いていた。「夜は俺の懐で眠るといい。寒くない」
明日、彼の叔父さん(熊)がここへ迎えにくると言う。いつ連絡を取ったのか聞くと、シマリスに伝聞を頼んだのだそうだ。
「どうしても、外の世界を見たかったんだ」ツキノワグマは言った。「草原を駆けまわり、木の実を拾ったり、川で鮭を獲ったり・・・
そういう生活に憧れていたんだ。それで、一緒に行く行かないで妻と大喧嘩して。家族を置いて飛び出してしまったんだ・・・」
ツキノワグマは後悔しているようだった。僕は彼を元気づけようと、持っていた音楽プレイヤーのイヤホンの片方を彼の耳に入れてやった。
ツキノワグマとイヤホンを分け合い月を眺めながら音楽を聴く。ふと見ると、ツキノワグマが泣いている。
音楽に耳をかたむけ、月を見上げながら涙を流すツキノワグマ。その姿は、ガラス細工のように繊細で美しかった。
「・・・もし東京動物園に行くことがあったら、家内に伝えてもらえないか。俺が無事でいること。
家族を置いて飛び出してしまったことを悔いているってこと。今もこれからもずっとずっと、君を愛しているってことを」

東京に戻ってから、僕はツキノワグマの親子に会いに行った。熊の親子にむかって柵ごしに話しかける。
「あいつ、無事山に辿り着いたよ。でも、家族と一緒がよかったって。今も君を愛しているって…」
クマの親子はこちらを見ることもなく、ただコンクリの床の上で退屈そうに背伸びをするだけだった。そこに居たのは、飼い慣らされたただの動物園のクマだった。
現実に引き戻される。僕は夢を見ていたのだろうか。あのクマとのことが嘘だったのかと思うと、悲しくて仕方がなかった。

翌朝。寝ぼけ眼でテレビをつけると、昨日行った動物園が映し出されている。何ごとだろう。レポーターが騒いでいる。
「こちら東京動物園。またまた脱走です!今度はクマの親子が脱走しました!」
まさか!と思いきや、玄関からドンドンと激しくドアを叩く音がした。
「お願い開けて!子供が一緒なの!!」
そうさ、やっぱり家族は一緒でないと。僕は高鳴る使命感を胸に、戸口へと向かった。