「In Heart」第三話「破戒・創造」-後編-




 あかり。
 ザァーッ。
 付けっぱなしのラジオ。
 不快な電波のノイズ。
 不安定な世界。
 痛い心。
 不安。
 不安。
 怖い。
 怖い。
 なにが怖いの?
 なにが怖いの?
 自分の心が?
 悲しい心が?
 …。
 …。
 それとも。
 自分を見失うこと?
 …もう、見失っちゃってるもん…。
 浩之ちゃんを見失うこと?
 …。
 えっ…?
 浩之ちゃんを見失う…?
 …。
 !!!



 応接室。
 そこには、頭を撫でる青年と頭を撫でられているロボットがいた。
 長瀬は、目の前で一体なにが進行しているか、理解できなかった。
 それはそうであろう。
 目の前に広がっている世界は、想像できるものではなかったからだ。
 青年…もちろん浩之…ロボット…もちろんマルチ…も、あっ、と言うような顔をしている。
 浩之の手が硬直している。
 …。
 …。
 …。
 気まずい雰囲気だ。
 と、長瀬が感じたと同時に、浩之が声を上げた。
「あっ、あのときのっ…!」
 そうなのだ。
 浩之の方は、長瀬を知らないのだ。
 あのとき、長瀬は自己紹介などしなかったから。
「こんにちは…よく来てくれたね…藤田君…でいいかな?」
 そんなこと、別にいいよ、という風に長瀬は言った。
 ごまかした、と言った方がいいか…。
 何となく、釈然としないモノはあったが、浩之は
「こんちは…浩之でいいっす」
 とだけ言った。
 そんな浩之にたいしてうなずきながら、長瀬はマルチを見た。
 マルチの目には、涙が浮かんでいた。
 …主任…。
 …お久しぶりですね…あえて…嬉しいです…。
 頭の中で、次々と言葉が出てくる。
 が、声が出ない。
 弱々しく口をぱくぱくさせていたマルチだったが、やがて
「…主任…」
 と声を出した。
 泣き声だった。
 そんなマルチに、長瀬は父親の笑みを浮かべると
「…マルチ…久しぶりだね…元気だったか…?」
 と呼びかけた。
 マルチが鼻をすする。
 そして。
 駆け出すと、長瀬の胸に飛び込んで、大泣きを始めた。
「…ううっ…ううっ……うっ…主任っ!お久しぶりですぅー!お元気でしたかっ?…うっぅ…主任…主任っ…」
 そんなマルチをみて、なんだかほほえましいと感じると同時にムッとする浩之…。
 …父親にはかなわねーか…ま…久々だもんな…ゆるしてやるか…。
 んー、なかなか大人だな、俺って。
 そんな自分に酔っている浩之。
 全然大人ではない。
 一方、長瀬はマルチの肩に手を置き、なだめてから
「マルチ、幸せか…?」
 と聞いた。
 その質問に、浩之もはっとする。
 マルチに注目する。
 マルチは、ちらっと浩介を見た後、長瀬を見上げ
「…はいっ!好きな人と一緒ですからっ…!」
 と、力強く答えた。

「マルチ、君は点検があるだろう。開発課の方へいきなさい」
 と長瀬がいい、部屋の電話を取ると、
「…俺だ…あぁ…マルチが来たよ…迎えに来てやってくれ…」
 と言って、電話を切った。
「マルチ、今、迎えが来るから」
 そう言って
「浩之君、なにか飲むかい?コーヒー?紅茶?」
 と訊ねた。
「あっ、じゃ、コーヒーを…お願いします」
「分かった」
 と言って再び電話を取り、
「コーヒー二つ」
 と言った。
 なかなか様になっている。
 鳩にエサをやっていたときは、さえないオヤジだったが、心なしか白衣も似合って見える。
 この人が…マルチの父親か…。
 こんな風貌してるけど、すごい人なんだろうな…。
 威厳ある長瀬に少し気圧されてるよな浩之。
 何となくシュールな状況を打破しなきゃ、と浩之は色々考えてみるが、いいアイデアが浮かばない、というか、緊張してるんだろうな。
 …だらしないな、俺。
 マルチが不思議そうな顔で浩之を見ている。
 マルチに向かって、べつになんでもないよ、とはにかんでみせる。
 マルチも笑う。
 そのときだった。
 バンッ。
 すごい勢いで扉が開いたかと思うと、いきなり、何着もの白衣…もとい…何人もの研究員が部屋に駆け込んできた。
 そして、
「うわー、マルチだっ。ひさびさっ!」
「マルチちゃーんっ!元気だったっ!」
「可愛い服ねー。彼に買ってもらったのー?」
「マルチ、マルチッ!俺のこと、覚えてるかっ!?」
 CIWSファランクスの様に言葉を浴びせる白衣…もとい…研究員たち。
「みさなん…」
 マルチはそんななかで、誰の質問に答えていいか困りながら、でもやっぱり、笑顔を見せていた。
 彼ら、彼女らは、長瀬直属の部下で、マルチの開発・教育を担当していた開発課の人たちだと言うことは、浩之にもすぐに分かった。
 …マルチ…。
 お前…、本当に、スタッフのみんなに愛されているんだな…。
 なんだか、すごく嬉しいよ…、俺。
 優しい視線をマルチに送る。
 それを見ていた長瀬は、満足そうにうなずくと
「あー、こんなところで騒ぐな、騒ぐな。マルチは点検できてるんだから、早く研究室に連れていって検査してしてあげなさい。質問はその後だ」
 と研究員に言い、マルチに
「じゃ、行っておいで」
 と微笑んだ。
 マルチはドアのところまで行くと、こっちにくるりと振り向き、言った。
「じゃ、浩之さん、行ってまいりますね」
 浩之は答える変わりに手を振ると、マルチがぺこりとお辞儀をしながら扉を閉めた。
 それと入れ替わるように、セリオがコーヒーを持ってきた。
「どうぞ」
 セリオが言う。
「あ…どうも」
 そういってコーヒーを受け取り、早速、口にする。
 インスタントではない、コーヒーだった。
 来栖川はちがうなー、浩之が感心する。
 ……ふぅ。
 
 さて。
 部屋には、長瀬と浩之のふたりが残された…。
 沈黙を破り、先手を取ったのは、長瀬だった。
「まずは…マルチを…娘を…かわいがってくれて、ありがとう」
 と言った。
 浩之は、
「いえっ、とんでもないっ。こっちこそ、昔のマルチを…俺にくださって…嬉しかったっす…」
 と恥ずかしげに言うと、てれるなーと言う風に頭をかいた。
 それから、浩之は、マルチがどんな目的をもって、長瀬らによって生み出されたか、そして、生まれてからのことを、事細かに聞いた。
 聞くことは、全てが全て驚くようなことばかりで、最後には、思わず
「…マルチ…ウチにいて…いいのかな…」
 と言ってしまった。
 マルチは…俺と…いることが…ホントに幸せなのか…?
 マルチを愛しているのは、自分だけではないという事実。
 俺は、マルチの事、なんにも知らない…。
 だが、長瀬は、そんな浩介の肩に手を置き
「君だからこそ、私たちはマルチを任せておけるんだ…」
 と、微笑んだ。
 …。
 長瀬を見つめていた浩之が、いきなり視線を足下に落とした。
 ?
 どうした、と長瀬が思い、訊ねようかとすると、浩之は、再び顔を上げた。
 今までとは別人のような顔をしている。
 ?
 不思議がる長瀬。
 浩之は、ゆっくりと口を開けると、いきなりこんな事を言った。
「長瀬さん…お願いがあります…」



「…なに…?」
 長瀬は耳を疑った。
 お願いだって…?
 俺に…なにを頼もうと言うのだ…?
「なんだね、そのお願いというのは…?」
 声がうわずっていたかも知れない…。
「マルチの…服従回路を…取っぱらって欲しい」
 そう言う声が響いた。
「…?…」
「マルチの心の中から…ご主人様と思う心を…消して欲しい…」
 そう、重々しく言った。
 長瀬は…すぐには言っていることが理解できなかった。
 ………。
 …この青年は…ひょっとして…。
 そうか…。
「…ご主人様…と…マルチは君を呼ぶのか…」
「…時々ですけど…思い出したように…」
「…そうか…」
「…すると…なんか…いたたまれない気持ちになるんです…あぁ、マルチは…って」
 …。
「…マルチには…恋人でいてもらいたい…。俺は…マルチとなら…どんなことがあっても、乗り越えていける…そう思ってます…。それなのに…ご主人様なのは…お互い辛いです…」
 …。
 俺の作ったのは…所詮…メイドロボットだったのか…。
 メモリーの一番最初のブロックに埋め込んでいる、服従回路。
 この青年は…。
 だが、長瀬は口を開いて、こんな事を言った。
「浩之君…、君は…ロボット三原則を…知っているかい…?」
 決して強い口調ではなかった。
 …。
 …そんなモノ…。
 …ふたりとも、同じ事を考えてはいた…。
 だが、長瀬は、ロボット工学の権威として、そんな言葉を出してこざるえなかった。
「それが、どうかしたんですか?」
 声が震えている。
 浩之君…。
「俺にとっては…マルチはマルチです…人間とか…ロボットとか…そんなモノじゃない…」
 分かってる…。
 それは…俺にとっても同じだ…。
 だが、それは…タブーなのだ。
 ロボットは、人間の管理下を出てはいけないのだ。
 その管理を司る、ご主人様、と言う概念…。
 …いつも迷っていた…。
 だが…この青年は…。
「…俺、最近…近所でも噂になってるみたいです…ロボットをかわいがってるって…」
「……」
「でも…やっぱり…俺にとって…マルチはマルチで…そんなの乗り越えて…マルチと幸せに…マルチを幸せにしたい…そう思って…」
「……」
「これからも…マルチを幸せでいさせてあげたい…アイツのためにも…マルチを…」
 マルチの幸せのためなら、タブーを犯してもかまいません。
 マルチの幸せのためなら、戒めを破ってもかまいません。
 マルチの幸せこそ、俺の幸せなのだから。
 そう、言っていた。
 浩之の目は、長瀬を見つめていた。
 ………。
 ………!
「分かった」
 長瀬は言って、席を立った。
「!」
 浩之も、顔を上げる。
 長瀬は、再び浩之の肩に手を置くと
「君は…すごいな…俺たちの迷いを…吹き飛ばしてくれる…いつも…」
「長瀬さん…」
「マルチは、君と出会えて…幸せだろうな…心から」
「…」
「俺たちのやろうとしていることは…」
「分かってます…でも、マルチなら…」
 長瀬はうなずいた。
 マルチなら。
 ふたりとも、マルチの心をなんかしらいじくることには、抵抗があった。
 だが、それ以上に、大切なことがあった…。
 ふたりにとっても、マルチにとっても。
「もうすぐ、マルチは戻ってくるだろう…」
「はい」
「きっと、研究員たちが、またマルチをここまで連れてくるはずだ。もしよかったら、彼らにも今のマルチについて、話してやってくれないか…」
「…はい」
「俺は、早速作業に入る。なに、そんなに難しい事じゃない。今日中に、君の家に送るよ」
「…よろしく…お願いします…」
 浩之は、深々と頭を下げる。
 長瀬は、ニカッ、と笑うとドアノブに手をかけ、開けた。
 長瀬は部屋から出ていった。
 応接室に、浩之一人。
 マルチ、お前の知らないところで、こんな事をしている俺を許してくれ…。
 だけど…。
 そして、再び扉が開く。
 大勢の研究員に連れられ、マルチが帰ってきた。
 マルチは、浩之を見ると
「浩之さん、ただいま」
「…お帰り」
 愛し合うふたりだけに許される空間が、そこにはあった…。



 !!!
 浩之ちゃんを見失う…?
 …!
 そんなの…。
 そんなの…。
 そんなの…。
 いやだっ!
 だって、だって…。
 浩之ちゃんは…。
 浩之ちゃんは…。
 私だもん。
 もう一人の…私だもん。
 浩之ちゃんがいるから…。
 今の私がいる…。
 悲しい私がいる…。
 泣いている私がいる…。
 弱い…私がいる。
「傷つくことを恐がる人に、人から好かれる資格なんてないよ」
 …私、恐がってた…。
 ずっと、ずっと、恐がって…。
 自分の気持ち、心にしまって…。
 いつか、浩之ちゃんが、気付いてくれると…。
 いつか、浩之ちゃんが、応えてくれると…。
 いつか、浩之ちゃんが、言ってくれると…。
 自分から、言い出さずに…。
 傷つくのが、怖いから…。
 ずるいよね、私…。
 …浩之ちゃんは、強かったよね…。
 傷つくことを恐がらずに、マルチちゃんに恋をしたよね…。
 マルチちゃんがいなかった二年間、ずっと心、痛かったよね…。
 その痛みがあるから、今のふたりがあるんだよね…。
 心の痕が、ふたりの歴史のあかしなんだよね…。
 …それなのに、それなのに…。
 …それなのに、私、私…。

 ぐるぐるに廻る 頭の隅で
 飛べない鳥は 祈りを忘れず
 叶わない約束を 待ってる
 あたしの中で 目を細めて笑う
 あなたは生きている


 電波が運ぶ。
 ノイズ混じりの唄。

 浩之ちゃん…。

 ぐるぐるに廻る 頭の隅で
 飛べない鳥は 祈りを忘れず
 叶わない約束を 待ってる
 あたしの中で いつまでもきっと
 あなたは生きている


 浩之ちゃん…。
 私…浩之ちゃんのこと…心の中で…殺そうとしてた…。
 忘れなきゃ、忘れなきゃって…。
 そうじゃないんだよね…。
 そうじゃないんだよね。
 浩之ちゃんは生きてるんだよね。
 浩之ちゃんは生きなくちゃいけなんだよね。
 浩之ちゃんが生きて私なんだよね。
 浩之ちゃんをひっくるめて私なんだよね。
 浩之ちゃんが生きて私も生きるんだよね。
 そうだよね…。
 そうだよね。

 心の奥底に、浩之がいる。
 あかりが手を伸ばす。
「来て…浩之ちゃん…」
 浩之がうつろな目を向ける。
「今まで…ごめんね…」
 浩之が顔を上げる。
「一緒に…いこ…」
 浩之が手を伸ばす。
 手が繋がる。
 心が解ける…。
 そして。
 心が。
 開いた。



 その日の夜、藤田家。
 充電中のマルチ。
 浩之が、メンテ用のPCを動かす。
 長瀬からのバイナリーメール。
 そこには、
「ありがとう…そして…よろしく…」
 というメッセージと共に、おそらく服従回路を消すであろうプログラムファイルが入っていた。
 長瀬さん…。
 ありがとうございます…。
 …浩之は、それをマルチにインストールした。
 …目覚めたとき、マルチは…。
 新しい、マルチだ…。



 朝。
 鏡に映る、自分の顔。
 久々に見たな…。
 いい顔してる…。
 自分でそう思えた。
 リボンを締める。
 心が、新しい自分を作る。
 今日からは、新しい自分だ。



「おはようございますー」
 部屋に響くマルチの声。
 毎日繰り返される光景。
 マルチは、いつもと変わりませんよー、と言った感じ。
 浩之は、ベットの上で、マルチをじっと見つめていた。
 その視線にマルチが気付く。
 頬を染めながら
「ど、どうしたんですかー」
 マルチ…。
 浩之は、だまってマルチを抱き締めた。
「ど、どうしたんですかー」
 再びマルチがいう。
 浩之は黙っている。
 そんな浩之に…。
 マルチは身を任せた。
 もう、メイドロボットではないマルチ…。
 マルチ。



「んじゃ、行って来るよ」
「いってらっしゃいませー」
 微笑むマルチ。
 そんなマルチの唇をサッと奪うと、浩之はニタッとわらい、放心状態のマルチのおでこを人差し指でピンッとはじき、ふたたび
「行って来るよ」
 と。
 あはは。
 なんだか、笑っちまうな。
 家のドアを閉める。
 振り向いて、駅に向かう。
 足取りが軽い。
 そうか、笑えるか、浩之。
 自分に問う。
 おう、笑えるぞ、心からな。
 近道の公園に入る。
 見慣れた後ろ姿が前に。
 あかりだ。
 脚が勝手に動く。
 走り出す。
 そして、その背中を、バシ、と叩いた。
 あかりが振り向く。
「よう、なにぼーっとしてんだ?」
 …いえた。
 なんの引け目もなく…。
「浩之ちゃん…」
 あかりは…微笑んでいた。
 …笑えた…。
「…朝から元気だね…!」
 …いえた。
 なんの引け目もなく…。
「そうかー?俺はいつも元気だぞー」
 浩之が腕をぶんぶん振ってみせる。
 そんな浩之を見て、微笑むあかり。
 変わらないようで、変わったふたり…。
 ふたりとも、成長したようだ…きっと、いい方に…。
「学校でしょ?急がないと、遅刻するよ」
「いいじゃねーか、遅刻したって」
「そう?」
「大学なんて、そんなもんだろー?」
「ふふ、それもそうだね…」
 そうして、ふたりは並んで、駅に向かった。
 
 見たいものに
 近づきすぎると
 かえって全体が見えなくなる

 あかりと浩之。
 幼なじみを越えて、初めてお互いを見つめあった。
 少し離れることで、互いになにを考えているか、解ったような気がした。
 浩之ちゃん…。
 あかり…。
 幸せになってね…。
 幸せになれよ…。
 お互いに…。
 …。
 …。

 木漏れ日が眩しい、初夏の朝だった…。



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