「別れよう、葛城」
 
「なんで?どうしてなの?加持くん」
 
「すまん、訳は訊かないでくれ」
 
「私の事、嫌いになったの?」
 
「そうじゃないよ。でももう駄目なんだよ、俺たち」
 
「そんな、そんな事言われたって・・・・そんな」
 
「サヨナラだ。葛城」
 
―――――――――― その瞬間、世界は暗闇に閉ざされ
 
私は涙と共に目が醒めた。
 
 

日溜りの影

2000.1.4 up

 
「ふう・・・・・」
最近こんな夢ばかりを見る。
何故加持くんと別れる夢ばかり見るのだろう。
彼と付き合ってもう4年。入学した年に付き合い始めた二人が、もうすぐ卒業を迎える。月日の経つのは早いものだ。
多分、私たちはうまくいっている、と思う。少なくとも、別れるに足りる具体的な理由はない。
いまだに軽くて女たらしなのは治らないけれど、その他には不満はない。
加持くんは優しい。私の事を大切に思ってくれている。いつもさりげなく守ってくれる。
付き合い始めの頃はよくリツコに、あんな男のどこが良いのかと文句を言われた。
その度に私は、様々な理由を挙げて彼の良さを認めさせようとしたものだった。
――――― 今、彼と一緒にいる理由を尋ねられたら、きっと私は「居心地がいいから」としか言えないだろう。
理由は要らない。好きか嫌いか、心地よいか悪いかと言う感覚のレベルの問題なのだ。
もう、一緒にいるのは理屈ではない。それは私の生活の一部、私の一部と化しているのだ。
4年という歳月は、重い。
私の中に加持リョウジという他人を棲みつかせてしまった。
彼のいない毎日が想像できない。
けれども、この所毎晩のように、加持くんから別れを告げられる夢を見る。
 
 
 
「ミサトは卒論は提出したの?まだ期限まではあるけど、あなたのことだから心配だわ」
ブラックのコーヒーを片手に、リツコが眼鏡越しに私を一瞥した。不安の色がありありと浮かんでいる。
「ん〜、まだだけどちゃんと出すわよ。ここで落としたら就職がパーになっちゃうじゃない。いくら私でもそんなヘマしないわ」
私はオレンジジュースを啜りながら、リツコに応える。授業の合間に喫茶室でおしゃべりするのも、あと少しで終わり。
「貴方はゲヒルンのドイツ支部だったわね。お互い同じ職場だなんて、因果なものだわ」
リツコは日本支部に就職が決まっている。
「加持君もドイツ支部に決まったんでしょう?良かったわね」
「んー・・・・・・」
「何よ、気のない返事なんかして。貴方たち上手くいってるんでしょう?」
「まね。上手くいってるわよう。ラッブラブなんだからあ」
「ご馳走様。私には未だに分からない世界だけどね」
外は曇り空。今にも降り出しそうな鉛色の雲が空を埋め尽している。
雨の前の蒸し暑さがこの部屋にも立ちこめて、なんとなく息苦しい。
「・・・・・・結婚したいなあ」
「あら、もう結婚?気の早いこと。第一、バリバリのキャリアになるってこの間息巻いていたのはどこのどなただったかしら」
「いや、今すぐ結婚したいとか、そういうんじゃなくてさ」
そういうのではなくて。
家庭を持ちたいとか、彼と一緒になりたいとか、子供が欲しいとか、そういうことではなく。
・・・・・・何が欲しいのだろう、私は。
「私には一生縁のない言葉だわ」
きっぱりとした口調でリツコが言う。彼女は、こと恋愛に関しては頑なだ。
「こうしていられるのもあと少しね〜」
「そうだわね。長かったような短かったような4年間ね」
「リツコは、卒業してからの将来に不安はない?」
「不安がないといえば嘘になるけど・・・ミサトは不安?」
それには応えず、曖昧な笑顔で誤魔化して、窓の外を眺めた。
不安。
ずっとどこかにある不安。
それは社会に出ることへではなく、今までの生活の変化へでもなく、将来の自分へでもなく。
・・・・・・何が恐いのだろう、私は。
 
 
 
「どうしても行くんですか?」
母さんが泣いている。まだ小さい私を腕に抱いて。
「どうしても、私たちを置いて行くんですか?」
向こうに、父さんの姿が見える。どこか遠くへ出掛ける格好で、足を止めこちらを振り返っている。
「すまない。どうしても行かなくてはならないんだ」
父さんの顔は、逆光で暗く翳り、よく見えない。
「おとうさん、行っちゃうの?ミサトとおかあさんが嫌いなの?」
母さんは、泣きつづけている。涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。
「そんな事はないよ。ミサトもお母さんも愛してるよ」
けれども父さんは、私たちの方には戻ってこない。
「だったらどうして行っちゃうの?おかあさん泣いてるよ?」
「ごめんよ、ミサト。仕方がないんだ。お別れだよ」
そう言って私に悲しげな視線を向けた、その顔は、
加持くんだった。
 
 
 
目が醒めた時、私の背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
いやな気分のまま家を出て、大学へ向かうために電車に乗った。
ホームに滑り込む電車を見つめながら、思い出す。
あの日を境にした、母の変わりようを。
父が去ってからの母は、ボロボロだった。
捨てられた人間がどれほど傷つくのか、どれほど苦しむのか、どれほど惨めなのか、幼心にも痛々しいほど、母はどんどんと弱っていった。
まるで、心臓を抉り取られたように。
いっそ発狂するなり、死んでしまったほうが楽なのではないか、そう思わせることもあった。
たまに、放心したように窓の外を見つめている母の、生気のない虚ろな両の瞳を見るたび、その奥で悲しさと憎しみと、それでもまだ諦めきれない愛しさが、ぶつかり合い渦を巻いて濁流となって母を苛んでゆくのを感じる度、私の中に恐怖と嫌悪と痛みと、そして父への憎しみが澱となって溜まっていった。
時折漏らす「死にたい」の一言を、私は肯定することも、しかし否定することもできなかった。
けれども、私という娘の存在が母を現実に留めていた。私を守り、育てなくてはいけない。そんな母親としての思いが、母をぎりぎりの所で引きとめていたのだ。
父は、母にとってすでに我が身の一部だったのだろう。
母にとって、父の存在は大きかった。父なしでは、母は成り立たなかったのだ。
母は、特に弱い人間だったのかもしれない。そこまで傷つくこともなかったのかもしれない。誰もが、そこまで苦しむわけでもないのかもしれない。
けれど。
私の心の奥底に澱んでいる、あの母の姿は消えることはないだろう。
 
 
あの人は、私に近づきすぎた。もう、他人の境界を越えてしまった。
彼のいない生活は考えられない。
彼は私の一部なの。
彼が、私の前から去ってしまったら。
彼が、私のことを捨ててしまったら。
 
私は・・・・・きっと・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
「別れましょう、加持くん」
 
「どうして?」
 
「ゴメン、訳は訊かないで」
 
「俺に愛想が尽きたのか」
 
「加持くんの事は今でも好きよ。でも、もう駄目なのよ、私たち」
 
「そうか・・・」
 
「サヨナラ、加持くん」
 
 
 
これでいいのよ。
去ってゆく彼の背中を見つめながら、今まで必死に押さえていた涙が溢れ出てくる。
これでよかったのよ。
涙は止めど無く流れ出て、頬をつたって地面に零れ落ちる。
こうしなければ、私は壊れてしまう。
あの人から別れを告げられたら、私は壊れてしまう。
でも、壊れる事は出来ない。私にはやらなくてはいけない事がある。成し遂げなければならない事がある。
だから、私から別れるの。
これしかなかったのよ。
こうするしかなかったのよ。
涙が止まらない。彼が振り返らない事を祈った。
これでいいの。
これでいいの。
震える脚に精一杯の力を込めて、今にも崩れ落ちそうな身体を必死に支えた。
ごめんね。
ごめんね。
どうしてか分からなかったけれど、何に詫びているのか分からなかったけれど、私は何度も心の中で繰り返した。
ごめんね。
ごめんね。
ごめんね。
いつまでも、いつまでも。その場に立ち尽くしたまま、私はずっと心の中で叫びつづけていた。
 

END

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