一面に広がる草原の中央を、一本のくすんだ道路が蛇行しながら続いている。滴るような濃緑の草々が溶けたガラスのような夏の日を跳ね返しながら、ザワザワと闖入者に対する抗議の声を上げた。

 無造作に草を掻き分ける白い手の持ち主である少年はそんなことに頓着せず、街道が見えるところまで歩を進める。帽子に結ばれた白いリボンが草と同化して揺れた。

 

 アスファルトが午後の光を照り返している。草原の中の一本道を歩いていた川瀬は、足を止めて額の汗を拭った。毎年変わらない光景。晴れて澄み渡った何処か虚構めいた空と白い雲、そして独特の粘っこい匂いを醸す一面の緑。時折涼し気な乗用車が彼を追い抜いていった。

 この道をあと十五分程歩くと、温室のある家に着く。それが川瀬の叔母の家だ。川瀬は、美しく気品のある叔母に会うのを楽しみに思うと同時に、従兄である皓と顔を合わせることを憂鬱に感じていた。

 従兄は、叔母に似た整った容貌と日に当たったことなどなさそうな白い肌をしている。彼は、七年前に父親を亡くして以来ずっと母親と二人暮らしで、彼自身は滅多に外出することはない。はっきりとした意志を見せず、いつでも曖昧に微笑むこの物静かな少年が、川瀬は嫌いというより苦手だった。

 不意に自分の名が呼ばれた気がして、草原を見遣る。白いリボンが光を反射している。

 緑の海原に従兄が孤島のように佇んでいた。

「皓」

 川瀬が呼ぶと、やっと気付いた様子で近寄ってくる。

 

 

 川瀬が叔母の家に着いた時、彼女は不在だった。まだ仕事なのだろうと思い、さして気にも留めなかった。

 街道から外れたその家の背後には丘陵が控えており、その為、室内は別世界のように涼しかった。それだけで満足してしまって、その他の事象は全て些細なことに思えたのだ。

 

 しかし、空に雲母片が煌めき始めても、叔母は帰宅しなかった。皓に訊いても、いつものことだから、と言うばかりで、大して気にしていない風だった。

 皓とは別の部屋のベッドに横になって天井を見上げながら、川瀬はその言葉を反芻していた。いつも皓は独りでこんな風に天井を眺めているのだろうか。不規則なその模様を目で追っているうち、いつしか眠りに引き込まれていった。

 

 

 草原に皓が佇んでいる。空は夜とも夕暮れともつかない色で広がっている。おもむろに、皓が背を向けて歩き始めた。川瀬は何故か焦ってそれを引き止めようと腕を伸ばす。その手を擦り抜けて皓が振り返る。その瞳は何の感情も湛えてはいない。形の良い唇が開いた。

「時期が来た。僕らは蛍になるんだ」

 抑揚のほとんどない口調だった。気が付くと皓は再び歩み出していて、草叢に埋もれるように消えていく。川瀬は懸命にその後を追うのだが、思うように進めない。

「おい。何を言ってるんだ。それに、叔母さんは」

「母さんは関係ないよ」

 声だけが奇妙な色彩の中で凛と響いた。問い質そうと躍起になって駆け出した川瀬は、その時激しい喉の渇きを感じた。

 

 

 喉の渇きで川瀬は目を覚ました。草がさざめいているのが聞こえる。川瀬は部屋を出て、洗面所へと降りていった。薄暗い電灯の下、蛇口から迸り出た水は鱗のようにきらきらと輝いた。

 その時、耳がドアの開く音を捕えた。叔母が帰ってきたのだろうと思ったが、それにしては一向に人の気配がしない。少し迷った末、川瀬は水を止めて玄関に出た。寝る前に締めた筈の鍵が外されている。そこらにあったサンダルを突っ掛けて外に出ると、闇に白い影が浮かび上がっているのが見えた。

 

 頭上に花崗岩の空があった。そこに月はない。黒い草が風に波打ち、街灯の反射の飛沫を上げている。

 白い影はすぐ皓だと分かった。彼は自宅の前の道を真直ぐに横切り、草原へと踏み込む。なめらかに進んでゆく様が声を掛けるのを躊躇わせた。しかし、皓の白っぽい寝間着が黒い波に沈んだ時、川瀬はアスファルトから飛び下りていた。

 土は思ったより柔らかく足を受け止める。走り出すと湿った地面から水が染み出し、素足の爪先を濡らした。侵蝕される感触に一度足を竦めたが、その快い冷たさに渇きが癒される気がして、ズボンの裾まで濡れるに任せた。夜露が二の腕を潤す。

 皓がいつのまにか立ち止まっているのに気付いた時、掻き分けた草の間からひとつの光球が飛び立ち、よろよろと皓に向かった。

 

 ひとつ、ふたつ。冷たさを帯びた光が皓の周囲に瞬いている。それは見る間に数を増やし、ざわめく草の縁から皓の身体にかけてまつわりつくように群がった。その内のひとつが川瀬の方に浮遊してきたので、思わず手の中に握り込むとそれはもぞもぞと動く物になった。くすぐったさに掌を開くと、弱々しく光が飛び立つ。

「……蛍、か」

 闇の中を無数の蛍が飛び交っている。空と地上とが燐光を発しているかのようだ。その状景は確かに心惹かれるものを感じたが、同時に後ずさりしたい衝動にも駆られていた。今年は例年と違う。皓が見ている。

 多くの蛍は皓の側に留まり、その輪郭を明滅しながら縁取っている。彼の表情は見えないが、きっと白磁器のような顔をしているに違いない。川瀬は何度か従兄のそんな表情を見たことがあった。

 

 突然、眩しい楕円形の光が草原の表面を走った。視界が白く染まる。それで我に返った川瀬は皓に駆け寄った。

 白い腕を捕らえる刹那、川瀬の手を擦り抜けた先程の夢が思い起こされた。が、彼は魚のように、その腕を僅かに震わせただけであった。

 腕を引いて歩き出そうとした川瀬は、自分の周りにも蛍が集まっているのに気付いた。冷たい汗の玉が背筋を滑った。

 淡い光を放つ虫と伸び切った草を併せて掻き分けて道路まで行き着いた川瀬は、皓を半ば引き摺る格好でアスファルトに上った。

「二人共、こんな夜遅くに何をやっているの」

 上擦ったような叔母の声が川瀬に現実を知らせた。砂利を敷いた庭に車を停めて、こちらに向かって歩いてくるところだった。先刻の強い光は、カーブを曲がる車のヘッドライトであった。

「あ、叔母さん……」

「眠れなくて散歩しているところを、川瀬が連れに来てくれたんです。ごめんなさい」

 軽く頭を下げると、皓は先に立って家に入ってしまった。その後ろ姿を呆然と見送った川瀬は、さらさらという音を聞いた。

 

 

 翌朝、川瀬は階下で鳴り響く電話のベルで目を覚ました。霞がかった頭を抱えて階下へと降りる。昨夜の記憶は茫漠としていて、まるで掴み所がなかった。階段の途中で叔母を呼ぶ皓の声が聞こえ、叔母が食堂から出て行くのが見えた。

 洗面所で顔を洗ってから食堂に向かうと、皓が既にテーブルについていた。その向かいに腰を下ろすと、皓はトースト凝視しながら呟いた。

「蛍の成虫は水だけで生きられる」

 

 丁度トーストを手にしていた川瀬は、危うくそれを取り落としそうになった。驚いて従兄を見ると、彼は涼しい顔でオレンジジュースを飲んでいる。その平静さに気圧されて、結局言葉を返せずトーストに齧りついた。

 受話器を置く音が居間の方から響き、間を置かずに叔母が食堂に駆け込んで来てテーブルの上にあった鍵を掴むと、息子に声を掛けた。

「もう行くから」

 彼はちらと母親に目を向けたが、すぐに伏せる。長くて濃い睫がその瞳を隠す。はい、と答える皓の声が聞こえた時、川瀬は何故かそこに清流の蔑みを感じた気がして顔を上げると、やっぱりいつもの曖昧な微笑みを浮かべた従兄がいた。

 

 

 朝食後、着替えて庭に出る。微塵子のような月が群青の空に溶けている。何とはなしに温室の方に廻った。

 ガラス張りの天井を這うブーゲンビリアが外から透けて見え、全体が薄赤く色付いている。半分地面に埋められたパイプがしゅうしゅうと空気が洩れるのに似た音を発して、温室内部へと飲み込まれている。

「この水は何処から引いているんだろう」

 家屋の裏から続いているパイプに、川瀬は独りごちた。

「裏山の湧き水を引いてるんだよ」

 何処から現れたのか、空の如雨露を右手に下げた皓が答えた。皮膚に刺さる位の強烈な陽光の下、濃紺のシャツを着ていて、ただでさえ白い肌を余計際立たせている。それはたった今水を浴びてきたばかりのように艶々しかった。川瀬は唐突に喉の渇きを感じた。

「見に行くかい」

 如雨露を片付けてきた皓が言った。断わる理由もなかったので、川瀬は従兄と連れ立って歩き出した。家の裏に向かうと、そこには川瀬達と同じ程の身長のキミガヨランが群がった蛍のような黄白色の花をつけていた。

 

 

 蝉の声が谺する林を二人は歩いていた。奥から流れてくる小川に沿って続く土の道は、人の足に踏み拉かれてはいるが整えられている訳ではない。奔放に繁った熊笹が時折剥き出しの腕を擦った。

 皓は確心の足取りで川瀬の前を行く。木洩れ日が彼らを斑に染める。川瀬は途切れ途切れに聞こえ始めた音に気付いた。

「何の音だろう」

 断続的に続く蝉の合唱の間に微かにだが、確かに水泡の浮かぶ音がする。皓がふわりと振り向いた。

「もうすぐだよ」

 その声は何処か楽しげで緑の音の氾濫の中でも明瞭に響いた。

 

 少し行ったところで小川は急激に折れ曲がり、薄暗い木立の奥へと消えている。足を進めるに連れ、流れと道との違いは段々となくなり、足元に透明な水がひたひたと押し寄せてくる。流水は澄んで水草が繁茂し、さながら碧紗だ。一枚岩の袂の湧水がそれを掌握していた。

 泉にだけ岩上からの光が差し込み、碧々とした水面に真珠の粒を散撒いている。

「綺麗だな」

 川瀬はその光景に嘆息した。皓が見ている。珍しく相好を崩して嬉しそうに微笑いながら、皓は一歩踏み出した。

「ここには蛍がいるんだ」

 睫の奥から闇色の双眸が川瀬を見詰めた。川瀬は視線を避けるように川辺にしゃがみ込んだ。

「こんなところがあったなんて知らなかった」

「危険だから行ってはいけない、て言われていたから」

 濡れて艶光る岩を凝視したまま、皓は答えた。

「誰に言われたのさ」

 川瀬は日焼けした腕を清爽な流れに浸して水草を玩んだ。その問いの答えは知っていた。

「母さん」

 案の定、その声には何の感情も籠ってはいなかった。不吉な予感がして振り返ると、一枚岩に向けられた黒曜石の瞳は虚ろに輝いていた。

「皓」

 自らを呼ぶ言葉にも何の反応も示さない彼に苛立って立ち上がる。肘から伝った雫が、木洩れ日を映して早緑に跳ねた。アレキサンドライトに酷似した煌きが皓の視界を過った。一陣の風が水面の影を掻き消す。砂埃が共に巻き上げられ、川瀬は目を瞑った。見えない世界で魚の跳ねる音が聞こえた。

「蛍……」

 皓の囁きが耳に届いた。無理矢理に瞳を押し開けると、皓が光彩を放つ飛沫を追って湧水に踏み入るところだった。冷たい焦燥が首筋を流れ落ちるのを感じながら、その腕を取ろうとして小川に足を漬けた。すると靴が柔らかい泥に減り込んだ。

 足を引き抜こうとしても靴は底に飲まれて抜けず、ますます沈んだ。そうしている間も、皓は漂うように碧い泉を歩んでいく。

「……皓っ」

 川瀬は一気に力を入れ、足を引き上げた。靴が泥に捕らえられて脱げた。しかし川瀬はその目に光の輪の中にいる皓の濃紺の服しか映していなかった。素足で皓の側へと急ぐ。

 不意に泉が見た目より深いことに気付いた。

 手を思いきり伸ばしてもまだ皓には届かない。冴々とした色に相応しい冷たさと深さを持った湧水に、川瀬は従兄を追って駆け出した。


 

◆著者あとがき◆

いやあ、懐かしいですねぇ(笑)なにしろ、8年前に書いた代物ですから。

その頃、某作家にはまっていて、その影響がありありと……(笑)

だからある意味、私らしくないというか。特にラスト(苦笑)

でも、雰囲気的にはすごく気に入ってるので、手直ししてみました。

ホントは夏にあげるつもりだったのになぁ(涙)

 

◆戻る◆