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大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


研 究 日 記
(2007年6月)


□2007年6月27日(水)  抜き刷り到着

 ある若手研究者と飲んでいた時、同氏が「きちんと読みもしないで中国外交部档案館の史料が使えないと評価する人が多すぎる」と言っていた。

 確かに、国際政治史というような大きな文脈で議論を行う場合には、直接的に役立つ政策文書などはほとんど公開されていない(外交部に所蔵はされてはいるのだろうが、公開については中央档案館などとも足並みをそろえる必要があるのだろう)。

 だが、研究のテーマ如何によっては興味深い史料も公開されており、これをどのように自分の研究に組み込んでいけるのかが研究者の腕の見せ所なのではないかと思う。その意味で、今回の論稿は些細な「小品」に過ぎないが、それなりの意義はあるのではないかと思っている。

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□2007年6月25日(月)  書 評

 難しい書評が山積している。ひとつは特に活字化する予定はないのだが、自分の専門と時期的にも、内容的にも極めて類似する点が多いため、「興奮を覚えながら」分析に取り組んでいる。そう、テッサ・モーリス−スズキ氏の『北朝鮮へのエクソダス』(朝日新聞社、2007年)である。依然、書店などで平積みの状況が続いているので、売れているのだろうが、問題がナイーヴなものだけに、先行研究も分かれており、評価の着地点をどこに置くべきか考えている。

 これ以外にも「大著」がふたつ。本来メインでやるべき仕事があるにもかかわらず、このような仕事も「やることでさらに成長できる」と前向きに捉えて請け負ってしまう自分は、さてどうしたものか。

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□2007年6月23日(土)  在外研究と「未来志向の日中関係学」

 締め切り間近なのだが、夏の在外研究のための予算申請計画書を作成する。中大生協の旅行センターにも協力を頂き、「特急」で「見積り」と「請求書」を作成いただく。ギリギリながらも三田の研究支援センターのスタッフの方々が素早い対応で書類確認をしてくださり、何とか締め切りに間に合いそうだ。これから夏期休暇に向けて忙しさが加速度的に増大するので、頭の隅で一番気になっていたものが片付いてとにかく一安心。

 午後は日中関係発展研究センターのシンポジウム参加のため後楽園へ。ハーヴァードの入江昭名誉教授、早稲田の毛理和子先生、そして師匠の李廷江先生がそれぞれ「世界」、「日本」、そして「中国」の視点から今後の日中関係を語るという企画。センター3年間の活動のとりあえずの「締め」といったところだろうか。

 「未来志向」という文脈における「学者と理想」という問題について考えさせられるひと時だった。

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□2007年6月21日(木)  今日は渋谷で7時!

 北京から一時帰国している友人を囲んで渋谷で食事。秋の「十七大」から来年の北京オリンピックにかけて現地の業務は忙しさの度合いを増していくようだが、本人はいたってポジティヴに捉えているようだ。渋谷パルコの「米門」は、雰囲気がよく、落ち着いて飲める場所だった。

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□2007年6月20日(水)  翻訳

 なぜか抱えている仕事が多く、とにかく忙しいので、スポットで入ってきた翻訳などの仕事はどんどん片付けていかなければならない。ちゃんと集中すれば、これぐらいの分量の中国語論文は「あっ」という間に翻訳し終わるようになった。さて、3本の書評をどう処理するか...。

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□2007年6月19日(火)  准訪問研究員

 受け入れをお願いしている先生が「大澤君も慶応にきちんとした身分がないとなぁ...」とお心遣いくださり、法学部の准訪問研究員という形で慶応での身分をいただくことができた。学振の場合、慶応は「研究機関」という形になっているようだが、さらにちょっとだけ慶応が近くなったような感じがする。

 午前中は神田へ。東方書店の書棚に『中共党史資料』が山積みになっていた。「そういえば昔、共著の論文を転載したいなんてメールをもらったけど、その後何の音沙汰も無いなぁ...」と何気なくページをめくっているとありました!中共中央党史研究室・中央档案館編『中共党史資料』第94輯(2005年)。喬君氏の翻訳で坂野良吉・大澤武司「中共党史的発展与胡喬木」。2年も前に刊行されていたなんて...。早速業績リストに加えることにしよう。

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□2007年6月15日(金)  全身筋肉痛で講義

 案の定、身体中筋肉痛である。もっとも、翌日に筋肉痛になるというのはまだまだ若い証拠である(若いの若くないの言っている段階で、もう立派なオジサンか...)。

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□2007年6月14日(木)  書斎の模様替え

 著作原稿の本格的な執筆にとりかかることもあり、一日がかりで書斎を模様替え。主眼は新しい机を入れることである。加えて、届いた本が玄関先に百冊以上も積みあがったままとなっていたので、ついでに90センチ幅の本棚も2本購入。これまで使っていた机は妻が勉強机として使えるように書斎の端に配置した。

 まだまだ若いつもりだが、さすがに大規模な模様替えを半日でやるとなると体力の消耗が著しい。ちょっと本棚を動かすだけでも、すべての本を床に積み降ろさなければならないので、結構な運動量である。ともかく、日が暮れる前には何とか全ての作業を終えた。

 さて、筋肉痛が出るのはいつだろうか...。

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□2007年6月11日(月)  論文構想を練る

 昨年末に収集した中国外交部档案をようやく全て訳出し終えた。不器用なせいか、外国語の史料は全てきちんと日本語訳を終えて、自前の史料集を完成させないと分析に入れない性質なので、時間がかかって仕方ない(このようなやり方が許されるのも今のうちだろうが、できるだけこのスタイルは崩したくない...)。

 現在執筆を予定している論文は、今日的な問題とも極めて密接にかかわるものであり、私自身、博士論文では中国側史料が未公開だったため、敢えて分析を控えた部分である。それだけに分析にも自然と力が入る。

 いろいろ書きたいことはあるが、「企業秘密」(屋号の個人経営ですが)なので控えます。

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□2007年6月9日(土)  戦後東アジア国際政治研究会

 午前は院ゼミのため多摩へ。午後は戦後東アジア国際政治研究会参加のため本郷へ。

 愛知県立大学の三宅先生による「中国の『国交樹立外交』、1949年〜1957年」というご報告のコメンテイターを務めさせていただいた。私自身、1950年代の中国外交を中心に研究を進めているが、特定の事例研究に特化し過ぎてしまっているという難点があることから、大きな視角から当時の中国外交を捉えようとする「チャレンジング」なご姿勢に感銘を受けた。

 すでに論稿は発表済みのため、ここで詳細を紹介することはしないが、院生を中心とした研究会にご参加くださり、丁寧なご報告を下さった三宅先生へ、ここで感謝の気持ちを記させていただければと思う。

 追記。本日お昼過ぎにビー玉が無事、帰還しました。ご心配をおかけした皆
     様、申し訳ございませんでした。

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□2007年6月8日(金)  「ビー玉飲んじゃった!」

 夜、息子が「つるん」とビー玉を飲み込んだ。「ビー玉食べちゃった!」との本人言。いわゆる「幼児の誤飲」である。

 気管に入ったわけではないので、そんなに慌てることはないのだが、逆さにして背中を叩いたりしてみるが出ない。仕方がないのでタクシーを呼んで、自宅から5分ほどの「生育医療センター」へ。日本で最高水準を誇る乳幼児医療機関がすぐ近くにあるのは心強い。お嫁様が連れて行った。

 程なく帰宅。

(私)「随分早かったね」
(妻)「レントゲンも摂らなかった。お医者さんが『ビー玉飲んだ子だ〜れ〜だ!』
   っていいいながら診察室に入ってきた。健伸(息子の名前)が『は〜い』って
   返事した」
(私)「後は?」
(妻)「そのうち『つるん』と下から出るって。何かあったらいつでも来てくださいっ
   て」

 ネットで調べると「1ヶ月ぐらいかかることも」という情報。気長に待つのが良いようである。

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□2007年6月5日(火)  『世界知識』

 ありがたいことに母校の図書館には『世界知識』が全て入っているので、少し時間をかけて1950年代の『世界知識』の日中関係関連の記事を全てコピーした。

 とはいえ、対日関係に関して、「分析」的なものが本格的に掲載され始めるのは1956年2月ぐらいからで、庄涛氏や李純青氏など、中国外交部の档案にも「日本問題専門家」というような肩書きで登場する人々の短めの分析や論評がちらほら出てくるというような感じのようだ。

 庄涛「1956年日本局勢的展望」(1956年2月5日)
 黄季方「日本人民要求執行独立外交政策」(1956年3月5日)
 李純青「在杜勒斯和鳩山的間」(1956年4月5日)
 岑航「戦後日本外交的新開端」(1956年11月5日)
 夏暁「従吉田―鳩山―石橋看日本政局」(1957年1月5日)
 庄涛「日美関係的両重性」(1957年4月5日)
 庄涛「従日本首相訪問東南亜談起」(1956年6月5日)
 楊湛林「日本経済現状与中日貿易」(1957年7月20日)
 岑航「第二次岸信介内閣及其動向」(1957年8月5日)
 呉半農「論当前日本的経済危機」(1958年3月5日)
 庄涛「大選前夜的日本局勢」(1958年5月5日)
 庄涛「日本岸信介内閣的対外政策」(1958年7月20日)
 庄涛「岸信介給日本人民充当反面教員」(1958年11月5日)
 庄涛「目前日本局勢的特点」(1959年5月5日)
 庄涛「岸信介宣布下台後的日本局勢」(1960年7月5日)

 一見して庄涛氏の手による分析・論評が多いことがわかる。呉学文氏の回想録から引けば、1950年代当時の庄涛氏は、趙安博氏などと共に中連部に属し、廖承志氏が率いた「大日本組」、あるいは「日本組」の主要構成メンバーとして、対日政策遂行に携わっていた。当然 、その後の日中関係の表舞台でも重要な場面にちょくちょく登場する人物である。

 「史料競争ばかりではだめだ。アイデアや構想で勝負することが大事」。「だいたいのことは当時の『人民日報』に書いてある」。新規公開が進む史料に触れ、その分析に夢中になるのは楽しい時間である。が、改めて当時の二次資料(いや、中国研究においては一次資料か...)を丁寧に読み直すことの大切さに気づかされ、「時間が足りない...」と焦る日々である。

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□2007年6月4日(月)  総政での講演

 大変お世話になっている総合政策学部の服部先生にお誘いいただき、国際関係論の授業のゲストスピーカーとして総合政策の学部生の皆さんを前に1時間余りお話させていただいた。性格的にあまり大雑把な話もできないので、逆に少し難しそうに話をして、皆さんの学問的好奇心を刺激できればと、社会学や法律学、歴史学、さらに国際関係論などのディシプリンがごちゃごちゃと入ったテーマを選んだ。

 論題は「現代日中関係と日本政治外交の岐路」。少しずつ調べ続けている中国残留日本人による国家賠償請求訴訟問題について、「中国残留日本人」発生の歴史的経緯や戦後の日中関係の経過を冷戦の文脈から確認し、現代日本社会における「中国帰国者」が置かれている現状 、訴訟の争点や法理論的、あるいは訴訟技術的問題、さらには安倍政権による政治的対応の意義など、たっぷり時間をかけてお話させていただいた。

 学生さんは120名前後。昔自分が講義を受けていた中教室の講義台で自分が話すことになるとは10年前にはついぞ想像しなかったが、なんともそれは楽しく、嬉しい時間であった。

 「詳細かつ長い」という、学部の学生さんに対する「挑戦」ともいえる内容のお話ではあったが、想像していた以上にうつ伏せて寝ている人は少なく、みんな真剣にレジュメに線を引き、それぞれの問題関心に引き寄せて 、真剣に話を聞いてくれていたように感じた。

 講義終了後、質問するために講義台に学生さんが集まってきてくれるのは、学生の質の高さを実感するのと同時に、例えようの無い嬉しさがこみ上げてくるものである。このような機会を作ってくださった服部先生に、 この場をお借りしてあらためて御礼させていただきたいと思います。

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□2007年6月2日(土)  日本台湾学会全国大会

 台湾学会出席のためアジ研へ。戦後東アジア国際政治研究会でお世話になっている東京大学の佐橋さんが学会賞を受賞するということもあり、久しぶりの舞浜行きとなった。

 参加させていただいた分科会は、午前が立教大学の石川さんの「大陸反攻」、午後が筑波大学の楊さんの「渋谷事件」。いずれも「杉研」こと、東アジア国際政治研究会で、事前に議論させていただいたことのある報告であるが、やはり学会報告ともなると質疑応答の雰囲気も変わるので、また楽しい。

 「金門島」が持つ特殊性について、いまさらながら興奮した。勉強不足を痛感。

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