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大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


研 究 日 記
(2005年2月)



□2005年2月17日

 1955年に行なわれた第一次ジュネーヴ交渉に関する部分を執筆中。英米の公文書を利用した先行研究が近年蓄積されている。いずれも「政策」に分析の照準を合わせている。一連の「人道問題」解決交渉の文脈において本交渉を如何に位置づけるか。鳩山内閣の「自主外交」と人民政府の「人民外交」が交錯するなか、「日中民間人道外交」が最も政治と密接になる時期である。「Oral Statement」以後のアジア局第2課の中国政策と実際の日本政府の対中行動をどのように評価するかが焦点か。日本人「戦犯」帰国問題交渉である天津会議の詳細を検討することで、この時期の日本政府の中国政策、人民政府の日本政策の一側面が描き出せれば良いか。踏み込みすぎれば全体とのバランスが崩れる。断絶のなかの交渉経路確保。陳先生の業績の偉大さを改めて実感。


□2005年2月10日

 とある先生から中国語論文の翻訳依頼をいただく。刊行される論文集なので、順当に行けばこれも【翻訳】の業績に加えられるだろう。また、指導教授から緊急の翻訳の仕事をいただく。研究者略歴の翻訳作業。この作業を通じて、現在第一線にある研究者もその経歴には幾多の困難と挑戦があることを知る。平坦な道でないことを改めて自覚。


□2005年2月9日

 蓄積していた疲れが一気に出たようだ。夕刻から激しい動悸と共に腹痛が発生。昨年もこれに似たような症状で2日間七転八倒した。健伸のお迎えにも行けず、初日からパパ失格である。


□2005年2月6日

 指導教授が研究グループを組んで実施する委託研究に研究員(事務連絡を兼務)として参加することに。私は日中間の歴史認識問題と委託研究課題とを関連づけたテーマに取り組む予定。私の主たる研究テーマとも関連する課題を設定し、研究を進める。


□2005年2月5日

 博士論文執筆も第2部にあたる第3章に突入。ここでは吉田内閣末期の第一次李徳全訪日を扱う。同代表団の「経済使節団」的側面をどこまで踏み込んで書くのかが課題。もちろん、翌年の第三次日中民間貿易協定締結交渉に際しての中国側代表団の訪日を意識しないわけにはいかないだろう。あまりだらだら書きたくない一方、骨子に言及するだけではちょっと物足りない感じもする。

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