ドンドンドン!早朝、乱暴にドアを叩く音。何事かと布団から這い出てドアを開けると、そこには一頭のツキノワグマが立っていた。
「テレビだ!テレビをつけろ!」驚く間も与えず部屋に押し入るツキノワグマ。テーブルのリモコンを手に取り、その大きな爪で
器用にスイッチを押した。「こちらは東京動物園。ツキノワグマが脱走してから一時間!依然行方は判っておりません!」
レポーターが騒いでいる。「ここも安全ではない。東京を脱出するんだ!協力してくれ!」本物のクマが日本語でそう迫ってくる。
僕は逆らわないように夢中で首を縦に振りながら、必死でその現実を受けいれようとしていた。

それからツキノワグマとの逃走劇が始まった。レンタカーでワゴン車を借り、食料を買い込み、僕らは高速道路を使って東京を脱出する。
途中、パーキングで人に見つかり大騒ぎになった。「子供が腹をつつくわ、抱きついて記念写真撮るわ、剥製のフリにも限界があるわっ!」
なみだ目で訴えるツキノワグマ。それでも何とか関東を脱出し、彼の言う目的の山に辿り着いたのはもう日の暮れる頃だった。

ツキノワグマの先導で山中を歩いて行く。とある所までくると、今夜はここで休もうとツキノワグマが言った。
そこは、眠る穴蔵があり、泉があり、なんと温泉まで湧いていた。「夜は俺の懐で眠るといい。寒くない」
明日、彼の叔父さん(熊)がここへ迎えにくると言う。いつ連絡を取ったのか聞くと、シマリスに伝聞を頼んだのだそうだ。
「どうしても、外の世界を見たかったんだ」ツキノワグマは言った。「草原を駆けまわり、木の実を拾ったり、川で鮭を獲ったり・・・
そういう生活に憧れていたんだ。それで、一緒に行く行かないで妻と大喧嘩して。家族を置いて飛び出してしまったんだ・・・」
ツキノワグマは後悔しているようだった。僕は彼を元気づけようと、持っていた音楽プレイヤーのイヤホンの片方を彼の耳に入れてやった。
ツキノワグマとイヤホンを分け合い月を眺めながら音楽を聴く。ふと見ると、ツキノワグマが泣いている。
音楽に耳をかたむけ、月を見上げながら涙を流すツキノワグマ。その姿は、ガラス細工のように繊細で美しかった。
「・・・もし東京動物園に行くことがあったら、家内に伝えてもらえないか。俺が無事でいること。
家族を置いて飛び出してしまったことを悔いているってこと。今もこれからもずっとずっと、君を愛しているってことを」

東京に戻ってから、僕はツキノワグマの親子に会いに行った。熊の親子にむかって柵ごしに話しかける。
「あいつ、無事山に辿り着いたよ。でも、家族と一緒がよかったって。今も君を愛しているって…」
クマの親子はこちらを見ることもなく、ただコンクリの床の上で退屈そうに背伸びをするだけだった。
そこに居たのは、飼い慣らされたただの動物園のクマだった。現実に引き戻される。僕は夢を見ていたのだろうか。
あのクマとのことが嘘だったのかと思うと、悲しくて仕方がなかった。

翌朝。寝ぼけ眼でテレビをつけると、昨日行った動物園が映し出されている。何ごとだろう。レポーターが騒いでいる。
「こちら東京動物園。またまた脱走です!今度はクマの親子が脱走しました!」
まさか!と思いきや、玄関からドンドンと激しくドアを叩く音がした。
「お願い開けて!子供が一緒なの!!」
そうさ、やっぱり家族は一緒でないと。僕は高鳴る使命感を胸に、戸口へと向かった。