翼はなくても

 
 空がとても近くに見える。青く澄み、雲はまばらで、吹き抜けていく風も、その色に染まっているかのようだった。
 
 ここがどこか、忘れてしまいそうな空だった。
 
 見上げている首が疲れてしまい、視線を下に落とす。少女を現実に戻したのは、街の雑踏が発する音と、人の数であった。
 
 右手からは列車の到着と発車を告げるアナウンス、左手は尽きることなく走りゆく車の音。そして、通り過ぎていく人々の足音と、会話である。
 
 修学旅行であろうか、制服に身を包んだ複数の男女がカメラを片手に歩いていく。

 嬉しい気持ちが抑えられないのか、駆け足で少女の横を通り過ぎていく男子生徒の後を追うように、女子生徒が声をかけている。
 
 振り返りもせず最上段まで到達すると、手にしていたカメラを構えた。記念写真のつもりだろう。
 
 また、その後ろにいたのは、初老の男女二人組みだった。
 
 一歩一歩確実に、そして、あわせるようにお互いの歩調を確かめ合いながら階段を上ってくる。
 
 性別も年齢層も違うのだが、頂点にたどり着いたときに発する声と、驚嘆の表情を表すのは同じだった。
 
 それは、まさに現代人が生活をする場と言い切ってしまってもいいほどの光景が広がっている。
 
 鉄とガラスとコンクリート、それらの素材を生かして作り上げられた建造物の下、古都を訪れる人々が行き交い、また、去っていく。
 
 その途中、様々な意図を持って少女がいる場所に寄っていく。あるものは、これからいくところを確認するため。

 ある人は、名残惜しさから眺めていくため、またある人は、これからともにいく人を待つため。

 いろいろな意見がある。景観を損なう、古都の玄関口にふさわしくない、ただ異様さだけが突出している、などなど。

 感じるものは人それぞれ、すべてが一になるなどありえないことだ。

 どんなに素晴らしい芸術作品だとて、見るものすべてに感動を与えられるわけなどないのだから。
 
 人があってこその街であり、街があるから人が集う。どちらが欠けても成り立たないのは、真実だ。

 だから、人が作り出した建築物も街の一部でしかない。すべての印象をそこだけに押し付けてしまうのも暴論と言えるのではないか。
 
 京都にやってきた人の目に映るのは、ここ、京都駅と、その正面に立つ京都タワーである。

 まるでロウソクのような形をしたそれは、シンボル的な存在である。これも昔から住む人にとっては嫌悪の対象であるそうだ。

 それでも多くの来訪者からすると、タワーなしの駅前など想像できないことだろう。

 そういう印象づけを多くのメディアによってなされてしまっているからだ。
 
 少女も産まれてからこのかた、京都を離れたことはなかった。十七年以上の歳月を、それ以上の年月を重ねた王城の地で過ごしている。

 魅力に満ち溢れたこの都市も、幾多の災難や人災に見舞われ、苦難と栄華を繰り返してきた。
 
 その積み重ねが歴史的価値を生み、育て、続いてきた。忘れかけたなにかを見つけに京都を訪れる人がいるというのもうなずける。
 
 自分も過去に埋もれていたのだろうか、そんなことをふと思って、打ち消すように首を振った。思い上がりだろうか、と。
 
 五年間という時の流れは長いか短いか。近くにあるベンチに腰を下ろして、頭に浮かんだことをおってみた。
 
 出会うまではすごく長かったような気がした。忘れたことはなかった。むしろ、忘れてしまうことを怖れた。

 大切なことだから心に刻んでいたくても、人は、忘却して生きていく生き物だからだ。

 つらいことであればあるほど、負担を軽くするために心の内に封じ込めてしまう。
 
 矛盾している。そう思うことがある。忘れたくないほど大切で、でも、忘れてしまいたくなるほどつらい。

 だから、心がきしむ。心が揺れる。心が乾く。心が、涙を流す。
 
 あれは、きっと、自分にとって、そういうものだったのだろう。いや、そういうものなのだ。
 
 すべてを受け止められるまで、五年。いや、それ以上かかっていたかもしれない。
 
 少女に変化が訪れたのは、その思い出が現実となって再度現れたからだった。
 
 五年後という歳月を伴って。
 
 目の前に現れた人は、五年前とかわらぬ雰囲気を携え、五年前から成長した姿であった。背も伸び、容姿も大人びていた。
 
 それでも少女が一目で気付いたのは、いつも胸にその人が住んでいたためだった。
 
 声にならない驚きは、一瞬で少女の体を走り抜けていく。
 
 今思い出しても、あのときほど自分が衝撃を受けたことはなかった。たぶん、最初にその人とであったときよりも大きかった気がする。
 
 別れるとき、再会の約束をしてくれた。
 
 そっと笑ったその顔が、あのころとまったく変わっていなかった。

 屈託なく、人のよい笑顔は、たとえ時が過ぎ、別たれたとしても、同じであった。それが嬉しくて、たまらなかった。
 
 手渡された紙には、連絡先が書かれていた。その数字の列は、自分とその人の住んでいる場所が違うことを思い知らされるものだった。

 見た目以上よりも距離は遠く感じた。鉄路や道路でつながっていても、それを縮めるには、様々な障害がある。

 それを痛感したのは、同じ街で過ごした五年前に思い知らされた。
 
 あの時は、まだ子供であった。越えられる壁だって、身の丈にあったものだ。それでも、その先にあるものを見せてくれたのは、その人だった。
 
 今はどうか。

 自分はまだ、一歩を踏み出せないでいる。その人がまた変えてくれることを望んでいた。あのときのように。
 
 パフスリーブの袖の下にのぞいている肌を、街を通り過ぎてきた風がなでるように吹き抜けていく。高い場所にいるからか、強く思えた。
 
 京都は盆地である。この場所から見える景色も、ある一点を除いて周囲の山々を望むことができる。

 南側にあたる九条、十条方面はかなり開けた印象を受ける。その先は奈良につながっているそうだ。

 古の都が並ぶように存在しているというのは、不思議な気がする。
  
 下を見ると、列車が通り過ぎ、駅のホームに滑り込んでくる。またそこで多くの人がすれ違い、出会い、別れていく。

 留まることなく流れていく時間の中では一瞬のことだが、それで人生が変わることもあるだろう。
 
 出会いが新しいことを生み出し、別れもまた然りだ。あのころはそれをわかることができなかった。そこには悲しみしか存在しないとまで思っていた。
 
 だが、今はわかる気がする。そう、あの別れがあったから、今また、こうして出会うことができた。
 
 へりくつかもしれない。別れがなければないで、違った人生があったかもしれないからだ。二人で共に別の道を歩いていたかもしれないのだ。
 
 彼女は気付いていない。そう感じられるようになったという変化に。

 それまでの少女であったなら、変化を恐れ、別離を悲しみ、一人残されたと悲嘆にくれていただけであった。

 ところが五年前に出会った人物との出会いと再会があったおかげで、殻を破ることができたのだった。
 
 少女にとってその人物の存在は大きかった。同世代の友人として、というより、異性として。

 日ごとに肥大化していく想いは、少女の胸を焦がす。また別種の悩みが彼女を取り込んでしまったのだった。
 
 入れ替わるように、少女の目の前を通っていく人が変わる。

 空を見上げ、雲の近さに眼を見張り、のぞむ景色の違いに驚嘆し、見慣れた建物を見つけては歓声を上げる。
 
 誰もが連れ添って歩いている。友人、配偶者、子供、父母、そして、恋人。
 
 表情は違えども、みながお互いを信頼しあっていることは、彼らの雰囲気からも感じ取ることができた。
 
 ふっと息を吐き出した。ちらりと腕時計の文字盤に視線を落とす。

 シンデレラにかけられた魔法が解ける八時間前になろうかという時刻を、長針と短針が指し示している。
 
 だいぶ陽光が穏やかな色合いになり、ビルの外壁が淡い橙色に染まりつつある。もう、夕刻といっていい時間帯だった。
 
 待つことを苦に思ったことはなかった。むしろ、わざわざ東京から来てくれるということに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 
 一度それを口にしたことがあった。
  
 笑いながら首を振って、気にすることはないと言ってくれた。
 
 再度問いかける。それでも、と。
 
 これも少女の不安を打ち消すような笑顔で、答えた。好きだから、京都に来るのが好きだから、と。
 
 一瞬言葉につまり、頬を赤らめてしまったのは、少女の気持ちが素直に出てしまったからだ。
 
 よく考えれば自分が誤解をしていることに気付くのだが、舞い上がりぎみの少女には無理であった。

 また、そのことをしらずに、とくとくと京都の魅力を語り始める相手も相手といっていい。
 
 かくしていい意味でのすれ違いをしている二人は、お似合いといっていいかもしれない。
 
 そんなことを思い返してうちに長い針は時間の半分の仕事を終えた。

 先ほどよりも夕方の雰囲気が強くなり、西の空の色合いは濃くなり、東の空に夜の帳の準備が整いつつあった。
 
 ふっと人の波が途切れた。そこには少女一人しかいなくなる。
 
 その孤独が、少女を捕らえるのに時間はさほどかからなかった。
 
 時の狭間に落ちたかのような感覚。けっして流れに取り残されたわけではないと思えるのは、一羽のカラスが高らかに声をあげたからだ。
 
 このまま、待ちぼうけなのだろうか。
 
 このまま、会えないで終わってしまうのだろうか。
 
 このまま……。
 
 うつむき、うなだれる。落日の影が無機質の地面に差し込む。それは、なぜだか物悲しげに少女の瞳を焦がした。
 
 翼が欲しい。きっと、翼があれば飛んでいける。空はどこにでもつながっていて、遮るものなどなにもないはずだ。
 
 はばたくための力は、想いという名で持ち続けている。それだけは誰にも負けない、誰にも止められない。唯一、自信を持っていえる。
 
 少女は立ち上がった。遥か下まで続く階段を下りようとしたその時、彼女の瞳にひとりの人物の姿が焼きついた。
 
 瞬きを忘れ、じっと見つめる。間違いようもないその姿は、今日、この場に来てからずっと心の内に描いていたものだった。
 
 静寂を破る少年の声は、少女を捕らえた魔法を打ち破った。
 
 なにもいわなかった。ただ、階段を駆け下りる脚の動きが、時を追うごとに速くなっていった。
 
 この喜びが欲しかった。なにより、その顔と、その声と、その姿があれば充分だった。
 
 腕を伸ばせば届くかどうかという距離まで近づいた。自分の心臓の鼓動が聞こえそうな距離まで。
 
 少女は決めた。こんどは自分から動こうと。きっと、この人といれば今の自分は変わっていくことだろう。

 でもそれでは変わったことにならない。自分で変えていかなければ、誰も納得してくれない。待っているだけではだめなのだ。
 
 それを教えてくれたのは、今、目の前で驚いた顔をして立ちつくしている、まだあどけなさの残る少年であった。
 
 「ごめん、遅く、なっちゃったね」
 
 申し訳なさそうに言う少年であったが、少女の取った行動に、驚きの声をあげた。
 
 右足を軸にして百八十度回転する。それは、背中を見せるような格好であった。
 
 少女はそこにあればいいと思うものを求めていた。だが、翼はなくとも、飛び立つ気持ちさえあれば、大空にむかってはばたいていける。
 
 翼はなくとも、この人といればなにも怖れることはない。
 
 翼はなくとも、歩みを止めなければきっと……。

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