大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


熊 本 日 記
(2010年8月)

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□2010年8月28日(火) パプアニューギニア日記 その8


PX911@マダン空港

 早くも帰国日。少し遅めの便でゆっくり朝食がとれたのはよいが、マダンからポート・モレスビーまで国内線で移動した後、国際線への乗り継ぎ時間が1時間程度しかないので、どうなることかと心配していた。

 案の定、国内線は30分以上の延着。なんとかぎりぎり間に合うかと胸をなでおろし、到着したプロペラ機に乗り込む

 だが、問題はこれからだった。ポート・モレスビーにつくとアクシデント発生。ある先生の荷物が届いていないとのこと。我々が乗ってきたのが小さなプロペラ機、すなわち「ボンバルディア!」だったので、旅客の荷物をすべて積み込めず、次の便(明日の便?)で到着するとのこと。ぎりぎりまで待ったのだが、荷物は別便で日本に送られることとなった由。しかたなく、急ぎ国際線ターミナルへ移動。


前菜@ビジネスクラス


メイン@ビジネスクラス


 ここでひとつのラッキーが。荷物の件があったからか、あるいはニューギニア航空お得意の「空席転用」が功を奏したのか、最後、ぎりぎりに発券された我々のボーディング・パスはブルーのラインがはいった「ビジネスクラス」。現地担当のガイドも目をまるくする。6時間半が天国に変わった瞬間。ウェルカムドリンクから注文伺いあってのワインとテンダーロイン・ステーキなど、最後の最後まで堪能させてもらった。

 パプアニューギニア雑感。「ダンシン・オールナイッ」のあの人がものすごく気にいったように、確かに「微笑みの国」だった。すれ違う人は誰もが手を振ったり、声をかけてくれたりしてくれる。1週間もいると自然にこちらからも明るく挨拶できるようになる。あの無愛想な大澤がである。とにかく人懐っこい人々である。


アルタウホテルのプールサイド@ポート・モレスビー

 いくつか気になったこと。地域間の格差が著しいこと。今回は本島のポート・モレスビー、ウエワク、マダン、そして離島のラバウルとココポ、さらに「離島」のムッシュ島、カイリル島を訪れたが、首都のポート・モレスビーやマダンの人々の生活水準がある程度高いと思われるのに対して、ウエワクやラバウルの人々の生活はかなり「イメージしていた以上」のものであった(逆に「離島」は違った意味でパラダイス)。

 出生率8.6前後(ひとりのおかあさんから野球チームが生まれる)、義務教育がなく(と聞かされた)、第一次産業が中心で、なおかつ失業率が6割ともいわれる社会は、どうしても不安定にならざるを得ないだろう。彼らの人懐っこさや未だ根強い地域共同体や家族共同体のつながりがあるからこそ「ゆったりとした時間」が流れているのだろうが、飛ばし屋の「ビズ」によれば、「失業している若者が最も危険」とのことであった。これは発展段階の如何にかかわらず、いずこの社会も同じといえよう。


イン・ウエワク・ブティック・ホテルのプールサイド@ウエワク

  一時的に観光気分で行くには良いが、私が最後まで駄目だったのは「ゆったりとした時間」の流れ(貧乏性だから)。サンゴ礁の浜辺やプールサイドでくつろぐといった意味での「ゆったり」は良いのだが、注文から食事が供されるまでに1時間、追加でデザートを頼むとさらに1時間という「ゆっくりさ」はなんだかんだいってもご免こうむりたい。

 他の先生方と一緒だったので我慢したが、もしひとりだったらどうなっていたことか。10分経って出てこなければ服務員か厨房に文句を言いにいく「中国での習慣」が身についてしまっているので、これは苦しかった。でも、こうした時間の流れのなかであまりエキサイトして文句をいったりすると、逆に「変な人」と思われてしまうこと必至であろう。あまりにひどいので、最後の最後にちょっとウエイトレスのおばさんにチクリといっておいたが...。

 中国つながりでついでに述べれば、とにかく強く感じたのは「中国の影」。ガイド連の話を総合すると、経済面ではやはり中国や華僑の影響力が大きいようだ。カカオやココナツなどのプランテーションも中国資本が進出しており、そこで働く労働者も中国からごっそり連れてきているらしい。街の少し大きめのマーケットは「チャイニーズ・マーケット」らしく、なるほど「Liu's Shop」や「Xin Brother's Shop」など、一見してそれとわかる店が目につく。

 加えて、宿泊先のいずれもどこからとなく「中国」の香りがプンプンしていた。あるホテルは、マレー系かもしれないが、それらしきオーナーがPNGの人々をしっかり教育して「かっちり」としたホテル経営を行っていたし、他のホテルでも「この料理を作っているのは絶対中国人のシェフ」といったものが数多くあった。こればっかりはもう「感覚」でわかる。だが、総じて現地の人々の中国人、あるいはオーストラリア人に対する感情はあまりよくないようである。


南太平洋だったらこんなんもん...

 せっかくなので「食事」について。ついぞマクドナルドや我らが熊本の「味千ラーメン」などにであう機会などはもちろんなく、ホテル以外ではバナナなどの果物かミートパイなどの軽食を買うぐらいしかできない。必然的にホテルのレストランが食卓となる。日本人が宿泊できるホテルはいずれも「高級」の部類に入るのでレストランも「それなり」の値段となる。

 贅沢といえば贅沢だが、食費は自腹なので「配慮」なく書かせてもらえば、「今日のスープ」と「メイン」、そして「デザート」とビールを2本ぐらい飲んでだいたい100キナ(3600円)ぐらい。これは夕食。最後のほうは疲労が蓄積してきて、「値段より美味しいもの」という本能が働き、値段を見ずにオーダーする始末。

 昼なんかもハンバーガー(すごい凝ったやつだが)とポテトで25キナ(1000円)ぐらい。美味しかったから良いのだが、「私はセレブかも」と自分に言い聞かせなければ、ストレスになる金額(勿論ストレスになった)。おそらく高いのは、食事にかかるなが〜いなが〜い時間がスタッフの時間給として計算されているからだろう(本当は食材がほとんどオーストラリアから輸入されているため)。


ビール三役の揃い踏み

 最後に「大澤」といえばなにはともあれ「ビール」なので、ニューギニアのビール事情を。完全に網羅したわけではないが、PNGの国産ビールとしては「SP」(South PAcific)ビールがあり、それがいくつかバリエーション展開をしているよう。「SP」は「オリジナル」と「エクスポート」(輸出用)、そして「ゴールド」(プレミアムみたいなもの)の三種類が確認できた。いずれもホテルの売店などで7〜8キナ(250〜300円)だったので、町場ではもう少し安いのだろう。

 なかなか美味いビールである。基本的に5.5%前後と度数が高め。味的には青島ビールとハイネケンの中間ぐらいか。どちらかといえばドイツ系(ずっと昔、PNGはドイツが支配していた。直接には関係ないだろうが)。軽いけれども「ボディ」がある感じ。「Tiger」ビールにも近いかしら。

 帰りの機内でここまで書いていて、ふと思い出した。そういえば、子供のころ、日本と台湾を往復する時はビジネスクラスだったっけ。子供なので「飛行機の一番前の席だ〜」とか「今回は3番目だ〜」と言って喜んでいた記憶がフラッシュバックした(たぶんメルローの飲みすぎ)。

 最近、「ビジネスクラス」や「プレミアムクラス」に座っている子供に「ガキのくせに」と思うこともあるが、考えてみれば自分もそうだった。CAさんが懇切丁寧に応対してくれたり、飛行中の操縦席を見せてくれたうえに、操縦桿を握らせてくれたりしたっけ。高度1万メートルでいろいろと経験させてくれた亡き父に献杯。

 閑話休題。ビール話しの続きだが、一番気に行ったのは「SP」の輸出バージョン。その次が「SP」ではないが、「アイス・ニューギニー」というアイス・ビール。一見、黒ビール風のデザインだが、きりりと突き刺さる感じでうまい。「通」からすればきっと「もう一歩」といった感じなのだろうが、終日「行軍」して乾ききった身体にはなによりのご褒美である。

 無事帰還。なにより増田先生をはじめ、メンバーすべてに心より感謝。

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□2010年8月27日(金) パプアニューギニア日記 その7


早朝のウエワク空港

 視察最終日となる今日は朝6時の便でウエワクからマダンへ。ウエワクのホテルはどうもすべての時計が10分進んでいるらしく、モーニングコールを3時45分に頼んだにもかかわらず、3時35分に叩き起こされる。

 朝5時前に空港到着。周囲は真っ暗。「必要最低限」の設備と思われる空港(コンピュータはあるが)でチェックイン。荷物のセキュリティ・チェックなどひどくいい加減で、机の上に荷物を置いたら何も確認せずに「Checked」のシールを貼ってくれる。

 土砂降りのためか、飛行機は延着。6時40分に搭乗機が到着。すぐに乗り込み7時には離陸。ほとんど路線バスレベルの折り返し運転である。マダンへは30分ほどで到着。


マダン・ホテル・リゾート@マダン

 マダンは世界有数の観光地ということで、あらゆる面で設備が整っている。だが、ウエワクに「転戦」するまえに第18軍の司令部が置かれていたことから戦跡視察の対象も数多くある。

 リゾート地だけにすべてのモノが割高で、普通の設備のホテルにとまっても予算ぎりぎりで(ほぼ素泊まり状態)、夕食もけっして豪勢な内容でなくても4000円ぐらい軽くとられてしまう。

 観光地らしくお決まりの「タチの悪い日本人観光客」がちらほら目につく。スキューバダイビングやエコ・ツーリズムを目的にする観光客が多いよう。PNGへの旅は一般的な観光地に比べてかなり割高なので、もともと「観光客」の大部分が「横柄な金持ち」なのだろうが、見ていてあまり気持ちの良いものではない。

 台湾に住んでいたころ、 日本人観光客が大嫌いだったのを思い出した。


忠魂碑@ヤボブ村

 朝食後はさっそく視察へ。今日のガイドは岡村隆司似で、サングラスが似合う「ジェイソン」。まずはマダンの南方2〜3キロにある「ヤボブ村」へ。昭和44年に戦友会の遺骨収集団マダン班が建立したとされる「慰霊碑」を見学。遺骨火葬場とされる場所には「東部ニューギニア戦友会」による日本地図が描かれたモニュメントと「忠魂」という文字が刻まれたレリーフ。激戦のあと。


呑龍@アレクシスハーフェン

 途中から車に乗ってきた現地ガイド「島持ちのジョージ」の案内でアレクシスハーフェンの旧日本軍マダン飛行場跡へ。途中、水冷式(?)と思しきエンジンなどの残骸を横目に見ながら、500キロ爆弾などによるものと思われる爆撃跡の「池」などをこえ、飛行場跡へ。そこで車を降り、ジャングルに入ること数十メートル。すると、まるで映画のワンシーンのようにうっそうと茂るジャングルの中に百式重爆「呑龍」の残骸が我々を待ち受けていた。


呑龍@アレクシスハーフェン

 まさに圧巻。ラバウルなどで見てきたゼロ戦や九七重爆とは比べ物にならない迫力。まわりの森が雰囲気を盛り上げているのだろうが、まるで「天空の城 ラピュタ」にも出てきそう。まさに「東部ニューギニアの森で深い眠りにつく呑龍」と言った感じ。この感激は実際にここを訪れた人でなければわかるまい。


普通のマーケット@マダン

 中華風「蒸し鶏」の昼食を終え、午後は再び視察へ。当初は旅行会社の都合から近くの村を観光する予定が組まれていたのだが、ホテルのガイド連が融通をきかせてくれたのか、再び戦跡視察を絡めたマダン散策へ。「ジャパニーズ・ゴリラ」ことパワフルな「やよいさん」のガイドのもと、最初は混載車でPNGメイドのお土産を買うため地元のマーケットへ。

 特に何を買うわけでもないのだが、やはりマーケットはおもしろい。とにかく毒々しい青い色のココナッツパウダーをかけたパンなどは、南国ならではといった感じ。食べるには抵抗があるが、眺めている分には楽しめる。


青空マーケット@マダン

 「やよいさん」の強い勧めで青空マーケットへ。ホテルなどに比べて格段に安いお土産品があり、いろいろと買いこむ。これまでの海外経験からもよほどのことがなければお土産はホテルで買わないと決めていたので、最後に一気に買いこむ。貝殻のネックレスや現地のおかあちゃんお手製の色鮮やかな洋服など、いずれもお嫁様とお子様たちへ。


ロビンソンクルーソ―の撮影現場@バレク自然公園


いかにも熱帯といった感じの真っ赤な花@バレク自然公園

 マーケットを堪能した後は専用車でバレク自然公園へ。昔の映画「ロビンソンクルーソー」の撮影現場とのこと。パン屑をあげると寄ってくる大ウナギやスッポンもどきを見せられ、ビンロウ椰子の実を子供に投げおろしてもらうなど、とりあえず「観光的なこと」もしてみる。

 英語で意思疎通とはいっても十分なものではないので、午後のスケジュールも明確でないまま飛ばし屋の「ビズ」に案内されていたのだが、そこはさすがプロのガイド。こちらの旅の目的を十分に理解してくれたうえで、さらなる「戦跡」へ案内してれた。


プライベート・モニュメント@ホベ村

 「軽いトレッキング」と誘われ、マダン南郊のホベ村へ。昔の杉田敏さんラジオ「ビジネス英語」の「エコ・ツーリング」の回に出てきそうな、南の島のトレッキング。沢あり、崖あり、その先に何があるか知らされないまま、「増田弘探検隊」はPNGのジャングルを進む。

 たどりついたのはプライベート・モニュメント。どうもこのエリアの主人である「ジョエル」がおじいさんあたりから日本軍との交流の話を聞き、それに基づき近くにあった砲弾の残骸やライフルの弾などを拾ってきて5年ほどまでに自分で造ったとのこと。

 考えようによっては「観光客狙い」のお手製モニュメントなのだが、素朴な感じにあふれており、それはそれでいろいろな意味で「モニュメント」の意義はもっているのではないかと思った。近くにオーストラリア人観光客向けのモニュメントがあったのは愛嬌としておこう。


部隊の任務完了!@ホベ村

 ジョエルお手製のモニュメントを視察した後、ジョエルのファミリーとひとしきり歓談。夕日が沈もうとするなか、これにて今回の視察の任務は全て完了。ジョエル家の芳名帳に増田隊長以下、ぞれぞれ名前を記す。ニューギニア踏破とまではいかないが、飛行機を駆使して飛び回った1週間。疲労感と達成感が交錯する初めての感覚に陥る。


落日@マダン

 飛ばし屋「ビズ」の提案で「夕日の美しい丘」へ。部隊の任務完了のご褒美にちょうど良い。道路の突き上げをくらうと勝手にラジオが流れ出す韓国製の四駆(かなり新しい車なのだが)で一気に高台へ。マダン南郊のジャングルを見下ろす高台からまさに美しい夕日が。重い思いをしながら1週間相棒として使ってきた一眼レフで激写。朝方の雨の影響ですこしばかり雲があったが、それはそれ。赤道直下の焼けるような夕日は人生初体験。


私@マダン

 ホテルにて夕食。「今日獲れたもの」という料理をオーダー。地元のSPビール(エキスポート版)をあおりつつ、ほっとひと息。近くで騒ぎまくるスキューバ・ダイビング・マダムたちとオーダーした食事にほとんど手をつけられなくなっているにもかかわらず運ばれてくるてんこ盛りのデザートに恐れおののいている高齢慰霊団にはさまれ、今回の旅をふりかえりつつ、世界有数のリゾート地「マダン」の夜はふけていった。

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□2010年8月26日(木) パプアニューギニア日記 その6


いざ船出

 今日は大冒険に挑戦。現地でボートをチャーターし、ウエワクの対岸にある二つの離島「ムッシュ島」と「カイリル島」へと渡ることに。ガイドのボス(?)「アーウィン」氏のコーディネイトで離島の気さくなオジサン「ロベルト」の船で大海原へと漕ぎだすこととなった。チャーター費用はトータルで840キナ。相場より少し安め。


ムッシュ島

 40分ほどで最初の「ムッシュ島」へ到着。ここは終戦後、第18軍の将兵が入れられた収容所があったところ。引揚船もこの島から出た由。サンゴ礁の砂浜に船をつけ、収容所跡を目指してブッシュのなかをひたすら行軍。


遺骨収集跡地(?)

 現地の村人がブッシュを「なた」で切り開きつつ進んだ先には、収容所近くにあった墓の跡地といわれる場所が。何やらいくつも掘り返したような跡がある。ムッシュ島を訪れた遺骨収集団が作業した跡かもしれない。いずれにせよ、ムッシュ島やカイリル島などの「離島」ともなると、どこに何があったのかを特定するのは現地の人々でもすでに難しくなっているようだ。


「ロベルト」のプライベート・ビーチ@ユウオ島

 カイリル島に向かう途中、気さくなオジサン「ロベルト」の自宅に招かれた。二つの島のすぐ横に浮かぶ「ユウオ・アイランド」が彼の自宅。ゲストハウスもあり、ちょくちょく観光客を招いているようだ。彼の「プライベート・ビーチ」でしばしサンゴ礁の海を堪能させてもらった。一生忘れないであろう素晴らしい景色。


高射砲@カイリル島

 南の島を体感した後は「カイリル島」へ。この島には海軍の基地があったとのこと。もっとも、ここでは2門の高射砲のみを見学して船に飛び乗ることとなった。ゆっくりまわればもっと数多くの発見をすることができたのだろうが、治安的に若干問題があるようだったので早々に退散することとした。


手つかずの砂浜@ユウオ島

 再び高速ボートに乗ること40分。無事にウエワクの浜辺へ帰還。迎えに来た「アーウィン」氏に事前の交渉通りの金額を渡して「収容所島視察」は終了。当初は予定になかった視察だっただけに、慰霊碑など確認できなかったが、三つもの「離島」に上陸できたこと自体、なによりも達成感があった。

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□2010年8月25日(水) パプアニューギニア日記 その5


ブーツ飛行場跡

 ウエワク視察初日。今日はガイドの親分(?)「アーウィン」氏の息子さんの案内でウエワク周辺の戦跡を一気に視察することとなった。一応、「POLICE」と腕章をつけたお兄ちゃんも同行。まずは悪路を西に1時間半ほど飛ばしてブーツ飛行場跡地に。周辺で陸軍最大の飛行場であったとのこと。

 いまも戦闘機のエンジンが無造作に並んでいる光景は何とも形容しがたいが、現地の子供たちが作ってくれていた可愛らしいお花を並べたモニュメントが「慰霊とは何か」を教えてくれたような気がする。


慰霊碑@ボイキン

 視察予定地最西端のブーツから帰り道にある戦跡の視察。とにかく悪路。それにしてもランドクルーザーの悪路走破性能はさすが。とはいえ、道路事情を考えれば、日本ではランクルはいらないなとも思う。

 まずはボイキンの海岸べりにある慰霊碑。「日本軍将兵慰霊之碑」と「独立工兵第三十七聯隊戦没者慰霊之碑」のふたつが並ぶ。「日本軍将兵・・・」の碑の上には錆びて朽ちた日本軍のヘルメットが幾重にも重ねてあり、その碑の前にはアルマイト製の水筒がたくさんならべられてあった。遺骨収集団の人々が置いたのだろうか。


メモリアル・パーク@ウォム岬

 メモリアル・パークはこの地域の日本軍、つまり安達司令官率いる第18軍を降伏させたオーストラリアの戦勝記念公園。勝った側の公園だけあって、綺麗に草が刈られ管理されている。終戦当時に植えられた(?)椰子の木は10m以上の高さになり、時の流れを強く印象づける。公園の管理人らしきおじさんに管理維持費として20キナせびられ、しかたなく支払う。


平和公園

 こちらは逆に敗れた日本軍の慰霊のために建てられた「ニューギニア戦没者の碑」。やはり綺麗な草木が植えられ管理は行き届いているのだが、周囲が鉄条網で囲まれ、ものものしい収容所のような雰囲気。「管理の必要」からなのだろうが、かなりの違和感。ここにもラバウルの官邸山の中腹にあった「戦没日本人之碑」と同じ碑文の「慰霊碑」が建てられており、遺骨収集の面影が残されていた。


第20師団司令部跡@洋展台


いまにも敵を撃墜しそうな高射砲

 平和公園見学後は、第20師団の司令部が置かれていた「洋展台」こと「ミッションヒルズ」へ。ウエワク一帯はオーストラリア軍に追い詰められた日本軍が広いブッシュの森で玉砕覚悟の徹底抗戦を展開したところ。ここはその戦闘の指揮をした場所。中腹には多数の高射砲が当時のままに残されており、生々しい「戦跡」であった。


シンシンの準備@阿部岬

 最後は第41師団(阿部平輔中将)が司令部を置いていたボラム岬へ。現在、付近は州立病院になっており、碑も何もなく、当時の面影はほとんど残っていない。ドクターのお宅の裏の広場で現地の人々が民族舞踊「シンシン」の準備をしているのに遭遇。夜に空港で「歓迎の踊り」をやるとのこと。

 化粧をほどこし、色とりどりの羽をつけた踊り子(ほとんどがオジサンだったが)が「SP(South Pacific)」ビールでトランス状態になりつつ、陽気にカメラにポーズをとってくれた。とにかく楽しい人々である。

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□2010年8月24日(火) パプアニューギニア日記 その4


イン・ワエワク・ブティック・ホテル

 今日は移動日。ラバウルからラエを経てひとまずポートモレスビーへ。飛行機を乗り換え、マダン経由でワエワクへ向かう。一日に合計4回の離着陸はかなりハード。長春でも福岡から3回乗り換えだもの。腰痛が再発するのでは...。

 ワエワクの宿となる「イン・ワエワク・ブティック・ホテル」は新しくできたばかりで、想像以上に「リゾート」な感じ。戦跡視察には不釣り合いだが、ここしか泊まるところがないらしい。

 ただ、治安がそれほど悪そうには見えないのだが、ホテルの周囲は鉄条網、入口には制服を着た警備員が立ち、車両が出入りするたびに開錠して重い門扉の開け閉めをするという厳重なセキュリティーに驚く。「あのオーナーさん」の用心深さがそうさせるのかしら。安心は安心だが。

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□2010年8月23日(月) パプアニューギニア日記 その3


花吹山をのぞむ

 今日はラバウル方面の視察。朝からニューブリテン島の北端を目指す。もっとも、今日も引き続きガイドをしてくれると思っていた「キヨポン」は待てど暮らせども来ず。結局、運転手の「ヘンリー」の案内で戦跡めぐりをすることに。


日本軍の洞窟

 車を走らせると至るところに洞窟のような穴が空いている。いずれも日本軍が掘ったものとのこと。天井は低からず、高からず。5〜60メートルほど奥に進むと横穴があり、蟻の巣のようになっている。ひんやりとはしているが、ここにどれほどの日本軍兵士が潜んでいたのだろうか。


大発洞窟@ラバウル

 さらに海沿いを進むと、大型発動機艇が当時のまま保存されている「大発洞窟」へ。海から4〜500メートル離れた洞窟に5隻もの船が隠されていた。当時は海までレールが引いてあったとのこと。こちらもすでに朽ち果てつつあるが、存在感はなかなかのもの。ガイドによれば「船を出したり、入れたりする時には現地の人々も手伝わされた」とのこと。


臨時の土産屋@大発洞窟前

 なにより面白かったのは、我々が洞窟内の視察を終えて出ると、入り口に「臨時のお土産ショップ」が開店していたこと。現地の人々の商魂もなかなかである。ネックレスひとつで5キナ(約200円)。貴重な現金収入である。


測候所からのラバウル全景

 いよいよ戦跡視察の最初のクライマックス「ラバウル」へ。まずは測候所からラバウル全景をながめる。噴火で廃墟と化した街は、なかなか復興が難しい様子。ここからは火山灰に埋もれてしまった旧東飛行場が見渡せたとのこと。


サブマリンベース@北崎

 測候所の次は北崎の「サブマリン・ベース」へ。地元の人たちは潜水艦基地と呼んでいるが、どうも実際は魚雷発射基地だったらしい。地元の酋長は「この絶壁の下には海中から潜水艦が洞窟に浮上できるようになっている」など、何とも映画のような話を聞かせてくれたが、縦横無尽に掘られている洞窟を実際に探索するに、さらに地下に巨大施設があるのも想像できないわけではない。


足湯@ラバウル温泉

 噴火被害から逃れて何とか影響しているラバウルホテルで昼食をとり、旧東飛行場跡地へ。一帯は完全に厚い火山灰に埋まっており、とにかくだだっ広い灰色の荒野が続くばかり。噴火の名残で海に熱湯が注いでおり、ちょうど温度の良い場所でみんなで「足湯」につかって気分転換。


南太平洋戦没者の碑

 通称「山本バンカー」と呼ばれる第11航空艦隊指揮所跡に潜って真っ暗な内部を見学した後は官邸山途中にある「南太平洋戦没者の碑」へ。昭和30年に花吹山北麓の日本人墓地に建てられていた「戦没日本人之碑」が移されたものと昭和55年に建立された「南太平洋戦没者の碑」を見学。どうやらこのあたりは旧海軍病院の敷地だったらしく、少し離れたところに「陣没勇士之墓」なる碑も確認できた。


九七重爆@椰子林

 官邸山をくだって再びラバウル東飛行場跡へ。ここには「九七重爆」の残骸が残されていた。火山灰に埋もれてしまったのを再び掘り起こしたようだ。よくわからなかたのは、廃墟となった街の一角(旧日本人墓地あたりか)に「中國廣東民衆死亡紀念」という巨大な石碑があったこと。これが何を意味するものなのか。飛行場建設に動員された中国の人々の慰霊碑だろうか。


ラバウル全景@マルマルアン展望台

 続いてラバウルを一望できる「マルマルアン」展望台。近くには海軍防空指揮所跡が。ガイドの「ヘンリー」が露店で買ってくれたバナナを堪能。子供の頃に台湾の日本人学校では週1で全校生徒にバナナが配られたが、その味を思い出してしまった。


ローカル・マーケット@ココポ

 長い長い一日の最後はローカル・マーケット散策へ。現地の人々の生活を知るにはとにかくマーケットに行くのが良い。どのようなものがどのような値段で、そしてどのような状態で売られているのかを知ることが彼らの生活を知るための第一歩となる。

 オーストラリアなどからの日常品の輸入が全体の物価全体を押し上げているのだろうか。マーケットにならぶ野菜や果物なども決して安くはない。例えば大きめのマンゴーはひとつ5キナ(約200円)。「太陽のたまご」と比べるつもりはないが、フィリッピン・マンゴーの安いやつなら日本のスーパーでもこれぐらいで買えるだろう。


ラバウルの夕日

 多くの戦跡を訪れた後は宿泊先のホテルのすぐ下にあるビーチで水遊び。30分ほどだが、終日厳しい日差しのなかを汗だくになって視察し続けた身体をほぐすのには泳ぐのが一番。だって南の島だもの...。

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□2010年8月22日(日) パプアニューギニア日記 その2


スタンレー山脈@ポートモレスビー

 早朝、ポートモレスビー空港到着。入国時にビザを取得するのだが、ドルで用意していったビザ取得代金(100キナ=3600円ぐらい=41ドル)をいきなり「45ドル」と提示され、手持ちのドルが足りず、おおいに慌てる。

 のんびりとした入国審査で約1時間。両替後、無事現地の日本人ガイドさんと合流。ラバウル行きに搭乗するまでの時間、空港近くの「アロタウ」ホテルで朝食。空港越しに見える霧に煙るスタンレー山脈がなんとも幻想的。


トクア空港@ラバウル

 9時半の便にてラバウルへ。今回は戦跡視察が目的なので、ラバウルは最重要の視察対象である。もっとも、いわゆる「ラバウル」は15年ほど前の噴火でほとんど廃墟と化してしまったため、戦跡巡りもひと苦労。噴火後に島の中心的な街となった「ココポ」を拠点にまわることとした。

 日本人が泊まれる宿は本当に限られており、かなり「南国」の雰囲気が漂う「ココポ・ビーチ・バンガロー」にチェックイン。敷地からすぐ浜辺に出られるのは「海好き」の私にとってたまらない環境。


ココポ・ビーチ・バンガロー

 ホテルで昼食をすませ、さっそく戦跡めぐりへ。初日はココポ周辺を視察。とにかく道が悪く、まるでシェイカーに入れられたよう。日本の道路ならば「突き上げ」も楽しめるが、それどころではない。とにかくひたすら耐えるのみ。日本製RV車の性能を改めて実感する。ガイドは日本語も使える「キヨポン」。

 まずは近場の教会などを見学した後、「ココポ博物館」へ。あちらこちらに散在していた「戦争遺物」をとにかく集めた感じ。終戦から65年が経ち、いずれも雨ざらしのため、日々朽ち果てていく様に何とも言えないむなしさを感じる。この博物館には南東方面艦隊司令長官の草鹿任一中将も署名した日本軍の降伏文書とされるものが展示してあったが、日本現代史の専門家がその「真偽」を含めて検討。「受降記念」としてオーストラリア軍将兵に配られた複写の一部か?


朽ち果てる戦闘機@ココポ博物館


敵機襲来を睨む@ココポ博物館


朽ち果てるゼロ戦@トラベ飛行場跡

 続けていまはカカオ農場になっている海軍の「トラベ飛行場跡」へ。ゼロ戦の残骸が残る周りで子供たちが遊びまわっているのが何とも印象的。周辺はカカオやココナッツ、バルサ材などのプランテーションが広がっており、学校と教会が点在する緑の森の中に旧日本軍の戦跡があると言った感じ。とはいえ、「日本軍の残り香」はやはり強く、この灼熱の太陽のもので闘い続けた日本人の存在を強く強く感じるに十分なものであった。


ココナツの実はアカイカのお刺身...

 今回は完全な視察なのでお楽しみはないのだが、ところどころでガイドさんが現地の露店でバナナを買ってくれたり、ココナッツの実を地元の人に分けてもらってココナッツ・ジュースを飲ませてくれたり、カカオの実を食べさせてくれたり(実の少ないマンゴスティンのような感じ)、貴重な経験もさせてもらえた。

 途中、日本人が運営している農業学校「OISCA」を訪れることができ(ガイドの「キヨポン」はここの卒業生で、「高松」に留学していた経験があるとのこと)、「草の根」の日本人の仕事に本当に感激した。父の仕事もこれに近いものだったのかも知れない。「南洋」に今も昔も日本人の姿があることを体感。これほど離れているのに...。 

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□2010年8月21日(土) パプアニューギニア日記 その1


ジャパニーズ・ジョーク...

 科研「第二次大戦の終結による帝国解体過程に関する基礎的研究」(研究代表者増田弘東洋英和女学院大学教授)の視察旅行でパプアニューギニアへ(以下、PNGとする)。

 まず熊本から羽田に向かい、羽田からリムジンバスで成田へ。首都高速が空いてたせいか3時前には到着。集合時間は7時、出発は夜9時すぎなので空港で随分待つことに。新書を2冊読み終える。PNGまでは飛行機で6時間半。予定通りに飛べば朝方4時半の到着となる。

 搭乗手続きはかなりの混雑。若い人たちが目立つ。パプアニューギニアには年間3000人ぐらいしか行かないと聞いていたので、「歴女」の「日本軍玉砕の地めぐりブーム到来」かとも思ったが、どうもポートモレスビー経由でオーストラリアに向かうらしい。案の定、PNGでの入国手続きはぐっと平均年齢があがった。


機内食 in ニューギニア航空

 とにかく機内泊は睡眠を優先しようと耳栓持参。幸い通路側の席だったのでストレスもなく、機内食を食べ終えるとコマ切れながらも5時間ほど仮眠。いうまでもなく座席は窮屈なエコノミー。

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□2010年8月15日(日) 湧水トンネル公園@高森


幻想的...。

 来熊3年目にしてようやく高原の湧水トンネル公園へ。夏のこの時期、いつもニュースなどでは見ていたのだが、南阿蘇に湧水を汲みに行ったついでに足を延ばしてみた。

 このトンネルは昔、延岡まで高千穂を通る鉄道を引こうとしたが、途中で大量の湧水が出たため、断念した遺構とのこと。なるほど、水量は豊富で、これ以上は掘り進めない感じ。ひんやりとしたトンネルに色とりどりの「七夕提灯」(?)がならぶ幻想的な風景。


ウォーターパール@高森湧水トンネル公園

 特に奥にある「ウォーターパール」は何とも不思議。超音波で「球体」にした水が止まったり、昇ったり。原理はわかるのだが...。動画も撮影したのだが、何度も見ても不思議である。

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□2010年8月14日(土) 水の科学館


お散歩@水の科学館

 お盆休みということで近場の「水の科学館」へ。私を除いては何度か遊びに来ているとのこと。「無料」で楽しめるのがありがたい。カントリーパークなど、「水」を使った「ハコモノ」が熊本には多い。海外研修に「先発隊」で行くと、お盆にけっこうゆっくりできることを発見。

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□2010年8月10日(火) 長春日記 その10


朝鮮半島上空@CA953

 本年度の引率業務もこれにて終了。宿から空港まで10分というのは精神衛生上良い。無料のシャトルバスが30分毎に運行されているので、8時55分の便でもホテルでゆっくり朝食がとれる。

 今回の研修は悪天候に泣かされた。行きは「本当に大変だった」し、交代の先生も予定の便が飛ばなかった。挙げ句の果てに帰りの便も北京発は50分遅れ、大連発は40分遅れと、散々な結果に。悪天候だとやはり行きと帰りは引率が2名必要だと思う。今回は11名で本当に助かった。

 今日は機体の乗り継ぎがなかったので「熊本到着」の時間だけが心配だったが、運よく空港発の高速バス(自宅の前で降ろしてくれる)が私を待っていてくれたので、予定通りに帰熊。それにしても、飛行機ってその気になれば随分とスピートが出るもんだ。「経済速度」(車でいえば時速60キロ)と「特急速度」があるのかしら。

 今回は税関に出す書類を旅行業者さんが準備していおいてくれたのだが、それにしても職業欄に「准教授」って...。税関の係官も首を少しひねっていた(私がヒゲもじゃもじゃだったからかしら)。せめて「大学教員」だったらよかったのに。

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□2010年8月9日(土) 長春日記 その9

 朝、長春を出発。フライトスケジュールの関係上、トランジットのため北京で1泊となる。CAの日本行きは朝早い便が多い。

 宿は「北京国都大飯店」。空港近くでは唯一の4つ星とのこと。中国国際航空のパイロットやキャビンアテンダントの定宿らしい。もっとも、4つ星とはいっても、ロケーションのせいか、市中心部の水準から言えば3ツ星といったところか。シャワーの水圧が弱く、お湯の温度も安定しない。これはパイロットのストレスにならないだろうか(私の部屋はSuperior)。

 とにかく周辺に何もないので、夕食は火鍋屋で適当に済ませる。羊肉が「買一送一」だったので4皿ほどたべる。もちろん「肥肉」も。これに大皿の香菜。私は中国に行くと体重が落ちるのだが、おそらく「香菜」と「豆漿」の効果ではないかと考えている(科学的根拠なし)。それにしても、いくらサービスでも燕京ビールがひと瓶1元とは。城外ならではといえよう。

 甘粛省の土石流のニュースばかり。マイケル・ジャクソンの「Make It Big」(これはWHAM!か...)じゃなくて、「THIS IS IT」をやっていたので見てしまう。朝が早いので早めに休む。

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□2010年8月8日(日) 長春日記 その8


中国風「モツ煮」(名前忘れた...)

 長春最終日。これといってすることもないので、畢老師とご飯を食べたりして過ごす。お昼は畢老師の自宅近くの「過橋米線(総店)」に案内される。大繁盛店で、お店の服務員はまるで戦場のように働いていた。台湾の「米線」と違い、うどんのように太く、かなりしっかりとしたコシがある。日本人にも好まれるだろう。


牛モツの「火鍋」。もう辛さを感じない...。

 夕食は再び畢老師の自宅近くで〔火+考〕肉を食べる。老師行きつけの店らしく、中国風モツ煮のようなスープをいただく。「清真」なので豚ではないのだが、こってりとしたテール・スープに牛のモツをさまざまぶち込んだようなもの。それと牛モツのたっぷり入った「火鍋」。吉林の銘酒「〔さんずい+兆〕南香」とともに頂く。

 今年は飛行機運が悪いのか、今日、入れ替わりで長春に到着するはずの李老師の搭乗機が大幅に遅延し、福岡で足止めとなったようだ。ネットで確認しても他の便は普通に飛んでいるので機体トラブルか。あるいはまたまた「大連の霧」か。1日で2回のトランジットはタイト過ぎて、リスクが大きい。

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□2010年8月7日(土) 長春日記 その7


彫塑公園にあったアフリカの木彫り彫刻

 終日市内観光。昨晩到着した久留米大学の研修グループと合流。引率の与小田先生は岩佐先生のお弟子さんとのこと。熊本に赴任した直後に報告した現代中国学会西日本部会でご一緒したことがあった(九大の六本松)。

 午前は彫塑公園へ。「浄(本当は冫)月潭」へ行く予定だったのだが、連日の大雨で水位が上がっていて危険とのこと。とにかく世界各国の「彫塑」を見ながら歩き続ける。


南湖公園でアイスクリーム

 途中、「禧富徳花園酒店」にて昼食。少し辛めの「毛氏紅焼肉」にありつく。学生たちも気に入った様子。ある学生が昨年来、このお店の服務員のお嬢さんと仲良くしているらしく、久々の再会に一同目を細める。若いっていいなぁ。

 午後は南湖公園を散策。中国で2番目に大きな公園とのこと。土曜の午後らしくものすごい数の人が「憩い」を求めて散策している。まぁゴールデンウィークの動植物公園といったところか(人口密度が)。あちらこちらにスポンジボブの風船が浮かんでいる。子供たちも結構「ゲーリー」のTシャツなどを着ている。スポンジボブは中国語で「海綿宝宝儿」というそうだ。

 終日歩きとおしたのでかなり疲れたが、良い運動不足解消になる。

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□2010年8月6日(金) 長春日記 その6

 終日論文の推敲作業。少し肌寒い。でも気持ち的には随分と楽になった。

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□2010年8月5日(木) 長春日記 その5

 終日論文執筆。一気に最後まで書き上げる。残された課題は多いが、少なくとも「過渡期性」については描けたのではないかと思う。これで雑誌に穴を空けることもなくなりひと安心。分量も見事に1200字詰めで16枚半、つまりぴったり2万字に着地し、とにかく安心する。

 日本からメール。8月末締切の論文の件について。かなりシビアな最終通告。あくまで「初稿」ということで、今日書き上げたものを整えれば...。ただ、「拠点」の「領導」們が求める「水準」に達しているかは疑わしく、途中ではじかれることも覚悟しておかねば。執筆予定者も多いし...。

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□2010年8月4日(水) 長春日記 その4


「順風肥牛」にて「火鍋」

 午前中は論文執筆。筆の進みは悪くない。細部はともかく、構想が固まれば一気に書き上げるのみである。もっとも、分量がちゃんと着地するのかなど、まだまだ未知数(これだとまずいのだが)。

 午後は学生たちの市内観光につきあう。長春の名所「偽皇宮」。改めて感じるのは学生たちが過去の日中の歴史についてほどんと知識を持っていないということ。日中両国における「過去」に関する知識量の非対称性は、交流を妨げるのか、交流の契機となるか。東北に来ているのだから「平頂山」ぐらいは見せたいのだが(哈爾濱で731旧址は見学予定)。いや、いっそのこと撫順戦犯管理所に泊まらせて...。

 夜は「順風肥牛」にて「火鍋」。羊肉、牛肉、そして豚肉(五花肉)のお花畑。研修に来れなかった学生さん達に申し訳ない...。

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□2010年8月3日(火) 長春日記 その3

 終日論文執筆。構想は固まった。「断而不絶」、「敵乎友乎」、そして「騎虎難下」。いうまでもなく、「通説どおり」の論旨展開だが、それでも外交部档案で肉づけしながら書き進めていくとそれなりに面白い。

 もとより「研究の中間報告」であり、いくつもの課題をのこしつつ論稿化しているので、問題も少ないくないことは自覚している。じっくりと時間をかけて「玉稿」を書きたいが 、いまはそうした状況にない。とにかく前進あるのみ。

 夜は国際文化フォーラムの研修で吉林大学を訪れている広中先生と飲む。3月のシンポジウムで報告をお聞きくださったとのこと。いまの私の苦しみの出発点である。冀東政権の「アヘン」問題を研究されている先生と漢奸や戦犯の話で盛り上がる。

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□2010年8月2日(月) 長春日記 その2


「肉段焼茄子」

 疲労を引きずりながらもとにかく論文執筆にとりかかる。この10日間が勝負。日本でおおかたの档案整理はしてきたが、これが「形」になるかどうかはまだまだ未知数。学生たちも授業が始まり、ようやく少し「自分の時間」が確保できるようになった。

 もとは3月にシンポジウムで報告した「『人民外交』という経験」、つまり1950年代の「積み上げ」の失敗が1960年代の中国の対日政策にいかなる影響を及ぼしたのか、みたいなものが書きたかったのだが、档案を本格的に読み進めていく過程でこうした「イメージ」はやはり大きいく修正しなければならないことに。やっぱり「挫折」の認識なんてないね。

 とにかく講義と校務、そして膨大な雑務の合間を縫って時間をひねり出すのは至難の業である。やはり改めて友人たちと比べるに授業負担が多いようだ。研究の遅れに焦りを感じるとともに、次から次へとやってくる「締切」の嵐に「引き受けなきゃよかった」と後悔することもしばしば。

 夜は哈爾濱ビールを楽しむ。

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□2010年8月1日(日) 長春日記 その1


吉林大学「勺園」散策

 「無事」長春到着。3度目なので、「ただいま」といった感じ。毎年ホテルの部屋も同じところを用意してくれるのが嬉しい。「長春の書斎」にも愛着がでてきた。「会館餐庁」での昼食に舌鼓を打つ(かなり寝不足なので、頭がしびれたような状態ではあったが)。

 午後は吉林大学のキャンパス散策。これまでは2度とも「第3陣」として最後に引率をしていたので、キャンパスをまわる機会がなかった。学園大とは比べ物にならないほどの広大なキャンパスに驚くとともに、学生たちも睡眠不足がたたってちょっとバテ気味。無理もない、夜中の2時半到着だったから...。それにしても「避暑」に来たはずなのに30度越えとは。

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