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大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


研 究 日 記
(2006年11月)


□2006年11月29日(水)  満蒙開拓青少年義勇軍

 ハーバード大学フェアバンクセンター副所長スレスキー氏を迎えての講演会。1938年以降、10代半ばの少年たち86,530名が「満洲国」へ渡ったという。国境付近の訓練所に配置された彼らは、終戦直前のソ連軍の侵攻により24,200名が命を落としたという。

 満蒙開拓青少年義勇軍の歴史的評価は様々である。中国側からすれば、確かに「日本軍国主義の最も若き尖兵」という評価も成り立とう。ただ、彼らの大部分が東北や信州の農家の三男や四男であったこと、あるいは当時の日本の農村地域の疲弊状況、さらには終戦時に彼らが陥ることとなった悲惨な状況を想起すれば、その評価は一面的であるべきではないだろう。

 「青少年の視点」から当時の日本社会を考察するというスレスキー氏の視角は斬新であった。訓練所の運動会における勝敗判定をめぐって「義勇隊員」同士の武力衝突にまで発展した「昌図事件」(1939年5月)を、「『建前』に彩られた当時の軍国主義日本社会―大人社会」に対する「反抗」と分析する氏は、一種彼らの「被害者的側面」をえぐり出したものといえるかもしれない。

 もっとも、「昌図事件」が本当に「『建前』に彩られた大人社会に対する青少年たちの反抗」であったのかという点については、より慎重な検討が必要とも思われる(この点は質疑応答で議論させていただいた)。実際、彼らの襲撃は日常の「仲間」、つまり「上級の隊員」に向けられたものだった。この点からも彼らの「反抗」の動機が「大人」に対する「反抗」であったのか、あるいは「仲間同士のいざこざ」に過ぎなかったのか、より深い考察が求められよう。

 結果的に、襲撃した側と襲撃された側(反撃した側)いずれもが関東軍機関銃隊や憲兵によって拘束され、その大部分が起訴されている(もっとも同年内に全員が釈放されている)。

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□2006年11月27日(月)  インフルエンザ予防接種(2回目)

 2回目のインフルエンザ予防接種をさせるため、終日息子と過ごす。父親に似てよくしゃべるので、意思疎通は容易である。電車が大好きで、散歩に出ると、一駅でも電車に乗りたがり、まだ2歳にもなっていないのに、見事な発音で「小田急線!」と各駅停車を指差しながら興奮気味に駅のホームで絶叫している。

 頭も自分で洗うようになった。シャンプーでごしごし、シャワーで頭を流すのも自分でする。私が小学生だった頃、確か「シャンプーハット」などという商品が発売されたが、息子には必要ないようだ。「グッド・ボーイ!」とつぶやきながら、右手でガッツポーズをして泡まみれになって頭のてっぺんからお湯をかぶっている。そんな息子は、まるで修行僧のようである。

 もちろん、注射をされても「グッド・ボーイ!」とつぶやきながら、右手でガッツポーズをしていた。ちょっと複雑な心境である。

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□2006年11月25日(土)  基礎演習

 来年度、母校で担当することになっている基礎演習に関する教員用資料一式が法学部事務室から届いた。かつて履修する側だったのが、講義を持つ側になるというのは、なんとも複雑な、くすぐったい感じだ。

 兼任講師ながら、教員コードも頂くことができ、情報共有のためのポータル・サイトのIDやパスワードも発行され、後はじっくり準備をするだけである。これまで暖めてきたことを大事にしながら練っていきたいと思う。

 演習のタイトルや方針、内容、ゼミ生募集の方式、使用するテキストの決定など、「教育」という面に意識を強く持つべき段階に到達したことを実感した。

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□2006年11月24日(金)  初期化

 無理な操作が祟ったのか、ウィンドウズ・ファイルが壊れ、パソコンが起動できなくなった。色々と試みたが、リカバリしかないとの結論に達する。

 ハードディスクは全て初期化...。もっとも、毎週外付けのハードディスクでバックアップを取っているため、被害は最小限で済んだ。実害は外交史料館での入力作業一日分である。

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□2006年11月23日(祝)  誕生日

 33歳になった。息子もいるし、立派なおじさんである。せめてカッコいいおじさんでありたい。

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□2006年11月22日(水)  締め切り1ヶ月前

 某研究所年報に投稿する論文の執筆を開始。すでに書き上がっているものを凝縮する作業になるが、これが結構難しい。3割ぐらい圧縮しなければならない。なお、学内の紀要だが、査読があるとのこと。

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□2006年11月20日(月)  フットワーク

 午前中は後楽園キャンパス。午後は国会図書館へ。終戦後の旧「満州国」地域における「引揚」問題に関するプレゼンテーションを仰せつかったこともあり、若干詳細な文献調査を行なう。もっとも、一番複写したかった論文は著作権法の関係で「半分」までしか複写できないとのこと。いつものことながら「法の壁は厚いなぁ...」と思いながら、「複写せず」家路へ。

 帰宅すると学部時代以来ずっと本当にお世話になっている先生からちょうど電話を頂く。夕刻なるも、多摩キャンパスへ一目散。最低限の準備すら出来なかったが、とりあえず明日、本番に臨むことになりそうだ。

 あっちこっち行った一日だったが、「・・日記」の先生に比べれば...。

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□2006年11月18日(土)  戦後「満洲」史研究会

 暫くご無沙汰していた戦後「満洲」史研究会に参加。報告1時間、質疑応答1時間で計2時間のセッションを2つこなすという長丁場の研究会だったが、時期と地域が限定されている研究会だけに、質疑応答も楽しめた。

 研究会自体の運営に事務局が思いのほか慎重を期しているようなので、このホームページで研究会などの具体的な内容を紹介するのは差し控えたいが、上智と筑波の院生による報告2本が行なわれた。

 前者は抗日戦争期や国共内戦期における中国共産党のラジオ政策、後者は戦後「満洲」における「満影」の変遷を扱ったもので、いずれも中国共産党の「ラジオ」や「映画」を手段とした宣伝政策を扱ったものであった。

 人文系の研究会ということもあり、質疑応答のあり方などについて戸惑う点は多々あったが、クローズドな研究会としては、それで良いのかも知れない。「枠組み」、あるいは「構成力」や「構想力」という点について考えさせられた。

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□2006年11月17日(金)  史料整理

 書斎の整理も兼ねて終日史料整理をする。できれば年内に一度は北京に档案調査にでかけたいので、これまで調査・収集した档案、すでに調査を終えた友人からもらった档案目録を睨みながら、档案調査のおおよその予定を立てる。

 今年に入って随分と閲覧室も混むようになったとの情報が入ってきているので、「目録確認」から「档案閲覧」までの効率的な作業手順をシュミレーションする必要がありそうだ(もちろん、中国での事なので、「想定の範囲外」にぶち当たった時には、深呼吸をして、交渉後に潔く諦めることも大事である)。

 教授会で正式に来年度の兼任講師就任が決まったとのこと。さて、本格的な準備に取りかからねば。このホームページも「プレ・ゼミ」を意識したリニューアルが必要だろう。

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□2006年11月16日(木)  外交史料館

 読み残していた史料を確認するため外交史料館へ。寒くなってきたせいか、閲覧者も一時期に比べて少ない。必要部分をパソコンに入力して、早めに出る。

 帰宅後、来月下旬締め切りの論文執筆のための史料確認をする。2万字でまとまるだろうか...。

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□2006年11月11日(土)  「日本論」講義

 母校大学院で講義。とは言っても、修士論文提出まで一ヶ月余りとなったこの時期、どの講義もなかなか人が集まらないようだ。

 題目は「『内なる外』から見た日本―『中国帰国者』を取り巻く現実」。今年度後期の日本論は「外から見た日本」というシリーズであったが、「内」であるにもかかわらず、深刻なアイデンティティ・クライシスに直面している人々の視点から現代日本社会を照射してみようという試みである。

 正直なところ、講義準備を始める前は、研究者の立場から不十分な歴史事実の認定を前提として進んでいる諸々の国家賠償請求訴訟のあり方について、批判的な問題提起をしようと考えていた。

 しかし、準備を進めるなかで、さらには大学院での「講義」という性質から、私の考え方がどうであれ、現状をまず客観的に紹介し、なぜ「中国帰国者」、特に中国残留日本人孤児や中国残留日本人婦人の方々が国を提訴せざるを得なくなったのか、さらには彼ら原告となった人々はどのような視点から日本のこれまでの引揚・帰国政策、あるいは援護・支援政策を見ているのか、を紹介し、これを題材に参加者で議論を深めるほうが良いだろうという結論に達した。

 レジュメの構成は以下の通り。

 T 「中国帰国者」とは誰か
 U 国家賠償請求訴訟の現状とその争点
 V 歴史的経緯を振り返る―「棄民」という視角から
 W むすびにかえて

 Tでは、定義や分類、さらには帰国から定着までの支援制度の実際、そして「中国帰国者」を取り巻く現状をまとめて紹介した。

 Uでは全国における提訴状況を確認し、特に昨年7月の大阪地裁判決と今年2月の東京地裁判決を比較し、今後、2006年12月1日(神戸)、2007年1月30日(東京)、2007年4月25日(広島)、2007年春(名古屋)に次々と出される各地裁判決の方向性と可能性について分析を加えた。

 Vでは、「第一の棄民」、「第二の棄民」ならびに「第三の棄民」についてそれぞれ紹介し、引揚問題を中心に戦後日中関係史を研究する研究者の立場から、それぞれの「棄民」について評価を加えた。

 そして、最後のWでは、総合政策学のあり方と関連づけて、「問題発見」の重要性、「社会的正義」と「学問的態度」の衝突、「各学問領域のモジュール的集合」の場としての「国家賠償請求訴訟」という点について言及した。

 政策学のみならず、法律学、社会学、教育学、さらには歴史学が複雑に絡み合う、内容豊富な報告になってしまったが、時間も十分頂くことができ、できるだけ丁寧にゆっくりとお話することができたので、参加者の皆さんも細かい所までご理解いただけたのではないかと思う。質疑応答も充実したものとなった。

 訴訟戦略的に見れば、原告を絞って提訴するのが良いのかもしれない。しかし、「適度な集中と適度な分散」という状態に置かれ、また情報発信をしていくにもなかなか困難な状況に置かれている彼らが、全国規模の「訴訟」という方法で自らの「存在」を日本社会全体に対してアピールする一連の本訴訟は、日本社会において「内」であるはずの彼らが、「母国」において「疎外」されている自らのアイデンティティを確認するために提起しているものであるといえよう。

 もちろん、勝訴することによって彼らが生活の安定を獲得するという点も極めて重要である。しかし、それと同時に、我々日本社会の構成員すべてがこの本訴訟の提起する問題の重要性を受け止め、彼らを取り巻く日本社会の現実と「美しい日本」という掛け声とのギャップを真剣に考え、認識を新たにして、この訴訟の行方を注視していく必要があろう。

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□2006年11月8日(水)  第二稿脱稿

 査読結果が戻って来ていた「幻の日本人『戦犯』釈放計画と周恩来―中華人民共和国外交部档案をてがかりに」の第二稿が完成した。初稿について言えば、若干、某研究誌が持つ歴史的背景や特性に配慮が不足していた面もあったように思われる。

 「理念」と「戦略」は両立するものであり、物事は常に多面的である。来年度からの研究に向けて、大変良い勉強をさせて頂いた。

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□2006年11月7日(火)  予行練習

 院ゼミの時間を頂いて講義の予行練習。レジュメはまだ3分の2程しか完成していないのだが、視角の新鮮さと問題の深刻性に高い評価を頂いた。総合政策研究科での講義ということもあり、「政策」の立案から実行、さらには評価という「政策」過程の全体像を意識したものにしたいのだが、力量不足のようである。

 特に「評価」という問題については、「評価」する主体が誰なのか、あるいは評価の結果、「政策」が著しい被害を招来した場合の補償はいかにして行なわれるべきなのかなど、行政訴訟をはじめとする「司法」の問題とも深く関連してくるため、それこそ専門家とのコラボレーションが必要となってくる。学部時代にかじった知識を援用するにしても限界があろう。

 母校の「総政」は専門家のコラボレーションの舞台となり得るのか...。

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□2006年11月6日(月)  お祝い

 午前中は某研究所関連の仕事で教授に随行。某研究奨励金採用内定のお祝いとして永田町にある星陵会館でご馳走になる。ヴァイキング形式だが、本格的で大変美味な料理が並ぶため、平日にもかかわらず大盛況である。レトロな感じの内装も独特の雰囲気を持っている。是非とも嫁さんとも一緒に行きたいスポットである。

 午後は複写し残していた文献を入手するため国会図書館へ。長らく館外貸出になっていたのだが、ようやくの「御帰館」である。日赤で社会部長を務められていた高木武三郎氏の『最後の帰国船』は、引揚問題研究を行なう研究者であれば必携の書であり、7年ほど現物を探しているのだが、未だに入手できない。全国の図書館でも所蔵しているところはごく僅かである。

 週末の「日本論」講義に向け、レジュメの取り纏めを始める。『判例時報』をちゃんと読むのは学部以来のことである。法律の勉強が今になって役立っている。

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□2006年11月2日(木)  議論の全体像...

 歴史的事象を如何に評価するのか。「歴史認識」がこれを大きく左右する。「中国帰国者」と戦後日本社会という問題を論ずるにあたり、いくつか交通整理をする必要がありそうだ。

 まず時期区分の問題。やはり、日中国交正常化の前と後は分けて論ずるべきだろう。次に視角の問題。「国家による『棄民』」という視角と「個人レベルでの選択」という視角。振り返るに、全てを一律に「不本意であった」とするにも問題があろう。確かに『帰国』か『残留』かの選択をした(迫られた)人々が存在したことも事実であった。さらには「中国帰国者」の内実。「残留の不可避性」や「孤児」、「婦人」の分類。「一世」と「その配偶者」、あるいは「二・三世」、さらには「帰国」か「移住」か...などなど。

 確かなことは、現在、問題が厳然として発生しているということ。そして、その問題の背後には、国家権力の特質という問題以外にも、どうやら日本社会特有の文化的要因があるということ。「ムラ」と「個人」、あるいは「イエ」と「女性」という視点。さらには戦後における「核家族化」の進展。「受入れる側」も多次元である。ただ、かかる「多次元性」から生じる問題を調整するのが「政策」の本旨であるともいえよう。

 戦前からの「歴史的文脈」を過度に強調し(いわゆる「国策」という視角)、特定の主体の「不作為」が全体を貫いていたと論ずるよりは、諸要因が混在する中、特に国交正常化後の一時期について「顕著な不作為」を見出す方がより客観的であり、説得力があるようにも思われる。

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□2006年11月1日(水)  途中棄権...

 今日も普段通り朝から外交史料館へ出かけたのだが、ひどく体調が悪かったのでお昼前に帰ってきた。一昨日は緊張して、昨日は興奮してほとんど眠れなかったので、その反動だろう。

 今月下旬には33歳になる。龍馬の逝った年齢である。これまで以上に身体に気を遣わなければ、良い研究もできない。中国と米国での留学も視野に入ってきたし...。

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