少女が、消えた。
僕が帰ることを望んだ世界から。
破壊と混沌に包まれた地上に、僕達は還ってきたのに、彼女だけは、そこに居なかったんだ。
でも。
僕は聞いたんだ。
彼女が、最後に残した言葉を。
LCLの赤い海の上に、砂上の蜃気楼のように現れた彼女が、その姿を虚空へと消してしまう直前、僕はその言葉を聞いた。
「必ず、戻ってくるから」
確かに、僕は聞いたんだ。
「戻ってくるから………碇君」



百の昼、千の夜
【T】
A.D.2016


*月*日
今日から日記をつけることになった。
日記をつけることが、僕の治療に効果的だからということだそうだ。
日付を書いたが、この日付が正しいのかは分からない。テレビや、病院の先生や看護師さん達が使っているので、倣うことにした。
実際、正確な暦を知る人は、もう誰もいないのかもしれない。だったら、別に正しかろうが間違ってようが関係ないだろう。
あの、サードインパクトの日。
あの日までは、時間は繋がって流れていた。昨日の次は間違いなく今日、そして今日の次は明日だったはずだ。
けれど、あの時、世界は途切れてしまった。
僕の記憶も、生活も、周りのものが、みな途切れてしまった。
気がついたら病院の(病院といっても、テントの中に簡易ベッドが並んでいるだけのものだったが)ベッドの上だった。
一体あの日からどれだけ経ったのか、本当は分からない。一日なのか、一年なのか。
けれど、それは皆同じ。世界が一斉に、あの日で途切れてしまったのだから。
だから、今日は*日だということで構わないと思う。
あの日から半年経った。ということになる。
 
久しぶりに文字を書いたら、ずいぶん疲れた。先生からも無理をしないほうが良いと言われているので、今日はこれくらいにしておこう。


*月*日
夢を、見る。
起きると、いつも冷や汗でぐっしょりとシーツが湿っている。
どんな夢だったのか、目が覚めてしまうと思い出せない。
ただ、思い出すのは、赤。



*月*日
今日も、また朝が来た。
最近あまり眠れない。明るくなるまで布団の中でゴロゴロしている。
退屈なので、日記を付けることにした。
街が動き出す。1日の生活の始まり。
あの、崩壊と再生の長い1日から、どれくらいの時間が経とうとしているのか。
長いような、短いような。よく分からない。
世の中も、普通の生活が戻ってきている。勿論、まだまだ大変なことが一杯で、ニュースなんか見ていると、本当に世界が壊れたんだと実感する。
でも、今僕は普通の病院で入院生活を普通に送っているし、食べ物も、電気も、水も、テレビもある。
15年前のセカンドインパクトを乗り越えた人類は、今また再びこの災害を乗り越えようとしている。
窓から見える町並みに家々が並び始め、会社や学校が始まり、そして皆の行きかう人並みが出来つつある。
人間の力ってすごいなあ、と素直に感心する。
あれほどの荒廃の中から立ちあがり、生き抜いて、日々の生活を始めているのだから。
第三新東京市。
以前に市街地があった所は、その地形も留めていないほど破壊され、今は湖となっているが、その周辺に新たな市街地が出来、人々が徐々に戻ってきているらしい。
僕のいるところから近いのだろうか。
どうしているのだろう、みんな。
 
綾波。
戻ってきたのか?
綾波。


*月*日
前の僕の心は、嵐の海のようだった。
激しい波がいくつもいくつも立ち上がるように、さまざまな記憶が立ち昇る。
いろんな事が目まぐるしく浮かんでは消え、激しく心をかき乱しては、過ぎ去る。
けれども、この頃は、静かな湖のように、穏やかになってきたように思う。
だけど、静かになったその湖面に、石を投じるものがある。
赤い瞳。
彼女が石を投じると、僕の心に波紋が広がる。
大きく、大きく。
緩やかに収まってきた僕の心の水面を、波立たせる。
彼女が最後に投げた、言葉の石が。
僕に、何を望むの?どうすればいいの?


*月*日
僕がここに入院するまでのことを少し書こうと思う。
先生も、昔のことを思い出して書いたりするのは良いことだと言っているし。
最近は、昔のことを思い出しても、気分が悪くなったりしなくなったし、落ち着いていられるようになった。
 
アスカと一緒に湖の畔で気を失った後、気がついたら僕は病院のベッドの上にいた。
最初は、テント張りの野戦病院みたいなところだったが、すぐに、UNの職員が来て、僕は建物のある病院に搬送された。
EVAパイロットである3人のチルドレンの発見・保護は、混乱した国連組織にあっても最優先事項とされていたらしい。
それから3つほど病院を移り、今の病院に来た。前の3つの病院にいたのはほんの1週間ほどで、転院の度に結構な距離を移動していた。
大きな怪我や病気な訳ではなく、多分、保護と監視のために入院をさせられているのだろう。
ここは多分日本のどこか、きっと関東地方なのではないかと思っている。
クレゾールの匂いのするベッドに横たわって白い天井を見つめながら、長い間、漫然と色々なことを考えていた。
アスカ、ミサトさん、トウジ、ケンスケ、委員長、リツコさん、ネルフのみんな、・・・・・・・・・父さん、母さん。
いろんな人の記憶の欠片や、想いの欠片や、そんなものが頭の中で渦を巻く、その真ん中にいつも、綾波のことがあった。
綾波。
彼女は、どうしている?
ぐるぐる回る、まとまらない思考の中で、彼女の赤い瞳がやけに思い出された。
綾波。
医師や看護師に何かを聞こうとしても、誰も問いかけには答えてくれず、ただ呪文のように『今は休養する事が一番大事』と繰り返すばかりだった。
何か知りたくても、今の僕にはどうすることもできない。
電話ひとつ掛けられない。大体どこに電話すればいい?
僕はどうすればいい?
 
以前、綾波にそんな質問をしたような気がする。あの時はなんて言ってたっけ。


*月*日
僕は、いまミサトさんの家にいる。
今日は記念すべき日だ。退院したのだ。
ミサトさんとまた一緒に暮らす日が来るなんて!
僕はまた今日から、ミサトさんと一緒に暮らすことになった。ミサトさんから申し出てくれたのだ。
ミサトさんが病室を訪ねてきてくれた時は、ものすごく感激した。
「ミサトさん!!!生きて、生きてたんですね!・・・・・・うっ、よ、良かった、良かった・・・・ヒック・・・・ぶ、無事で・・・・・・・・」
「シンちゃんこそ、元気そうで……良かった。ほら、泣かないのよ」
言ってるミサトさんも涙をぼろぼろこぼしていた。
ミサトさんは、あの頃と同じミサトさんで、でも少し穏やかになった印象を受けた。
僕は、感謝した。何に感謝したのか良く分からなかったが、多分、母さんに。
ミサトさんとまた逢えるなんて。
ありがとう。感謝します。
感謝します。


*月*日
退院したのだから日記は書く必要がないのだが、もはや習慣と化してしまった。ので続けることにする。
 
もうEVAはないし、NERVも解体してしまった。
ミサトさんからそんな話を聞く。
NERVのみんなも、少しづつ消息が分かってきたそうだ。アスカも、別の病院で元気にしているらしい。
 
父さんは……行方不明だ。多分、もう会えないだろう。きっと、母さんと一緒にいるのだ。そう思うことにした。
 
ミサトさんが楽しそうにみんなの消息を話す途中、僕はずっと綾波のことを聞きたいと思っていた。
けれども、そのことにはちっとも触れてくれない。そこで、意を決して僕から聞いてみた。
それまでにこやかだったミサトさんの顔が、一瞬にして曇った。そして、急に窓の方へ顔を向けた。
そして一言、レイはまだ発見されていない、と言った。
もう半年近く経っているじゃないか、と抗議する僕に対して、ミサトさんは、国連でも、全力を挙げて捜索に当たっているが、でも、もうすぐそれも打ち切られると告げた。
尚も食い下がる僕に、背を向けたまま、ミサトさんは僕に答えた。
「死亡、と断定されたわ。もちろん、遺体どころが、遺品さえないけど」
「……………ごめんね、シンちゃん」
そう言ったきり、彼女はずっと僕に背を向けたまま、外を見ていた。
僕は、服の裾を握り締める自分の拳を見つめていた。
静まり返った部屋の中に、蝉の声ばかりが響き渡っていた。
僕は、ぼくは
僕は
 
 
 
 


*月*日
僕達は、今日やっと第三新東京市に戻ってきた。
以前住んでいた住人に対していろいろな優遇措置があるというので、ミサトさんと話し合って戻ることを決めた。
アスカも、来月には退院するらしいし、冬月さんやリツコさんや日向さん達も、もうこの街で生活を始めている。
第壱中学校も再開され、各地に四散していた生徒たちが復学しつつあるらしい!
トウジやケンスケ、洞木さんも学校に通い始めたそうだ。今日、電話を掛けてきてくれた。
こんなにうれしい電話は生まれて初めてだ!!
話したいことが沢山あったのに、いざとなると言葉が出てこなくてもどかしかった。
以前と同じではないが、けれども、前のような生活が、みんなの居る毎日が、僕があの時望んだ日々が戻りつつあった。
――――――ただ一つ、綾波が居ない事を除けば。



でも、僕は聞いたんだ。戻ってくるという彼女の言葉を。
あれは、絶対現実だった。夢なんかじゃない。幻なんかじゃない。
入院している間、何度も何度も思い返した。綾波は、確かにそう言ったんだ。
あれは、夢なんかじゃない。
 
そうだ、夢なんかじゃない。



*月*日
今日から、僕は中学3年生になった。
クラス替えはせずにそのまま持ちあがりとなったが、転入出が多く続き、級友の顔ぶれは以前とはかなり異なっている。
窓際に目を遣る。
以前なら、そこには窓の外を眺める綾波の姿があった。
一人、静かに外を見つめる綾波には、ただ座っているだけなのに、僕の目を惹きつける圧倒的な存在感があった。
けれど、今は。
―――――今は、彼女の机さえない。
綾波は、確かにここにいたのに。
「綾波さん?」
「そう言えば、そんな子もいたわね」
「ああ、無口な奴だったよな」
「どんな顔してたっけ?」
綾波を知らないクラスメートが増えた。綾波を忘れていくクラスメートが増えた。
確かに、このクラスにいたのに。
綾波のいない教室。僕ひとりが、彼女の影を探している。


*月*日
悲しくても、お腹は空くから食事をするし、眠くなるから眠るし、風呂にも入る。
学校に行かなくてはならないし、行ったら勉強もするし、放課後誘われれば、遊びにもついて行く。
人が一人いなくなっても、毎日は繰り返されるし、時間は進んでいく。
綾波が居ない日々。
いつもいたはずの場所に、彼女がいない。いつも会うはずの時間に、彼女に会えない。いつもの視線の先に、彼女が見えない。
それまでの日常との些細な違いを見つける度、胸が締めつけられた。
苦しかった。悲しかった。胸の中に、いつも重く冷たい塊があって、そこから悲しみは止めど無く流れ出る。
夜、部屋の窓から月を見て、綾波のことを想った。
泣いた。
あの笑顔をもう一度見たかった。
このまま、どのくらいの夜を泣き明かせばいいのだろう。生きている限り、この悲しみは続くのだろうか。
でも、死ねない。それが、また悲しかった。
君のいない世界で、僕はやっぱり生きている。呼吸している。毎日の生活を送っている。それが悲しかった。


*月*日
涙って、枯れるものなんだ。
きりがないと思うほど、後から後から流れ出ていたのに。枯れるものなんだ。
涙と一緒に、悲しい気持ちも枯れてしまった。
今は、空っぽなんだ。
空っぽ。空ろなんだ。穴が空いたらしい。すごく空っぽなんだ。
埋まらないんだ。詰めるものがない。埋めたいとも思わない。代わりなんて無いんだよ。
こんなに大きな穴が出来ちゃったよ、綾波。
肉体ばかりが重くて、それが苦しいんだ。


*月*日
「なによ、辛気臭いカオしちゃってえ!!」
アスカが僕の背中を叩く。
笑おうとするけど、頬が引きつって上手く笑えない。
昼休みの屋上。頭上に抜けるような青空が広がっていた。
僕は、流れる雲を見ていた。目は雲の動きを追っているけど、瞳には何も映してはいない。
アスカが、隣に腰を下ろした。
「……アンタ、目が死んでるわよ」
僕は返事をしなかった。
自分でも分かっている。僕の目は死んでいる。そう、以前のアスカみたいに。
「もしかして、ファーストのこと考えてるんでしょ」
僕は、やっぱり黙ったまま、右手を握ったり開いたりしていた。
「……もう、みんな諦めちゃってるのに、シンジはまだアイツを待ってるの?」
「僕は、諦めないよ。まだ、諦めたりしない」
アスカの方を見ずに、空を眺めたまま、僕はそう返事をした。”バッカじゃないのぉ”って、怒鳴られるかと思っていた。けなされるかと、身構えていた。
「そっか。……そうなんだ。」
アスカの声には、いつもとは違う優しい響きがこもっていた。
「簡単に切り替わったりしないもんね、人の気持ちって。シンジが諦めたくないなら、それでいんじゃないの」
同じように雲を眺めながら、アスカは言った。
「………うん」
それから、僕達は並んで座ったまま、雲が流れていくのをただ眺めていた。
ただ、黙って。


*月*日
どうして、綾波の写真を撮っておかなかったんだろう。
どうして、綾波の姿をビデオに残しておかなかったんだろう。
どうして、綾波の声をS−DADに録音しておかなかったんだろう。
僕の記憶の中の、君の輪郭がぼやけてきたんだ。
どうしよう。
君の声を、思い出せないんだ。
まだ、1年も経ってないのに。


*月*日
リツコさんの研究室を訪ねた。
「リツコさん、本当になにも残ってないんですか?」
「ええ、何も無いわ。全てデリートしてしまったわ」
「一枚の写真でも、ほんの小さな画像データでもいいんです。綾波のこと、何も残ってないんですか?」
「レイは、人が人工的に作り出したヒト。自然の摂理を捻じ曲げて生み出したものなのよ」
モニター越しに返事をするリツコさん。眼鏡が、モニターの光を受けて乱反射している。
「あってはならない存在。だから、彼女が存在した痕跡は、全て消し去らなくてはならないの。跡形も無く。
「レイは、この世にあることが許されないのよ。」
強い口調で言い放つ。眼鏡の奥の瞳が見えない。
「…………分かりました。すいません、お邪魔して」
「ごめんね、シンジくん」
「いえ、…………さよなら」
僕は研究室を後にした。ドアを閉じる直前の、リツコさんの呟きは、聞こえなかったことにしたいと思う。
「”許されない”…………いえ、違うわね。”許せない”のよ。……許せないの、私……」


*月*日
君のことを考えない夜はない。
君のことを想わない月夜はない。
でも、君はいない。
僕の中の綾波は、あの夏の日のまま。
でも、僕の時間は進んでしまう。
君がいない間に、僕は今日15歳になった。
僕の家で誕生パーティーをしたんだ。みんなで集まって、ワイワイがやがやと、賑やかなひと時。
前も、こんなことがあったっけな。その時も綾波はいなかった。
楽しかった。みんな僕を楽しませようと、さりげなく気を遣ってくれてるんだ。
だから、心から笑った。本当に久しぶりに、腹の底から笑い転げた。
 
今日は、満月だよ。綾波。


*月*日
君と飲んだ紅茶。一緒に食べたラーメン。
頬を打たれたときのこと。君の部屋へ行った時のこと。
実験の時に交わした会話。帰り道で交わした会話。病院で交わした会話。
モニター越しに見た顔。父さんと話していた時の顔。「さよなら」って言った横顔。「ありがとう」と言った顔。笑った顔。
初めてあった時。最後にあった時。
繰り返し、繰り返し思い出す。
色褪せないように、薄れないように、消えないように。何度も繰り返し、思い出す。
最近はいつも、思い出の中の場面ばかりを頭に思い描いている。


*月*日
季節は巡る。
四季という言葉が意味を失ったこの世界でも、緩やかな季節の変化はまだ残っている。
もうすぐ夏が来る。
君がいなくなって、初めての夏が来る。
綾波。
夏が来るよ、綾波。

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