大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


熊 本 日 記
(2009年9月)

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□2009年9月25日(金)  中国概説

 朝から今後の出張予定をどう処理するかで悩む。いまだ決められず。

 午後は「中国概説」がひとコマ。今年から引き継いだ講義。東アジア学科の一年生向けの必修科目なので、いろいろな意味で難しさがある。履修者は90名弱。東アジア学科的に見れば十分に「マスプロ」である。やはり、これも「レジュメ+PPT」方式をうまく入れていかないと単調なものになってしまうだろう。

 来年度は講義科目が2コマ増える予定。今年後半が授業準備踏ん張りどころか。研究できるかしら...。

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□2009年9月24日(木)  秋学期

 約2か月余りの夏休みを終え、久し振りの出講となった。もっとも、夏休みとはいっても、2週間近い海外引率やら県外の高校訪問、さらには複数回の東京出張など、じっくり研究室で椅子を温めているわけにもいかなかった。9月末締切の論稿をなんとか書きあげられたのがせめてもの救い。

 朝の第一限目は必修の「国際社会と日本」。秋学期は履修者が210名余りだが、出席の採り方を変えようと思っているので、実際の受講者は減るだろう。やはり大教室での板書重視には限界があり、結局は「レジュメ+PPT」でやるしかないようだ。講義準備にかなり手間取りそうである。

 午後は4年生のゼミと時事中国語。リーマンショック以来、県内の就職戦線は「異状ありすぎ」のようで、苦戦している学生には掛ける言葉も見つからない。「収」と「放」の使い方を間違えるとかなり修羅場になりそうである。

 時事中国語は楽しくやれればと思う。

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□2009年9月14日(月)  初稿完成

 とりあえず「戦後処理と歴史認識」の初稿を書きあげる。「棄民」史観の「公式記録」化に関する問題提起。日本政府と中国政府のそれぞれの「戦後処理」。裁判への学問の従属という問題など。

 完全に忘れていたのだが、昨年4月に中国・南開大学で行った学術会議報告の論文集が届く。校正の依頼がなかったので出版の話は立ち消えになったのだと思っていたが、さすがは中国。2冊組みで1300頁近い大著になっていた。

 すでに『中共党史研究』に完全版が掲載されているだけに「いまさらながら」の感じもするが、とりあえずの記念なので喜ぶ。南開大学周恩来研究中心編輯・徐行主編『二十一世紀周恩来研究的新視野』全2巻(中央文献出版社、2009年8月)の下巻に拙稿を発見。それにしても周恩来研究者は世界にこんなにもいるものか。

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□2009年9月13日(日)  唐揚げを買いに


コスモス畑@西原村

 南阿蘇の潮井水源に水を汲みに行ったついでに西原村の「萌の里」に唐揚げを買いに立ち寄る。少し待ってなんとか揚げたてをゲット。コスモスの季節になったせいか、思いのほか混んでいて難儀する。やはり平日に来るべきだと反省。それにしてもプリウスだらけなのはどうか。

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□2009年9月12日(土)  曾祖母と


94歳と0歳

 帰省中のお嫁様と息子、娘が曾祖母を訪問。もちろん娘は初めての帰省である。女の子の曾孫はとても嬉しかったようで、祖母は8キロを超えた娘を「こりゃ重い〜」と言いながら抱き上げていた。

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□2009年9月11日(金)  連携研究者@科研費研究会

 東洋英和女学院大学にて研究報告。論題は「戦後処理と歴史認識―戦後日中関係史の文脈における中国残留孤児問題」。ある学術雑誌の特集に寄稿を予定しているもの。特集の趣旨が、「新規公開史料を使って従来の『歴史像』を書き換えられるか」という「挑戦」的なものなので、これまでの淡々とした実証研究とは趣向を変え、少し大胆な行論をすることにした。

 研究会後は麻布十番の「あべちゃん」で一杯やる。とりわけラバウル、ガダルカナル、チューク行きの話で盛り上がる。

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□2009年9月10日(木)  2日ぶりの東京

 再び東京へ。空港に車で直接乗りつけられるのは至極便利。

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□2009年9月9日(水)  近況報告

 母校である中央大学法学部で基礎演習を担当していた時の学生さんから就職内定報告のメールを貰う。本当に優秀で、友人が在籍する日米交流の研究機関のインターンシップにも挑戦してくれた学生さんである。無事に大手の生保に内々定とのこと。教員冥利に尽きるとはこのこと。

 ちょっとした近況報告を貰う瞬間が教員として一番嬉しいかも知れないと思う今日この頃。秋学期へのなによりの活力となった。ありがとう。

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□2009年9月8日(火)  報告準備


やっぱり馬刺し

 帰熊したばかりだが、週末に都内で研究報告が入っているため、朝から研究室で報告準備をする。若干、現状整理的な内容ではあるが、こうした試みは初めてなので、いろいろと議論ができればと考えている。

 報告テーマは「戦後処理と歴史認識―戦後日中関係史の文脈における中国残留日本人孤児問題(仮)」。どうやら先週末、中国残留日本人問題に関する大著が「また」出たようなので(蘭先生編の『中国残留日本人という経験―「満洲」と日本を問い続けて』勉誠出版、2009年)、これも組み込まなければ。

 二三日熊本を離れているとやっぱり馬刺しが恋しくなる。近くのスーパーで580円で写真のような新鮮な馬刺しの盛り合わせが買える悦び。お嫁様と子供たちが帰省しているので、熊本では「初めて」の独身生活となる。気温34度。とにかく洗濯物が良く乾いた。週末は藤崎宮の例大祭である。

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□2009年9月5-7日(土‐月)  慶応中国研究拠点合宿@修善寺


修善寺から見た朝の富士

 この時期恒例となった慶應義塾大学現代中国研究拠点の研究合宿に参加。国分先生のご配慮で慶應を離れた後も引き続きおうかがいさせて頂いている。「慶應中国研究」の最先端の情報が得られる貴重な場であり、どちらかといえば「一匹狼」的な存在で院生時代を過ごしてきた私としては、何物にも代えがたい大切なコミュニティとなっている。こうした「虎の穴」こそが真の「人材育成」をなしうるのだろう。

 初日は各班での研究検討会。とりあえず「毛沢東の戦犯政策」なる研究構想を簡単に発表。史料調査も含め、これからの研究。2日目は2時間半の研究検討会を3本こなすという、まさに「地獄の合宿」的なスケジュール。これは「教育活動」に流されがちな「たるんだ私」にとって強烈な「喝」となった。

 このところ国内外の出張が立て込んでいるため、さすがに「夜通し」語り明かすまでの体力は残っておらず、失礼をしてしまったが、じっくり温泉にも浸かれて良いリフレッシュができた。

 最終日は三島から新幹線で東京駅へ。都内で足早に資料調査をしてそのまま機上の人に。上空から見る阿蘇も本当に美しい。

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□2009年9月4日(金)  「昭和報道」@『朝日新聞』

 熊本版の『朝日新聞』朝刊の「昭和報道」で私の研究の一端が紹介された。東京版では3日付の夕刊に掲載されたようだ。

 多分に議論の余地があることは充分承知しているが、「残留孤児」の中国「残留」過程について、「単線的な理解をしない」ために敢えてのってみた。

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□2009年9月3日(木)  ある研究の引用

 紀要の編集委員会議、教授会、そして学科会議。帰宅は7時半。

 気になる研究があるので引用しておく。浅野慎一氏ほか監訳『中国残留日本人孤児に関する調査と研究』下巻(不二出版、2008年)5-6頁からの引用。なお、原書は関亜新・張志坤『日本遺孤調査研究』(社会科学文献出版社、2005年)。

 法的な観点からいえば、彼らは中国国民ではあるが、しかし日本人の血統を引いている。中国人の養父母が彼らを引き取ったとき、年齢が比較的大きい子どもは自分の身元を知っていたが、多くの年少の残留孤児たちは自分の真の身元を知る由もなかった。国籍管理の視点から見れば、日本国籍を保留した孤児はわずかしかいなかった。大多数の孤児は、自動的に中国国籍に入ったのである。居住地からみれば、長期にわたる人口流動や仕事の転勤などにより、一部の残留孤児は遺棄された場所から移転している。このほか、中国人養父母の多くはその考え方や愛情から、残留孤児本人にほんとうの身元を告げたくなかったということもある。以上の諸要因は疑いもなく身元の認定作業を難しいものにしている。

 「自動的に」という表現は極めて重要である。これを規定したものは何か。そして、それはどのような影響を与えたのか。

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□2009年9月2日(水)  鹿児島日記 その2


東郷窯

 朝、鹿児島市街を出発。今日の予定は伊集院高校、神村学園高等部、出水高校、出水商業高校の4校。途中、偶然「東郷茂徳記念館」という看板を目にする。周知のように、東郷は第2次世界大戦末期、日本の外相と大東亜相を務めていた外交官であり、1945年8月14日にいわゆる在外日本人の「現地定着」方針を打電した人物である。

 私の勉強不足のせいだが、これまで東郷茂徳はいわゆる薩摩出身の東郷平八郎の親族だとばかり思っていた(恥ずかしい)。しかしそうではなく、東郷茂徳は豊臣による朝鮮出兵に際して島津義弘が連れ帰ってきた朝鮮人陶工の末裔であり、その父の代に陶芸家あるいは陶芸を扱う実業家として成功した結果、「東郷」という士族株を手にいれ、「朴」という姓から「東郷」という姓に変わったとのことである。

 また、もともと彼はドイツ文学者を目指していたが、「知識の世界に飽き足りないので、行為の世界に憧れることとなった」(獄中メモより)ことから、31歳にして外交官試験に合格し、外交の世界に入ったという。うだるような暑さのなか、背広姿で東郷窯跡の前に立ち、いろいろと考えさせられる。



美しき水俣の海

 鹿児島県を海岸沿いに北上。高校訪問は無事に終了。途中、せっかくなので水俣市に立ち寄り、水俣病資料館などを訪れる。学園大には水俣学研究センターがあり、いつも所属する先生方が昼夜を問わず研究に励まれている姿を見ているので、「知るべきものを知るため」立ち寄った。

 私以外に来訪者はいないようだったが、映像や資料が訴えるあまりの「重さ」と資料館の外に広がる美しい「現在」の水俣の海、そして今もそこにある「その企業」という光景のあまりのギャップに、息苦しい気持ちになる。やはりこれも「熊本」なのである。

 夕方、自宅に戻る。高校訪問という本来の目的を果たしつつ、私自身、多くのものに触れ、大変貴重な経験をさせていただいていることを実感する。

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□2009年9月1日(火)  鹿児島日記 その1


島津久光公墓所@福昌寺跡

 鹿児島の高校訪問。今日は県立鹿児島東高校、県立鹿児島商業高校、鹿児島実業高校。いずれも鹿児島市内である。鹿児島県に入った途端、「さきほど桜島が噴火しました。今年203回目の噴火です」というニュースの声に「鹿児島」を実感。

 高校訪問は無事に終了。途中、せっかくの薩摩なので島津家の菩提寺であった「福昌寺跡」を訪れる。熊本も細川家歴代の墓所があり、歴史好きの私は楽しませてもらっているが、島津家は細川家の倍以上の「代」を重ねていることもあり、その墓所も圧巻である。

 鹿児島の街は路面電車が走っていて熊本によく似た感じ。街の中心部のすぐそばには海があり、その向こう側には桜島、そして街の中心部のすぐ裏側には「城山」があり、なかなか変化に富んでいる。あちらこちらに明治維新の香りが残り、小学生の頃から坂本龍馬が大好きで歴史研究にのめり込んでいったいった私としては、1週間ぐらいじっくり滞在して散策したい衝動に駆られた(1週間高校訪問すればいいか...)。

 夜は市街地にある温泉宿に泊まる。ビジネスホテルと変わらないぐらい安い宿だが、夕食の「薩摩御膳」で「黒豚」や「ふか」などを頂き、城山を一望できる屋上露天の温泉にも浸かる。平日で空いていたので久し振りにゆっくり眠る。

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