「………ふう、っ」
一人、少年は夜空に向かって、息をついた。
ビルに切り刻まれた空には、ネオンの所為で星が疎らにしか見えない。
ただ、蒼白の光を湛えた月だけが、孤高に冷たく輝いていた。
一体どのくらい街を歩きまわったのだろう。
まだ中学生と思しき少年は、手にしたボストンバックを地面に置き、手首の時計を見た。
午前0時。
明らかに、彼のような年頃の子供が出歩くには相応しくない時間。
制服らしきカッターシャツと黒のズボンを着込んでいる為、余計にその印象は強くなる。
先刻、駅の周辺をうろついていた時は、道行く大人たちがいかぶしげな視線を無遠慮に浴びせてきたものだ。
「こんな時間に、何をしているんだ」
「親は何をやってるんだ、こんな遅くまで外を歩かせるなんて」
そんな声が背後から聞こえるたび、彼は皮肉な笑みを唇に浮かべた。


―――見てみなよ、父さん。皆、僕の事を不良だと思ってるよ。
あなたの息子が、不良なんだって分かったら、どんな事になるだろうね。
警察のお偉いさんのくせに、自分の息子一人まともに育てられないのかって、笑い者だろうね。


そう思うたびに、憎むべき相手への優越感と復讐心が、そして虚しさと自虐心が彼の胸中で渦を巻いていた。
激しさを増す胸の渦巻きは、彼から考える気力をどんどん奪い取っていく。


………滅茶苦茶になりたい………


全てがどうでもよかった。ただ、ただ歩いて歩いて…………
いつのまにかこんな所まで来てしまった。
大きな交差点の前で立ち止まる。辺りには人影はなく、信号機のランプだけが静かに点滅を繰り返している。
「静かだな……」
目の前の道はかなり道幅があり、どうやら幹線道路らしかったが、先程から通る車は一台もない。
「オフィス街だから、夜は誰もいないのかな……」
それにしては、あまりにも人の気配がなさすぎる。いくらビルの立ち並ぶこの一角でも、多少なりとも通行人ぐらいいそうなものだ。
それが、車一台、人一人見かけない。ただ、風にさらわれた空き缶の放つ金属音だけが通りに響いている。
街が眠りに就いたのではない。ビリビリと、張り詰めた緊張感が空気に混じっている。
そう、まるで息を潜めて、恐ろしい化け物が通りすぎるのを待っている様な……


……ォオオオオン!


遠くから、鉄の荒馬の咆哮が、少年に迫っていた。

特攻新世紀エヴァンゲリオン
第壱話 「暴走天使、襲来」



その少年、碇シンジは、最初、それをビルの谷間を吹き抜ける突風の音かと思った。
しかし、それは徐々にボリュームをあげ、地を這うような重低音で、空を震わせ、彼に迫ってくる。
そのうちに、シンジはそれが機械の作り出す音だと理解した。エンジンの唸る音。地面を蹴るタイヤの音。空を切り裂くクラクションの音。
そして、音のする方から、光の点が揺らめきながらこちらへと近づいてくる。彼が思うよりも速く。
最初は二つ三つだったはずのライトが、無数の光の帯へと急速に膨れ上がりながら、アスファルトの上を地響きを立て疾駆する。
「暴走族」
先頭のバイクがものすごい勢いでシンジの目の前を通り過ぎ、続いて沢山の鉄の馬たちが眼前を駆け抜けていく。
先刻からの静けさの原因は、どうやらこれだったらしい。
耳をつんざく爆音と、目の前を瞬時に過ぎて行く無数のライトの傍ら、シンジはただ呆然と突っ立っていた。
怖い、とも危ない、ともうるさい、とも思わなかった。
ただ流星のような光の流れを『綺麗だな…』と感じているだけだった。

そして
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
過ぎ行く光の大蛇の尻尾、最後方に、彼女はいた。
シンジの視線は、今宵の月のような、その美しい蒼光の輝きに奪われてしまった。
白い、影。
蒼い、髪。
――――そして、紅い、瞳。
白い特攻服に身を包んだ少女が、藍青のバイクに跨り、あちこちに巻いた包帯を風になびかせ疾走していた。
そして、彼女は、シンジの方を振りかえった。
シンジには、その動きがスローモーションの様に感じられた。
ゆっくりと重なる視線。
紅蓮の瞳と、漆黒の瞳。
確かに二人は見つめ合った。
瞬時に、世界はその時の流れを止めてしまった。
全てを超越して、対峙する二人。
永遠とも思える静寂が二人の周囲を包み込む。
全てが、凍りついてしまった。時計の針さえも。

ヴォオオオオン!!!

爆音が、二人の間の空間を引き裂いた。
突然動き出した時間は、恐ろしいほどの勢いで二人の距離を引き離していく。
あっという間に、白い影は視界から去り、光の河はどんどんと遠くに流れ去っていってしまった。
――――再び、辺りに夜の静寂が戻ってきても、シンジは放心したようにその場に立ち尽くしていた。
あの、一瞬。全てが止まってしまったかのような、瞬時の永遠。
まだ、彼の心はその瞬間に捉えられたまま。
紅い瞳。
「・・・・・また逢えるだろうか、あの子に」
あの瞳を、もう一度見れないものだろうか。シンジは何故かふとそう思った。



その後暫くして、ようやくシンジは再び歩き始めた。
初夏とはいえ、夜の寒さが身に染みてきたからであった。
いまの彼には、暖かな布団も、迎え入れてくれる部屋も無かった。
今日、シンジは長年預けられて来た祖父母の家を出てきたのだ。
鞄一つだけ抱えて、家を飛び出した。後先など、まったく考えてなかった。
「どこか、野宿できるところを見つけなくっちゃ」
公園を探す。ベンチで一眠りできるのでは無いかと考えたのだ。
だが、どうやら周囲はビルばかりで、公園のありそうな場所では無いらしい。
心を、不安が掠める。疲労もかなりのところまで来ていた。空腹が、彼の心細さを一層掻き立てる。
「……絶対、逃げ帰ったりするもんか」
何度も、弱気になる自分に言い聞かせながら、シンジは歩きつづけた。

あんなやつ、父さんじゃない。
父親なんて認めない。
母さんを亡くしてすぐ、幼かった僕を親戚に預け、それ以来ほとんど僕の前に姿を現さなかった。
親戚の人は、仕事が忙しいから仕方が無い、と僕に言い聞かせていたが、そんなのは欺瞞だ。
僕は知っているんだ。
子どもの事を放っぽりだして、仕事といっては、女の人と逢っているのを。
そして、どうやら僕の他にもう一人「子供」がいるらしいことを。
ちっとも僕の事を顧みない。僕は要らない存在なのか。
「他人」の方が大事なのか。息子である僕よりも。
ならいいさ。僕の方から出て行くよ。追い出される前に。
父さんの言い成りになんか、絶対ならない。

とうとう、シンジは道端にしゃがみ込んでしまった。
足は、とっくの昔にこれ以上歩く事を拒否していた。
「…もう、いいや。どんな場所でも」
投げやりな気持ちのまま、その場にうずくまり膝を抱えた。
もう、このまま寝てしまおう。そう思って、顔を膝に埋める。
孤独を、ひしひしと感じる。自らの膝を抱く手に力が入る。
寝てしまおう。そうすればこの不安も寂しさも分からなくなる。
瞼を下ろし、深い闇の中に沈んで行こうとした瞬間、上の方から女性の声が降り掛かってきた。
「どうしたの?」
突然、その暖かな声にすがりつきたくなって、シンジは勢いよく顔を上げた。
いまにも泣きそうな顔をしているはず。シンジはそう思ったが、構ってはいられなかった。
目を上げると、そこには見事なボディをミニのワンピースに包んで、豊かな黒髪を肩までたらした女性が、こちらに向かって微笑んでいた。

TO BE CONTINUED

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