「57、58、59・・・」コーヒー豆を数える私。それを見ていた黒猫が、興味を持ってそこに手を延ばした。
「ああ!混ぜちゃだめよ、ベートーヴェン!」ベートーヴェンとは、私が銘々したこの黒猫の名前だ。
私はその豆をコーヒーミルに入れてハンドルを回した。磨り潰されるコーヒー豆。芳ばしい香りが立ち込める。
「『私の飲むコーヒーは丁度60粒でなければならない』だって」ご主人様の口真似をして言う私。
「・・・本当に味とかわかってるのかな?」愚痴る私に、ベートーヴェンは小首を傾げた。
「ふふ、ちょっといたずらしちゃおうか?」

「失礼します」ご主人様は、机に向かってすごい勢いで何かを書き込んでいる。
私の方を見ないので気づいていないのかと思いきや、ご主人様は手を休めずに「ありがとう」と言った。
私はテーブルにコーヒーカップを置き、メモ帳にこう書いてご主人様に見せた。
『昨夜も寝ていないのでしょう?少しお休みされてはいかがですか?』
ご主人様はメモをちらっと見て、それから少し考えた後に、羽ペンを机に置いた。

ご主人様はある日突然、聴覚を失った。一時はそれに絶望し、自殺を考えたこともあった。けれど、彼は遺書を書きながらそのあやまちに気づく。
前半絶望を記す遺書の内容は、後半になって生きる内容を帯びはじめ、最後はこう締めくくられていた。
「私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちに、この世を去ってゆくことはできない」
泣きながら書いたのだろう。遺書は吸った涙の乾いた跡でヨレヨレになっていた。

ご主人様はもう大丈夫。それからと言うもの、あの気難しいご主人さまが、最近は冗談まで言うようになった。
いいえ。本当は元より気難しい人ではなかったのかも知れない。
思えば、ご主人さまは事細かい指示はするものの、それに対する失敗を責めるようなことは一度もなかった。

「不思議なものだ。聞こえなくなればなるほど、まわりのことがわかるようになった。
故に、聴覚を失ってから気づいたことが沢山ある」
私はメモに書いて聞いてみた『たとえば、どんなことでしょうか?』。
「そうだな。たとえば君が、近所の猫に私の名前をつけていることとか」
私は赤面してうつむいてしまった。うわっ、知ってたんだ。
ご主人様はくすっと笑って、コーヒーカップに口をつける。そして、眉間に微かな皺を寄せて言った。
「一粒多い」