『二十歳の絆  〜Start Line〜』

99.1.16 UP

 青々と繁る木々の間から差し込む日差しは、もうすぐ10月だというのにじりじりと肌を灼く。
太陽はまだ東天から昇って間もないというのに、外気は既に熱を帯び道行く人々の額に汗を滲ませている。
駅からどっと吐き出された人波が、そのまま街路樹沿いに白亜のキャンパスの正門へと続いていく。その中に周囲とは少し異なる風貌の女性を見つけて、青年は声を掛けた。
「綾波」
背後からそう呼ばれて、彼女は足を止め、声の主が近づいてくるのを待った。
「おはよう、綾波」
小走りに駆け寄ってきた青年は、少し息を弾ませながら、しかし爽やかな笑みをたたえて再び挨拶をした。
「…おはよう、碇くん」
小さな声で、そっけない返事だったが、しかし彼女は挨拶が不愉快な訳ではない。
「今日は一限目から授業なんだ?今日も朝から暑いね」
流れる汗を拭いながら、青年は話し掛ける。
返事はない。だが無視しているのではない。少し吊り上った、緋色の瞳が彼の口元を見つめている。
青年も、彼女のそんな仕草が返事の代わりであるのを知っているかのように、言葉を続ける。
「今日は午後までいる?よかったらお昼一緒に食べない?ちょっと連絡したい事があってさ」
「今日は三限の生体コンピューター概論で終わり。学食で待っているわ」
「オッケイ、終わったら僕も行くよ」
ちょうど正門に辿り着いて、そこで二人の会話は途切れた。左手の生物工学棟と、右手の一般教養棟。それぞれ違う方向へ歩み出していく。
途中で青年は振り返って、足早に去っていく後ろ背に叫んだ。
「じゃ、また後でね」
大きく手を振る彼に、振り返り、彼女は恥ずかしげに小さくはにかんで見せた。
それは、彼にしか見せることのない笑顔に違いなかった。


 碇シンジは、大学生になって2度目の秋を迎えようとしていた。
中学2年生の時にこの街に越してきて、もう5年が経つ。父に呼ばれてここに来てから、この5年の間にずいぶんといろいろなものが変わってしまったとシンジは思う。
まだあどけなさの残る少年だった彼も、今や二十歳の青年である。いつのまにか父の背丈を越してしまった。
あの頃、周囲の人間との、そして父との関係に悩んでいた自分も、一時のような狂おしいほどの葛藤からは抜け出し、曲がりなりにも答えを見つけることができたように感じる。もちろん、今でも事あるごとに他人への恐れと自身への卑屈さは頭をもたげるが、以前のように全てを否定して逃げ出してしまうことはもうない。
それは、自分が少年から大人へ変わったという事かもしれないし、周囲の人々が自分を変えてくれたとも言えるのかもしれない。
そう、ここに来てからシンジは様々な人々と出会った。
初めて友達と呼べる人ができ、姉のように支えてくれる人ができた。兄のように諭してくれた人、友人であり、家族であり、そして魅力的な少女であった人……
そして、綾波レイ。
彼女と出会って、シンジの中で何かが確実に芽生えた。14歳の少年にはそれが何なのか振り返る余裕はなかったが、5年の歳月を得て、それは今、彼の中にはっきりとした形をとって息づいている。
(綾波……)
綾波レイは、初めて出会った頃より笑うようになった。
もちろん、彼女は相変わらず無表情で、周囲に無関心ではあった。それは彼女の出生の複雑な事情によるものだ。
シンジには思いも及ばないような環境の中で育った彼女の中には、深い、深い闇が存在している。シンジはその絶望的とも思える深淵を垣間見て、時には失望を抱いたこともあった。
しかし、5年の月日は、レイの上にも、ゆっくりとだが確実に変化をもたらしていた。
彼女の新しい表情を発見して、シンジは何度嬉しく思ったことだろう。
(僕は、綾波を、そしてきっと、綾波だって……)
しかし、それはシンジの胸の奥深くにしまいこんである言葉だ。今まで築きあげてきたお互いの関係を、いとも簡単に断ち切ってしまうこともできる言葉。
(今はこれでいい、今はこのままで……)
綾波が僕を見て笑ってくれる。それだけでシンジは満足だった。


 学生食堂は、11時過ぎともなれば、早めの昼食を取る学生で賑わい始める。
様々な学生たちがトレイを手に右往左往しているテーブルの一隅に、綾波レイは腰を下ろした。大抵の学生、特に女子学生が幾人かのグループで席を囲むのと対照的に、向かい側の椅子に自分の鞄を置いて、窓の外を眺め一人で座っている。
彼女は、一人でいることが多かった。
別に他人が嫌いであるとか、友人なぞ作らない、などと思っているのではない。
人付き合いに対して無頓着なのである。
無頓着なのは人付き合いだけではない。今日のレイの格好はジーンズにTシャツ、化粧はしていない。アクセサリーの類も見当たらない。レイヤーの入った色素の薄い髪は、多分ブローもしていないだろう。周囲の女子学生たちが華やいだ格好をしているのと随分かけ離れている。
普通の女の子なら誰もが気にする、おしゃれであるとか、流行であるとか、付き合いなどには興味がなかった。価値を見出せない。
大体において自分自身に価値を見出せるようになったのさえ、つい最近の事なのだ。
私は、いらない存在なのかも知れない。
私は、必要のない人間なのかもしれない。
私は、生まれるはずのなかった子ども。
私は、普通のヒトとは違う。
消えてしまえばいい。私の存在は無に還るべきものなのだ。
――生まれてからずっとそう思ってきた。
父親も、母親も、縁戚すらない。自分を護ってくれる存在も、護る術も持たなかった。いつも世界と切り離された存在だった。
唯一、彼女を繋ぎ止めていた絆も、所詮身代わりでしかなかった。
そんな彼女を再び世界と結び付けてくれたのが、14歳の時に出会った仲間たちだった。
この世に無関心であった、否、関心を断っていたレイの心に、彼らは波紋を呼び起こした。
いろんなことがあった。いろんなことを知った。いやなことも、苦しいことも、悲しいことも、初めて知る感情も。そして嬉しいことも。
(いろいろな人との関わりの中で、私はこの世界との絆を持てた。私がここにいてもいいことを知ったの)
レイが自身の価値を認められるまで、5年かかった。やっと今、生き続けることに価値があることを信じられるようになった。
(その間、ずっと一緒にいたのね……)
碇シンジ。彼はずっとレイの傍にいた。喧嘩をしたことも、口をきかなかったことも、顔も合わせられなかった時もある。
(でも……最初に言ってくれたのは碇君だった)
「さよならなんて、悲しいこと言うなよ」
(それからもずっと、笑いかけてくれた……)
レイの中で、シンジの存在は無くてはならないものになっていた。彼の存在が、レイを安堵させる。暖かな陽だまりに居るような心地良さを、彼の笑顔に感じる。
この感情は何なのか、レイ自身良く分からない。
ただ、彼の傍にいたい、シンジを失いたくない。
その想いだけは確かだった。
(これからも、ずっと一緒にいたい。碇君……)

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