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大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


研 究 日 記
(2007年8月)


□2007年8月31日(金)  北京日記(13)

 午前中は档案館。档案の筆写にもほぼ目処がつき、来週は少し「次」につながる狩猟を行うつもりである。昼食は華東師範大学に留学される山口さん、中国人民大学に留学される阿部さんを迎えて、ゼミの後輩が連れて行ってくれた「いつも」の湖南料理店へ。「外交部開放档案館専家」の3名は二日続けての「毛沢東」だが、やはり好評である。王さん、また一緒に食べに行きましょう。御飯3杯も食べちゃいました。

 午後は論文構想の練り上げ。そして、帰国後に予定されている箱根MTGのためのレジュメ作り。論文は締め切りが迫ってきているが、少しだけ「中国研究」に足を踏み入れる論点を提起できそうな感じに仕上がりそうだ。

 夕食は山西料理に舌鼓。学友の新婚祝いと研究戦友の北京送別会。山西省といえば「蟻の兵隊」とも深く関連する「太原組」を想起するが、本当に小麦粉が魔術のように「食感」を変え、全く異なる料理のように楽しめるのは、諸手を挙げて全面降伏できる中国人の知恵の奥深さである。

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□2007年8月30日(木)  北京日記(12)

 やはり終日档案館にて写経。同時に締め切りが迫っている論文の構想も徐々に固まりつつあり、いよいよ在外研究も充実してきた。日程の半分が過ぎた。

 友人と「小背簍」(Xiaobeilou)にて夕食。日本語で「背負い籠」という名前からも分るように、様々な種類のきのこを選んで食べることができるお鍋のお店である。見た目とは裏腹に、味に濁りのないキノコと鶏でとったベースとなるのスープは、なかなかのものである。

 これにアラカルトで数種類のおもしろキノコを入れ、さっと茹でてタレをつけて食べるのである。もちろん「黄牛肉」や「羊肉」のしゃぶしゃぶもオーダー。「特製猪肉丸」(肉団子)もふわっとした食感に仕上がっており、なかなかのものである

 タレの種類が多いので、お勧めを聞いたところ「海鮮汁」とのことだったのでこれをオーダー。魚介系の出汁をポン酢で割ったような感じのタレで、どんな食材にも合う、しっかりとした日本人向きのつけダレであった。

 できればここは北京滞在中にもう一度行きたいと思う。

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□2007年8月29日(水)  北京日記(11)

 終日档案館にて写経。山西省での農村調査を終えて北京に戻られた李恩民先生が档案館に見えられた。戦後日中関係研究で数多くの大作を世に送り出されている先生だけに、やはり外交部档案には強いご関心をお持ちのようだ。もっとも、私と同じく、本当に複写したい档案はほとんどが複写不許可になってしまったようで、「残念だなぁ」をしきりに連呼されていた。

 大変光栄なことに夕食は李先生にお誘い頂き、一橋大学の農村調査研究グループの先生方と円卓を囲ませていただく機会を得た。緊張することしきりであったが、三谷先生の御前で自分の研究などについてご紹介させていたくこともでき、また農村調査をめぐる数々の「興味深い」エピソードもお聞かせ頂き、日本ではなかなか叶わない貴重な経験をさせていただくことができた。

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□2007年8月28日(火)  北京日記(10)

 終日档案館にて写経。夜は北京にいらっしゃっている国分先生を囲んでの会食。宿から歩いてすぐの「北京アキバビル」7階にある「麻辣誘惑」。四川料理のお店である。内臓が火事である。

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□2007年8月27日(月)  北京日記(9)

 淡々と档案館にて写経。心落ち着く。複写が大量に取れるのもそれはそれで良いが、じっくり考えながら档案を読み、ひとつひとつパソコンに入力していく時間は、至福の時である。この時間が楽しめるということが、何よりの適正か。

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□2007年8月26日(日)  北京日記(8)

 引き続き宿にて論文執筆。夕刻、友人に誘われ夕食へ。韓国式焼肉の食べ放題。キムチが美味しかった。

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□2007年8月25日(金)  北京日記(7)

 終日宿にて論文執筆。落とし所を模索中。

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□2007年8月24日(金)  北京日記(6)

 複写申請について。確かに外交部管轄のものは許可された。だが、戦後日本外交記録同様、政策文書がほとんど収録されない中国外交部档案の利用価値は、他部署から外交部に送付される電報や報告に最大の魅力があると思われる。それだけに結局、本当に利用する档案は慎重に筆写せざるを得ないことになる。

 午後は杉浦幹事長のご好意で北京書店めぐりに連れて行っていただいた。解放軍出版社、中央文献出版社、三聯書店、そして世界知識出版社。いずれも日本での価格の3分の1程度で購入できるため、次から次へと「今後必要だと思われるもの」には手が伸びてしまう。どうやって持ち帰るかは改めて考えるとして、いい買い物ができた。

 夜は北京に駐在している友人のご両親が北京に来られたということで、日壇公園の東側にある「義(Xi)和雅居」にて会食。ほぼ毎日質素倹約な食生活を送っているので、お腹が驚かないか心配だったが、ご両親を迎えた友人の笑顔を見ながら楽しい時間を過ごすことができた。

 散会後、同じホテルに宿泊している友人のご両親をアテンドして宿へ帰る。とはいえ、ホテルが南の方の崇文門にあるため午後11時までは建国門内大街も東長安街も左折できず、結局王府街大街を右折して、ぐるっとまわって東単北大街から崇文門へ。北京の交通事情を学習。

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□2007年8月23日(木)  北京日記(5)

 今日は一転して涼しい一日。朝の朝陽門の風が心地よかった。終日档案館。複写申請は見事にはねられる。私の専門とする「人道外交」はそのほとんどの档案が「中国紅十字会」管轄、あるいは「最高人民検察院・最高人民法院」管轄なので、大量の複写はほぼ絶望的になったのではないかと思われる。

 昨年末、母校の客員研究員時代に自腹で真冬の北京に来て、大量に複写しておいたことがこれほどまで奏功するとは。新たにこの分野の研究をされる方は、腰を据えた北京滞在が必要となるだろう。

 いつも自宅近くの「SAIGON」で飲んでいるTigerビールは1本500円だが、北京のスーパーでは90円である。う〜ん...。

 そのTigerを片手にNHKの「クローズ・アップ現代」を見る。戦前、朝鮮半島から来日した、あるいは「移入」された朝鮮人労働者の遺骨の送還問題と東西冷戦の関係を扱ったプログラムだった。「戦後日中民間人道外交」を振り返る時、1950年代における中国の対日外交の外交的「戦略」性の高さもさることながら、「人道」問題に対して「中」「台」双方の指導者が見せた「大人振り」に思いを馳せるのと同時に、中台対立と南北朝鮮対立との構造的差異に対する認識を新たにさせられた。また、「民間」であったからこそできたこともあったのだと気づかされた。陳時偉先生が熱く語られた「比較」の視点。改めて腑に落ちた。

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□2007年8月22日(水)  北京日記(4)

 終日档案館。開館時間が午前は8時半から11時半、午後は1時から4時までとなっているため、1時間半ある昼休みをどのように過ごすかが悩みの種でもある。

 今日は朝陽門にある「華普」というスーパーを散策。できるだけリラックスできる空間を確保しようと宿は分不相応なところをとったのだが、どうも備えつけのシャンプーとリンスが合わない。3週間ともなるとこまごまとしたものも欲しくなってくる。取り敢えずLuxのシャンプーとコンディショナーを購入。簡単な料理ができる道具を買い揃えようかと思ったが、思いとどまる。毎日家族の食事を作っている私としては、料理できないことが思いのほかストレスになることを知った。

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□2007年8月21日(火)  北京日記(3)

 朝は永和大王で小ワンタンと油条、そして「夏」だから「冰」の豆漿。昼は華普で牛「nan(月+南)」套餐。夜は...。ホテルには高級な和食レストランもあるが、別に観光でもないので足も向かない。

 普段から自分で朝、昼、晩と当然のように料理をするので、自分で料理ができないのが何より苦痛。近くの崇文門菜市場や「超市」に入って肉類やら野菜やらの値段を確認。肉類は比較的安いが、魚などの海鮮関係は日本よりもかなり割高である。果物は「日本人消費者」の観点からすれば、品質のばらつきが目につく。いわゆるパスタなどの乾物も「鶴亀」や「ハ○マサ」の特売の方が安いぐらいだ。結局、自炊の方が高くつくのかもしれない。

 身体が丈夫なのが自慢の妻が39度近い熱を出して会社を休んだとのこと。長期出張は仕事とはいえ、肝心な時にそばにいられないのが何とも申し訳ない。

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□2007年8月20日(月)  北京日記(2)

 月曜日。とにもかくにも研究が仕事なので朝一番で外交部档案館へ。あまりおおっぴらには書けないが、「好久没見!」でそのまま作業へ。中国ではやはり「朋友」になることが何よりも大事である。「友好」は時に「規定」を超越するようである。

 やはり毎年詳細に外交部档案館の利用状況をお伝えしているだけに、今回も伝えるべきは伝えなければならないだろう。今回の「規定」の変更は海外からの閲覧者にとってはまさに「悪い知らせ」である。

 第一に、複写に関する制限が大幅に強化された。2006年末時点での档案複写に関する制約は、毛沢東ならびに周恩来の会談録、あるいは彼らの「批」が入った重要文件などであった。だが、情報を総合すれば、档案を公開していない他の部門から意見があったらしく、外交部あるいは外交部管轄の機関が作成した文件以外は原則複写禁止という「規定」になったそうだ。この「規定」に従えば、大多数の文書の複写が難しくなり、必然的に筆写せざるをえない。

 第二に、複写の費用が変更になった。開館当初の1枚10元に比べれば安いが、学生は1枚5元、一般は1枚8元に変更となった。もとより、複写が許可される档案が大幅に減ったため、複写そのものにかかる費用は減るのだろう。だが、以前と比較して長期滞在を余儀なくされるため、結果的には気軽に档案調査できないような状況になったといえよう。

 とりあえず慣らし運転中。

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□2007年8月19日(日)  北京日記(1)

 いつも年末に訪れているせいか、とにかく暑く、何もかもが高く感じる今回の北京。お任せにしたのが悪いのか否か、飛行機のチケットはいつもの2倍、定宿にしている崇文門の某飯店もほぼ3割増しである(まぁシーズンだしね)。また、実際の物価の上昇も顕著である

 飛行機が1時間ばかり遅れたのは愛嬌として、無事に北京到着。有難いのはチェックインするホテルのロビーに友人二人の笑顔。ちょっと待たせてしまったようだが、近くの四川料理店で舌鼓を打つ。野菜を多めに採ろうと点菜したら、ウェイトレスさんに「肉料理が足りないね」と一撃。男三人で「打包するかね」と言っても、誰も家に待つ人はなし。北京の夜は更けて行く。

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□2007年8月15日(水)  20年ぶりの同窓会




 幹事として準備を進めてきた同窓会。今回は先生方7名、同窓生30名合計37名に案内を出したのだが、参加者は16名。海外の日本人学校の同窓会ということで、同窓生が全国に散在していることを考えれば、非常に高い出席率なのではないかと思う。白井先生以下、懐かしい顔が揃った。旧交を温めていただければ幸いである。

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□2007年8月9日(木)  中国研究拠点

 受け入れをお願いしている先生が中国研究拠点のリーダーにご就任されたこともあり、しばらく慶応経由で中国研究拠点関連プロジェクトに参加させていただくことになった。今日はその初会合。小島先生を班長とする国際関係研究班(外交組)の初顔合わせである。

 「21世紀の中国外交」に照準を合わせる研究プロジェクトにおいて、自らの専門である1950年代の中国の対日外交研究からどのようなインプリケーションを出し、いかにして貢献していくのかという問題についてはさらに大いに思案する必要がありそうだが、まずコミットメントさせていただけるだけでも中国研究者としては幸運なのだと思う。

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□2007年8月6日(月)  ひと目惚れ




 ここ4ヶ月ほど新しい鞄を購入しようと思い、あちらこちらのデパートやら専門店やらを巡ってきた(有名デパートのMen's館がどこも妖怪の館のようになっているのには驚いた)。その結果、ようやく理想の一本に出会うことができた。結局というか、 やはり「吉田」である。

 ラ・タヌアの大統領鞄や国会議員鞄、あるいはAquascutumの鞄など、いくつか使っているが、いずれもしっかりとした「本革」という感じで、ちょっとした研究会などに持っていくのには適当でなかった。そのため、大学の講義が始まって以来、妻のダレス鞄(写真左奥)を借りていた。

 しかしながら、どうも持ち手が太く、鞄自体が重く、さらに横から見たときの形が二等辺三角形になっているため、B4の書類を入れる場合にも、入り口を閉める時にかなり無理する必要があるなど、わずかながら不満があった。とはいえ、ノートパソコンやお弁当箱を入れることもあるので、「マチ」の広さは魅力的であり、鞄の中に仕切りがないのも気に入っていた。

 ひと目惚れした「吉田」のダレス(写真右前)は、このような弱点をすべてクリアしている。まず持ち手が細い。必要以上に不自然な握力を使う必要がないのが有難い。また、鞄自体がとても軽い。革の素材もあろうが、飛躍的に軽くなっている。そして何より、鞄の幅も2〜3センチ大きくなっており、なにより横から見たシルエットが二等辺三角形ではなく、縦長の蒲鉾のようになっている。これは大量の書類を持ち運ぶ私にとってこの上なく有難い配慮である。

 春日神社のおみくじは小吉だったが、三田キャンパスに研究室を頂くこともでき、幸せな一日だった。

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□2007年8月3日(金)  濃い一日




 午前中は戦後日本の華僑社会の生き証人とも言える韓慶愈氏と懇談。戦時中に満洲国政府の官費留学生として17歳で日本に渡り、以来今日まで日本に在住していらっしゃる韓氏のライフ・ヒストリーを記録として残すために師匠が企画したものである。

 第1回目となる今日は、日本渡航から日本残留の経緯までを語っていただいた。「帝国」の崩壊と個人の関係性という問題を考えるうえで極めて貴重な証言である。次回は私の専門と密接に関連する1950年代の華僑送還運動などについて詳しくお伺いすることになっている。興奮の日々である。

 午後は引き続き研究会のため後楽園キャンパスへ。張翔先生(復旦大学歴史系)、林暁光先生(中央党校)、呂莉先生(中国社会科学院外国文学研究所)、李恩民先生(桜美林大学)という豪華講師陣を招いての会となった。いずれも刺激的であったが、特に印象に残ったのは呂先生と李先生のご報告であった。

 東野 炎立 所見而 返見為者 月西渡

 これは日本人であれば小学校の高学年か中学校で誰もが習う有名な句で、『万葉集』に収められる柿本人麻呂の一首である。「東の野にかぎろひの立つ見えて返り見すれば月傾きぬ」というあれである。詳細は紹介できないが、呂先生は柿本人麻呂における中国文学の受容という観点から、これまで論争が続いてきた「炎」(かぎろひ)の解釈、あるいは「月西渡」の本来の訓についてご紹介くださった。

 細かい点については先生の論稿をお読みいただきたいが、その実証の緻密さ、あるいは切れ味の鋭さに、分野こそ違えども大変な衝撃を受けた。また、李先生による中国の対台湾政策の歴史的経緯と現状をめぐる分析に関しては、同席した中国人研究者から厳しい意見が飛んでいたが、極めて斬新な論点を提示されており、「議論の可能性」を感じさせるものであった。とはいえ、この問題が慎重に扱うべきものであるということも改めて実感させられた。

 研究会終了後は近くの多国籍料理屋で懇親会。李先生の隣りに座らせていただき、日本渡航の経緯から今日までの研究についていろいろとお話を伺う機会を得ることができた。「その仕事だけに没頭できる」環境などというものは成り立ち難く、公私にわたっていろいろと煩雑なものがあるなかでも突き進んでいくしかないのだということをお教えいただいた。

 極めて貴重な一日を与えてくださった師匠に改めて感謝。

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□2007年8月1日(水)  渡航準備

 締め切りが迫っていた論文の再校を終えて大学へ。いくつかの論文執筆作業を並行して進めながら、在外研究の準備を進めている。それにしてもこの時期、機票も房価も高い。冬の倍である。ビザの発給も無事済み、とりあえず大学図書館に档案閲覧のための紹介状作成を依頼する。

 図書館にて資料調べ。調べているのは次の点。国際法関連で「講和条約」あるいは「平和条約」の体裁など。ある研究書の書評を行うための準備である。もうひとつは国籍法関連で、政府承認と婚姻と国籍の得喪。いずれも法律関係の論点であり、先行研究での検討に不十分さを感じている。もっとも、私自身も法律の専門家ではないので異種交流の必要を感じている。

 自宅に戻る途中、保育園より電話。微熱があり、体幹に発疹があるとのこと。いろいろな病気が流行っているだけに、早めにお迎えに行って病院へ。ドクターの見立てでは「あせも」とのこと。朝夕とお風呂に入り、保育園ではプールにも入っているが、出るときは出るらしい。逆に自宅の冷房を効かせすぎで、発汗機能が鈍ってしまっているのかも知れない。多少家でも汗をかかねばと反省。

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