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大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


研 究 日 記
(2004年10月)



□2004年10月28日

 しばらく風邪にてダウン。とはいえ、託された仕事はきちんと(?)終えて大学に向う。なんとかして努力の成果をT田先生(政治学科某教授HP風に表現)にお渡しするためキャンパスをうろうろ。幸運にも出会えて(T田先生は探そうと思うと、だいたいキャンパスのどこかでばったりと出会う)任務完了。苦労の甲斐があり、昼食をご一緒させていただいた。

 中国研究所さんから書評論文の抜き刷りが届く。『中国研究月報』第680号(2004年10月)が刊行されました。


□2004年10月24日

 ビック・ニュース!これまで日常の買い物は、いずれも歩いて10分ぐらい(自転車で3〜4分)のスーパー3軒(サミット、オダキューOX、京王ストア)をその日の気分(もちろん、食べたいものは何かという気分)で選択していたが、なんと自宅から徒歩1分弱のところにあの「肉のハナマサ」がオープンすることになった(それも今週の木曜日)。ホール・セールで有名な同店だが、近年、首都圏に出店攻勢をかけているようだ。安値のものから、ある程度良いものまで幅広い品揃えを誇り、なによりも1度に大量買い付けのできる同店のオープンは、私の研究時間を奪う「買い出し」を大きく短縮させてくれることになりそうだ。どれほどの規模なのかはまだ不明だが、息子を抱っこして買い物に行くのにも、徒歩10分と徒歩1分では大きな違いである。本当に良いタイミングである。日頃の行ないの賜物か...


□2004年10月23日

 終日論文再校原稿のチェック。今回の仕事とは関係ないのだが、せっかく校正した原稿が最後まできちんと直してもらえなかった時の失望感は大きい。刷り上った論文を読んで愕然とする。校正に割いた時間を返してくれと思うことがある。三校までやっても駄目だった経験がある。風邪気味のため終日外出せず。


□2004年10月22日

 ソ連経由日本人「戦犯」の形成過程の検討を行なうため、いくつか文献を読む。もとよりロシア公文書に直接アクセスすることによる「再構成」までは想定していないので、先行研究の精読が欠かせない。幸い、関東軍の入「ソ」問題については、近年、ロシア人研究者による原資料を利用した詳細な研究が出ているため、これが再検討の下地となろう。これを書き上げると、博士論文に直接関係する在華残留邦人の形成過程に関する考察が完了する。

 「葉もの」野菜が高い。10日ぐらいまえから徐々にレタスやキャベツ、ほうれん草や小松菜などの値段が急上昇していたが、台風23号の影響でさらに高騰している。関西ではレタス1個が1050円になっているそうだ(近所のスーパーだと298円)。家庭の財布をあずかる者にとっては、辛い買い物が続く。


□2004年10月21日

 午前中は「汐留」。午後は自宅にて「事務作業」。それにしても今年の秋刀魚は美味しくない。脂が乗っていない。値段もおかしい。選び方の問題か?1尾63円のがあると思えば、1尾440円のものまで同時に並んでいる。通常、秋刀魚がだんだん移動(南下)することで水揚高も増加し、「庶民」プライスに落ち着くはずなのだが、高い秋刀魚は相変わらず高止まりである。むろん、価格の開きは漁の方法にもよるのだろうが、そのあまりの開きに、「生」と「解凍」のトリックすら疑いたくなる。基本的にあまり安い値段のものは買っていない。くちばしは黄色く、眼は透明で、あくまで太めのものを選んでいる。「冷凍」ものでないことは内臓の状態からわかるが、「みっちり」とした脂が乗っていない。みなさん、今年の秋刀魚、どうですか?

 追伸。今日の秋刀魚は2尾のうち1尾だけ「みっちり」脂が乗っていました。もちろん、嫁さんに食べてもらいました。


□2004年10月20日

 台風23号が関東を直撃。ゼミ休講のため終日研究。指導教官に某新聞に掲載された日中関係論評に対する意見を求められるが、我が家は熱烈な「日経」派(妻が大学院に通い始めてからそうなった)。某紙を求めて雨の中へ。運良く新聞配達所で入手。明日に備えて論点を抽出。対日新思考と「歴史認識」問題の棚上げ。しかし、その問題の存在を我々は常に意識し、意識していることをアピールする必要がある。外交は「転換」せざるを得なくなるものである。ならば主導権を獲得すべきである。


□2004年10月15日〜17日

 淡路夢舞台で開催された国際政治学会も無事に終了。地方開催の本格的な学会に参加するのは初めてではあったが、遠路遥々でかけた分、その収穫も大きかったと思う。明石名物・玉子焼、明石タコ飯も食することができた。

 個人的な収穫や反省は置くとして、やはり、大学院に進学した場合、研究者を目指す、目指さないとにかかわらず、できるだけ早い段階でこのような本格的な学会の全国大会参加は経験しておくべきだろう(コストはかかるが...)。たとえ修士の院生でも、プロの研究者が全身全霊をかけて研究報告し、質疑を受け、これに応答する様子を目の当たりにすることは、自らの研究内容や水準を客観視するために極めて有効だろう。特に大学院生が激増している今日、少しでも他者との差別化を図るためには、このような姿勢が欠かせないのではないだろうか。これは自分自身に対する反省でもある。

 今月末は仙台開催のアジア政経学会である。本当に楽しみである。


□2004年10月9日

 台風が関東を直撃した大荒れの午後であったが、研究報告を敢行。取り敢えず、論文掲載の為の要件を満たすことができたようだ。無論、帰路は傘がひっくり返り、背広はずぶ濡れであった。院生時代の良い思い出となるだろう。


□2004年10月1日

 明日で帰国。最終日は国史館が休館ということもあり、普段なかなか行けないところに行くことにした。

 台北から高速バス国光号で1時間20分。桃園駅前でさらに地元のバスに乗り換えて40分。大渓鎮でさらにバスに乗り換えて15分。慈湖に到着。最近、蒋介石氏が台湾に埋葬されることになったとの情報を入手した。そうなると慈湖の蒋介石氏の陵寝を見る機会はこれが最後かもしれない。以前から行きたいと思っていたが、機会と気力がなかった。確かに大渓から慈湖に向うバスの本数を考えると...。結局、ガイドブックもほとんどあてにならなかった。

 蒋介石の故郷に似ているという大渓鎮。中正紀念堂などに展示されいてる浙江省渓口鎮の写真を思い浮かべると、確かによく似ていた。緑に囲まれた盆地。洗濯板のようになった岩が無数に広がる川辺。慈湖に到着し、黒鳥と白鳥が舞う碧まぶしい慈湖を右手に見ながら進むとすらりと、すらりと背の高い憲兵が迎えてくれる。さらに山奥に進むと蒋介石氏が「仮安置」されている陵がある。平日ということもあり、僕以外にここを訪れる人もいない。迎え入れる側にも戸惑いがあるようだ。蒋介石氏が「仮安置」されている黒大理石の巨大な棺の前で十字を切り祈る。ここで改めて蒋介石氏がいまだ葬られていなことを実感する。不思議な感覚だ。

 慈湖の附近は現在大規模な工事を行なっている。公園を建設しているようだ。その公園はまだ3割程度しか工事が進んでいないが、そこには百体を越えるさまざまな蒋介石氏の銅像が立っている。まさに「蒋氏集結」といった趣である。これらの銅像を少年時代に私は毎日のように見ていた。そう、かつて台湾全土の町中のいたる所に立っていたあの銅像である。現在は街からそのほとんどが撤去されているが、それらがここ慈湖に集められているようである。破壊を好まない台湾の人々らしい。そういえば大渓の老街は他の老街と違い、本当に重厚だった。大渓の蒋公紀念堂も修復工事中であった。

 どんな観光地に行くよりも心に残るものがあった。

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