20

大工の中村です――数寄屋建築の第一人者

 「大工の中村です」。京都で数寄屋建築の第一人者である大工の棟梁、中村外二さんが生涯、人に自己紹介した言葉でした。

 富山県に生まれ、そこで大工の修業をされ、後に京都に出て、建設会社の手間請負をしつつ中村外二工務店を創設。大工と言う職業に誇りを持ち、90歳で生涯を閉じるまで工務店の社長とは言わなかった。

 中村さんの所では、大学を出ていようとも大工として工務店に入った者には最初は現場の掃除、飯作りから始める。道具はすぐには持つ事はできないそうです。中村さんの口癖は、現場に来ない建築家は駄目だという事で、現場を見て肌で仕事を感じ取るのだと言うのも我々の思いと同じだと思います。

 中村さんの所へ時折、材料を求めに工務店の車が来るそうですが、それは材木屋と間違えて来るのだそうで、そこらの材木屋よりは材料が豊富で京都市内に5ヵ所あるとのこと。

 古材を大切にしており、磯崎新氏の茶室の床柱は薬師寺を解体した古材が使用されております。資源確保のためにも、使える材料は使っていけば、そこで使われた木材が生き返ると思われます。

 中村さんの手による建物は日本全国にあり、大阪万博の日本庭園の建物は中村さんによってつくられたものです。80歳になって初めて自宅を造ったそうですが、そこには人の体にやさしいつくりが見られるようです。このような数寄屋の美しい建築が代々続く事を願うばかりです。

1998年)

 

TOP    BACK