最後の春休み  epilogue of …

99.2.18 up



西から吹く風に、もう身を切るような冷たさはない。
ほんの少しの温もりと、土の匂い、そして沈丁花の香りをのせて、道行く人々の間を吹き抜ける。
暖かな午後の日差しが差し込む渡り廊下を、綾波レイは一人歩いていた。
長く伸びた窓枠の陰が、廊下に幾何学模様を描き出している。
いつもなら行き交う生徒で賑わうはずの廊下も、いまはただ彼女の姿しか見受けられない。
それもそのはず、もう学校は春休みなのだ。
今日の彼女は、制服を着ていない。いままで制服以外の格好で学校に来た事などあっただろうか。
(不思議なものね)
生徒が居ないというだけで、学校というのはこうもがらんとした印象になるものだろうか。
ただ、ひんやりとした空気だけが、主の居ない校舎の中を流れていく。
廊下に響く自分のスリッパの音を聞きながら、レイは自分達の教室へと向かう。
いや、正確には教室”だった”所だ。
取っ手に手を掛け、少し力を込めて扉を引く。ほんの少し立て付けの悪いこの扉を、何度開け閉めした事だろう。
誰も居ない教室に、ガラガラと扉を開ける音が響く。
少し、埃の匂いがする。
中へと進み、黒板側の窓を開け放った。
カーテンを勢い良く揺らし、春風が教室の中に流れ込んでくる。
それからレイは、毎日座っていた自分の席に向かい、机の中をごそごそとまさぐった。
「……あった」
取り出した手の中には、ペンギンのキーホルダー。
「よかった……」
彼女は安堵の色を浮かべた。
ふと、隣の机へと視線を移した。それは、彼女自身も気づかないうちに習慣となっていた行為。
「あの人の、机」
椅子を引き、席に座ってみた。いつも自分が見ていた景色と、ほんの少し違う風景。
あの人は、ここに座って、どんな光景を見ていたのだろう。


チョークでびっしりと数式の書かれた黒板。
教壇の上でプロレスごっこに興じている男子。
授業中に行き交うマンガ本。
輪になって、噂話に夢中になっている女子。
教科書を立てて、居眠りしている男の子の頭。
サッカーの授業が行われているグラウンド。
真っ白いカッターシャツから覗く日焼けした腕。
風に揺れる制服のリボン。
いつも集まっては、他愛のない話に盛り上がっていた、私たち。


もう、ここでは二度と見る事の出来ないもの。


一週間前、ここで最後のホームルームが行われた。
クラスの皆が、胸に赤い花を飾っていた。
ミサト先生が、袴姿で教壇に立って、皆に話しかける。
「今日でみんなとはお別れだけど、この3年間、本当に楽しかったよ」
すすり泣きがあちこちから聞こえる。
「これから何があっても、この3年間の思い出を胸に、くじけずにがんばって頂戴ね」
花束を手渡されて、柄にもなくミサト先生は涙ぐんでいた。
それから、皆で写真を撮って、色紙に寄せ書きをして、いつものようにわいわいとおしゃべりをしながら帰り支度をして……
レイは、それらを他人事のように眺めていた。
卒業証書を受け取っていく光景も、後輩たちに囲まれて花束を受け取る姿も、まるで目の前を過ぎていくスライドのよう。
目に涙をいっぱい溜めているヒカリと、もらい泣きしているアスカ。
涙は、ちっとも出なかった。
ほんの少し、寂しそうなシンジの顔。名残惜しそうに教室を出るトウジやケンスケ。家に帰るまで、無言で歩いていたカヲル。
何の感慨も沸かなかった。あっけなかった。


たった7日前まで、この教室には皆の姿があった。
授業中のおしゃべりがあった。休み時間のはしゃぎ声があった。お昼休みのざわめきがあった。放課後の笑い声があった。
あの人の、笑顔があった。
いつもと変わらない毎日。平凡な毎日。ずっと、続くと思っていた毎日。
もう、今は何もない。
なにもない、教室。
「……終わってしまったのね。中学生」


急に、風が強く吹きこんだ。
カーテンを大きく吹き上げて、教室の中に何かが舞い込んできた。
「……桜?」
校庭の隅の、早咲きの桜の木から、レイの座っている机の上に、風に運ばれて桜の花びらがひとひら舞い落ちる。
―――ぽたり。
レイの頬を伝って、机の上に涙の滴が零れ落ちる。


もう、戻ってこない。


肩を並べて勉強した授業中も、
屋上でお弁当を食べた昼休みも、
みんなと寄り道して帰った放課後も、
二人で一緒にテスト勉強した日曜も、
あの人と一緒に帰った雨の日も、
初めて手をつないだ体育祭も、
夕暮れの校舎でキスをした文化祭も、
あの人に初めて会った、桜舞うあの春の日も。


涙が、止まらなかった。
もう、二度と来ない毎日。
「…っ、っく、ひっく…ひっ、っく、うっ」
思いきり、しゃくりあげて泣いた。
本当に、終わってしまった。
顔を覆う手の間から、いく筋も流れていく涙。
本当に、本当に、終わってしまったんだ。


どのくらい、そうしていたのか。
やっと、レイは泣き止んだ。
沢山の涙と一緒に、胸の中のつかえも流して。
窓の外から聞こえる歓声。バットが打球を打ち返す音。サッカー部の掛け声。
立ちあがって、窓を閉める。春の空気を胸いっぱい吸って。心の穴を埋めるように。
廊下を、バタバタと女生徒が駆け抜けていった。
きっと、もうすぐこの教室の新しい住人になるのだろう。
「もう、行かなくちゃ。碇くんが待ってる」
シンジの机の上、隅のほうに、『シンジ』と名前が彫ってあった。
レイは、持っていた安全ピンで、その横に『レイ』と刻んだ。
確かに、私たちがここに居た証拠。共に同じ時間を過ごした証。
ありがとう。愛しい時間たち。
「……さよなら」
いつまでも、忘れない。絶対に。
レイは、幾分元気良く扉を開けると、柔らかな春の香りに満たされた教室を後にし、玄関へと駆けていった。

END

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