大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


熊 本 日 記
(2010年9月)

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□2010年9月29日(水) シート・カバー

 「ユア・ブランド」さんに注文していた愛車用のシート・カバーが届く。愛車はベーシック・グレードなので、いろいろといじり甲斐がある。随分と雰囲気が変わるものだ。専用の設計なので、後づけとは思えないフィット感。息子も気に入ったようだ。

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□2010年9月26日(日) 阿蘇視察@増田科研


開拓団慰霊碑@県北

 朝から「阿蘇・満蒙開拓団の村をたずねる旅」へ。秋学期の開講直後なのでばたばたしており、じゅうぶんな下調べができず、とにかく阿蘇をまわる予定だったのだが、思いもかけない大収穫となった。

 ひょんなことから通り道にある開拓団の慰霊碑を視察しようとする話になり、熊本の県北へ。昭和22年に慰霊碑は建立されたのだが、その後、昭和50年代に移転していたため、具体的な場所が特定できないまま現地に入ることとなった。

 とにかく慰霊碑のある集落まで行き、近くを軽トラで走っていた男性に「慰霊碑」の場所をたずねると、親切にも車を先導してくれ、無事目的地へ。かなり悲惨な最期を遂げた開拓団の慰霊碑の前で合掌。

 すると自転車に乗った女性が登場。「慰霊碑を見に来なすったと」と声をかけてくださった。どうもさきほど道を聞いた男性の奥様らしい。「この開拓団のことを本に書きなすった先生がおらします。会われます?」と誘ってくださった。

 女性のご自宅にお邪魔し、『赤き黄土』をまとめられた村上さんを待つ。途中、ちょうど昼時だったのでソーメンをごちそうに。そうめんつゆにラッキョウ酢をいれて食べるのが美味しいと勧められ、おそるおそる食べるとこれが絶品。梅や生姜よりもコクがあって美味しい。

 食事を終えると村上さん登場。同級生が開拓団として満州に渡り、悲劇の最後を遂げたことがこの問題に取り組み始めた動機とのこと。開拓団送出をめぐる村、市、県、そして国のかかわりを丹念に調べ上げた『赤き黄土』の出版経緯について詳しくうかがう。思いがけず、かなりディープなフィールドワークとなる。おそらく、増田先生と加藤聖文先生には「調査の神様」がついているのだろう。

 再調査を約束し、一行は阿蘇くまもと空港へ。時期的なものもあり慌ただしい週末となってしまったが、今後につながる収穫も得られ、実り多き一日となった。

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□2010年9月25日(土) 熊本会議@増田科研

 増田先生の科研関連で学園大で研究会を開催。パプアニューギニアの視察報告と佐賀大の永島先生による報告など。昼食をはさんでみっちり。

 研究会終了後は市内散策へ。科研のテーマに絡めて熊本市内にある護国神社を訪れる。勉強不足なのだが、来熊3年目にして初めての護国神社。併設されている資料館には、なんと30年近く前に熊本からパプアニューギニアを訪れた遺骨収集団の詳細な写真資料が。

 引き延ばされた大判の写真にはラバウルやウエワク、マダンなど、我が増田部隊が訪れたばかりの東ニューギニア戦線の激戦地の30年ほど前の姿が映し出されていた。無造作に散乱する遺骨の数々を写した数多くの写真に一同釘づけとなる。

 夜は「菅乃屋」さんで馬料理を堪能。舌が肥えたせいか、来熊当初ほどの感動はなくなってきた。もちろん、観光やビジネスで熊本に来た場合、やはりお連れすべきはここなのだが、他のお店も本当によく頑張っていると思う。熊本はまさに「食都」である。

 二次会は上乃裏通りのおしゃれなバーへ。客層が「大人」のようなので、学生に会うこともないと思い安心してお酒を楽しみ、増田部隊恒例の「アイスクリーム」で熊本の夜を締めることとなった。だが、最後の最後にそこはやっぱり狭い熊本の「街」。

 お会計しようとすると、「大澤先生!」との声。「私、学園大です」「何学部?」「東アジです。昨日先生の中国概説受けました」...。私が学級担任をしているクラスの学生さん。これが熊本の良さでもあり、ちょっとばかり困ったところでもある。

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□2010年9月24日(金) 尖閣波高し

 午前は学部の専門科目「国際社会と日本」。午後は他学部向けの「東洋史概論」と学科の基礎科目である「中国概説」。いずれもいわゆる「マスプロ」講義なので、体力的にも3コマはかなりきつい。エネルギーを吸い取られるようだ。

 尖閣をめぐる日中対立がヒートアップしてきている。どうも短絡的な「領土主権絶対擁護」的思考が国民に蔓延しているようで、ある意味で中国側の思うつぼといった感じになってしまっている。レアアースの対日禁輸が正式に明らかになり、日本の資源安全保障の脆弱性も改めて露見する形となった。いつものことだが、日本人も拘束されたようだ。

 学生向けに歴史的経緯から、日中双方の見解の対立、さらに政府関係者や識者の見解を紹介する。いうまでもなく、今回の件は「外交問題とは何か」ということが焦点となる。ニュースなどから断片的な知識を「中国憎し」という記号として感情のなかに蓄積していくのは絶対に避けるべきである。

 少なくとも外国語学部や東洋史概論、そして特に東アジア学科の学生には「縦」と「横」の軸をしっかり押さえたうえで、的確な分析と判断が出来るようになってほしいと思う。展開が早いのでパワポを更新するのもなかなか骨が折れる...。

 夕方は労働組合の執行委員会。来週の団交を控え、対策を練る。先手を取られないようにしないと...。フットワークが軽い理事会というのもなんとも...。

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□2010年9月22日(水) レジュメづくり

 午前中は週末の研究会で報告するためにレジュメづくり。対日講和関係の档案を読み進めてきたのだが、なかなか落としどころが見つけられない。

 終戦以来の中国共産党の対日処理方針の変遷なども追ってみたのだが、断片的な言論ばかりで、「原則」はあるのだが、「不定形」な印象が強い。対日講和をめぐる国際情勢の展開なども整理しつつ、档案にある「対日和約討論会」をどう位置づけるべきか考える。

 論文の校正や授業準備などをしつつ、週末の研究会に関する諸々の手配をする。週末は天気もまずまずなようだ。明日の休日は車を洗わなければ...。

 それにしても、中国側も強硬である。長崎国旗事件後の交流断絶みたい...。ただ、「断而不絶」でなく、中国の地方から来る代表団が熊本県庁の表敬訪問もキャンセルしてきたとのこと。温家宝首相のニューヨークでの発言も勘案すると「通達」でも出たのかしら...。

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□2010年9月21日(火) 秋学期

 週末の東京出張を終え、いよいよ講義開始。残暑が厳しい。夏の海外出張の疲れがいまごろ出てきた。

 午前は卒論ゼミ。ほぼ全員出席。就活を続けている学生もいるので、どこまで作業を進めているか。来週以降、個別報告で明らかになる。例年のことではあるが、ちょっと心配。

 午後は今年度から担当する「現代中国と世界」。専門の外交なので、楽しみである。ガイダンスは尖閣問題について話す。歴史的経緯から日中双方の有識者の見解、さらには中国のネットにおける言論動向まで。

 最後は時事中国語講読。春学期よりも受講者が増え、まずまずといったところ。それにしても「尖閣問題陰謀論」には参った。アメリカ「軍産複合体」陰謀論(いまさら...)や「中共」陰謀論、さらには日本軍国主義者陰謀論まで。話としては面白いが、純粋なうちの学生さんは信じてしまうから...。

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□2010年9月10日(金) QPゲットだぜ!


ようやくコンプリート

 たいしたことではないが、挑み続けてきた「LLセット」ストラップのコンプリートを無事に達成。最後はお嫁様がお店のひとに「どうしてもクォーターパウンダーが出ないんですが」と頼み込んでのゲット。

 お店が空いていたからか、店員さんたちも3人がかりで「QP(クォーターパウンダーの略称らしい)は上にゴマがのっている」とか、「レタスがはみ出ているやつ」とか、あぁでもない、こうでもないと、袋の上からいくつも探り当てて、「これは多分大丈夫だと思います」といって選んでくれた。

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□2010年9月9日(木) 


高原、街、海、山@熊本

 朝から档案の読み込み。ようやく「対日和約」関係の档案を読み終える。何かあればと思ったが、途中で档案が加工され、肝心な部分が読めないようになっていた。若干期待外れ。もっとも、「尖閣」については、「台湾から近いが、その帰属は改めて検討...」みたいなことが書いてあり、やはりあまり強い関心は示していないようにも読める。

 現代中国学会と国際政治学会の大会プログラムが届く。どちらの学会も同世代の友人がどこぞの准教授などになっており、活躍著しい様子がうかがえる。また、研究会で一緒していた後輩たちも順調に研究が進んでいるようで、あちらこちらで学会報告をするようだ。

 なぜかしら取り残されているような感覚になり、どうしたものかと途方に暮れる日々なのだが、とにかく「謙虚たれ」と激励もいただく。なにひとつできていないのに...。あせらず、本道に立ち戻るのが一番なのかもしれない。なすべき仕事を淡々と仕上げよう。

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□2010年9月8日(水) ご心配を...

 夏が暑かったせいか、ビールの消費量が頗る増えて自己嫌悪ぎみ。動き回った8月の「疲れ」が出てきたのか、キンキンに冷やした研究室に行っても集中力に欠け、焦りは増すばかり。「パプアニューギニアでの節制」の反動で食べまくっているからか、「今週の食費は危機的状況」とお嫁様に釘を刺される。

 この時期、我が家でいちばんアクティヴなのは息子だろうか。幼稚園は通常どおりだし、幼稚園が終われば、毎日のようにスイミングに出かける。週2回は公文があるのだが、公文が終わった後もそのままスイミングになだれ込む日々が続いている。身体もこの夏休みでふた回りほど大きくなったか。それにしても送り迎えにつきあうお嫁様も大変である(少しは私も手伝うが)。

 夜、ゼミの卒業生から携帯に電話。「大澤先生、どうしたんですか」とのこと。どうやら9月1日のブログを読んだらしい。「守り」に入っているとか、「魂が水膨れ」とか、友人のブログから「語録」を引用したりとか、「大澤らしくない」ただならぬ雰囲気を感じ取ったらしい。

 ブログ(風ホームページ)で対外発信している情報は、かなり「外交」的な意味も込められているのだが、「自分ではそれほど○○でなくても」、気にかけてくれる人には逆に心配をかけてしまうこともあるようだ。反省...。

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□2010年9月6日(月) 少しだけ研究...

 終日研究室にて档案読み込み。建国初期中国の対日戦後処理構想の原点を整理するため、1950年5月に開かれた対日和約討論会に関する史料を翻訳しつつ読み進める。発言稿であり、なおかつ印刷不鮮明な部分が多く、なかなか進まない。

 1950年5月といえば新中国成立から半年余り。朝鮮戦争勃発直前で、世界的にも「全面講和」と「単独講和」のはざまでさまざまな駆け引きが行われていた時期。朝鮮戦争を機に「対日講和」をめぐる形勢は一挙に「単独講和」へ傾いていくのだが、この時期の中国の外交担当者や日本問題専門家の対日認識の一端を明らかにしておくことは、それなりの意味があろう。

 「賠償」問題について少しでもヒントがあればよいのだが...。

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□2010年9月1日(水) 心機一転。

 ふたつの大きなイベントが終わり、いよいよ夏休みも後半戦へ。パプアニューギニア行を通じて、いろいろと考えさせられることが多かった。「日常」と「非日常」、「仕事」、そして「生きていること」の意味など。もやもやした気持ちでネットをうろついていると、友人のブログにある言葉。

 ストレスを感じない程度の勉強や仕事では、人生は何も切り開けないものです。そして、努力を続けていったときに、パッと目の前の視野が開けて、自分のやりたかったことに少し近づくことができます。その喜びは、まさに生きている楽しさそのものになるのではないでしょうか。

 真っ暗な闇が君を包み込んだとしても、一筋の光明を探してもがいて欲しい。  そして、激流から逃れないで欲しい。
 新入生や進学予定者に向けたメッセージとのこと。確かに私も着任するまではもがき続けていたような気がする。少しばかり「激流」にも飛び込んだ。だが、最近「守り」にはいり、どうも「魂が水ぶくれ」していると感じていた私にとって、この言葉はかなりこたえた。

 もちろん、さまざまな環境や「身軽さ」などいろいろと考えるべき点はあるが、それでも「強いストレス」を感じるほど仕事に向きあえているか、というと正直なところ自信がない。

 慶応の中国研究拠点の先生へ「初稿」を送信。論題は「『闘争支援』と『経済外交』の協奏」。なぜ中国側がLT貿易に踏み切ったのかという問題に関する試論。続けて、この先1カ月間、3回分の東京出張の書類作成。同時に10月末から11月にかけての資料調査の手配も進める。「対日和約」関連の档案の読み込みも進める。

 まぁ、9月には熊本での研究会議のホストあり、10月には学会でのコメンテイターあり、週8コマの講義あり、これらと並行して事典の編纂や『日中関係40年史』の「前史」も書きつつ、労働組合をやり、単著の原稿も書き進めているのだから(これがいつもあとまわしになってしまう)、「ストレス」を感じ始めたらきりがないのだが...

 ポス・ドク時代のストレスに比べれば屁でもないか...。  

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