大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


熊 本 日 記
(2011年3月)

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□2011年3月31日(木) 沖縄日記 その3

 沖縄南部戦跡めぐり最終日は、那覇近くの南風原(はえばる)を中心に活動。1944年10月以降、南風原国民学校には日本陸軍第32軍の沖縄陸軍病院が置かれ、沖縄戦の激化に伴い、近くの黄金森に掘った地下壕を利用するようになったという。有名な「ひめゆり学徒隊」が挺身したのもこの地下壕病院であった。なお、この陸軍病院の部隊が編成されたのは熊本である。


沖縄バスターミナル

 今回は常設展示がある南風原文化センターだけでなく、「戦争遺跡文化財」に指定されている「第20号壕」を見学するため、事前にメールで予約をしておいた(事前予約がないと見学できない場合あり)。センターの常設展示と地下壕を見学するため、沖縄バスターミナルから朝早いバス(40番・大里行き)に乗り、南風原町役場のひとつ先の 「福祉センター」で下車する。


壕内の模型@南風原文化センター

 まずは文化センター。町の文化センターとは思えないほど充実した展示。地下壕病院を再現した展示は、壕内の木製ベットのレプリカに横になったりできるなど、なかなか凝っている。37歳のおっさんだが、誰も見ていないのをいいことに寝そべってみた。満足な治療も受けられず、満身創痍で「異臭漂う」薄暗い壕のなかで、青酸カリ入りのミルクを渡された時の想いはいかほどのものだったか。そういう想いを抱かせただけでこの展示は意味がある。


南風原陸軍病院壕跡之碑

 南風原文化センターの展示を見終え、そのまま「飯上げの道」を通って「黄金森」を越えて第20号壕入口へ。予約時間の10時ちょうどに到着。壕の入り口では常駐の「平和ガイド」の大城さんが出迎えてくれた。南風原文化センターの前館長さんも大城さん、南風原町役場の仮バス停の前にある南風原小学校のフェンスにかけてある「標語」の作者も小学6年生の大城さん。やはり大城姓が多いようだ。


沖縄陸軍病院第20号壕入口

 見学時以外は鍵がかけられた第20号壕。詳細を伝える筆力はないが、とにかくこの壕を戦跡文化財に指定し、整備・保存を続ける南風原の町のみなさん、これを支える町民、ボランティアの方々の想いに脱帽。「平和ガイド」の大城さんから、子供の頃、みんなが遊んだ「黄金森」や壕の話、あるいはアメリカ統治下における「沖縄戦」教育の話、平和祈念資料館の話など、そこに住む人たちの「想い」を直接に「感じる」ことができる「ガイド」をしていただく。


米軍の火炎放射により焼け焦げた壕の内部

 壕内はアメリカ軍の火炎放射攻撃で天井が黒く焼け焦げたままとなっている。地盤がもろいのか、いたるところに落盤の跡があり、隣接する第19号と第21壕への入り口はいずれもかなり崩落がひどい。とはいえ、第20号壕は安全には充分な配慮がなされており、定期点検にも心が配られているため、安心して見学することができる。この圧迫感と何とも言えない息苦しさは、実際に入ってみなければわからないだろう。このなかで「ひめゆり学徒隊」は奮闘したのである。


慰霊祈和之塔@南風原

 見学後、黄金森のふともで大城さんの子供の頃の話をうかがいながら、なんとも言えない気分になる。「平和教育」の状況などもいろいろ聞くことができ、まさに「戦争の記憶」と「教育」をめぐる「現場」の試行錯誤に触れることができた。黄金森の周囲を散策すると、最後に陸軍病院の火葬場があったといわれる場所に建立されている「慰霊祈和之塔」にたどりつく。美しい空と静かな森が広がるなか、「沖縄戦」というものを改めて考えさせられる時間となった。

 再びバスでターミナルへ。ゆいモノレールに乗り換え、そのまま那覇空港へ。3月末日ということもあり、空港は「出発」する沖縄の若者たちとその見送りでごったがえしていた。「沖縄」を体感できた貴重な時間となった。きっと新たな年度の研究にも活きてくるだろう。

 加藤聖文先生の御教示に深謝。

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□2011年3月30日(水) 沖縄日記 その2

 初日は食べ物の話ばかりになってしまったが、調査本番の今日は晴天に恵まれ、沖縄の自然を堪能しつつの戦跡めぐり日和となる。公共機関の接続がなかなか難しいのだが、旧海軍司令部跡、ひめゆりの塔、平和祈念資料館など南部の戦跡、「戦争の記憶」関連施設を訪れる。


旧海軍司令部跡入口

 まずは8時半から開館している旧海軍司令部跡へ。ラバウルの山本バンカーが噴火で埋没(水没)してしまっており、ほとんど内部を見ることができなかったので、「地下壕司令部」の雰囲気を味わうことができた。この息の詰まるような空間で数千人が息を潜めつつ、米軍との決戦に臨み、そして果てたとは。


手榴弾炸裂痕が残る幕僚室

 幕僚室の壁に残る、飛び散った手榴弾が食い込んだ痕は、その最期の壮絶さを今に伝える。また、大田実中将ら現地軍首脳が自決した指令室、さらには地下壕からの最期の出撃に使われた出口など、1945年6月に思いを馳せるに十二分な空間であった。


ひめゆりの塔

 沖縄戦と言えば、やはり「ひめゆり学徒隊」。改めて書くまでもないが、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師と生徒で構成された看護のための女子学徒隊である。ちょうど記念館の改修工事にぶつかってしまったのは残念だったが、ぎっちりと手向けられた花束を前にしただけでも良いだろう。


沖縄県知事島田叡氏終焉之地

 続けて平和祈念資料館へ。展示はかなり力の入ったもの。「歴史」に関する部分はいずこの資料館もほぼ同じだが 、ここは「沖縄住民」に照準を合わせ、その被害をストレートに伝えている点が極めて特徴的である。展示室の資料映像、特に中部から南部に戦線が移行していく過程で住民が追いつめられていく部分の「語り」は大変な迫力であった。

 平和祈念公園内を散策していると、いわゆる「霊域」に沖縄県知事島田叡氏の終焉之地とい碑を見つける。島田県知事は沖縄で玉砕される以前、上海で松井松次氏と一緒に活動された時期があり、ふと終焉の地に私が立つに至ったのも、きっと松井氏の導きであったのだろうと思う。


刺身定食@奥武島海産物食堂

 帰路、本島南部の東岸にある「奥武島」を訪れる。少し遅い昼食。「奥武(おう) 島海産物食堂」というマニアックな食堂で「刺身定食」を食べる。名前もよくわからない沖縄特産の青いうろこの刺身などを食べる。すんごい美味しい。とにかく小さな島の小さな漁港の横にある「食堂」で食べるというシチュエーションが最高。

 とりあえず本日の訪問予定先を無事にすべてまわれたのでほっとする。夕方は那覇市内を散策しながら、対馬丸記念館や台湾出兵の原因となった沖縄漁民殺傷事件の「台湾遭害者之碑」などを見学。沖縄の夕陽に照らされながら、海沿いを散歩して気分転換とする。

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□2011年3月29日(火) 沖縄日記 その1

 昨年夏のパプアニューギニアでの戦跡めぐりの経験から「とにかくまずは現地に行ってみよう」というスタンスで「日本唯一の地上戦」があった沖縄へ。熊本からSNAの直行便があるので本当に楽である。フライトは1時間半ぐらい。

 午後の便のため、那覇市内到着は夕方に。明日の移動手段を確保した後、国際通りを散歩。仕事での出張なのでしかたないのだが、やはりいろいろと出張するたびに「家族で来たいなぁ」とつくづく思う。特に食事をする時は美味しさも半減である。


定番のゴーヤちゃんぷるー

 今回は観光ではないのでガイドブックなどもないため、とにかく「勘」で街を散策。ふと見ると怪しげなアーケード街があったので(多分、観光客は必ず訪れる場所なのだろう)、ふらふらと吸い込まれる。ひと通りまわると「公設市場入口」というちっぽけな看板がかかっていたので 、とりあえず入ってみる。いわゆる「市場」なのだが、2階に「市場食堂」があるようなのでとりあえず突撃する。


がんじゅうそば@がんじゅう堂

 きっとどこも美味しいのだろうが、なかなか決め難いので、とりあえずお客さんがあふれかえっていた「がんじゅう堂」というお店のカウンターに座る。どうやらここは「第一牧志公設市場」という名前らしい。当然ながら、オリオンビールの生とゴーヤちゃんぷるー、そして「てびち」「軟骨そーき」「三枚肉」がのった「がんじゅうそば」をオーダー。よく新宿の歌舞伎町手前の沖縄料理屋で「そーきそば」を食べたが、「沖縄そば」とはこんなに美味しかったかしら。


オリオン発泡酒三兄弟

 肉食系の私にとっては「神」ともいえるトリオ。とくに「てびち」は絶品。骨のまわりのお肉までしゃぶりつくしてご馳走さま。名店を追求し始めたらきりがないのは十分承知だが、とにかくまずは「沖縄」を満喫。帰りがけに「さーたあんだぎー」を3個、オリオンビールの発泡酒バージョンを3種買って夜食とする。

 帰宿後、明日の訪問先を再確認。じっくりまわろうと思う。

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□2011年3月28日(月) 最後のおつとめ

 教職員組合全体の定期大会。すでに大学分会の定期大会は無事終わっているが 、全体としてはこれが最後の大仕事となる。役員になった当初はどうなることかと思ったが、過ぎてしまえばあっという間。いろいろと貴重な経験をさせていただいた(基本的にはポジティヴ・シンキング)。

 一般企業のように外資の猛攻勢を受けるわけではないが(いや、将来、日本の大学が中国企業に買収されるということは充分ありうる!?)、大学という業界を取り巻く状況が刻々と厳しくなっていることもあり、新年度もいろいろと難しい局面が出てくるだろう。「補佐」になりそうなので、実際はしばらく「継続」と言った感じか。

 「若い人に厚く」というが、37歳は若いのだろうか...?

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□2011年3月27日(日) 初春の南阿蘇

 いろいろと慌ただしい日々が続き、お嫁様がお疲れ気味だったので家族で温泉宿へ。久し振りに南阿蘇の「竹の倉山荘」さんにお邪魔する。ここは各部屋に露天風呂がついているので、暴れる若様と大澤娘。がいてもお嫁様も安心して温泉を楽しむことができる。

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□2011年3月23日(水) 卒業式

 なんか随分とさっぱりした卒業式だった。やはり専門演習Uの非必修化が心理的な影響を与えているのだろうか。あるいは、2月末に前倒しで卒業懇親会を終えてしまったのもひとつ影響しているのだろうか。。

 大学教員と学生の「距離」について考えさせられる。当然ながら、卒論指導には「厳しさ」が必要な場面もあるので、やはり一定の単位上の縛りがなければ、どうしても「脱落」してしまう学生がでてしまう。履修登録者6名のうち完走者が2.5名というのはどう評価すべきか...。

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□2011年3月22日(火) 史料整理 その3

 やはり早朝から終日研究室にて史料整理。とりあえず「人道外交」分と「経済外交」分、そして「政治関係」分のすべての档案を整理し終え、档案目録の更新も終える。

 『政治史』に強く影響され、何とかして単著原稿を書き進めたいという強い欲求に駆られているここ数日。すでに遥か遠い昔となった「約束」がいまだ有効なのか定かでなないが、ようやく態勢と気持ちが整ったので、とりあえずわずかでも仕事を進める。

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□2011年3月21日(祝) 阿蘇

 義弟一家を連れて阿蘇へ。とはいえ、天候が「曇り時々雨」で最悪のうえ、野焼き直後なので阿蘇は「真っ黒」。これはこれで風情なのだが、結局のところ「とりあえず一周」と言った感じに。

 夜は「街」の某有名馬肉料理店へ。初来熊のお客さんは「とりあえず」連れていくのだが、ちょくちょく行くようになると「粗」も目につくようになってきた。「一見さん」なら「新鮮な驚き」で食べさせられるのだろうが、最近は「値段の割には...」「もっと旨い店いくらでも...」という感じに。

 疲れがたまっているのか、帰宅後、爆睡する。

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□2011年3月20日(日) 史料整理 その2

 引き続き早朝から終日研究室にて史料整理。大学前の「やよい軒」がなくなっているのに気づく。しかたなく隣りのパスタ屋の騒々しい音楽が流れるなかで昼食。音量・選曲ともに店員のセンスをおおいに疑う。。

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□2011年3月19日(土) 史料整理 その1

 早朝から終日研究室にて史料整理。労働組合もほぼ終わったので、新年度以降の「荒波」を想定しつつ、「研究モード」に入るための準備。2005年以来、こつこつと調査・収集してきた中国外交部档案数千枚をすべて管理番号順に再整理し、ひとつひとつ確認していく。よくもまぁ集めたものだ。

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□2011年3月18日(金) 疎開

 急遽義弟一家が熊本に疎開してくることに。乳幼児がいるとのことで止むを得ない決断と言えようか。震災の影響を実感する。

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□2011年3月17日(木) 卒園式

 若様の卒園式。朝早くから席取り。花道沿いのベスト・ポジションを確保。ドクター2年の時に生まれた息子が春には小学生に。子育てはまだまだこれからが本番なのに、すでに感極まってしまう。

 35歳を過ぎると老化現象なのだろうが、涙腺がゆるゆるになってきている。昨日、息子と映画館でドラえもんの「新・鉄人兵団」を見たのだが、最後のシーンは危うく大粒の涙を流してしまうところであった。友情と正義はずるい。

 それにしてもさすが熊本。100名ほど入るシネコンの一室だったが、観客は全部で6名。一番良い席で巨大なポップコーンを抱え、プライベートシアター気分で堪能させていただいた。それにしても人間は、結構大量のポップコーンが食べられるものだと感心した。

 午後は書評を執筆すべく、『政治史』を読み返す。

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□2011年3月15日(火) 初稿完成

 市民運動関係のメーリング・リストでは震災発生以来、物騒な情報ばかりが流れてくる。戦後処理や棄民問題などに取り組んできた運動家の視点からすれば、大企業や国家など、もとより信用できないのだろう。

 「おわりに」を書き、最後に文章の推敲を終え、夜11時過ぎ、編者や財団、出版社の関係各位に初稿を送る。まだまだ煮詰めなければならないが、とりあえず締め切りに間に合ったので良しとしよう。北京での「缶詰」が良かったようだ。

 夕方は団体交渉。

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□2011年3月14日(月) もうひと息

 午前、結論部分をまとめるため「長考」となる。合間に夕方の組合の定期大会準備を進める。

 夕方は分会長をしている組合大学分会の定期大会。一年間の報告が中心となる。とりあえず終わる。

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□2011年3月13日(日) 日曜なるも

 引き続きワンセグで伝えられる悲惨な震災の状況に視線を奪われつつ、終日研究室で「前史」本論部分の見直し。昼は保田窪のロイホでお食事会。残りは「おわりに」を書くだけである。

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□2011年3月12日(土) 震災と仕事

 ワンセグで震災の状況をフォローしつつ、終日研究室で「前史」執筆。「文革」期の日中関係まで。本論の部分を書き終える。

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□2011年3月11(金) 東北関東大震災

 午前は臨時教授会。「異例中の異例」というのは嬉しい響き。

 午後、東北・関東方面で大地震が発生。母や弟の携帯とも連絡がつかず。

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□2011年3月10日(木) 北京日記 その8

 あっという間に早くも離京。帰国後に山積している種類の異なるさまざまな仕事に気が重くなる。とにかく週末に「前史」だけでも目鼻をつけたいのだが...。

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□2011年3月9日(水) 北京日記 その7

 終日外交部档案館。明後日から清華大学日本研究センターで東アジア共同体に関する国際シンポジウムがあるようで、前日入りした李ゼミの後輩王副教授と外交档案館で合流する。母校に戻り、副教授のみならず、日本研究所の副所長も務めているとのこと。大変な活躍である。


いつもの「毛氏紅焼肉」@吉祥鳥湘菜

 清華大学にいる私のゼミの卒業生も合流して、朝陽門にあるいつもの湖南料理の店に行く。やはりここの「毛氏紅焼肉」を食べないと北京に来た実感がわかない。院生時代の思い出話に花が咲く。お互いに職を得て安定したからこそ昔の苦労も笑いあえるといったところか。

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□2011年3月8日(火) 北京日記 その6

 終日外交部档案館へ。結構、日韓条約やヴェトナム戦争関係の档案が追加公開されている。佐藤内閣初期の中国の対日政策を考えるうえで重要な史料が多い。面白かったのは1964年5月の「南漢宸・佐藤栄作会談」の記録。『外事簡報』の形なので大まかな報告なのだが、「政経不可分」に関する佐藤発言は...。微妙である。

 帰宿後は引き続き「前史」を執筆。ようやく第4章第1節まで終わる。佐藤が「第二次吉田書簡に縛られるぅ...(泣)」と言ったところまで。残りは佐藤内閣後半、つまり文革の部分。この時期、日中間での激しい動きはないのだが(中国は激しく動いていたが)、この時期こそが日中国交正常化を考えるうえで極めて重要な時期である。次章の執筆を担当しているの「ライジング・スター」にどうやってバトンタッチするか...。

 再就職活動で苦労していた卒業生から「内定」獲得のメール。おめでとう。

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□2011年3月7日(月) 北京日記 その5

 終日外交部档案館へ。それ以外の時間はすべて「前史」執筆。昼間は「写経」、夜は「執筆」。いつもこのペースで仕事をしていれば、締め切り直前にこんなに慌てる必要はないのだろうに...。

 今日は父の4回忌。早いものである。

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□2011年3月6日(日) 北京日記 その4

 昨日に同じ。

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□2011年3月5日(土) 北京日記 その3

 終日書店めぐりと「前史」執筆。

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□2011年3月4日(金) 北京日記 その2


紅焼牛肉刀削麺@宝辰飯店地下のフードコート

 午前は外交部档案館へ。午後は中央文献出版社へ。

 とにかく物価の上昇がひどい。「燕京」の缶ビールなどもここ2〜3年で1.5倍ぐらいになったのではなかろうか。夕食もひとりできちんと食べようとすると70〜80元ぐらいかかる。フードコートの「套餐」などもじりじりと値上がりを続けている。ここ2年で「11元」→「13元」→「15元」となった。

 ニュースでは連日沿海部の労働力不足が報じられており、月給2000元程度ではもう誰も働いてくれないとのこと。いろいろと裏事情はあるのだが、大多数がアウディのA6など、日本人よりも良い車に乗っている。中国人にとっての黒塗り・全面スモークシールドのA6は、日本人のオジサマにとってのパールホワイトのクラウンといったところか。

 夜は宿で「前史」を書き進める。

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□2011年3月3日(木) 北京日記 その1

 いつも通り自宅近くのバス停から高速バスで福岡空港へ。狛江から大きなスーツケースを抱えて電車を乗り継いで「成田」や「羽田」に行くよりずっと楽である。昨年来中国行きが増えているのはきっとこのせいだろう。少し早めに到着したので、ひとり北京ダックで夕食とする。

 衝撃的な事件のニュースが入る。大学関係者なのでコメントは控える。

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□2011年3月2日(水) 教授会など

 午前中は出張準備。お昼は地元のFMラジオ局の製作担当者と顔合わせ。午後は教授会。夕方は就活中の卒業生が近況報告に来てくれた。

 明日らか出張なので「ひな祭り」を前倒しする。

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□2011年3月1日(火) 箱根日記 その2

 温泉合宿の醍醐味だが、朝風呂を堪能。温泉天国の「火の国」にある学園大にも温泉つきの「保養所」があればよいのに...。古き良き時代の名残りともいえるこの施設だが、時代の流れを受けてか、新年度からは運営方式が大きく変わるとのこと。


中大細麺@江川亭

 帰路、「箱根湯本からロマンスカーで」と思ったのだが、あいにく目の前でロマンスカーが出発。次まで30分も待てないので、各停で小田原、小田原から快速急行、そして新百合で再び各停に乗り換えて狛江へ。結局、「江川亭」なのだが、狛江時代にはほぼ週3で通っていたので、無性に食べたくなる時がある。

 念願果たして再び喜多見から区間準急で新宿へ。大江戸線で大門、そして東京モノレール。喜多見から羽田は思ったより近い。改めて旧宅のロケーションの良さを実感する。

 筆は進まず。

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