三日月の夜に
 

 夏の夜は遅い。半年後には今の時間になると、月は明るく星は瞬いている。だが、夏は違った。太陽は隠れていても空は充分に明るく、美しい星空を形成する輝きたちも姿を見せてはくれない。まだ、空の支配権は太陽が握っているのだった。
 昼の暑さは人を嫌な気持ちにさせるほど残っており、帰宅途中のサラリーマンたちの頭の中は、風呂上がりのいっぱいのビールの美味しさと、応援している野球チームの途中経過であろうか。
 ややもすると、アスファルトから立ち上る輻射熱が見えそうなほど、京都市内の夏は耐えがたいものであるのだ。三方を山に囲まれ、密集した建築物の群れは熱気を逃がさず、いきばのない暑さは、人を不快にさせることによってうさを晴らしているかのようであった。
 「暑い、あついよぉ」
 「言わないで!聞いてるこっちも暑くなるでしょう」
 「だって、あついんだもーん」
 行き過ぎる小学生くらいの少女たちは、かけあい漫才のような会話を交わしていた。黙っていればよいのだろうが、なにか言っていないと暑さに取り込まれてしまいそうになる。まあ、話しかけられればうっとうしいのだろうが。
 そんな光景を見ながら、一人の少女が暗くなりゆく空を見ていた。右手には学校指定のバッグ、肩には細長い布の袋からのびる紐をかけ、凛とした姿で立っている。その涼しげな顔は、造型の神が満足いく仕事をしたと自信を持っていえるつくりで、腰まで伸びる髪は平安時代の女官もかくやといえる美しさだ。かすかに吹く、熱気をふくんだ風に反応するようになびき、せまりくる漆黒の闇と同化しそうなほど黒い。
 身につけている真っ白なブラウスと、肩にかかる黒髪のコントラストは、闇の中といえども映え、見たものの瞳に焼きついた。年齢相応の胸のふくらみ、引き締まった腰から足にかけてのライン、自然に発する高貴な雰囲気、彼女に出会った男性のうち8割ほどは、その少女の姿が頭に染み込んで、当分消えることはないだろう。
 「東京にも、同じように夜は訪れるのでしょうね………」
 少女はそう一人つぶやくと肩の紐を直し、足を動かし始めた。
 ここは京都駅からそうは離れていない七条通。四条や五条ほどではないが、それなりに人の流れはある。道なりに歩くと鴨川のせせらぎが聞こえ、七条大橋が見えてくる。ここを渡ると先には京都国立博物館や、三十三間堂がある。三十三間堂といえば、千手観音が有名であり、その中には自分に似た観音様が一体はいるといわれている。
 少女はそんな歴史と文化の香りが漂う道を、ただ漠然と歩いている。車はひっきりなしに通り、ともすればライトのまぶしさに目をかばってしまう。
 「なぜ自分はこんなことをしているのだろうか?」先ほどから頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。部活動の帰り道、不意に気まぐれをおこして帰路を変更し、京都駅まで来ている自分がいた。何故だかわからないが、足がかってに向いていたのだった。言葉では説明できない思いが体をのっとり、心が自分の支配を離れ、駅前で立ちつくしていた。
 澄んだ黒い瞳は自分と同年代の男性に向けられ、誰かを探していた。
 「誰かとは誰なのだろうか?そして、自分はなにを求めているのだろうか?」答えが出ることはなく、夕闇が迫る今まで彼女の姿は駅前の混雑の中にあった。
 「私は、あの方のことを………」黒い髪の少女の独白は都市の雑音にかき消され、夏の暑さとともに黒く染まった空へと立ち上っていった。
 ふと立ちどまって、今まで自分が歩いてきた道をふりかえった。自分が夜の始まりの時間に身を置いていることを感じさせないくらい、街は明るい。道路沿いにあるビルからこぼれる明かりや、車から伸びるハイビームのライト、規則正しく立てられている街灯、それらが作りあげたまばゆいほどの明るさは、少女だけではなく、街にいるすべての人に奇妙な印象を与える。
 夜は暗いものだ、と感じるのは寝る前に部屋の電気を消したときぐらいなものだろう。人類が闇への恐怖を捨て去ったのは繁栄の刻を得てからのことである。
 クラクションが鳴り、少女は現実の世界へと戻ってきた。あたりを見渡すと、サラリーマン風の二人組が彼女の姿を好奇の視線で撫で回していた。
 足早にその場を立ち去ると、後ろから何か話しかけられたような気がした。
 「連絡をしなければ……」
 少女は近くの公衆電話に気付き、歩み寄ろうとした。だが、若い男性が使用しており、埋まっていた。あきらめて別の電話を探そうとすると、若い男性は受話器をフックに置き、ドアを開けて出てきた。
 男性は彼女が電話を待っていたと思ったのか、かるく会釈をし、その場を離れようとした。少女が礼を返してきたのでその場に止まり、顔を見ると、顔色が変わった。
 と、同時に、少女も驚きの表情をあらわした。
 「若菜!?」
 「あ、あなたは……」
 偶然という言葉はこんなときに信じられるのであろう。二人の表情を見ればそう思うだろう。
 「ぐ、偶然だね」
 「そうですね…」なぜここに?と、続けようとしたが、口がうまく動いてくれない。もどかしい思いに若菜はとらわれた。
 ここで少年のほうが、「君に逢いにきたんだ」などと言えば話は続くのであろうが、彼のほうも口をもごもご動かすだけにとどまり、恥ずかしそうに下をうつむいたままであった。見るからに男女交際に不慣れな二人組である。じれったくもあり、微笑ましくも映るのだった。
 「久しぶりに京都でも見てまわろうかと思ってね……」
 「そうですか」
 「若菜は明日、暇?」
 「え、ええ。とくに用事はないですけど」
 「そう………、明日会えないかな?」
 「……………」
 即、返事はできない。無論、心の中ではすぐに肯定したいところなのだ。しかし、心とはうらはらに、返事はうやむやになってしまう。彼女の体に流れる幼い頃からのしつけは、若菜の気持ちを鎖で縛り上げ、想いを押しつぶしてしまっている。
 「お約束は、できません。でも、私は……」
 消えていった言葉の続きを少年は聞くことはできなかった。若菜が飲み込んでしまったから。恋愛になれているものなら容易に想像できる雰囲気であったのだが、彼女が想ってている少年は、そんなことに気づくような人ではない。だからこそ、彼女は想いつづけていられるのであろう。
 「今日泊まるホテルの電話番号を知らせておくよ。もし、よければ電話をしてほしい。だめでもぼくは気にしないよ。若菜がよければ明日もこうして過ごしていたいな」
 「はい、わかりました」
 「でも偶然だよなぁ、こんな場所で若菜に会えるなんてさ。でも、こんなところでなにをしていたの?」
 「あなたをさがして」などと言えるような若菜ではない。ましてやそれを意識して行動していたわけではないのだから。つい口から出てきたのは、「夜風にあたりたくて」というあたりさわりのないものであった。
 「そうだね、こんなに涼しい風が吹いているんだもんね。ふらっと歩くにはいいかもしれないね」
 「少し、歩きませんか?」
 「うん」
 京都の始まったばかりの夜の中、二人の姿はじょじょに小さくなっていく。肩を寄せあうでなく、距離を離したままでなく、もどかしい隙間をあけながら二人は歩調をあわせるようにコンクリートタイルの上を歩いている。ときおり女性の笑い声が聞こえ、つられるように男性のほうも笑っている。
 幸せな時間を二人は共有しあい、ともに過ごすことをさらに幸せを感じた。若菜の表情を見れば理解できる。今までの彼女からは見ることのできなかった、笑顔がそれをしめしている。
 「まだ弓をひいているんだ」
 「ええ、やはりやめることなどできませんから。それに、気分が引き締まるんです。ですが、最近は………」
 「調子が悪いの?」
 「……………」
 原因の一端を自分が所有していることなど微塵も感じていない少年の言葉だった。気付いているほうがおかしいのだが、少し鈍いともいえる。
 「あのときはびっくりしたよなぁ。矢が自分に向かって飛んでくるなんて、戦国時代でもない限り経験できないもの」
 「私も驚きました。心臓が止まるかと」
 「でも、あのことがあったから若菜とまた会うことができたんだ。感謝しなきゃいけないかな」
 「うふふ、そうですね」
 どこへいくでもない。ただ、こうして二人で話ながら道なりに歩いているだけで、若菜の心に開いた空洞は埋まっていく。からっぽだった気持ちは、今、こうしてすごしている時を境に埋めつくされていくのだが、時間がたつにつれ、また少しづつ剥がれ落ちていく。その速さは出会った当初から比べると、加速度的に速くなっていく。
 胸に手を当てると、満ちていく心が感じられる。鼓動が早くなり、的を前に立っているときと逆の状態になっている。落ち着きを取り戻すすべを知っている。が、今はなにを試してもだめだろう。なにせ、何度か試みてみたが効果がないことを彼女自身が知っているのだから。
 左側に古めかしい洋館のようなたたずまいの京都国立博物館が見えてきた。学校でもそうだが、夜の大きな建物というのは恐ろしさが一番最初に感じられる。真っ暗ならばまだいいのだが、中途半端に照明がついていると、えもいわれぬ印象を見たものに与える。俗にいう「なにかでそう」という思いにかられてしまうのだ。
 「あの窓のところ、何か動いていなかった?」
 「驚かさないでください」
 「いや、ほんとだって」
 「私、暗い建物というのは……」
 「あ、ごめん、そうだったね……」
 「明日こようよ。明るいうちだったら怖くないし」
 「そうですね………」
 そういうわけではないのだが、と思ったが、彼は彼なりに気をつかってくれたのであろう。こういう優しさが彼のいいところなのだ。人を思いやる気持ちが素直にでてくる。意識してのことではなく、気持ちのままに見せてくれる。あの頃のままだった。
 なにげなく腕時計をみた少年は、シンデレラに幸福な時間の終わりを告げた魔法使いのような言葉を発した。
 「あっ、もうこんな時間。若菜は大丈夫なの?」
 1日はあと6分の1で終わる。そんな時刻になっていた。どのくらい少年といたのかはわからないが、今まですごしてきた時間よりも早く思えた。
 「とりあえず連絡してみます。お祖父さまも心配しているかもしれませんから」
 若菜は近くに会った電話ボックスに入り、電話をかけた。反応は彼女の予想をはるかに越え、少し受話器を顔から離した。祖父の剣幕は電話ごしとはいえ、彼女をのけぞらせるほどであった。
 ドアを開けて出てきた若菜の表情は、少し落ち込み、少し晴れやかな表情を同時に見せていた。
 「もうしわけありませんでした」
 「怒られた?」
 「いえ、そのようなことはありません」
 表情を見ればすぐに嘘とわかる答えを少年にかえした。それは彼女なりの気のつかいかたであった。
 「明日のこと、努力してみますね」
 「無理はしなくてもいいよ。また怒られるかもしれないし」
 「気になさらないでください。怒られるのなれていますから」
 言葉の最後のほうは楽しげな笑い声と重なった。
 「それでは迎えの車がくるところまで一人でいきますから」
 「うん、気をつけてね」
 「ありがとうございます。では明日」
 この言葉に彼女の意思の強さが隠れている。今までは彼と会うことで昔の想いがよみがえってきた。美しくしまいこまれていた6年前の思い出を。でも、今は違う。こうして彼と会うことが、会っている一瞬一瞬が大切に思えてきた。
 「あなたと会うこと、それが一番楽しいのです。あなたと過ごしている時間こそが、私にとって大切なのです。こうしてあなたといられたことが幸せです」
 おそらく、小さくなっていく自分の背中を見つめていてくれる、少年に語りかけた。声にならない声で。
 彼女の心の中に芽生え始めた、淡い想いは、今夜の三日月のように、これからはっきりとしてくるだろう。暗くなりゆく夜空に存在を示す満月のように…………。

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