沖縄の「集団自決」

625日号)

文部科学省は3月、08年度から使用される高校・日本史教科書の検定結果を発表した。それによると、沖縄戦の「集団自決」について、日本軍が強制したとの記述に、「日本軍による強制または命令は断定できない」との意見をつけ、その結果、すべての教科書で日本軍の関与について否定する表記となったという。

「集団自決強要」の記述を教科書から削除するよう求める取り組みは、2年ほど前から「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーらがおこなっているし、同様の主張をしている政治家もいる。なんか圧力でもかかっているのかね。

集団自決については、「住民を自決に追い込んだことが問題なのに、軍の命令の有無に矮小化している」との指摘もあるし、また「日本兵が慶留間の島民に対して“山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよ”と命じた」との住民の証言がのった報告書も米国公文書館で発見されている。

沖縄戦戦没者の「慰霊の日」を翌日に控えた622日、沖縄県議会は全会一致で、この検定意見の撤回と記述の回復を求める意見書案を可決した。

要は「史実をゆがめる」ことを許すかどうかだ。「沖縄のことだから」なんて他人事扱いせずに全国の都道府県議会ももっと動こうよ。

 

 

責任の取り方

615日号)

時代劇といえば、チャンバラや切腹を思い浮かべますが実際は、めったに見られないものでした。特に徳川家の公式資料によれば、250年間でわずか20件しか報告されていません。

はじめは合戦で、勇気を証明するためにおこなわれていたのが、江戸時代になり、平和になると刑罰や責任の取り方としての切腹が主になりました。

近ごろ、現職の大臣によって「死んでお詫びする」という現代の切腹のような行動がありました。当人は、ひとつの責任の取り方としておこなったつもりでしょうが、結果的には政治とカネの問題をうやむやにした形になりました。

こうしたことを書くと「使者にむち打つ」として批判を受けるかもしれません。しかし、あえて書いたわけもあります。というのも先ほど250年間で20件しか切腹がないと書きましたが、この20件は罪に対して調べに調べを重ね、どうしても切腹しか方法がないと決定したうえでの罰の執行だったのです。

それに比べて今回の件は「説明責任」を果たさなかった点で、決定的な違いがあると言えるでしょう。もっとも、周囲から説明させてもらえなかった、とみる人もいます…江戸時代が終わってから、私たちは「責任の取り方」について何を学んできたのでしょうか。

 

 

ゼロの会

65日号)

老年者控除の廃止。年金所得控除の引き下げ。医療機関での窓口負担の引き上げ。ここ数年、政府が次々に実施してきた高齢者への施策の数々である。とくに医療費負担増は、人命や生存権にかかわるひどい仕打ちだ。

そんななか、今年、「医療費の窓口負担ゼロの実現」のみを目標とする「ゼロの会」という団体がうまれた。

会ではまず世界各国と日本の実情を比較している。

患者の窓口負担をみると、カナダやヨーロッパ11カ国では負担ゼロ、フランスはほぼ全額償還払い。政府は「医療費が高い」というが、国内総生産(GDP)に占める医療費の割合では、日本は先進30カ国中21位に過ぎないという。

また30兆円の国民医療費についてはこう説明している。医療費の75%は、全患者数の25%の人による高額な費用を要する病気が占めていて、残り25%が75%の患者に使われている。したがって患者負担を増やして受診を抑制しても、このなかの数%の医療費が抑制されるだけで、逆に受診をガマンした結果、病気が重症化し、かえって医療費が多くかかってしまうこともある。

同会では「医療費財源が足りない」と政府が言うと簡単に信じてしまう国民性の意識改革も視野にあるようだ。確かに。みんな物分かり良すぎだもの。

 

 

巻物から国歌まで

525日号)

棟上の日、棟梁が供え物の前で、はらりはらりと巻物を広げる。全国でこんな様子が見られるのは、今や福島県の一部だけといいます。親方が一人前になった弟子に伝える、建築にまつわる儀礼、大工道具の由来、工事にかかわる日の吉凶を記した「番匠巻物」が、今も当地には伝えられています。

巻物の中には呪い(まじない)歌といって、その家の長寿や工事の安全を願う和歌がいくつか載っています。例えば火災から家を守るための歌は「霜柱氷のはりに雪のけた雨のたるきにつゆのふき草」という和歌。頑丈で長持ちする家の完成を願う歌には「君が代」の元になった歌が使われているそうです。

君が代の歌詞らしきものが最初に載ったのが平安時代にできた「古今和歌集」と言われていて、はじめは恋人の長生きを祈る歌だったようです。それが、祝い事を職業とする芸人が家の主の繁栄を祈る歌に使うようになり、やがては天子のために歌われるようになっていったのでしょう。

巻物から国家まで、いろいろと取り上げられることの多い「君が代」ですが、時代や社会、歌う人によって受けとられ方が変化してきたようです。最近の問題でも、利用する人間によってゆがめられているのかも。まさに「歌は世につれ世は歌につれ」

 

 

平和憲法について調べてみると

55日号)

9条をターゲットとした改憲論議が、とうとう現実のものとなってきた。「武力行使の放棄」と「戦力の不保持」が書かれた9条。「恒久平和」を誓った憲法前文。日本国憲法が「平和憲法」といわれるのは、この2つに由来している。そこで、今日はここらをちょっと調べてみよう。

9条の役割は「武装解除」だった。すなわち「他国を侵略するために武力を行使した国・日本に対して、二度とそんなことができないよう武装を解除しなければいけない」ってのが目的だったらしい。

憲法前文では「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」し、「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること」を誓っている。これ、誰に対して誓っているのかというと。日本国民が自分に対して誓っているのはもちろんだが、日本が侵略し、危害を加えた国に対しても約束しているのだそうだ。

改憲は他の国でもおこなわれているが、根幹となる基本原理じたいは一切手をつけてない。9条を変えるのは、平和憲法の「平和」の部分をなくすってことになるし、根本を変えることになる。学説的には「憲法の基本原理そのものを改正・削除、侵害することは法論理的には認められることではない」んだそうです、議員のみなさん。

 

 

グローバル化

425日号)

例えがかなり古い話になってしまいますが、皆さんはチャップリンの映画「独裁者」をご存知でしょうか。アドルフ・ヒットラーそっくりの独裁者・ヒンケルが、世界をもてあそぶように風船の地球儀で遊ぶシーンが印象的です。

「全球化」この言葉は中国語で「グローバル化」の意味で使われています。「グローバル化」を直訳すると「地球規模化」になるように、世界的企業(巨大ファーストフード店など)の国境を越えた活動や、インターネットなどによる世界規模での文化や知識の交流で、様々な問題が一国では解決できなくなっている状態を指す言葉としても使われます。グローバル化=全球化、とはよく言ったもので言葉はもちろん、問題の本質までついているような気がします。

だけど、一つにまとめられたのはいいが、それがやっかいな物であればあるほど、扱いには気をつけなければ大変なことになるおそれがあります。独裁者ヒンケルが地球に見立てた風船で遊んだように、その”球”はみんなまとめて悪い場所に投げられることもあるのです。

今年からアメリカ・大リーグで投げることになった松坂がイチローに向けて投げた一”球”、野球のグローバル化もまた日本のプロ野球にとっては吉か凶か?

 

 

音楽の教科書

45日号)

演歌の大御所・北島三郎の『まつり』が、今年から高2の音楽の教科書に、譜面・歌詞入りで登場することになった。『まつり』――今さら説明するまでもない名曲だ。カラオケ自慢の方なら、「勝負曲」としてレパートリーにしているに違いないし、○○さんがパワフルに歌う姿を思い浮かべるという人も多いだろう。

この曲、歌詞は「農業や漁業で働く人たちの心意気」が歌われていて、「和」の雰囲気だが、注目すべきは太鼓のリズム。米国のロック歌手、ボ・ディドリーが発明したといわれているリズム、「ジャングル・ビート」を大々的に取り入れていて、けっこう洋風なのだ。

最近の音楽の教科書は、ヒット曲の導入がものすごい。『翼をください』なんてのはもう古典で、『夜空ノムコウ』『世界にひとつだけの花』(SMAP)、『ツナミ』(サザン)、『晴れたらいいね』(ドリカム)など、平凡の歌本かいな。『スモーク・オン・ザ・ウォーター』が載っている教科書もあるらしいし。

そこで音楽の教科書をつくっている方にお願い。来年はぜひ、日本経済が飛躍的に発展した高度成長期を象徴する名曲『スーダラ節』『だまって俺について来い』あたりを採用してくれないでしょうか。なに、お呼びでない?

 

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