大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


熊 本 日 記
(2011年8月)

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□2011年8月31日(水) 別試験

 「国際社会と日本T」の別試験。受験者は4名。体育会で頑張っていたり、海外留学に行ったり、いずれも頑張っている学生たちである。準備万端のようでひとまず安心。引き続き文武両道で頑張ってほしい。

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□2011年8月29日(月) 慶応研究合宿日記 その3

 那須塩原で生命の洗濯をさせてもらい、連続出張の疲れもふっとぶ。終日、国会図書館で史料調査。懸案解消。慶応様様である。

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□2011年8月28日(日) 慶応研究合宿日記 その2

 アユの甘露煮をオカズに朝からご飯を三膳頂く。

 今日は終日研究会議。本年度走っている5つのプロジェクトチームの進捗状況と今後の動きについて報告と確認。その後、第1期拠点活動の総括と今後の方針・体制の確認。我らが廖承志研究小組も主任が報告。

 詳細は書けないが、とにかく大変良い勉強になった。「人の上に立つ」ということの意味をひとつひとつ諭されているような貴重な時間。別に将来、上に立つわけではないが、やはり上に立つ人はいずれも「違うものだなぁ」と思い、「人望」や「人徳」というものを改めて考えさせられた。こうやって「慶応の絆」というのは造られていくのだろう(ちょっとうらやましい)。

 夜に東京帰着。拠点の配慮で後泊させていただき、国会図書館での調査の機会を頂く。懸案があるだけに、本当にありがたい。 

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□2011年8月27日(土) 慶応研究合宿日記 その1

 中国研究拠点合宿。中央出身で中国研究をやっている私にとって、拠点の研究分担者に名を連ねさせていただけるのは本当に幸運なこと。熊本移住後も合宿にはずっと参加させていただいてきたが(顔に出すのは下手だが、参加するのは楽しくてしかたない)、昨年は「パプア」があったため、お伺いできなかった。

 周囲の人から那珂川の「アユ」の話しばかり聞かされていたので 、とにかく今年は「すわ大田原へ」と心に強く誓っていた。アユ、ニジマス、コイ、ドジョウ、ナマズ、川魚も大好物である。「簗(やな)」でのアユ漁も見学できるとあって、一日千秋の思いでこの日を待っていた。

 朝一番早いソラシドエアー(旧SNA)で東京へ。CAさんの制服がなんか昔のモーターショーの日産みたいで微妙な感じ。横風がひどく、羽田の着陸がちょっと怖かったが(年間50回以上飛行機に乗るが、今回は本当に怖かった)、いつも通り定刻10分前に到着。

 初めて名前を聞く「なすの」という新幹線に乗り、那須塩原へ。東京駅で買った駅弁を写真に撮ろうと思ったところで、ここでデジカメを忘れたことに気づく。お嫁様から「デジカメ忘れてるら」とメールが入っている。

 1時間ほどで那須塩原到着。マイクロバスで「寒井」の「簗(やな)」へ。写真でお見せできないのが残念だが、川岸から石と木で堰を造り、水流を川の中央に集めて、その突端にベランダ・デッキみたいなものをつくり、そこに集まってきたアユが「ピチピチする」といった仕掛けである。

 囲炉裏でアユを炭火焼。抱卵前の時期なので身も内蔵も美味しい時。遠赤外線でじっくり焼かれた天然のアユは、いくらでもいける感じである。昼食だが、塩焼きや何だかんだで10匹近く食べただろうか(ごちそうさまです!)。

 昼食後はお仕事の研究会。まずは若手の博士院生の報告。現代中国におけるキリスト教団体に関するものと歴史決議に関するもの。前者は初々しい報告もさることながら、他の先生方の鋭いコメントが本当に勉強になる。田島先生は本当にすごい魅力的だな...。

 後者は私もちょっとかじったテーマなので 、最新の研究動向に触れられて満足。かなり展開の可能性があるテーマと見た。1987年までががっちりまとめられれば、良い研究になるだろう。胡耀邦がなぜ総書記になれたのか。そして、なぜ失脚したのか。

 豪勢な夕食を頂き、温泉につかり、今後の研究についていろいろと懇談。いつものことながら慶応の「強さ」の源泉を再確認する瞬間である。

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□2011年8月22日(月) 韓国日記 その4


朝鮮軍龍山司令部跡(現・米軍施設)@ソウルタワー展望台より

 午後の便で帰国のためあまり時間がないが、せっかくなので市内を視察。まずは朝鮮神社があった南山に立つ「ソウル・タワー」へ。ここからは日本の植民地統治時代に置かれていた朝鮮軍司令部(龍山司令部)の跡(現・在韓米軍基地)が見える。

 観光地図では一応「森林部分」として表記されている極秘施設らしい。ただ、グーグル・マップではそのままらしく、「頭隠して尻隠さず 」的な感じとのこと。


青天白日旗む@ソウル

 南山から明洞へ。途中 、華人小学校などがある中華街を通る。韓国ということもあるのだろうが、青天白日旗がしっかり刻まれた建物が。「韓国地区三民主義大同盟」との表札。でも、正面にはウェディング・イベントのポスターなどが貼ってあり、いろいろとやっているようだ。


ビビムバップ@全州中央会館

 韓国最後の食事ということで昼食は明洞「全州中央会館」の石焼ビビンバップを味わう。50年の歴史を持つ、「創始者」のお店ということで、日本人観光客も多い。安心感のある美味しさ。「初韓国」の締めを飾るにふさわしい一品だった。

 夜9時、無事帰熊。これで夏休みの海外視察出張もとりあえず終わり。さて、たまっている仕事を少しずつでもかたづけていかなければ...。

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□2011年8月21日(日) 韓国日記 その3


草芝鎮@江華島

 今日は江華島・仁州視察。ソウルから北西に高速を1時間ほど。まずは日本近代史でも有名な「江華島事件」の最初の砲撃が発生した草芝鎮へ。一般に、日本がアメリカの「黒船」を真似て朝鮮を開国させた事件として語られることが多いが、実際にはほんのちょこちょこっとした砲撃事件があっただけで、かなり強固に守られていた江華島を少人数の日本側が攻め落とせるはずもなく、事件後の朝鮮内政の帰結が「開国」であったとのこと。


徳津鎮@江華島



「海門防守他国船慎勿過」の石碑@徳津鎮

 こちらの徳津鎮も江華島にあった高麗宮を守衛するための砲台跡。塩河江を一望でき、不審な船が入ってくれば一目瞭然。「海門防守他国船慎勿過」と刻まれた石碑が周辺に睨みをきかせている。かなりの急流で、さらにこれだけの砲台があれば、なかなか突破するのは難しかっただろう。元軍も苦戦したらしい。


和平展望台から臨む北朝鮮



制赤峰@統一展望台

 次は江華島北端にある和平展望台へ。望遠鏡では北朝鮮の村の様子が手に取るように観察できる(まぁ「宣伝村」みたいなものなのだろうが)。展望台がある「制赤峰」(朴正煕が命名したとのこと)と名づけられた場所は、対岸の北朝鮮領土まで3キロ弱。


仁州上陸作戦地



グリーン・ビーチ・ポイント@仁州

 江華島視察の次は仁州の月尾島(ウォルミド)へ。ここは朝鮮戦争時に仁州上陸作戦が行われたポイントのうちのひとつ。いまは観光地化されていて遊園地やら「刺身村」やらが立ち並ぶ「江の島」のようなところ。上陸地点のひとつである「グリーン・ビーチ・ポイント」の石碑を発見。周囲の観光客は石碑にまったく興味がなさそう。


ヒラメの刺身盛り@月尾島


豪快な貝焼き@月尾島

 少し遅めの昼食。海の近くなので海鮮。数多くの並ぶ海鮮料理屋のまえでは「オモニ」たちがウチワをふりふり、懸命に客引き。その勢いに圧倒される。刺身盛りも貝焼きも豪勢だが、男6名なので、あっという間に平らげてしまったう。エネルギー補給これにて完了。


仁州上陸記念館


上陸!@仁州上陸記念館

 食後は仁州上陸記念館へ。戦後東アジアにおける国際秩序を考えるうえで「仁州」は極めて重要な地点である。「帝国」の解体から新たな地域秩序の形成へ。ここではマッカーサーが大英雄。「マッカーサーなくして今日の大韓民国なし」か。


ブルー・ビーチ・ポイント@仁州

 帰路、道端でもうひとつの仁州上陸作戦地「ブルー・ビーチ・ポイント」の石碑を発見。周囲は埋め立てが進み、上陸地の面影はほとんどないが、かつてはここも海岸だったとのこと。本当はもう一つ「レッド・ビーチ・ポイント」があるらしいのだが、今回は時間切れで視察ならず。機会があれば写真をコンプリートしたい。


骨付きカルビ@ソウル


ユッケ@ソウル


冷麺@ソウル

 灼熱のなか、江華島・仁州視察を終える。月初から連続している海外視察の疲れもあってか、体力の消耗をかなり感じる。ここは韓国名物の焼き肉を食べて元気になるのが一番。ということで、夕食はホテル近くの焼き肉店へ。

 韓国初焼き肉。昼間は思いっきり研究視察をし、夜は現地の「味」を楽しむ。こうした経験が「土地勘」をはぐくみ、次の研究につながる。冷麺ってこんなに美味しいものだったのか(韓国通の先生も「ここのは美味い」と好評価)。

 明日はいよいよ帰国。

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□2011年8月20日(土) 韓国日記 その2


DMZ人形@高速のサービスエリア

 朝食バイキングはかなり充実。洋食もメニュー豊富だが、いろいろと入ったお粥に多種多様なキムチが楽しめるのも良い。このホテルは私的には満点に近い。

 今日は東西冷戦を今も体感することができる板門店へ。私が専門としている1950年代の日中関係、結局、かなり朝鮮戦争が戦後初期の日中関係を規定してしまった部分も大きい。


北朝鮮を臨む@板門店

 外国人観光客しか入れない板門店。いわゆる「日本人いっぱい」のツアーではあるが、緊張感を盛り上げようとする演出はなかなか。ガイドさんの「北」に対する複雑な思いが交錯する「語り」もよかった。板門店の「へたなことすると撃たれるぞ」的な雰囲気は、1980年代前半に台湾の総統府の前で衛兵に「あっかんべ〜」をするような緊張感にも似ている。


若き兵士@板門店会談棟

 「北」に亡命しようとすれば即時「射殺」という緊張感。平和ボケした我々日本人にとっては、「まさか」と言った感じだが、きっと間違いなく彼らは「処置」するのだろう。それが軍命というものである。


ラングーン事件慰霊碑@臨津閣



弾丸列車@臨津閣

 帰りは近くの「臨津閣」へ。北朝鮮との軍事境界線の民間人統制区域の南端にあり、普通の韓国人が北朝鮮に最も近づける場所とのこと。多数の朝鮮戦争関連のモニュメントやラングーン事件の巨大な慰霊碑など。


中和殿@徳寿宮

 市内へ帰還。景福宮焼失後に仮王宮として利用された徳寿宮へ。李朝第26代国王で「大韓帝国初代皇帝」の高宗(閔妃の夫)が退位後の晩年を過ごした場所。韓国初の洋館である「石造殿」は修復作業中。


ロシア領事官跡@ソウル

 続いては「露館播遷」で知られる旧ロシア領事館跡へ。日清戦争後、日本を制するため高宗は清からロシアへと頼る相手を変えた。徳寿宮のすぐ裏。いまは三階建ての棟の一部が残るのみ。


円丘壇の皇穹宇@ソウル

 さらに市内を散策。仁寺洞へ向かう途中、ソウルの「天壇」こと円丘壇を視察。高宗が大韓帝国初代皇帝に即位した場所。そびえたつ高層ビルに囲まれる、激動の朝鮮近代史を伝える場所。


豆腐マウル(村)@仁寺洞

 夕食は仁寺洞(インサドン)で豆腐料理。ちょっとした骨董品屋やオシャレなグッズショップが並ぶ仁寺洞は日本の原宿+神保町(?)と言った感じか。面白いのは店と店のあいだの細い路地をするするっと入ると結構広めの飲食店が所狭しと軒を連ねているところ。日本でいう「〜横丁」といった感じ。肉食が続いているので今日は豆腐料理に。


新鮮なマッコリ@仁寺洞

 夕食が早めに終わったので二次会はやはり仁寺洞の「きたない」手作りマッコリ屋さんへ。メニューも壁にメモ書きが貼ってあるだけのお店。座ると注文も聞かずに「オモニ」が金だらいに入ったマッコリとホッケの焼いたのを持ってきてくれる。キムチ保存庫のようなケースのなかに大量のマッコリ。

 フレッシュでさっぱり。活きているのか、すこしチリチリ。これぞ生マッコリ。法律の関係で日本だとこういった販売方式は不可能なのだろう。韓国ならではの味。口当たりが良いのでいくらでも飲めてしまうが、油断をしたらひどい二日酔いにやられるのだろう。

 明日は江華島と仁州。1870年代から1950年代までの戦跡を一気に視察予定。

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□2011年8月19日(金) 韓国日記 その1


ロッテ・シティ・ホテル・マボ@ソウル

 「帝国解体研」(私が勝手に心のなかでこう呼んでいる)の韓国戦跡視察に参加。昨年のパプア戦跡視察のメンバーに新たなメンバーを加え、総勢男6名での韓国3泊4日。東アジア学科の教員でありながら韓国に行ったことがないという情けない状況から脱却するという意味でも今回のミッションは極めて重要である。

 今回は東京組と福岡組がふた手に分かれて出発。ソウルの宿泊先での合流となった。すでに今月3度目の福岡空港国際線ターミナルだが、アシアナに乗るのは初めて。カウンターはいつもと正反対である。もっとも、福岡組は韓国近現代史のスペシャリストとの出発なので、大船に乗った気分である。

 熊本から高速バスで2時間弱、飛行機で1時間弱、仁川国際空港から宿泊先のロッテ・シティ・ホテル・マボまで1時間弱といったところ。熊本からも直行便があるらしいので、曜日さえ合えば、2時間半ぐらいで到着する計算。近くて近い国になった韓国か...。


李舜臣@光化門

 初日は移動日でほとんど視察の時間がないのだが、ソウルにある「帝国」の形成・展開・解体の過程にまつわる史跡は極めて多数にのぼるため、とにかくいきなり弾丸視察に突入する。


世宗大王@光化門

 まずはお決まりのコースだが、地下鉄で光化門に向い、そこから景福宮に向かう。今日は「帝国」の形成過程にあたる19世紀後半の時代、すなわち壬午軍乱や甲申政変、閔妃暗殺、あるいは「引俄拒清」あたりに関連する史跡を一気にめぐる。それぞれがそれぞれの専門から得ている知識を披露しつつ視察が進んでいくため、本当に勉強になる。


光化門@ソウル



景福宮@ソウル

 学園大の初代名誉校長安達謙蔵もかかわった閔妃暗殺の現場なども勤政殿の裏手にある「乾清宮」あたりにはるはずだったのだが、かつてここにあった説明板や現場の様子を描いた絵なども撤去されてしまっており、現場は結局、特定できずじまい。日本人観光客が多いところだけに、日韓関係の良好化を背景としているのだろうか。


郵征総局跡@ソウル

 景福宮参観後は、ちょっと寂しい現在の日本大使館前を通り、郵征総局跡へ。ここは1884年12月に発生した親日開化派金玉均らによるクーデタ「甲申政変」の現場である。開庁祝賀パーティーに参加した守旧派高官を一掃し、新政権を建てるも 、袁世凱の介入で「三日天下」に終わったクーデタ。思ったよりもこじんまりとした建物。


参鶏湯@土俗村

 続いて興宣大院君の邸宅であった雲[山+見]宮などを視察した後、「土俗村」にて夕食。ここの名物は何といっても「参鶏湯」。熱々に焼かれた石鍋にじっくり煮込んだ丸ごとのニワトリさんが鎮座している。あっさりしつつもコクがあり、徒歩での散策で心地よく疲れた身体にじわっと染み込むような美味しさ。骨に気をつけながら食べるので、カニ同様に食事中は皆が無口に。複雑な旨み。


韓国ビール三兄弟

 ホテルの地下にあるロッテ・スーパーで地元のビールを買い込み、ソウルの夜景が見下ろせる快適な部屋で堪能する。日本のビールに比べると少し軽い感じだが、今月上旬、中旬はずっと中国ビールだったので、それほど違和感はない。NHKでは「朝鮮儀軌」返還の特集番組。視察をコンダクトしてくださっている先生が出演。朝鮮王朝末期の史跡を視察してきたばかりなのですこぶる楽しめる。

 明日はいまだに「東西冷戦」の最前線である板門店視察。早めに就寝。

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□2011年8月18日(木) 感性の鈍い人

 あのような感性の鈍い人間には絶対になりたくないし、今後の人生においても、できれば二度と関わりたくないと強く思う。反面教師。 他山の石。

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□2011年8月17日(水) 束の間のお休み

 なかなか熊本にいられない夏休み。若様と大澤娘。(もちろんお嫁様も)を連れて「阿蘇ミルク牧場」へ。ここは太陽の下で思いっきり動物たちと遊ばせられるうえに、入園料300円でリーズナブルなので、貧乏な子持ちにはありがたい。自然の素材をふんだんに使ったバイキングを堪能しつつ、可愛くて仕方ない息子と娘と遊ぶ。束の間の休息。

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□2011年8月16日(火) 中国東北日記 その6


朝の大連賓館ロビー

 美味しい海鮮をお腹いっぱい食べたのでぐっすりと眠れた。 哈爾濱で泊まった貴賓楼と同じ旧満鉄ホテルなので豪華な朝食を期待したのだが、こちらはちょっと残念であった。白身魚の唐揚げ、ほうれんそうの炒め物、白菜と豚バラの炒め物、漬物各種、花巻などが小さな皿に盛られて一人一人の前に置かれ、あとはお粥が少々。あっちが豪華すぎたようだ。

 食事を終え、一同は大連空港へ。昨晩の霧でフライト・キャンセルになった乗客がカウンターに殺到していた。昨日ほどではないにしろ、依然として霧がひどいので、半分諦め気分で出国手続きをする。案の定、機材遅れ。北京空港の混乱ぶりが目に浮かぶ。だいたい3時間の出発遅れと予測する。

 2時間30分遅れで飛行機に搭乗。その後、駐機場で「混雑のため1時間ほどここで待機の予定」とアナウンスが入り、早くも機内食が運ばれてきた。「1時間あるから」と安心していたが、突然、飛行機が「グン、グン」と2回揺れ、いわゆる「力持ち君」が機体の前輪に合体した感触があった。

 食事中なので「まさか!」と思ったが、さすがは中国。いきなり機体がバックし始め、ある程度さがったところで機体は元気よく滑走路に向けて動き始めたではないか。「まさか、このまま飛ぶのか。うそだろ」と思いつつも、年に何度もお世話になっているCA953便くんは勢いよく滑走路に向けて疾走していく。

 コクピットとキャビンがどのような連携になっていたのかは知る由もないが、あきらかにCAが慌てだし、機内食用のギャレーを引いてきて、ものすごい勢いでプレートを片づけ始めた。「やりきれるのか...」全乗客がかたずを飲んで見守るなか、離陸ぎりぎりでギャレーを定位置に収納。さすがはプロと言いたいが、ちょっと心臓に良くないひと時であった。予測通りちょうど3時間遅れの2時20分の離陸であった(どんぴしゃ!サマー・ジャンボ当たってるかしら...)。

 福岡到着後、空港でメールチェックすると金曜日から出発する韓国戦跡視察出張スケジュールの詳細のお知らせが。今回は韓国のプロフェッショナルの先生が福岡からご一緒くださるのですこぶる安心しているのだが、一夜漬けのために明日『地球の歩き方』を買いに行こう。これから行く機会もきっと増えるに違いない。

 中国出張は大好きだが、やっぱり自宅が一番ゆっくりできる。

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□2011年8月15日(月) 中国東北日記 その5


葫蘆島站

 66年目の終戦記念日を葫蘆島で迎える。午前中は「慢車」の硬座で6時間かけて大連へ。ローカル線ということもあり、当然、空調もない。涼しかったのでまだ助かったが、出発が遅れたうえに、途中でも40分ほどの信号待ちがあり、結局、1時間10分遅れで大連へ。


瀋陽発山海関経由大連行き

 長旅ということもあり、最初は大学の図書館で借りてきた映画を見る。最近、出張のときは1〜2本DVDを持って行くことにしている。今回は「ラスト・サムライ」と「ヒトラー 最後の12日間」。普段、ほとんど映画は見ないので、こういう時には頭を使わなくてよい少し「ベタ」なものを見るようにしている。

 途中からはトランプ。麻田隊員が入手したマニアックなスターリン・トランプにやられる。まさに中国ローカル線の光景。数十年ぶりに「大富豪・大貧民」をやる。ルールもほとんど忘れていたが、いざ始めれば思い出すものである。大富豪で勝ち抜ける。あっという間に大連に到着。


大連賓館@大連

 今日の宿は大連賓館。ここも哈爾濱の貴賓楼と同じく満鉄の旧大和ホテルである。哈爾濱に比べると天井も高く、ひとつひとつの部屋も倍以上の広さである(双人房ということもあるが)。満鉄本社も置かれていた大連なので、系列ホテルのスケールもそれ相応といったところか。


ロシア人街の古き住宅

 夕食まで少し時間があったので、大連市内めぐりを少し。大連駅の向こう側、勝利橋(旧・日本橋)を渡った先にある旧ロシア人街を散策。目抜き通りの両側にはお土産屋が並びそれなりににぎわっていた。ロシアを意識してか、なぜかミリタリーモノっぽいお土産ややたらと目につく。

 だが、一本道を奥に入ってかつてのロシア人住宅街をのぞいてみると、ほぼすべてが空き家の状況で、朽ちるにままに放置された状態であった。あちらこちらに重機が入り、危険な建物については取り壊しが始まっていた。近くこの一帯も再開発されてしまうのだろう。


生うに@天天漁港

 続けて大連港の埠頭などを見学、大連引揚はここから祖国に帰還したとのこと。いわゆる「大連の霧」で埠頭を見渡すことはできなかったが、雰囲気は味わうことができた。

 帰りは人民路を中山広場に向かって散歩。夕食は途中の「天天漁港」で食べる。『地球の歩き方』にも人気店として掲載されている。私自身、あまりガイドブックで探したお店に食べに行くことはないのだが、大連はあまり馴染みがないので、美味しい海鮮を食べるために鋭意乗り込む。


ワタリガニの唐揚げ@天天漁港

 ここは大正解。値段は若干高めだが、新鮮な海鮮料理が安心して楽しめる。日本人慣れしているのかしれないが、服務員も教育が行き届いている。特に印象的だったのは、カニみそを衣に練り込んだワタリガニの唐揚げ。何とも言えない風味とコクがあり、まさに「大連の海鮮」といった感じ。もちろん「生うにの直食べ」も堪能させていただいた。


大連の海鮮を堪能@天天漁港

 どの料理もそうだが、感心したのは味付けが洗練されていること。子供時代から台湾で豪勢な宴会中華をあきるほど食べてきた私だが、ここの繊細な味付けには関心した(逆に大雑把な味に慣れている今の日本人には薄味に感じるものもあるかもしれない)。ここならば、舌の肥えた日本人のお客さんを安心して連れてこれるのではなかろうか。


マナガツオの餡かけ@天天漁港

 つやのあるピリ辛の餡がかかった新鮮な「干焼」されたマナガツオ。海鮮は材料を選んで、さらに調理方法まで指定して注文するのでなかなか難儀だが、ここは服務員も客が納得するまでじっくり点菜につきあってくれる。やはり大連はホスピタリティにおいても中国の最先端をいっているようだ。

 あいにく夕方からは霧と雨。大連空港はキャンセルが相次いで大混乱の模様。朝一番で北京からやってくる福岡行き、きっと明日は機材遅れだろうな...。

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□2011年8月14日(日) 中国東北日記 その4


いま話題の「和諧号」@哈爾濱站

 飲み過ぎでぼ〜としながらも、朝のボルシチに舌鼓を打つ。8時58分哈爾濱発の「動車」で葫蘆島北駅まで5時間半近い移動。あのような事故が起こっているにも関わらず車内はほぼ満席。哈爾濱―葫蘆島北で221元、大連―哈爾濱の南方航空が880元だとすれば、時間よりも値段をとる人民が多いこともうなずける。もちろん、安全であれば何もいうことはない。


伊藤博文暗殺現場@哈爾濱站

 哈爾濱駅といえば、伊藤博文暗殺である。しかし、駅構内には特段石碑や説明板があるわけでもなく、安重根が狙撃した位置と伊藤が撃たれた位置に△と□の大理石がはめ込んであるだけだった。韓国政府は民族の英雄を大々的に称えるため、いろいろと作りたいようだが、中国政府はいろいろあってあまり乗り気でないようだ。言われなければそれとは全く気づかないだろう。


駅弁(?)@動車組

 5時間半の長旅だが、東北調査のブログ記事を書いていたらあっという間に葫蘆島北に到着。途中、売り子さんが昼食弁当の注文を取りに来たので、モノは試しにと「紅焼牛肉飯弁当」を頼む。

 写真を見ての通り、おかずは何てことはない紅焼牛肉を中心に、煮玉子やら野菜の炊き合わせやら、ガンモの煮込みやらが入っている普通の弁当。日本の駅弁のように「楽しむ」とった要素はまだないようだ。大多数の乗客がカップラーメンをすすっていた。いずれ中国に「駅弁文化」が花開く日が来るのだろうか(各地の名物があるにはあるが...)。


葫蘆島北站

 「何事」もなく、無事に葫蘆島北駅に到着。新幹線の駅は瀋陽北や葫蘆島北など方角がつけられている駅が多いような気がする。まぁ「新横浜」みたいなものか。市街地からかなり離れたところにあるため(錦州との兼ね合いがあるのか)、なかなか微妙な「遠さ」である。安全かどうかはともかく、やはり速いは速い。


茨山@葫蘆島

 葫蘆島での任務は、(1)旧引揚記念碑、(2)新引揚記念碑、(3)茨山(収容所死亡者の埋葬地)、(4)収容所病院の4か所を視察することである。

 加藤隊長が事前に詳細な位置を確認してくださっており、ネットから航空写真まで用意しての視察であったが、どうも中国のタクシー運転手は地図で場所を探す習慣があまりないらしい。とにかく電話をかけまくって、仲間同士で情報交換。(1)〜(3)までは思いのほかスムーズにまわれたが、最後の収容所病院だけは、3〜4か所トライして漸く辿り着くことが出来た。

 茨山(ちさん)は葫蘆島駅と葫蘆島港のちょうど中間地点にある小高い山。引揚を目前にして葫蘆島の収容所などで亡くなった日本人がまとめて葬られたという。NHKスペシャルで中島さんが登っていた小高い丘はここだろうか。今は現地の人々の墳墓となっているが、それらしき雰囲気は何となく残っている。


新・引揚紀念碑@葫蘆島

 次は引揚記念碑。葫蘆島には二つの引揚記念碑があり、こちらは2006年に建立された新しいもの。張学良築港紀念碑のちょうど向かい側にド〜ンと横たわっている。周辺には満洲国時代の巨大なコンクリート製石油タンクが立ち並び、なかなかマニアックなポイントである。


昔の石油タンク@葫蘆島

 新記念碑の確認を終えると次は収容所病院探し。ネットで隊長がみつけた写真にある「煙突」を目印にいろいろとドライバーが情報収集してくれたのだが、なかなかみつからない。日も暮れてきたので、とりあえず場所が分かっている旧記念碑のほうへ向かう。


旧・引揚記念碑@葫蘆島

 こちらはNHKスペシャルの引揚モノでも使われた、いわゆる「引揚記念碑」。葫蘆島港の裏手にある山をぐるっとまわった何の建物もないさびしいところにポツンと立っている。とはいえ、記念碑の周辺はきちんと石タイルで整備されており(つい最近工事したばかりのよう)、公園建設予定が頓挫している新記念碑に比べれば、まだ「記念碑」といった感じ。引揚研究の「聖地」に立つ。


収容所病院跡@葫蘆島

 二つの記念碑にたどり着くことができ満足感に浸るなか、最後の収容所病院を探す。ようやく運転手も航空地図の有用性に気づいたのか、じっと見つめた後、「好了」と一言つぶやき、あっという間に到着することができた。やればできるじゃん。

 建物自体はそのまま残っていたが、その内部はほとんど廃墟と化していた。


収容所病院内部

 病院跡手前の広場にはいくつか産廃業者さんがあったので、そこのお兄ちゃんたちにいろいろ話を聞きつつ、相手の警戒を解いて、内部を見学させてもらった。1階の入り口横に空調の修理屋さんが事務所を構えていたが、ちょっと生活するには厳しい状況の建物。日本で近所にあったらまちがいなく「お化け屋敷」といわれるに違いない。


引揚者収容所跡(?)

 収容所病院跡のすぐ西側、引揚者収容所跡があった場所には戦前に建築されたとおぼしきレンガ造りの建物が並んでいた。同じ形のものが十数棟あったので、戦前の官舎か何かだろうか。こちらでは地元の人が普通に生活しており、敗戦・引揚から65年余り経過した今も当時のままの雰囲気が残っているのではないかと思わせる風景であった。

 葫蘆島での任務もこれにて完了。一昨月の舞鶴視察に続き、今回は方正・五家站鎮蓮花村から哈爾濱、無蓋車両ではなかったが、とにかく葫蘆島まで列車で南下し、引揚者収容所や茨山をまわり、さらに葫蘆島港に降り立つことができた。

 「追体験」と言うつもりは毛頭ないが、とにかく自分で引揚径路をたどってみることで、66年前の満洲国崩壊、さらには帝国崩壊という歴史的事件について、ほんの少しばかり接近ことができたのではないかと思う。

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□2011年8月13日(土) 中国東北日記 その3


蓮花村@扶余県五家站鎮

 朝、再びボルシチを頂き、エネルギーを充填したところで、熊本のある開拓団が最期を迎えた扶余県五家站鎮蓮花村へ。京哈高速道路で2時間、扶余県インターでおりて、さらに一般道を40〜50分。広大なトウモロコシ畑と水田が広がるなか、思ったよりもあっさりと現地に到着することができた。やはりチャーターした車での移動は、気楽である。


蓮花村@扶余県五家站鎮

 蓮花村での任務は、(1)蓮花村視察、(2)蓮花村小学校の現況調査、(3)墓地公園の現況調査。続く五家站での任務は、(1)日中友好会館の現況調査、(2)永久平和の塔の現況調査である。


蓮花村小学校と紹介された建物 その1

 村に入り、談笑していた第一村人たちに声をかけると、5歳ぐらいの男の子にいきなり「小日本」とご挨拶をもらう。蓮花村は「中日友好」を売りにしている350世帯1500名ほどの小さな村だが、これが本当のところだろう。その母親たちにいろいろと聞くと、「小学校はもうない」との返事。


蓮花村小学校と紹介された建物 その2

 建物自体は綺麗に残っているのだが(屋内に観葉植物などが飾ってあるので、いまは村の会合場所としてでも使っているのだろうか)、学校として運営されたのはわずかな期間だったようだ。


墓地公園に隣接する蓮花村の墓地

 村の古老などにインタビューするも、開拓団本部の跡地などは「もうわからない」とのこと。しかたなく、村人に聞いた墓地公園へと行ってみる。村人の亡骸が葬られている土盛り多数。

 ここに自決を余儀なくされた開拓団の人々の多数の亡骸が眠っていることは確かなのだが、その具体的な場所は残念ながら特定できない。日本から持参した線香をあげ、冥福を祈る。8月13日は開拓団の人々がソ連参戦の情報を知った日にあたる。


若杉茂る墓地公園

 昨日に続き「日中友好」とは何なのかという問題について考えさせられる。せっかく作った墓地公園だが、写真の通り、残念ながらほとんど管理されておらず、若杉が一面に茂り、公園のなかに入るのも困難な状況であった。


「感謝 信頼」の石碑@墓地公園

 自決した開拓団の人々の亡骸を葬った蓮花村の人々に対する「感謝」と「信頼」。もとより私自身、研究のテーマが日中関係における「理念」と「戦略」であるだけに、内心でわかっているつもりだが、こうした小さな「中日友好」の結末を見てしまうと、複雑な気持ちになる。もとより「作るのは好きだけど、管理はあまり考えない」というのが一般的な中国人像ではあるが、それにしても...。


旧中日友好会館@五家站

 さらに話しは続く。蓮花村を後にして五家站にて昼食。運転手さんにも協力してもらって中日友好会館と「永久平和の塔」を探し出してもらう。案内された先は五家站鎮の公安局。またここで詳細を聞くのかと思いきや、いやいやこの公安の建物が「旧」日中友好会館とのことである。

 「石碑は?」との質問に「もうない」との返事。公安のスタッフに確認したので情報的には間違いないだろう。友好のために日本人が建てた建物がそのまま政府関係機関に流用されるというのは、いつの時代も同じなのだろうか。


哈爾濱ビールのビアガーデン@中央大街

 どっと疲れて哈爾濱に戻る。帰途はいわゆる「爆睡」状態であった。夜はちょうど哈爾濱に来ている学園大の教え子たちと合流。引率シフトの関係でちょうど学生たちも熊本恋しさがマックスになっていたようだ。奇跡的にうまくスケジュールが合って、顔を見せることができて本当に良かった。畢老師も相変わらず元気そう。


夕食前に我慢できず1杯

 夕食は「高麗園」でバイキング。今年も久留米大学の学生さんたちと一緒で、合計23名の哈爾濱旅行とのこと。ただ、大きな問題ではないが、やはり教員が睨みをきかせていないとルーズになってしまう点が数多く発生してしまうのはお国柄から避けられないようだ。この点は来年度に向けていろいろと議論する必要があろう。学生たちの「生の声」は非常に参考になる。


ダブル「K」くん「羊肉串」を喰らう

 キンキンに冷えた哈爾濱ビールの「生」を次から次に流し込み、左右に並ぶ屋台から自分の好きなおつまみを買ってきて盛り上がる。まさに最高の時間。普段はなかなか話せないような話も、海外で、屋外のビアガーデンで、うまい生ビールがあってとくれば、どんどん盛り上がってしまう。

 10数人分の二次会なんて、日本で全部おごったら大変な金額になってしまうが、中国であれば全然大丈夫。学生たちは隣りの席で呑んでいた中国人やロシア人たちとも交流し始め、一緒に蚕の唐揚げを食べたり、なんでも好奇心旺盛に楽しんでいた。体調が全快したこともあり、若気の至りでまた飲み過ぎる。

 「中日友好」を改めて考えさせられる哈爾濱ミッション。明日は「動車」で葫蘆島に向かうことになる。

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□2011年8月12日(金) 中国東北日記 その2


ボルシチ@貴賓楼酒店

 貴賓楼酒店の朝食。部屋数が28という割には、かなり豪華なビュッフェ。メニューも本当に豊富で、朝がっつりと食べる私も大満足である。さっぱりとしていながらもコクのある「ボルシチ」を堪能。哈爾濱訪問を実感するひとときとなった。


方正へ@哈爾濱東站前バスターミナル

 今日の予定は高速バスを使っての日帰り「方正」訪問。目的は「中日友好園林」の日本人公募の視察である。とはいえ、8月上旬という最悪のタイミングで開拓団慰霊碑問題が発生し、現地のタクシー運転手が友好園林に行こうとすると乗車拒否をしているという情報もあったが、計画通り訪問することとした。


方正客運站

 8時30分のバスに乗る予定だったが、あっけなく「満席」といわれ、9時20分の次便となる。さらに高速の手前で大渋滞があり、結局方正のバスターミナルについたのは12時半すぎになってしまった。小さなマイクロバスで、後ろでは赤ん坊が泣き続けるわ、隣の席のおねぇちゃんは1分おきにでかいメールの着信音を響かせるわで、なかなかストレスフルな道中だった。

 方正到着後、すぐに帰りの哈爾濱行きを押さえようとしたのだが、売り場の服務員から帰ってきたのは「売完了。没有。」との冷たい言葉。哈爾濱のターミナルで「帰りのチケットは現地ですぐに買えばよい」といわれた時点で「無理かも」と思っていたが、悪い予感が的中するとは。

 とりあえず、哈爾濱行きの鉄道が通っている「尚志」行き15時発のバスの席を確保し、「後でまた考えよう」ということで、友好園林に向かう。さて、タクシー運転手との交渉だ。


中日友好園林@方正

 若干、割高ではあったが、心配していた乗車拒否もなく、すんなりと友好園林に到着。方正のバスターミナルから15分前後といったところか。もっとも、無事到着したのは良いが、入口の鉄柵は頑丈な鍵がかかっており、どうやても入れそうにない。


閉園公告@中日友好園林

 やはり事件の影響か、8月6日付で「保護工作」のため即日閉園措置をとったとの貼り紙。管理人にいろいろと説明し、説得を試みたが、「上級からの指示」ということで、結局「門前払い」となってしまった。

 「お婆ちゃんが公墓に眠っているからせめて線香でも」と泣き落としを試み、管理人も一瞬同情の表情を浮かべたが、結局は「外僑委員会の許可をとってくれ」ということに。とりあえず柵の外から日本人公墓の石碑などを確認し、園林をあとにする。


日本人公墓@方正

 ただ、本当の大変なのはここからだった。帰りの哈爾濱行きのバスがないので、とにかく宿に戻るべく知恵を絞ることに。まず、すで確保していた3時発の「尚志」行きを少し早い1時40分のに変更してもらい、とにかく駅まで行ってみることにした。田舎のバスは乗り合いタクシーみたいなものなので、街中をぐるぐるまわって乗客が満席になってからようやく目的地に向けて出発といった具合になる。

 途中の休憩時間も含め、なんだかんだで3時間強の長旅に。とりあえず「尚志」駅に着いたが、さて哈爾濱行きの汽車はあるか...。神は我らを見捨てなかった。17時16分に哈爾濱行きがあり、「無座」だが一団5名分のチケットを手に入れることができた。哈爾濱到着は19時30分。思いがけず、鉄道の旅をすることとなったが、夜7時半に予定していた夕食の待ち合わせにもぎりぎりで間に合い、なんとか方正視察を無事終えることができた。


羊のモモのカチ割@正陽楼

 夜は哈爾濱の老舗料理屋「正陽楼」で。男性が6名ということもあり、服務員が「絶対に食べきれないわよ」といった大量の料理を「吃光」する。一日の疲れを振り払うかのようにテーブルの東北菜を貪り食べる。北京や上海に比べて、哈爾濱の店は「きちんと冷やしているビール」の絶対量が少ないような印象がある。やはり土地柄だろうか。

 明日の「五家站」行きに備え、早めに就寝。持ってきた仕事は全く進まない。

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□2011年8月11日(木) 中国東北日記 その1


2階廊下@哈爾濱龍門貴賓楼酒店

 朝、いつもの9時56分の高速バスで福岡空港へ。マンネリズムの極致だが、国際線ターミナルの「風月」で「カツとじ定食」を食べて機上の人となる。なんてことはない普通の「カツとじ」だが、なぜか福岡からの海外出張はほぼこれが定番となっている。

 大連行きは、朝イチで北京から来る便の折り返しなので、案の定、機材遅れとなる。それでも夕方5時前には大連に到着。空港内で成田出発組と合流して、哈爾濱行きの国内線に乗り換える。10時少し前に哈爾濱到着、40分ほどタクシーに乗り、哈爾濱駅前の「貴賓楼酒店」にチェックイン。


地球儀@貴賓楼酒店

 20世紀初頭にロシア人によって建てられ、その後、満鉄の「大和ホテル」として使われていた建物は、まさに歴史的建造物。2008年に内装をリニューアルしたとのことだが、重厚な雰囲気はそのままに、ネット環境も良く(「免費」なので上海の5つ星より良かった)、値段も手ごろ。ただ、部屋の掃除が少しばかり雑なのが気になった。

 明日の方正行きに備え、とりあえず就寝。

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□2011年8月10日(水) 抗生物質

 差し込みもおさまったが、明日から中国東北視察調査なので、学生たちと約束していた鶴屋屋上ビアガーデンでの暑気払いを断腸の思いで断念(自制)する。昼間は大事をとって病院にも行き、万が一を考えて、抗生物質ももらっておいた。これでひとまず安心だろう。

 昨日、今日と束の間の一時帰国だが、たまっている仕事を片っ端からなで斬りにして片づけた。

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□2011年8月8日(月) 上海日記 その5

 ほぼ同時刻の便に乗る先生がいたので、2人でタクシーで浦東空港へ。地下鉄代とリニアと乗り換えの労力を考えれば、これぐらいよかろう。1時間足らずで空港到着。上海―福岡間はパイロットが全力で飛ばしてくれると1時間5分ぐらいで着くのでありがたい。11時55分の飛行機で2時ぐらいには着いてしまう。

 ちょうど空港を出たのと同時に滑り込んできた「ひのくに号」に飛び乗り、5時前には自宅到着。時差の分はあるが、それでも極めてストレスにならない移動時間である。

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□2011年8月7日(日) 上海日記 その4

 引き続き終日、差し込む腹痛に耐えながらホテルの会議室にてインタビュー。終了後は再びベットのうえでのたうちまわる。

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□2011年8月6日(土) 上海日記 その3

 終日、ホテルの会議室にてインタビュー。詳細を書きたいが、企業秘密なので我慢する。またいずれ共著にでもなった時に...。

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□2011年8月5日(金) 上海日記 その2


夏の外灘

 終日、上海市档案館にて史料調査。年末の調査で追い切れなかった分を確認する。心静かに档案に向き合っている時間が、やはりエキサイティングである。

 夜中、なぜか2〜3分おきに腸が絞られるような激痛に襲われる。ほとんど睡眠がとれずに朝を迎える。

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□2011年8月4日(木) 上海日記 その1

 インタビュー調査のため上海に出張。今月は、まず上海、次いで哈爾濱・方正・五家站・葫蘆島、そして韓国と海外出張が続く。こう言う時、自宅から歩いて2〜3分のところに福岡空港行きの高速バスの停留所があるのは嬉しい。行きも楽、帰りも楽である。

 機材の到着遅れで出発が遅れるも、夕方5時前には浦東空港に到着。だが、失敗したのは50元をケチって、地下鉄移動にしたこと。龍陽路まででもほぼ1時間近くかかった。リニアなら8分なのに...。げっそり疲れる。

 宿は値段が手ごろで、会議室も手配しやすい「新錦江」とする。先発隊と合流し、街にある「小南国」で夕食。移動日なので早めに休む。

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□2011年8月2日(火) 採点結果

 東洋史概論T・中国近代史の採点。4日から上海出張なので、とにかく片づけなければ。もっとも、講義で細かく解説した部分なので、採点は楽である。「定義」+「基礎事項」+「歴史的意義・学術的評価」がきちんと書けていて満点となる。どれか欠ければ、それぞれ「−10」という計算である。

 満点は約300名のうち2名。解答を見れば、聞いていたかどうか一目瞭然。ただ、とにかく出席していた学生たちにはできるだけ応えたいというのがやはり人情か。春学期なので少し甘めに採点。受験者のうち単位を出したのは8割弱(ただし、欠席者と出席不良者は母数にすら入れていない)。少し甘すぎたか。

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□2011年8月1日(月) 中国近代史の定期試験

 Yahoo知恵袋の書き込み...。

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