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大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


研 究 日 記
(2007年3月)


□2007年3月28日(水)  メール・ボックス

 人文科学研究所公開講演会「日中関係の現状とその研究」に参加するため多摩キャンパスへ。明後日に予定している面接に備え、法学部事務室の講師控え室をチェック。学部時代には外からしか見ることのなかった事務室だが、「先生のメールボックスはこちらです」と案内され、名札を確認。改めて気持ちが引き締まる思いである。

 「4時間半の研究会」⇒「学内懇親会」⇒「少人数での懇親会」⇒「焼き鳥と北寄貝のお刺身で締めの一杯」。体力的な限界を感じながらも、楽しい意見交換の時間となった。

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□2007年3月27日(火)  科研費の使い方

 科研費利用規則説明会出席のため三田へ。院生時代も科研費を執行していたので、それほど違いはないだろうと考えていたが、とんでもない認識不足であった。「あちら」や「こちら」で研究費の不正使用が問題になったこともあり、どこの大学も研究費執行手続きの厳密化に向けて急速に動き出しているようだ。

 最も驚いたのが「検収」制度の導入(一定額以上の備品については、これまでも登録制度があったが)。備品や消耗品などで請求書1枚の金額が特定額を超えるものは、大学の担当部署が「現物」を確認したうえで、「検収」印を納品書に捺印し、これを支払いの際に徴求するとのこと。

 研究室が三田にある先生方や院生特別研究員(DC)の場合は、研究室を納入先にすれば良いが、自宅書斎が研究室となる社会科学系のPDの場合、購入金額如何では自宅から大学まで物品を持って「検収」印を貰いにいく必要があるかもしれない(写真などで代替する方法も検討されているようだが...)。マイクロ位だったら三田まで持って行けるが、全18巻の『○○資料選編』や全20冊越の『××年誌』をひと揃い買った場合は...。

 どうも具体的なイメージが浮かんで来ないので、説明会終了後、担当の方に個人的にお話をうかがった。「4月からお世話になるPDなんですが、実際上の動きはどうなりますでしょうか...?」。「特別研究員でPDの方は確かに特殊な位置づけになりますよね」とのこと。その後、個々のケースについて具体的な対処方法をご教示くださった。丁寧な説明で、おおよその疑問は解決された。

 考えてみれば、相当金額の研究費を使うにあたって、多少煩雑な手続きがあるのは当然のことだろう。清算手続きの在り方如何で、本や史料を発注する際の心構えも違ってくるものだ。手続きの厳正化を真摯に受け止めねばと改めて実感させられた一日だった。

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□2007年3月26日(月)  お別れ遠足



 2年余り息子がお世話になった保育室のお別れ遠足に参加。近くの次太夫堀公園へ。ここの桜は早い。昨年同様もう満開。本当に息子が逞しくなってきた。

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□2007年3月25日(日)  『周恩来秘録』読後感

 『建国以来周恩来文稿』が公刊されていない以上、典拠として示される「手稿」をどのように評価すべきなのかという問題が常につきまとう。そう いわゆる検証可能性である。細かい部分の検討は歴史研究者に譲ろう。

 端的に読後感を述べれば、まず「一気に読めた」。日本語訳はどうしても長くなるので 、上下巻合わせて合計700余頁。だが、建国前の経緯が第1章に凝縮されており、その後、本書の核心である「スターリン批判」後の毛・周関係が綴られるため、いわゆる「間延びした感じ」はない。

 また、同時期を扱った張佐良『周恩来・最後の十年』(日本経済新聞社、1999年)に比べて、翻訳が簡明だったことも「読み易さ」に大きく貢献していると思う。中国語の原文に忠実に翻訳すると、どうしても日本語訳の一文が長くなってしまう傾向がある。だが、原書の執筆者が研究者であることも手伝い、訳文も適度な長さとなっている。専門家以外の多くの読者が読むことを想定した場合、この点はきわめて重要である。

 全体の印象としては、『周恩来秘録』というよりは、『周恩来を通じて見た毛沢東の私生活』といった感じか。2月末に本書を購入する前、改めて李志綏『毛沢東の私生活』(文藝春秋、1995年 、上下巻)や金冲及主編『周恩来伝』(岩波書店、2000年、上下巻)、前掲『周恩来・最後の十年』などを読み直したのだが、思うに本書で最も印象に残ったのは、周恩来の苦悩もさることながら、毛沢東の人間性に対する克明な描写であった。

 中国の伝統的な「君臣」関係という視角から見る毛・周関係は、必然的に「諸悪毛沢東起源説」を想起させる。その意味で、本書が描いたものは「周恩来」そのものというよりは、「周が見た毛」であり、率直な読後感として「この時代は結局のところやっぱり毛沢東時代かぁ...」と再確認させられた。

 もとより私も個人的には、「毛沢東時代」における周恩来の行動が「その時期の政治的環境が規定する周の自由裁量の範囲」に基づいたものであると認識している。その意味でも、本書は当時の中国における政治的基本構造を『周恩来文稿』を駆使して実証したものと評価できよう。

 もっとも、気になった点がないわけではない。それは「周恩来」の描かれ方である。建国前、あるいは建国後にしても、本書は周恩来の政治行動をパターン化して分析しすぎているきらいがあると思う。最高権力者としての毛沢東とこれに挑戦するナンバー2。そして、「最強の政敵」を牽制するための周恩来起用。そして、かかる毛の意向を常に効率的かつ極めて有効に実施する周恩来。時には周が毛の「政敵」として立ち現れる局面が出現するが、周自身がそこでうまく身をかわすという構図。それゆえの「不倒翁」という評価。

 本書が扱ったすべての事例を再検討したわけではないが、中国共産党が執政党となる以前と以後においてもこの構図は不変であったと筆者は認識しているように感じた。本書を貫くモチーフである。ただ、「王明」路線問題、1950年代におけるいくつかの「荒波」、「文革」期における劉少奇問題、林彪問題、そして「批林批孔」運動など、あまりに多くの事例を同じ構図で理解しようとするため、逆に「本当にそうなのかなぁ...」という単純な疑問が研究者としては浮かんでこざるをえない。

 いずれにせよ、時間の関係上、普段は「つまみ読み」が多い私だが、本書はきちんと最初から最後まで逐次脚注を参照しながら読み終えることができた。価格も上下巻込みで4000円弱とお手頃である。是非とも手に取って頂きたい。

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□2007年3月24日(土)  国際関係研究会

 母校の国際関係研究会に出席。新年度から日中関係論の基礎ゼミを開講することもあり、少しでも先生方にご挨拶できればと思い参加。卒業式や修士学位授与式の前日だけに参加者はわずか。地方統一選挙を控えていることもあり、ローカル・マニュフェストを総合的に分析したマスター院生の報告は面白かったが、所定の目的は果たせずに終わった。

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□2007年3月22日(木)  入園説明会

 新年度からお世話になる公立保育園での入園説明会に参加。すでに預け慣れていることもあり、私などはそれほど神経質にならなくて済んでいるが、2歳や3歳で子供を初めて預け始める親の神経質さは見ているほうが疲れる。特に平日なのに夫婦で参加している場合は、説明者に対する不満がエスカレートしやすようだ(2年前の私たち夫婦もそうだった)。

 それにしても、きちんと説明を聞かずに諸々の用品を「勇み足」で買い揃えて、説明会で少し切れ気味になって「キャラクターの入った上履きを買ってしまったのですが、子供のマークと名前を書く場所がありません。白い上履きは絶対に必要ですか?靴が無駄になってしまいますが、どうしたらいいのですか!」というのはどうか。そういう親は一事が万事で、同じような性質の質問を繰り返す。説明書を読むのが苦手なタイプらしい。最終確認してから買い揃えろよ...。

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□2007年3月19日(月)  名探偵?

 先週末、日記を「吉報の兆しであることを心の底より祈る」と結んだが、本人より早速リアクションを頂いた。一足早く来た彼の春に書斎で一人祝杯をあげた。

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□2007年3月18日(日)  保育室のお別れ会

 今日は保育室のお別れ会。新年度から息子が公立保育園に移るため、2年以上もお世話になった保育室とももうすぐお別れである。

 子供が生まれてみないと地域社会と「接合」する必要性が理解できない、とよく言われるが、私たち夫婦もまさにそうであった。その意味でも、保育室という小さなコミュニティのなかで、子供を媒介としたコミュニケーションをとる訓練を積むことができたこの2年間は、私自身にとっても大変貴重な時間となった。

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□2007年3月16日(金)  年度末

 新年度より中国語の授業を担当する予定の母校経済学部の先生より電話。「急遽ある方が出講をご辞退されたので、担当のクラスを調整したい」とのこと。研究会の友人が出講を辞退したようだ。年度末で人事異動の時期でもある。深読みかもしれないが、吉報の兆しであることを心の底より祈る。

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□2007年3月15日(木)  中国現代史研究会

 中国現代史研究会出席のため駿河台の明治大学へ。報告は筑波大学大学院の井上さんによる「戦後、『中国残留日本婦人』家族の『生存空間』と撫順地域社会」。最近、多くの事例研究がなされるようになった「中国残留日本人」問題に関するものである。

 氏の研究視角、あるいは問題意識は極めて重要である。いわゆる「記憶の歴史化」を目指す場合、多くが手記や口述記録などを基礎「資料」として事例研究を行い、「歴史」を描こうとする手法を用いるが、氏は、極めてアリティを持つ事例を緻密かつ丁寧に整理・分析したうえで、やはり第一次「史料」を利用した客観的な歴史事実の認定の重要性を訴え、ある意味において「合目的」的な研究のあり方に対して問題を提起する。

 私の個人的な見解としては、「中国残留日本人」問題において、ある種の連続性を重視する場合、「後期集団引揚」の本質や特殊性を見間違う恐れがあると考えている。そこにある「ねじれ」や「断絶」は、表面的な先行研究整理や刊行「資料」分析では、容易に理解することはできない。

 かかる理解無くして、今日的な評価の基準から1950年代、あるいは国交正常化前の日中関係を評価することは、もとより「歴史化」を行う際の基本的な手続きである、史料批判すら不十分になる恐れがあると思う。

 氏は修士を終え、めでたく超優良企業へ就職されるとのことだが、荒削りながら研究のセンスの良さが実感できる良い報告だった。

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□2007年3月14日(水)  上海から六本木へ

 午前9時5分発の飛行機で上海を出発。予定通り午後1時前には成田へ到着。本来であれば 、自宅へ直帰するところだが、今日はどうしても参加したいシンポジウムがあった。

 中国社会科学研究会は「留日学人」が集う研究会である。今日は同会の創立20周年記念シンポジウムが国際文化会館で予定されていた。この研究会に参加している日本人はあまりいないのだが、私の師匠が初代代表を務めていたこともあり、年次シンポジウムには出席するようにしてきた。

 完全に参加できたのは最後の「日中関係」に関する総合討論のみであったが、長年日本を拠点として研究を続けてきた中国人研究者が、自己認識を獲得しようとして、いかに日々葛藤しているのかについて、いろいろと知ることができた。

 もっとも、本人たちも強く自覚しているように、「マージナル」な存在であり、なおかつ極めて限られた特殊な体験を経てきた「選ばれた人々」の認識と理想が、いわゆる今日の日中関係の表層を規定している、我々に「見えていない部分」にどのように影響を与えることができるのか、あるいはそこでいかなる「使命」を果たせるのかという問題については、具体的な方法論を含め、考えさせられることも多かった。

 閉会の辞で語られた「森になることを目指すなかれ 。まずしっかりとした木であることが重要だ」という言葉、さらに加藤氏が語られた「崇高な『理念』とそれを実現するための確固たる『組織』の重要性」という言葉は、自分が関与している数多くの研究プロジェクトにおいて「自分がなすべき貢献は何か」という、重要な問題に大きなヒントを与えてくれた。

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□2007年3月13日(火)  準備会議




 上海出張の目的であった準備会議。ものすごいメンバーである。石源華先生の司会で始まった基調講演は、我が母校が誇る姫田先生。シンポの趣旨と素案を説明。最初のセッションは尊敬する楊奎松先生が司会をされ、復旦に移られた葛兆光先生、華東師範の余偉民先生、師匠、社会科学院の李文先生が個別報告。ここで詳細は書けないが、意見交換では「研究の視点」という問題を軸に議論が行われた。

 続く第2セッションは余先生の司会で、石源華先生、楊奎松先生、沈志華先生、そして復旦歴史系の金光耀先生による個別報告。やはり自分の専門に近い、「棚上外交」論(勝手に命名)の石先生、中ソ関係と「モンゴル」問題に関する新発見を紹介した沈先生、そして何より1950年代の中国外交とミャンマー問題を扱った楊先生の報告に刺激を受けた。もちろん、他の報告もいずれも質の高いものである。

 特に楊先生の分析枠組みは、私が扱っている中国の「対日和平外交」と極めて密接に関係するテーマであり、「革命輸出」、「華僑問題」、政府対抗勢力、「親中」などの諸要素が複雑に絡み合っていることからも、多くの刺激を受けた。そして、何より葛先生の学問に対する姿勢とその学問の深さに大変な感銘を受けた。

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□2007年3月12日(月)  終日仕事

 私以外の参加者は会議や研究調査に忙しく動いていたようだが、私は終日ホテルで翻訳。もっとも、昼食は一人で邯鄲路(大柏樹バス停付近)にある四川料理の店で、辛い辛い紅焼牛肉飯と肉団子スープを食べ、その後は腹ごなしに魯迅公園まで散歩してみた。




 中山北路を南下して、斜めに入っていくと上海外語大学を突っ切る形で魯迅公園に着く。徒歩30分ぐらい。魯迅のお墓に参った後、「紀念館」を見学。もう学生ではないので8元。現物史料の展示が多かったこともあり、結構楽しめた。

 内山書店の主人である内山完造氏との交流に関する展示は、松井氏が内山氏とも交流(日中間における図書流通という仕事の関係上。この縁が戦後の日中友好協会における活動といかに関係しているのかについては、あまり明確ではない)があったこともあり、やはり「松井さんの上海」を感じた。

 夜は準備会議参加者が集まっての会食。第一線で活躍する冷戦史研究者を囲み、現在の中国学界の状況と出版事情などについて、意見交換。膨大な公文書や档案を駆使する実証研究の最先端にいる研究者だけに、やはり敏感にならざるを得ない部分があるようだ。

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□2007年3月11日(日)  なぜか上海




 陽水ではないが、翻訳をはじめとする仕事をいくつもかかえながらも、今日はなぜか上海へ。母校の日中関係発展研究センターが年内に予定している国際シンポジウムの準備工作会議に出席するためである。「貴重な機会だから」と師匠に強く勧められての上海行である。

 今回は中国東方航空を利用。行き慣れた北京であれば、出発時間の遅い「北西」航空でも構わないが、恥ずかしながら上海はこれが初めてなので、安全策として明るいうちに着ける便にした。ありがたいのは、機内でビールが飲めること。「北西」はアルコールが追加チャージなので、ちょっと欲求不満になってしまう。

 無事に到着。すでに師匠は他用で外出していたため、とりあえず食事を済ませ、ホテルの部屋で残っている仕事を進める。復旦大学近くの宝隆賓館は、部分的な改装工事を行っていたが、部屋は静かで、宿泊した20階は見晴らしもよく(窓からテレビ搭が綺麗に見える)仕事がはかどった。

 今回は時間が短く、会議出席が目的の上海行のため、市内散策は想定していなかった。私が本格的に研究を始める発端となった史料を遺した「松井松次」氏が、上海日本近代自然科学図書館の職員として、また居留民団青年部のまとめ役として戦前の上海で活躍していたこともあり、当時の雰囲気を知るべく「バンド」ぐらいには行きたいと思っていたのだが、半分は諦めていた。




 だが、そこは師匠である。到着初日の夜遅く、超凝縮「上海の夜めぐりツアー」を敢行してくださった。上海と言えば外せない「外灘(ばんど)」、戦前の上海の面影を残す「和平飯店」、雰囲気がありながらも、なんとも形容し難い「老年爵士バンド」など、夜の上海を満喫。

 特に外灘に騒然と並ぶ旧租界時代を髣髴とさせる西洋建築物は、70年前に松井さんが見たものとほとんど変わりがないとのことで、不思議な気持ちになった(単なる感傷に過ぎないが)。そして、その反対側には東方明珠塔を筆頭とする超現代的高層ビル群。このコントラストが上海の魅力なのだろう。

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□2007年3月8日(木)  ご協力ありがとうございました

 後輩夫婦の力強い協力を得て、投稿論文の英文要旨が無事完成した。最終原稿ともどもメール送信し、これでひと安心。急いで旅券の手配に出かけた。

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□2007年3月7日(水)  違いのわかる男

 音楽にうるさい男にするため、息子には胎教の段階からフレディを聞かせてきた。一番のお気に入りは「Under Pressure」。心地よいベース音と「ウンババベ」の響きに参っているらしい。

 どうせ分からないだろうと思い、試しに「Kueen」のCDをかけてみた。だが、「HERO」が始まって、某氏が歌い始めた途端、「これQueenじゃないよ」の一言。

 目下、英才教育は成功しているようだ。

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□2007年3月5日(月)  新しい相棒

 中国語の電子辞書が発売された時、新し物好きの私はすぐに購入し、その後使い続けていたのだが、ちょっと息子に貸したら、どこかに行ってしまった。おもちゃ箱を探しても、本棚の隙間を探してもどこにもない。いったいどこに行ったの私の電子辞書ちゃん(やなせけいこ絵本風に)。

 急ぎの論文翻訳の仕事があり、紙の辞書では効率が悪いので、思い切って新しいのを購入することにした。これまで使ってきた電子辞書はまったくの初期型だったので、より使いやすいものを選ぶことにした。譲れないのは、(1)辞書の質が高いこと、(2)新語に強いこと、(3)手書き入力ができること、(4)できれば中中辞書が入っていること、(5)できれば英中・中英辞書が入ってこと。

 現場で検討した結果、音読機能は不要なので、『中日大辞典』が使え、なおかつ『現代漢語詞典』も備え、講談社版の『日中』『中日』、様々な新語辞典、さらには英中、中英辞典も入っているキヤノンのWORDTANK G90に決定。まぁ、元はすぐに取り返せるだろう。

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□2007年3月3日(土)  会議と研究会

 お昼は新年度から非常勤で中国語の講義を持つ経済学部の担当者会議に出席。諸先生方の昨年度の講義経験をうかがうにつけ、「柔軟な対応」が必要であることを痛感する。使用するテキストも希望のものに決定し、今後は具体的な内容に即した準備に入ることになる。

 午後は多摩から本郷へ。戦後東アジア国際政治研究会にて報告。主たる報告は、同研究会幹事長である杉浦氏による「1950年代の中国外交における『情報』」に関するもの(正式な論題は研究会のHPでご覧ください)。中国外交档案を利用した緻密な研究報告。

 一方、私の方は「中国残留日本人孤児・婦人と現代日本社会―国家賠償請求訴訟をめぐる現状と課題」という簡単な報告をさせていただき、若手の国際政治研究者がこのような問題をどのように捉えるのか、意見を頂くことにした。

 同じ時代を扱う若手研究者の、特に中国外交档案を利用した研究は刺激的である。二人とも中国外交部の档案を対象に調査を進めているのに、収集・分析している档案が全く異なるのが面白い。と同時に、档案分析の視角も方法も研究者によって様々であることを改めて感じた。論文の完成が楽しみである。

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□2007年3月2日(金)  史料リスト整理

 終日史料リスト整理。午後、入院中の父の見舞いに行ったが、往復の電車の中でもひたすらエクセルでの入力作業。

 最近、新たに筆写、複写を終えた日本外務省の戦後外交記録、そして年末に調査・収集してきた中国外交部の档案(1956年〜1960年分)を、これまで整理してきた史料リストに補充する。新たに加わった史料項目を時系列で「並べ替え」る瞬間、新たな着想に恵まれることもある。

 疲れが溜まっているのか、このところ夕食後の記憶がほとんど残っていない。

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□2007年3月1日(木)  再び『秘録』

 午前中、短い原稿を二つほど作成。急に請け負った仕事だったが、迷いなく一気に書き上げた。お役に立てれば幸いである(『秘録』の「周恩来像」が乗り移ったか?)。

 午後は資料整理を継続。合間の息抜きに同業者のブログをチェック。同じような研究テーマに取り組んでいる院生が、ブログで自分の師匠の論文をあからさまに批判していた。信じられない。師匠が毛さんならば、大変なことになるだろう(やはり『秘録』の影響)。

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