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名建築が次々に壊されていく

 ここ数ヵ月、新聞では、名だたる建築または古民家が相次いで姿を消していると紙面で報じられており、次々と古い建築物が新しい建築物に取って代わっていくようである。

 京橋にある中央公論ビルが解体されているそうですが、この建築は昭和59年度の日本建築学会策貧小に選ばれた建築で、設計者は芦原義信氏で、彼の出世作品だそうです。

 解体の理由はごく簡単で、今の生活には馴染まないとのこと。IT化するにも分厚い壁が邪魔になってしまうということで、建て直すしかないと言うことだそうです。

 日本では、名建築もそうでない建築も区別がつかないようで、使い勝手が悪ければすぐに建て替えるようで、どのように使えば良いか工夫をしない。

 ヨーロッパでは、古くても良い建築は補修をしながら現代生活にあった工夫をしながら残していこうとする姿勢が見られるが、日本ではそれがまるでない。

 今年、芸術院会員になられた建築家、長谷川逸子が設計した静岡精華学園の研修施設・眉山ホールも85年度の建築学会賞を受けた建築であったが、築後わずか5年で取り壊しになったそうで、海外ではとても考えられないことです。

 去る3月には目黒・碑文谷グラウンドに残っていた旧日本勧業銀行本館別棟が取り壊されました。

 この建築物は、勧銀から目黒区役所が購入したが、維持費がかかりすぎるのと出入り口をつくるのに邪魔になるからとの事。しかし現場に行ってみると、場所はかなり広く他の場所へ移動すれば十分に使えると思うのだが。

 この建物は明治時代に活躍された建築家・妻木頼黄の設計ではないかと言われているが、確たる資料がなく分からないのが現状のようです。しかしながら区役所では建物の隅々まで調べずに取り壊したのである。もしかしたら小屋裏に設計者の名前が書かれていたかもしれなかったのである。

 妻木建築家の設計した建造物はなく、幻の建築家と言われているだけに非常に残念である。

 建築関係者はもとより、一般の方々の保存の要望も無視してまでも取り壊す無神経さ。なくなればただの物語になり、建築を志す人たちにとってマイナスにしかならない。

 先の二つの建築と、この碑文谷の木造平屋建ての名建築も、もはや夢の建築物となってしまったのである。

 人間である以上もう少し知恵を働かせてなんとか後世の人たちに残せなかったのかと思うと、非常に残念でたまらない。

 少しはヨーロッパの建築に対する思いを見習ってもらいたいものです。

 

2000年)

 

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