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大澤 武司
(Dr. OSAWA Takeshi)



 


研 究 日 記
(2004年1月)



□2004年1月25日

 2004年1月18日,中国外交部档案館において新中国成立以降の外交文書(今回は1949年以降1955年まで)が公開された.どのような形態で公開されたのかなどの詳細な情報はまだ入手できていないが,外交部関係者に直接聞いたところによると,私が専門としている1950年代の日中「民間外交」について体系的に文書が公開されているのかは不明とのことであった.また,地道な作業が始まりそうだ(これが最大の楽しみ).「周―廖」ラインにおける指示に関する文書などがあれば,随分と私の研究も深みが出てくるのだが...


□2004年1月16日 12月初旬から書き始めていた論文の第一稿が完成.とは言っても,これから推敲を重ねる必要があるので先はまだまだ長い.だが,なんとか形にはなったのでひと安心.

 幸運なことに,日本と台湾との実務関係を処理されている「交流協会」の台湾派遣青年団のメンバーに選んでいただいた.私が最後に台湾を訪れたのは前回の総統選挙の時である(まだ確か学部生のときでした).あれから四年.立法委員数問題や原発問題,連・宋聯合,住民投票問題など,数多くのニュースが伝えられる台湾だが,今回の総統選挙はこれからの四年だけでなく,八年先までも決定する選挙と言われているだけに,両陣営とも必死である.再び総統選挙を現地で観察できることに今から興奮している.


□2004年1月上旬

 私にとって,博士課程における研究は,修士課程において大雑把に削りだした「氷の彫刻」を,より丁寧に細部にわたって細工して「作品」として完成させるような感じである.資料公開によって新たな項目をつけ加えることも可能となったが,そのこと自体はあまり本質的な問題ではない.標準修業年限の3年は極めて短い.この間に,数本の論文(査読付き論文複数を含む)を発表し,なおかつ「大部」の博士論文を仕上げるということは並大抵のことではないだろう.この間に在外研究も考えなければならない.ただ,研究の性質上,本格的な在外研究の時期をいつに設定するのかというのは頭の痛い問題である.

 なんとか妻が修士論文を最終提出することができた.「日本企業の雇用慣行変質過程における企業内福利厚生――企業の福利厚生アウトソーシング戦略の検証」というなんとも経営学チックな題名の論文は,分量こそ多くはないが,なかなか面白いものであった.現状において進行しつつある傾向の裏に潜むものをある程度まで掴み,これを指摘できたことは,修士論文としての最低限の基準には達しているのではないかと思う.少なくとも「字」の書いてある本を大量に読むようになったことは大学院生活の何よりの収穫であったと言えよう.

 史料はまだ未着.


□2004年元旦

 新年に志も新たに独白。本人以外にとっては何の意味もない文字列。

 大学に戻ってすでに6年が過ぎようとしている。当初は「大学院に進めるのだろうか」「どこまでやれるのだろうか」など、全く先の見えない状況だった。そのこと自体はいまだ何ら変わっていない。次から次へと新たに生まれ来る課題は決して易々と解決できるものではなく、その困難の度合いは増すばかりである。

 結局、この6年間で何ができたのか。社会人として猛烈に仕事をしていた2年間と比較して、その生産性はどうであったか。その質は。自分をきちんと追い込めているのか。いま、机に向って書斎を見渡してみても、増えたのは本の数ばかり。その中心に座っている自分自身の内実は果たしてこれに見合うほど成長したといえるだろうか。中国語や英語は駆使できるようになったのか。30代になった自分のあるべき姿を明確に描けているのか。40代になるまでに達成すべき目標は脳裏の石碑に深く刻み込んであるのか。何が実現できるのか。そして、何を実現したいのか。そのためには何をすべきなのか。

 私生活は随分と変わった。結婚して独立した。妻が職業人であり、大学院生であるため、自宅にいる時間の長い自分が自然に家事を担当するようになった。料理が上手くなった。家計簿は欠かさずつけている。洗濯も掃除も大好きである。確かに研究の時間は減るが、良い気分転換となっている。アルバイトをしなくて良いのは妻のおかげであり、また、教授のご支援のおかげである。その点、このような恵まれた環境が成果に反映されているのかと言うと、心許ない。

 人間というのは不思議なものである。大学を卒業して勤めた企業は「モウレツ」な成長企業であった。起業家であるオーナー社長による徹底的な社員教育は、私を良い意味でデューク東郷(ゴルゴ13)のように「臆病」にさせた。「数字」こそ「人格」。このような考え方がいまも私の心の奥底に根強く存在している。正月も落ち着かない。

 かと言っても、まだまだ下手な料理人である。オーダー(社会の?)に応えるにはさらなる修業が必要である(これは甘えか、言い訳か)。大学院生として4年(確かに標準修業年限は5年だが、私としては「まだ4年」という感じが強い。これも甘えか)。目標で「あと2年」。32歳がひと区切りになりそうだ。そこには就職問題が待っている。

 国分先生から賀状を頂いたのが新春最初の喜び。

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