「In Heart」第三話「破戒・創造」-前編-




 午後一時半。
 あと少しで二時。
 娘が…、やってくる。
 娘の最愛の男(ひと)と一緒に。
 …。
 幸せか、マルチよ。
 お前は、この世に生を受けたことを、喜んでいるか?
 これからも、喜んでいけるか?
 …きっと、お前はこう答えるだろうな…。
「…はい、大好きな方と一緒ですから…!」

 来栖川電工「HM−12・マルチ」。
 同時にリリースされた「HM−13・セリオ」とともに、現在の来栖川製メイドロボットの主力製品で ある。
 両機種とも、もはや人間と相違ない外見と思考回路を有し、おそらく、メイドロボットと言う存在を知 らない人間が見たとしたら、人間としか思えないほど精巧なロボットだ。
 その上、性能はそれまでのメイドロボットを大きく引きはなしている。
 現に、マルチ・セリオに対抗しうるメイドロボットはマーケットに存在しないし、その開発製造元の来 栖川でも、これからのメイドロボットは、この二体をベースに、省電力化、メンテナンスの簡略化などの マイナーバーションアップ的な改良を行うにとどまるだろう、と言う結論に達していた。
 発売当時の専門誌では、「全ての面で、もはや、人間と区別のつかないメイドロボット」とし大きなて 脚光を浴び、業界内を震撼させた。
 同時に、倫理面で、大きな問題も呼ぶのだが。
 もっとも、注目の大部分はセリオに対してのモノであったが、セールス的にはマルチの方が価格面の有 利さのためか、そのセリオさえも上回っており、業界内の来栖川の地位を揺るぎ無いものにするのに、大 いに貢献した。
 その試作機が「HMX−12・マルチ」である。

 メイドロボットの開発サイクルは、車と同じ四年である。
 新機種発売後、二年間で基礎研究をすすめ、次の一年で設計、試作機作成、基礎試験、運用テストを行 う。
 そして、最後の年、前半で試作機のデータ分析、量産型スペック決定が行われ、後半で量産開始、量産 型によるモニター、耐久試験が行われ、華々しい発表と同時に、世の中へと活躍の場を求め、工場を旅立 っていく。
 「HMX−12・マルチ」は、その試作段階、第七研究開発室で生まれた。
 別チームで開発されていた「HMX−13・セリオ」とともに、次期来栖川電工主力商品として総力を 挙げて開発・作成され、その目標は、国内外シェアトップを揺るぎ無いものとする事だった。
 両試作機は、研究所員には「競合機種」として、運用テスト如何でどちらかが量産されると発表されて いた。
 だが、それは、真実ではなかった。
 なぜなら、もしそうならば、運用テストは同一条件下で行われなくてはならない。
 しかし、マルチとセリオは別の環境でテストが進められることが決定していた。
 つまり、この二機種の同時発売は、すでに決定されていたのである。
 そして、同一条件下でのテストでなかったのには、さらに大きな秘密があった。
 それは、「人間の対メイドロボットの意識調査」である。
 将来的にメイドロボットのオーナーになる様な、色々な集団にこの二機種を送り込み、メイドロボット のみならず、人間のリサーチをも行う。
 業界トップの来栖川による、したたかな戦略である。
 自社の研究員、商品、そして、第三者をも欺くように行われる運用テスト。
 …そして、二機種は、別々の学校という組織に送り込まれ、運用テストが開始された。
 メイドロボットは、試されていた。
 人間もまた、試されていた。

 どんな組織にも、はみ出しものがいる。
 長瀬は、そんな人だった。
 長瀬は、ロボット工学の権威だった。
 その才能には、計り知れないものがあった。
 その才能は、全世界から認められており、引き抜こうという企業が後を絶たなかった。
 本来なら、彼は来栖川電工の開発部門でトップの地位にいるような人物であった。
 だが、その才能故に、彼は組織の中で、はみ出しものになった。
 しかし、それ以上に、彼は出来た人間だった。
 自分が信じることをしたら、人がなんと言おうとかまわない、そんな前向きな、出来そうで出来ない考 え方が出来る人だった。
 彼は、今の地位に満足していた。
 今の地位を、逆に利用してやろうとしていた。
 彼は、来栖川と言う、世界最大級の企業組織など足元に及ばないほど、強い心を持った、大きな人間だ った。
 彼の部下は少なかった。
 しかし、その部下たちは、長瀬の考え方に心から賛同する、強い心を持った、信頼できる部下たちだっ た。
 頭数だけそろえれば、うまくいくもんじゃないだろ。
 彼は、そんな風に考えていた。
 そんな、彼の開発チームが、自分たちの理想、信念とメイドロボットの将来のために開発したのが「H MX−12・マルチ」だった。
 マルチには、セリオのような衛星ナビゲーションシステムは組み込まれていなかった。
 マルチには、セリオのような情報検索システムは組み込まれていなかった。
 どう考えても、上層部が納得が行くスペックでは無かった。
 だが、長瀬は基本スペックで勝負は可能と読んでいた。
 長瀬は知っていたのだ、12型と13型は、競合機種ではないと。
 両方とも、最終的には世に送り出される。
 コンペティションは、研究員の志気をあおるものにすぎない。
 ならば。
 マルチに、密かに「心」が組み込こんだ。
 嬉しいと感じる。
 悲しいと感じる。
 辛いと感じる。
 そして、愛しいと感じる。
 そんな「心」が組み込まれた。
 人間とロボットの共存を考える、長瀬らしいロボットだった。
 そうして、マルチは生を受けた。
 優しい研究員たちの元に。
 強い心を持つものたちの元に。



 あかり。
 ぐるぐる回る、頭の中。
 癒えない痕。
 ノイズ混じりのラジオ。
 心を開く鍵は。
 まだ。
 見つからない。



 そして、マルチは、基本性能テストを終えた。
 さすが長瀬の設計によるメイドロボットだけあって、機体の基礎性能は十分であった。
 実は、来栖川生え抜きの研究者の設計によるセリオより、数段上だった。
 脳に当たる、PNNC−205J型コンピュータには、長瀬が極秘に開発していた理論・非理論認識装 置がソフトウェアによりエミュレーション稼働するようしくまれており、一定の人格、すなわち「心」を 形成するようになっていた。
 これには、システムの負荷が大きく、同時に発熱量が大きいという問題はあったが、装置自体は稼働非 稼働を設定できるので問題は無かった。
 …基本性能テストの時は、その装置は非稼働になっていた…。
 そして、マルチがテストから研究室に戻った後、第七研究室の研究員たちは、それを稼働させ、マルチ を、マルチの心を育てていった。
 愛情を与えていった。
 我が娘のように。
 その行為は、他部署の知るところではなかった…。

 やがて、学校での運営テストが始まった。
 マルチは、来栖川家が理事をしている共学校に送り込まれることになった。
 長瀬は、マルチの理論・非理論認識装置を稼働させた。
 その装置は、下校時、バスを降りるとカットされるようセットされていた。
 そして、こういった。
「いいか、マルチ。いろいろな人と話をして、いろいろな人の役に立ってこい。学校なら、大勢の人がテストしてくれるからな」
 マルチは元気よく答えた。
「はいっ!」
 と。
 長瀬は、マルチに可能性を見いだしていた。
 きっと、この娘(こ)なら…。

 学校から帰ると、長瀬と部下たちは、マルチを囲み、その日会ったことを聞いた。
 口べただけど、マルチは一生懸命、その日あったことを話してくれた。
 本来なら、メイドロボットのデータ収集は、ロボットのメモリーから充電中にメンテ用PCの移すだけでいい。
 充電終了後、そのデータを閲覧すればいいだけだ。
 だが、第七研究室員たちは、それをしなかった。
 それは、言ってしまえば、プライバシーの侵害だからだ。
 マルチを、娘のように思っている彼ら、彼女らにとって、それは出来ない事だった。
 彼ら、彼女らは、マルチの言葉からだけ、データを収集していた。
 彼ら、彼女らにとって、マルチとはそんな存在だった。
 とはいえ、データはコンペティションその他に提出が義務付けられている。
 では、ありのままを公開するためのデータをどうしていたか…。
 …長瀬は、データをねつ造していた…。
 元々無いはずの装置を稼働させ、学校に送りだしているのだ。
 そんなデータを提出できるわけもない。
 従って、長瀬はマルチの報告を元に、人格非稼働時の事をシュミレーションし、あたかもそれがテスト結果の様にして、提出していた。
 …長瀬は、来栖川の犬ではなかった。
 …長瀬は、来栖川を利用していた。
 …ロボットと、人間の、将来のため。
 …いつかは、その事実がばれてしまうことが、分かっていても。

 マルチは、一生懸命だった。
 学校で、一生懸命だった。
 だが、使いパシリの毎日だった。
 長瀬の期待は裏切られた。
 というか、事実を突きつけられた、と言うべきか。
 生徒たちは、マルチをパシリとしか見ていなかった。
 所詮、ロボットはロボット…。
 機能のみが追求されるべき存在…。
 一生懸命なマルチを、生徒たちはいいようにこき使った。
「メイドロボットはいいよな。おれたちなにもしなくていいもんな」
「そうじなんて、ばからしいもんね。ロボットがいて、助かるわ」
 そんな声が聞こえて来るかのようだった。
 マルチは、一言もそんなことは言わなかったが、長瀬には分かっていた。
「ロボットに必要なのは、機能なんだよ、分かるかね、長瀬君?心なんて必要ないんだよ」
 上司の、いやらしそうな顔をセリフが頭に浮かぶ。
 …事実、現実、真実。
「…マルチ、学校は楽しいか?」
「はい、主任!いろいろなことがあって、楽しいです!みなさんのお役に立てて、嬉しいです!喜んでもらえて、嬉しいです!」
 ……マルチ。
 生徒たちは、喜んでないよ。
 当然のことだと思ってるよ。
 涙が出そうだった。
 健気なマルチ。
 この娘(こ)をこの世に生み出したのは、間違っていたのか…。
 この娘(こ)に、俺は、辛い思いしかさせていないのではないか…。
 いっそ、装置を稼働させなくさせてしまおうか…。

 そんな中、マルチは一人の男の話を聞かせてくれた。
「…主任…」
「ん、なんだマルチ?」
「…今日…、クラスのみなさんに頼まれたお仕事をしていたんですけど、男の人に助けていただいたんです…」
「ほう」
「その方は、ロボットにも得手不得手があるっておっしゃいました」
「ほほう」
「私は女の子のロボットなんだから、力仕事は向いてないだろって。その分、得意な事で役立てばいいんだ、とおっしゃいました」
「……そうか」
 …そんなヤツがいるのか…。
 …そうか…。
 …そいつなら、きっと…。

 それから毎日。
 マルチは、その男の話を聞かせてくれた。
 まるで、日課のようだった。
「今日は、浩之さん、ひとりでお掃除をしているところを助けてくださったんですよー」
「今日も、浩之さんとお話したんですよー。私の事、可愛い後輩の女のコみたいだって言ってくれたんですよー」
 などなど。
 その男の名前は、藤田浩之と言った。
 その男の話をするとき、マルチは本当に幸せそうだった…。
 …マルチ…お前…。

「今日…お昼休みに充電中…に…、ですね…」
「ん、なんだ、充電中になにかあったのか?」
「えっとですね…」
「どうした?」
「えっと、えっと…浩之さんに…その、その…胸を触られて…オーバーヒートしてしまして…」
 なぬ?
 胸を触った?
 その浩之というヤツ、マルチに性的興味を持ったというのか…。
 これはいよいよ…。

「あの…主任…?」
「どうしたマルチ…?」
「あの、私…謝らなくてはならないことがあります…」
「…どうしたマルチ…なにかあったのか…?」
「…あの…今日…浩之さんに頼まれて…」
 なにを頼まれたんだ?
「その…見せちゃいけない…耳を見せてしまいました…」
「なにー!」
「す、すいませーんっ!ごめんなさいー!」
 長瀬は驚いた。
 マルチが、我々の言い聞かせたことを破ったのだ。
 しかも、その青年の願いを聞きいれて。
 …。
 マルチ…。
「す、すいませーんっ!ごめんなさいー!」
 どうやら、神妙なかおをしていたらしい。
「あ、マルチ、怒ってないって。な、泣くな、マルチ」
「す、すいませーんっ」
 マルチと浩之。
 このふたりは…。

 そうして、毎日、マルチは報告と当時に、浩之との出来事を、長瀬に話した。
 明らかに、マルチは浩之に興味を持っていた。
 …それを、恋、というのだろうか…。
 マルチ…、お前…。
 そうか…。
 俺が、俺たちが、そう作ったんだもんな…。
 マルチ…、幸せか…?

 学校での運用テスト最終日。
 下校時にカットされた装置を再びオンにしたとたん、マルチが涙を流し出した。
「…うっ…うっく…」
「ど、どうしたんだ、マルチ!」
「……うっ、うっ…浩之さん…」
「マルチ!」
「…主任…、主任…」
「どうした?なにかあったのか?訳をはなしてごらん」
「…浩之さん…と…お別れ…するのが……悲しくて……」
「……」
「…いろいろしていただいたのに……お礼も……出来なくて……」
 マルチ。
 …そうか。
 成長したな…。
 それからマルチは、浩之の事を話し続けた。
 その話し方は、まさに恋する女のコのそれだった。
 マルチ…。
「マルチ」
「…はい…」
「じゃ、いまから時間をあげるから、行って来なさい」
「…えっ?」
「お礼、したいんだろ?お世話になったなら、ちゃんとお礼しないとな」
「……はいっ!ありがとうございます!主任!」
 そうして、長瀬はマルチを送り出した。
 マルチは、勇んで出ていった。
 …その先にある出来事は、安易に想像できた…。
 マルチ…、それでも、お前が幸せなら…。
 藤田君、だったっけ…。
 マルチを頼む…。
 マルチを悲しませないでくれ…。
 部下が聞いてきた。
「主任…、いいんですか…?その青年は…きっと…。ひょっとしたら…」
 続く言葉は分かっていた。
「…いいだろ…。マルチには…、恋をし…恋を成就させる機能さえ…備わっているのだから…もし…マルチが恋しているなら…俺たちに…それを止める権利はないよ…」
「主任…」
「……」
「…そうですよね…」
 マルチ…。

 9時過ぎ。
 マルチから電話が入る。
 大好きな方と、もう少し一緒にいさせてください…と。
 そうか…。
 その青年…。
 と、電話をきったすぐ後、部下が研究室に走り込んできた。
「主任!あのことが…ついに、感づかれたようですっ!」
 そうか、そのときが来たか…。
 おそらく、セリオとの会話の中でのマルチと、こちらの提出したマルチのデータの相違、そして学校からの報告だろうな…。
 感づかれたと言っても、今日、この時間だ…。
 調査は始まらないだろう…。
 責任が問われるのは、月曜の朝…。
 不幸中の幸いか…。
 長瀬は、部下を全員あつめ、
「このことは、すべて、俺がやったことだ。お前たちに責任はない」
 そう言い放った。
「だから、なにを追求されても、私は知りませんでした、と答えるんだ。分かったな」
「主任!おれたちは…」
「だまれ。これは俺が行ったことだ。それが事実だ。分かったな」
「わかりません!」
 別の研究員が答える。
「私は、主任が間違ったことをしたとは思えません…。…それに、マルチちゃんの事は、私たちの意志でもあったんです!」
 女性研究員が言った。
 開発チーム全員が、責任をかぶろうとしていた。
「…そうか…これから…辛いぞ…」
 長瀬がそう言うと、みんなは「にこっ」とわらった。
 みんなの心は強かった。
 意志は固かった。
 それは、ロボットと人間の将来のため、だった。

 それからが地獄だった。
 スペアパーツを利用して、用意して置いたダミーのマルチに、理論・非理論認識装置を排除したソフトウェア、さらにねつ造したデータに基づいたマルチをインストールする。
 なぜ、ダミーのマルチにインストールする必要性があったのか。
 それは、オリジナルマルチは、性器まで完全に装備されていたからだ。
 これは、本来タブーなのだ。
 なぜなら、それを持ったロボットはセクサロイドに他ならないからだ。
 そんなことまでばれると、倫理的にまずい。
 とはいえ、長瀬はどうにかするための手段を何重にも考えていた。
 研究員たちも、長瀬を信頼していた。
 きっと、マルチを救える。
 大切な、娘を守るため。
 一丸となって、働いた。

 次の日の早朝。
 タクシーで帰宅したマルチを、何事もなかったように研究所員たちは、迎え入れた。
 そして、口頭によるデータ収集…。
 いつもやってることだ…。
 あえて、性的交渉については聞かない。
 …女のコだもんな…。
 そして、充電というふれこみでマルチを寝かせ、データのバックアップを取った。
 よし。
 これで、マルチ本体は、このディスクだ。
 山はひとつ越えたな…。
 そして、マルチの体の保管だ。
 いつか、来るであろう日のために、このマルチをスクラップにするわけには行かない。
 裏口から、用意して置いた車で、マルチのボディーをウチに送り出す。
 長瀬家には、ロボットのための、それなりの設備と装備がある。
 そこで保管すればいい…。
 よし、これでいい…。
 あとは、青年だ…。
 量産型が発売されたら、買ってくれると言ったそうだな。
 一緒に想い出を作っていこうといわれたそうだな。
 俺は、お前たちを守るぞ。
 お前たちが、後々一緒に想い出を作るためな…。
 お前たちが一緒に想い出を作ることこそ、俺たちの夢でもあるんだからな…。

 そして、思ったよりも早く時はやってきた。
 日曜の午後、イヤらしい顔をした上司がやってきた。
 調査が開始された。
 ……。

 月曜、朝も早くから、会議が開かれた。
 マルチについてである。
 長瀬は、堂々とダミーのマルチを証拠品として提出した。
 そして、報告を行った。
「そのようなことは、いっさいございません」
 と。
 嘘である。
 しかし、データからはその件を立証することは出来なかったし、誰も反論できなかった。
 確かに、ダミーのマルチのデータは、学校での出来事が完璧に記されていたからだ。
 装置を働かせたか働かせなかったの違いでは、「出来事」が無かったことにはならないからだ。
 学校での目撃とデータが微妙に食い違っている、としかとらえようがない。
 長瀬は、その微妙なデータの食い違いは、人間の意識とロボットの意識の違いだと述べた。
 使う立場と、従う立場、その違い。
 裏で進行していた、人間の意識調査まで、さりげなく証言を広げ、マルチのデータの有効性を強調した。
 マルチは、あなたがたが必要としていたデータを持っていますよ、と。
 ますます、誰も長瀬に反論できなかった。
 そうして、うまく長瀬は責任の追及を逃れた。
 長瀬の方が、来栖川より、数段上だった。
 その上、来栖川にしてみると、長瀬に責任をとらせ、社を追放させることは、絶対に避けなくてはならなかった。
 長瀬は、大いなる戦力、金の卵なのだ。
 ここで長瀬が他社に流れるなんて事があると、業界トップの座が危うくなることは明確だった。
 会議は、午前中で終了してしまうぐらいあっけなかった。
 長瀬の完勝だった。

 午後、長瀬は、研究所を抜け出した。
 行き先は、浩之のところ。
 実を言うと、会える自信はなかったが、家は分かっている。
 地図を見て、だいたいここらを通るだろうと目安を立てて出かけた。
 顔かたちは、マルチの話をきいて、何となく分かってる。
 そして。
 長瀬は浩之と出会った。
 長瀬は、単なる怪しいオヤジみたいだったが、浩之は相手をした。
 そして、浩之にとってはなんでもない、長瀬にとっては誘導尋問的な会話の中、彼は言った。
「ロボットにも、心があった方がいい」
 と。
 長瀬は確信した。
 この青年なら、きっとマルチを幸せにしてくれる。
 そして、ロボットと人間の共存が出来る社会を作ってくれるだろう。

 半年後、マルチの量産が決定した。
 もちろん、オリジナルとして提出されたダミーのマルチをベースにしてだ。
 基礎性能の高さ。
 高性能装備の排除によるコストパフォーマンスの高さ。
 マルチの量産化には十分な理由だった。
 しかし、そのマルチには、心と呼ばれるモノは備わっていなかった。
 別に、会議で否決したとか言う理由ではない。
 長瀬は、悟ったのだ。
 まだ、この社会は、心を持ったロボットを受け入れるだけのキャパシティーがない。
 あせらなくていいのではないか。
 確かに、搭載するPNNC−205J型コンピュータには、その機能を与えることは出来る。
 だが、オーナーとなる人が、あの青年みたいな人とは限らないではないか。
 そうなると、心がマルチを苦しめることになる。
 心は、痛みさえ感じる。
 痛みの中、働くマルチなんて…。
 娘がそんな状態なんて…。
 マルチは寂しがるだろうが、かなしむよりはいい。
 だから。
 あせらなくていいのではないか。
 いつか、あの青年のような人間で世界が溢れたら、心あるロボットを俺も胸を張って送り出そう。
 そう、決心した。
 そんな長瀬の顔は、こころなしかすっきりして見えた。

 発売後、マルチは大ヒット。
 
 長瀬は、「HM−12」の注文リストを見ていた。
 そこには、「藤田浩之」の名があった。
 …そうか、買ったか…。
 …買ってくれたか…。
 長瀬は、机の中から、マルチのデータバックアップDVDを取り出し、それを眺めた。
 …マルチ、よかったな…。
 長瀬は優しく微笑んだ。

 彼は、直接ディーラーの元に赴き、浩之の手に渡るマルチを、オリジナルのマルチと交換させた。
 いいわけなどどうでもなった。
 彼は、開発責任者なのだ。
 ディーラーは、疑問に思ったことは思ったが、それをぶつける場所を知らなかった。
 こうして、マルチは、浩之の元へと帰っていく。

 ユーザー登録のはがきが届くと同時に、長瀬はバックアップDVDを浩之に送った。
 おそらく、マルチはDVDが浩之の元につき次第、目を覚ますだろう。
 二年ぶりの再会…。
 …マルチ、よかったな…。



 午後二時。
 受付から、浩之の到着の知らせが入った。
 長瀬は、自分の部屋を出て、応接室に向かう。
 そこには、娘と娘の最愛の男(人)がいる。
 長瀬たちの夢を実現してくれそうな人がいる。
 再会…ね…。
 応接室。
 扉を開ける。
 目の前に、娘と、娘の頭を撫でる男がいた。

 
続く

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