『二十歳の絆  〜fear〜』

04.12.29 UP


 今年初めて秋風が吹いた。
「いつまでも暑い暑いと思っていたのに、やっぱり9月なんだね」
群雲へ向かって吹き抜けていく涼風に髪を乱されながら、シンジは傍らの女性に話しかける。
抜けるように青い空。その青さに負けない程の蒼を放つ彼女。
「秋の空…嫌いじゃないわ」
清廉、純粋、無垢、清涼…孤高。冷たい光、孤独な蒼。

額に手を翳して、空の果てを見つめるレイの瞳を、シンジはそっと窺い見る。
そこに何が映っているのか――― 知りたい。

不意に、レイの瞳がこちらを向いた。
紅玉のような彼女の瞳に映る、自分の顔。
彼女に秘められた暖かさと激しさの紅色の中に、シンジの姿がゆらゆらと漂う。
「すこし風が強いみたい。もう帰りましょ」
微笑みかけたレイとシンジの間を、不意に、草の葉を巻き上げながら突風が走り抜けた。

彼らの間に漂う、様々な想いも一緒に攫って、空の彼方へと風が舞い上がる。

空の向こうに運ばれた想いの行方を、二人はただ黙って見つめ続けた。



 アスカとの電話での一件の後も、シンジの周囲では何時も通りの時間が流れていた。
大学に行けば、友人と会い、綾波と会い、時間が合えば昼食を共にし、その日の出来事を少しお喋りして、別れる。
アルバイトのある日はバイト先で何時も通りに仕事をこなし、帰宅したら家事をし、一人の夕食を摂り、授業の復習や明日の準備などをして、好きなテレビ番組や音楽を見たり聴いたりしながら眠りに就く。

けれど、アスカからの電話だけは、無くなった。

同窓会の連絡は、メールで必要な事柄だけが送られてくるようになった。シンジからも、事務的な事以外は返信しなかった。
毎日のように電話していた頃は特に意識したことも無かったのに、いざ電話が途切れてしまうと、自分が如何にこの時間を楽しみにしていたのか思い知らされる。
このところ、ベッドに横になってから眠りに落ちるまでの間、アスカのことを考えずにはいられなくなっていた。今日もベッドに体を横たえ、暗い部屋の中でエアコンの稼動音に耳を傾けながら目を閉じた。
シンジは、彼女にどう接していいのか考えあぐねていた。
アスカの気持ちには、本当はずっと以前から気付いていた。
彼女と出会って、5年。まだお互いが制服を身にまとっていたあの頃から、アスカはシンジに好意を抱いていたのだろう。それを親友という言葉でどうにか誤魔化しながら、二人はいままでお互いの気持ちに踏み込まずに来たのだ。
立秋を過ぎたとはいえ、いまだ寝苦しい夜が続いている。しかしそれだけではない息苦しさに、シンジは苛立ちながら寝返りを打った。
(いままで、アスカの気持ちに向き合うのが怖かったんだ…)
彼女の気持ちに向き合ってしまえば―― 二人の間柄は劇的に変化してしまう。それは多分、シンジとレイの間柄をも、変えてしまうだろう。
それはまだ避けたかった。
ある意味シンジに都合の良い関係を、今までアスカは受け入れ続けた。それは彼女がシンジと同じに、敢えて三人の繋がりを断ち切るような危険を冒したくないと考えていたからだろう。
壊れてしまうかも知れないなら、触れずにそっとしておきたい。誤魔化しでも、無くなるよりはずっといい。
(……ずるいけど、三人の距離を崩したくなかったんだ。レイとも……そしてアスカとも離れたくなかったんだ、僕は)
けれど。
「もう、誤魔化しきれないな…」
近いうちに、決断を下さなくてはならない。
それはもう避けられない。
今の二人は、バランスを崩して大きく振れている危うい振り子だ。いずれ、どちらかに落ちる。
(もう少し時間が欲しい……)
こうなると、顔を合わせなくても済む今の状況がシンジには有難かった。先延ばしにしているだけと分かっていても、今はまだ、振り子が振れて欲しくなかった。
(ごめん、アスカ。――もう少し時間をくれないか。綾波との間に、もう少し)
目を閉じていても、少しも眠くならない。
水を飲むために、シンジはベッドから体を起こした。




 眠れぬ夜を過ごしていたのは、シンジだけではなかった。
「眠れない………」
レイは、布団から身を起こして、部屋の明かりを点けた。
どうせ寝付けないのなら、少し本でも読もうかと思ったのだ。
大学から帰って以来、机の上に放っておいた本に、手を伸ばす。
紅い本の表紙に目を遣ると、この本を図書館から借りた後に目撃した情景が脳裏に甦った。

レイは、図書館からの帰り道、一般教養棟へと続く小道を歩ていた。そこは教養棟と図書館と学生食堂を結ぶ道で、一般教養の授業が多いシンジとはこの辺りでよく行き会った。
この時も、レイはシンジと出会うことを少しばかり期待して、ゆっくりと辺りを見渡しながら歩いていた。
―― 不意に、見たことのある後姿がレイの視界に飛び込んできた。
(あれは……アスカ)
アスカ、と声を掛けようとして、レイはしかし、声を掛けられなかった。
アスカの背中が、声を掛けられることを拒否していた。
張り詰めた背筋、少し震える足元、握り締めたまま動かない両手、触れた途端に崩れ落ちそうな、痛々しさ。何時もとは明らかに違う、アスカの姿。ずっとその場に立ち尽くしたまま、何処かを見ている。
彼女は、身動ぎもせずに何かを見続けていた。レイは、アスカに気付かれないような位置に移動して、彼女の視線を追った。
その先に、彼が居た。
碇シンジ。
彼がクラスメイトと立ち止まって話をしていた。
位置関係からすると、街路樹が死角を作って、ちょうどシンジの立つ場所からアスカのいる所は見えない。
ほんの少し踏み出せば、シンジの視界にアスカが入るのに、その一歩が踏み出せないでいる。
(アスカ………)
彼女のそんな姿を目にしたのは初めてだった。ずっとアスカは躊躇っている。息が詰まるような緊張感。そしてその視線の先は―――シンジ。
その場に居ることが徐々に後ろめたくなっていく。これは見ていてはいけない場面なのではないのか。それは分かるのに、けれどレイは立ち去ることが出来なかった。
10分もそうしていただろうか。結局シンジはアスカに気付かないままその場を去り、アスカは一歩も動くことは無かった。
シンジが完全にアスカの視界から消えて、ようやくアスカはゆっくりと動き出した。
振り返り、シンジとは別の方向へ歩き出した、その表情が――― レイの心に強く焼きついた。

(あの顔は……何時か見たことがある………)
目次を開いたままの本から視線を外し、レイは窓の外に広がる月夜に目を遣った。
あれは、そう―――
「――― 赤木博士」
レイは思い出した。昔のリツコの表情に、そっくりだった。
シンジの父である碇ゲンドウに向けて、赤木リツコが時折見せていた顔だ。
(私は、あの頃の赤木博士が、すこし怖かった…)
それがどういう意味を持つのかは理解の及ばない事だったが、今にも破裂しそうな感情を必死に押さえ込もうとしているリツコの切迫した姿は、その後の彼女の行動と併せて、14歳のレイにある種の恐怖感を抱かせた。

それは強い想い。

怖いくらいに、怯むほどに。全てを壊しても。自らを壊しても。

何かを貫こうとする、激しく強い意志。

(アスカ……何を考えていたの……私、今まで気付かなかった)
それはもしかしたら、気付きたくなかったのかもしれない。
そう、レイだけでなく、アスカも……シンジも。
そこで何かが変わってしまうから。
折角手に入れた安定の形。それが変わってしまうかもしれない。
(胸騒ぎがする…)
シンジを見つめるアスカの思いつめた表情が、レイの奥底にあるものを激しく揺さぶる。
今のままではいられない。そんな予感めいたものを、アスカの熱い視線が告げていた。



結局、一ページも読まずに、レイは本を閉じた。




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