精神医療ユーザーのひとりごと


  このコーナーでは、精神医療ユーザーたちのつぶやきを紹介していこうと思っています。精神医療に関する体験や意見がありましたらどしどしメールでお送りください。順次紹介していこうと思います。(文章のどこかに”掲載可”と書いておいてください。)
  また、ここは掲示板ではありませんので、いわゆるレスを付けることを目的としたものは原則として掲載しません。


もくじ

 

 匿名希望 2003/10/20

 中城アトム 2003/10/20

 中城ウラン 2003/10/20

 匿名希望 2003/10/20

 マーサ 2003/10/20

 モモ 2003/10/20

 吉村 哲 2003/8/30

 中城アトム 2003/8/30-2

 中城アトム 2003/8/30-1

 らら 2003/8/30

 

 2002年のひとりごと

 2001年のひとりごと

 2000年のひとりごと

 1997−1999年のひとりごと


匿名希望

2003/10/20更新

2年前位前から心療内科・精神科に通っています。
仕事も長続きしないのがわかっているので、
あらかじめ期間の決まった派遣の仕事を主にやっていました。
しかし今年の4月、契約社員として働いていた会社の上司に
精神的についていけず、やめてしましました。
その後、仕事を探してもなかなか決まらず、落ち込み・不眠は
つのる一方・・・。 ついにリストカットが止まらなくなり、自殺願望も
強くなる一方だったので 精神科に入院することになりました。

精神科に入院。やはり不安でした。どこのサイトの入院経験者の
話を読んでも不安になることばかり書いてあります。

しかし。2ヶ月の入院生活、ここは天国か??と思うくらい快適な生活。
やさしく、時には厳しく、しかし必ず患者の話にはきちんと耳をかたむけ、
向かい合ってボロボロの心を支えてくれた看護師さんたち。
そしてどんなに忙しくて世間話程度しかする時間がなくても
部屋まで足を運んで様子を見に来てくれる先生。(しかもかっこいい(笑))

いやな先生にあたった人も、私みたいに天国のような病院にあたった人も
「運」 としか言えないかもしれません。
確かに精神科の先生って ちょっと変わったとこあるかもし。

確かに日本は精神福祉に関して遅れてるかもしれません。
差別も偏見もまだまだあります。

でも心の病と戦ってるみなさん(自分も含めて)きっと自分と合う
いい先生、いい看護師、いい病院、あると思います。

よく励ましてはいけないといいますが、同じ精神に障害を持つ私だからいいよね。
みんな、がんばって生きていこう! ・・・死なない程度に、でいいじゃん?


介護士 中城アトム

2003/10/20更新

当事者の私が当事者に行った生活支援の10年

今から16年前、私は入院先の精神科病院でA子とあった。私が31歳、A子が54才であった。私の入院は、最初1年の入院を要した。この間、10年A子との付き合いがあったのだが、これがA子の退院後の生活に必要なすべてを教えることの始まりだった。私の入退院はその後、半年入院し半年退院の繰り返しだった。退院すると私は生きる為に仕事をした。それが10年間続いたのである。何回目かの入院のとき、A子の病名を知ることとなった。私がお世話になっている医師から、「統合失調症のA子を見捨てないで欲しい。それより、彼女が退院後一人でも生活出来るようにして欲しい。」と私に話され、私はそれを了解した。私は、高校生の頃から下宿生活を体験し、そこの夫婦がどちらとも料理がうまく、三年間台所に立ち、様々な料理作りに立ち会っていた。大学時代、料理作りで苦労したことは一度もなかった。社会人になっても何ひとつ料理での苦労はなかった。
A子と私の料理作りは、病気の前に建てた私の小さな家で行われた。
簡単な料理から始まり、慣れてくると手の込んだ料理作りへと進んでいった。
また、様々な交通機関を利用しての小旅行なども行い、その使い方なども勉強させた。
また、私の家に来ている光熱費の払い方なども教えていった。そういう風にして、社会生活を営む上で障害になりそうなものすべてをA子はクリアーしていった。
私の家を使い、社会生活の方法をマスターしていくA子、そしてそれに生き甲斐を感じ病院外で生活することの楽しさ、難しさをA子は知っていった。
精神障害者は、様々な援助を有効に与えてやれば、時間はかかるが普通に生活出来るようになるものと私の実証でわかった。根気よく、暖かい援助を行い、当事者の持つ自我やプライバシーを侵害しないようにしてやれば、援助はうまく行えるものと考えられる。
病院で生活援助として行われる、集団での買い物ツアーなどは、私から考えれば何の生活支援にもなっていないと思うのである。
集団で、時々行う生活支援の方法より、退院できそうな個人への個別での様々な生活支援の方法を病院がとらない限り、本当に患者が退院しても一人での生活は難しいような気がする。
また、ホームヘルパーを当事者の家に派遣し家事援助などを行う、現制度にはいささか無理があると思われる。教科書だけの当事者の姿しかしらない健常者のホームヘルパーは、到底、精神障害者の抱える色々な悩みや生活支援の解決にはならないと私は思う。
もし、このホームヘルパーが同じ当事者であったら、様々な精神障害者の悩みや本当の意味での生活支援が行えるものと私は考える。
日本の精神科病院の犯した、長期入院が生み出した多くの社会的入院者がこれまでに失った時間と人間らしく生きることの消失は、犯罪的行為としか言い様がない。
欧米に比べ、日本の精神科医療は30年〜40年遅れている。
アメリカや欧州の当事者、看護士から様々な進んだ精神科医療を私が聞いた話でも、日本がいかに遅れているかが理解できた。
詳しいことは、専門家に任せたいと思うが、私の行ってきたA子への生活支援の体験は、今介護職の仕事をしている私に多くのことを知らしめた。
なお、大阪府では、精神障害者がホームヘルパーの資格を取り、障害者が障害者のために生活支援を仕事として行っている。このホームヘルパーのことをピアヘルパーと彼らは呼んでいる。もっか、13名のピアヘルパーが活動中である。
このピアヘルパーは、ホームヘルパー2級と精神障害者ホームヘルパー養成課程を上乗せし、141時間(9時間の上乗せ)として、1日3時間の6ヶ月というゆったりした時間をかけて修得させている。21人の精神障害者がこの講座でピアヘルパーの資格を取り、ピアヘルパー13名、高齢者施設ヘルパー2名、その他2名の当事者がヘルパーとして活躍している。就職率81%という高さである。
これからは、このピアヘルパーが退院して来た精神障害者の生活全般のサービスを行うものと考えられる。そして、この産業は、精神障害者の就労の場として、発展して行くものと考えられる。
病院で、苦しい体験をしたものしか分からないピアがピアを援助して行く時代に変わりつつあると思う。
また、様々な精神障害者社会復帰事業の会議に当事者が入って行き、より良い精神障害者の社会復帰のシステムが出来て行くものと私は考える。
障害者の苦しみを理解出来るのは、医療関係者でもなければ、福祉関係者でもない、同じ体験をもつ障害者だけである。
この、ピアヘルパーが、精神障害者のリカバリーの近道となることは間違いないと、私は確信するのである。


資料
週刊福祉新聞 2001年2月号
産経新聞夕刊 2001年5月28日付け
読売新聞夕刊 2001年5月1日付け
ヘルパーとして支援できるのがうれしい 精神科看護2002年3月号
ゆうゆう 2003年45号
大阪府 ピアヘルパー情報 2001年12月号
Facilities Net 2003年3月号
ぜんかれん 2003年5月号、6月号
実践報告 精神障害者ピアヘルパー等養成事業における現状と課題


中城ウラン

2003/10/20更新

親亡き後に

私は1960年生まれで、両親、血の繋がりの無い祖母、姉兄の6人家族の農家に育った。父が亡くなったのは、私が発病する前の24歳の時だった。癌であった。アルコール依存症の父を私は憎んでいた。極端に言えば、早く死んでくれないかと思っていた。思えば冷酷な娘であった。
27歳で発病し、二度入院した。一度目は保護室に入り、1ヵ月後退院、1年半後3ヶ月入院した。何とか仕事に就こうと、思っては見たものの長続きせず、3年後母が原因不明の熱で入院し、9ヶ月後に亡くなった。母の入院中段々弱くなっていく母の姿を見て、この人はもうこのまま死んでいくのではないかと思った。実際亡くなった時は、悲しみはしたがショックは受けなかった。死後直後は、葬儀、法事などに追われ、しっかり悲しむゆとりがなかった。しかし、母の生前婚約していた兄の結婚が近づくにつれ、私の心は不安定になって、幻聴が聞こえ出した。母と父の声だった。幻聴を何とかやり過ごしながら自分の心と葛藤していた。家の中に、他人が入って来る不安感、兄を取られるという思い、そして、一人ぼっちになったという強烈な孤独感だった。実際それらは、私を捨て鉢にさせ、もうどうなっても良い、末は野垂れ死になってもかまわない、世間からなんと思われてもかまわないと、私はパジャマのままで自販機のタバコや缶コーヒーを買いに日に何度も往復した。そして3ヶ月後兄夫婦は、3年の約束で家を出て行った。
母の死後拒薬していた私は、何度も幻聴、妄想を繰り返したが、医療を受け入れるようになるのは、兄夫婦が帰ってきたときだった。
その兄夫婦が出て、1年後激しい喪失感に襲われたのは、仕事をし始めたときだった。仕事から帰っても、優しい母のねぎらいの言葉も、食事の用意もなく、私は音楽を聞きながら泣くだけだった。こんなとき母が居てくれたらと・・・・・・・。
その時ほど母が恋しく、人恋しいことはなく、母が亡くなったと肌でしみじみ実感した。
その頃、祖母と私は同じ家の中に居ても、会話はなく、食事も一緒に摂らず、祖母は祖母の、私は私のスペースで、夫婦でいうなら家庭内別居のようなものであった。
そのころ祖母は確か、70代後半だったと思う。
心の隙間を埋めるようにして、私は自己啓発セミナーを受け続け、それ以前に知り合った精神世界を探求している友人にしがみつき、毎日のように電話をかけ続け、慰め、励ましを貰う日々だった。自己啓発セミナーという未知の世界に飛び込んで、その激しさ、鋭さに心を丸裸にされて、私はセミナーで病状が悪化(セミナー前より幻聴あり)し、地獄の3ヵ月を過ごした。泣き叫び、踊り狂い、テレビ、ステレオ、灰皿など諸々の物を壊し、夜中向かいの家のチャイムを鳴らした。幻聴と妄想の嵐だった。
その時も祖母は完全に私を無視した。何て冷たい人だと思ったけれど、祖母自身ひとりの力では、もうどうしようもないと思っていたのかもしれない。
その時の苦しみは筆舌に尽くせない。3ヵ月殆ど眠った記憶が私にはない。でも、その時の苦しみがあったから、私は2年後進んで医療を受け入れるようになったと思う。その後も正気に戻り、また仕事に就いたが、また妄想が出て仕事を辞めた。そして、今度は家のお金を勝手に下ろし、このお金で死に行こうと思った。でも半分使ったとき、兄夫婦が帰ってくることになり、残りの半分を祖母に返した。やはり妄想状態の中にいるときには、自殺は出来なかった。私は内服を中断しては、何度も再発を繰り返した。そして、私には薬が必要だと、今は納得して服薬している。そして、もうあの時のつらい思いを二度としたくない。何故なら、誰にも迷惑をかけられないと思ったからだ。
私が、その狂気の3ヶ月後の終わり頃、ふと正気に戻ったのは、トイレに掛けてあるカレンダーを見たときだ。愕然としたのはアドバンス・セミナーを受けて、まだ、3ヵ月しかたっていないということをカレンダーで確認したときだった。混迷と妄想の中で、何十年も経ったような気がした私は、母の三回忌が近いことに気づいた。数日後、偶々家に来た兄に病院へ連れて行ってくれるように頼み、久方ぶりに薬を飲んだ。ドクターは、その時入院を勧めた。しかし、入院せず家に帰った。その時入院して症状は治まったとしても、胸に刺さった孤独という棘は抜けなかったと思う。後でドクターは、私を見て、一生このままかも知れないと思ったらしい。でも、私は徐々に正気に戻っていった。
兄夫婦の約束の3年が近づいていたとき、私は腹を決めた。もう甘えられない、誰にも迷惑はかけられない、また、自分の狂った姿を兄嫁や甥たちには見せられないと。
私は瀬戸際に立たされ、自立せざるを得なかった。自分自身に対する甘えを捨てた。そして、勇気を出して第一歩を踏み出した。その時がひとつの転機だったと思う。
進んで医療を受け入れ、また他の障害者の人たちが、どのようにして生活しているのか知ろうと、積極的に作業所などにも出入りするようになった。仕事にも就いた、その決心の数日後に今の主人にめぐり合った。
自分が、勇気を出して歩き始めて、最初に話しかけた障害者が今の主人である。今でも何かの縁で結ばれたのではないかと思うのは、そのような経過があるからである。
家族環境は、発病したとき、傍に誰が居たかが問題である。父は、発病時死亡していたし、姉は結婚していた。後に残った、母、兄、祖母の3人が重要だった。
何故なら、同じ家の中に一緒に住んでいたからである。一人一人去って行った時の心細さ、不安感(祖母は今も健在であるが)は強烈であった。だから、兄夫婦が帰って、家の中に活気が出てきて、治療することで幻聴、妄想が無くなりつらい仕事も初めて約一年続いた。
今結婚して6年目になる。姉兄達には、つかず離れずの関係である。結婚したことで、姉たちも私を認めてくれたと思う。姉兄は親ではない。親の真似は出来ない。相談には乗ってくれるが、親ではないのだから金銭的にも、精神的にも依存してはならないと私は思っている。なき両親、特に母には心配をかけたが、今は天国で見守っていてくれると思う。私が発病し、絶望、劣等感、落ちこぼれという思いを振り切るまで、10年が必要だった。長く暗いトンネルだった。でも、その10年が私には必要だったと今私は思う。
一歩踏み出たときから状況が変って来た。私の人生の歯車が回り出した。今また歯車が止まりそうな時もあるが、今思うことは、人間時が立てばドン底で未来が真っ暗に見えても、時が来れば変って行く、明るい日差しが差し込んで来る。苦しみを経験した人ほど、幸せをしみじみ感じることが出来、些細なことにも感謝出来るのではないかと思う。


匿名希望

2003/10/20更新

 初めまして22歳の3児の子を持つ母親です<m(__)m>
少し聞いてほしんです。

あたしは前に自立神経失調症とうつ病に二人目を産んでまもなく
かかり少し家ではほとんど寝たっきりの生活をおくっていました。
小さい頃母親や兄妹特に兄に性的な虐待と暴力を受けてたせいなのか
夜になると極端に不安になって感情をコントロールできなくなったり
いきなりイライラして異常なほどヒステリックになったり
旦那に向いてほしくて人格がいかにもおかしいフリをしてしまったりしてました
でも3人目を妊娠をきっかけに今までは収まってたんですが・・
3人目を母乳で育ててるのですが授乳中にいきなり兄の事を思い出してしまい
長男の息子にいきなりキレ叩いちゃったり暴言をはいたりしてしまいます
最近ではそれは少し良くなったんですが今度は自分の感情がうまくコントロールできなく
なってしまって思ってもない事をいったりして相手を傷つけてしまうんですが
その直後は言った事はかすかに覚えてるんですが・・どうして言ってしまったのか
なんでイライラしたのかも分からなくなってしまうんです・・
毎晩自分に襲われる夢をみます・・
感情をコントロールできなくなってまた子供や旦那にキレてしまうんじゃないか
とかなんか怖い事しちゃうんじゃないかと夜になると不安で自分が押しつぶされそうです
物忘れも最近多く今何をしようとしてたかとか人の名前が思い出せなかったり
明日何するかを紙に書いて貼って置かないと駄目なんです・・・

どうしたら良いんでしょうか?

マーサ

2003/10/20更新

マーサは、統合失調症になって10年になる女性です。独身の42歳です。仕事は、
病気になってからはしていません。
繊細で何かあると、すぐに落ち込んでしまいます。本当は明るい方なのですが、この
病気になってから落ち込むと、体の方まで具合が悪くなるようになりました。気晴ら
しは、母とショッピングに行く事と、CDを聞くことと漫画を読むことぐらいですが、
この病気になってからは、その漫画もよっぽど調子の良いときにしか読めなくなりま
した。マーサは、甲状腺炎も持っていて、なかなか調子が上がりません。皆さんの仲
間にして下さい。


モモ

2003/10/20更新

初めて投稿します。
私は20代後半の社会人で、私の彼は精神科医をしています。
彼は私より20歳年上(バツイチ)で、今はちょっと休業中で、
の〜んびり生活を送っています。(笑)

以前、彼が大学病院に勤めていた頃、
私達はよく仕事帰りに待ち合わせをして、
ご飯を一緒に食べに行きました。

ビールを飲んだ後の彼の顔をふと見ると、
口には決して出さずとも、「疲れた」と目が語っている様です。

出会った頃は興味本位で、仕事の事を聞いたりもしましたが、
病気について、簡単に分かりやすく教えてくれても、
患者さんについての情報は一切口にはしません。
それは、付き合い始めてから何年か経って、
仲が深まった今でも同じ事です。

一人の医師として、「絶対的な信用」を持ちつづけて
行きたいのでしょうか。
「信頼なしには、精神科医は勤まらない」と、
いつだかそう言っていたことがありました。

「信頼関係」とは、心に大きく関わる
大切な事の様に思います。
それは正直、どんな世界でも同じです。
だからこそ、簡単には生まれないし、
時間をかけて育てるもの。

医療とは、デリケートな問題であるから、
医師も患者さんも「信頼」で結ばれてこそ
効果のある様な感じもします。

だから皆さんも、ちょっと時間がかかったり
面倒であったとしても、「信頼出来る医師」を
探してみてください。
心の中を、正直に打ち明けられる様な。
「この人になら、何でも言えちゃう!」と
思える様な。

最後に・・・
今ここに、一人の疲れた医師がいたとして、
例えばそれが、仕事で消耗された結果だったとして、
じゃぁ私に何がしてあげられるかと考えると、
いつも明るく、和やかな空気を
彼に与えてあげる事の様に思います。


吉村 哲

2003/08/30更新

精神医療について

 私は、23歳のときに自分がノイローゼであることがわかり自分で精神科を探して、そのときに出会った先生に精神分析を受けて12年が経とうとしています。その間うつ状態になったりして2回入院をいたしました。また10年くらいの間自殺のことばかり考えていました。今でも辛いときは、つい考えてしまうこともあります。確かに病気であることは辛く、そう簡単には治るとも思いませんが、決して焦らずに少しずつ努力していけば必ず道が開けてくると信じています。皆さんも確かに今辛い思いをしてると思いますが、どうかあきらめないでいつの日か良くなっていく事を信じていきてほしいとおもいます。


中城アトム

2003/08/30更新

  結婚について

 数ヶ月で結婚6年目に入る。喧嘩の多い結婚生活であるが、喧嘩は他人同士が1つの家に一緒に住むのだから、仕方ない事かもしれない。しかし、私は良い妻とめぐり合ったと思っている。二人の出会いは、7年前の4月に久留米市のある作業所であった。そこで、私はくるめ出逢いの会の発行する情報誌作りを行っている時だった。妻の方から声をかけてきたのだ。「障害年金を貰うにはどうすれば良いのか、教えて下さい。」と。私も年金を貰っていたので、その方法を妻に教え、二人とも恋に落ちて行ったのだ。しかし、私はその頃精神障害者の為の美術展の準備や出逢いの会の仕事、生協の仕事で忙しく、妻は妻で、病院の食器洗いの仕事で、お互い忙しい毎日を送っていた。その為、中々会うチャンスがなく、やっと会えたのは、その年も押し迫った十二月の暮れのことだった。妻と会い、彼女の住所と電話番号を聞き出し、1月からデートを重ねた。結婚しようと私が思ったのは、生協の仕事に行く途中、車で自損事故を起こし、右の指を骨折し、入院した時彼女に電話したら来てくれたからだった。元看護師だった妻は、私に献身的なサポートをしてくれたのだった。この時、妻と結婚したいと強く思った。すでに、私の父母には妻のことを紹介していて、妻も精神障害者ということを話していた。この自損事故と結婚の為に、私はパイプカットの手術を行い、生協を2カ月休んだ。この手術は自分の意思で行った。7万円のお金の工面は、二人で半分ずつ出し合った。あれから6年経とうとしているが、妻曰く、「結婚とは縁に始まり、忍耐に終わる。」だそうだが、私も同じ思いである。

 しかし、結婚はお互いの考えを口に出し、よく話し合うことが大切だと思う。そういう意から考えると、当事者同士の結婚も健常者の結婚と同じように思える。夫婦とは、いかにあるべきということが色々な所で語られるが、夫婦の形とは、夫婦となった二人が築き上げることであって、その夫婦の形や考えを知らない他人がどうこう言うことではないと私は思う。何十年も夫婦をやっている人々に、私のような若年が色々言ったとしたら、かえって反感を持たれると思う。そういう意もあり、他人が口を出すことではないと思う。

 障害者同士の結婚は、健常者から見れば難しく思われるが、かえって良い方向に向かう場合がある。同じ病気なら、夫婦のどちらかが体調が悪くなったとき、片方がカバー出来ると私は考えるからだ。これが、精神障害者と健常者の結婚の場合なら、何故、精神障害者がこうあるのかが理解し辛いからだ。それに、精神障害者と分かれば、健常者はその結婚を無いものと法律で謳われているからだ。しかし、私の友達に旦那さんが統合失調症で、奥さんが健常者というカップルも居て、子供さんも今年から社会人という夫婦もいる。一概に健常者との結婚が難しいとも言い切れない。

 ただ、同じ障害を持つ者同士が片方の状態が悪くなった場合、対処の仕方がスムーズに行えるということだ。確かに、私の友達に病名の違う精神障害者同士が結婚し、3年で離婚したというケースもあるが、離婚はしたものの、まだ、恋人としてお付き合いしている当事者も居る。離婚というようなケースは、健常者同士の結婚にもあるので不思議なことではないと思う。かえって、離婚して恋人として付き合った方が結婚していた時より、よいカップルになるケースだってあるのだ。人それぞれである。

 当事者の中には、結婚を夢見て、現在進行中の当事者も居るかと思う。ただ、ここで問題なのが、結婚というものをどう捕らえているかが問題だと私は思う。限られた障害年金で、どのくらいの生活が出来るかをまず考えなければなるまい。そして、出来れば毎日の収入と支払いを家計簿につけて生活した方が良いと私は思う。そうすると、どういう物に使ったかが分かり、どれだけの無駄遣いをしたかが分かるからだ。そして、その無駄遣いに消えたお金を次の月に削ることで、余ったお金を二人で、生活の中に反映することが出来るからだ。私たち夫婦は、そうやって生活して来た。二人の共通の趣味に余ったお金を使うことが出来るのだ。また、二人がどういう環境で生活しているかによってもお金の出方が変わってくる。アパートなのか、持ち家なのかでも変わると思う。アパートなら、毎月家賃を何万か払わなければいけないし、持ち家で、家族がない場合は固定資産税というものを払わなければならない。また、毎月の光熱費、通信費も必ず必要になってくる。そういうものを二人で払っていけるかどうかも考えなければならない。また、行政の様々なサービスも上手く利用し、自分たちの生活を続けることが必要だと思う。

 私は、結婚したいなら結婚してみて、様々なことは考えても良いと思っている。よく「一人口は喰えないが二人口は喰える」という言葉を聞くが、結婚していてそれを痛感することが多々ある。もし、障害年金の2級や3級ならば、年金の不足分をアルバイトやパートでお金を補充すればよいと思っている。

色々考える前に、結婚というものを実現出来る環境作りを二人で考えて行くべきだと私は思う。結婚を突然実行するのではなく、よく考えて結婚された方が良いと私は思う。がしかし、結婚するのは当事者のあなた方であることを忘れないで欲しい。もっと、多くの当事者が結婚されることを、そういう仲間が増えることを願いペンを起きたい。


中城アトム

2003/08/30更新

「玄海の家レジャー交流宿泊研修会」へ夫婦で行って来ました。

 6月27日から28日まで、福岡県宗像市神湊の県立少年自然の家で「玄海の家レジャー交流宿泊研修会」がありました。

 生憎の雨で、2つ日目のさつき松原海岸でのカヌー乗船体験が中止になりました。
 ボランティアの学生は、麻生医療福祉専門学校から40名来てくれました。
 この研修会は、福岡県精神障害者連絡会が企画、運営を行った研修です。当事者が当事者の為に、色々なテーマで話し合う、また、家族の親も参加して、テーマごとに別れ、話し合いをするものです。今回で、3回目になりました。

 最初、定員100名にしていましたが、それを約50名オーバーで行うこととなりました。
 当事者は90名参加し、20名は家族や作業所の職員などでした。
 会費、1500円で、宿泊料金は500円という安さです。後の、1000円で資料代、バーベキュー、花火代、お酒代を賄っています。
 そして、この研修では、お金はすべて使い切ることになっています。

 さて、本題に入りましょう。

 この研修では、実行委員が事前に決めたテーマで話し合いが進んで行きますが、その1つ1つに実行委員が頭をひねって、テーマを作り上げるのです。今年のテーマは6つの分科会に分かれていました。「自分らしく生きること」「当事者からみた家族、家族からみた当事者」「病院で、助かった、つらかったこと」「私にとっての結婚は」「当事者活動について」「仲間と語ろう」の6つのテーマでした。

 私は、「当事者からみた家族、家族からみた当事者」に参加し、妻は、「自分らしく生きること」に参加して来ました。私の参加したテーマでは、家族の殆どが、当事者である自分の子供にどう対処して良いのか分からないというのでした。しかし、あるお父さんから、息子のしたいように仕事に就かせ、だめになったら入院させ、退院したら、また息子の就きたい仕事に就かせて、悪くなったら入院させ、良くなったら仕事に就かせるという繰り返しをやらせたが、今は、年金で月20万円貰って、年金生活をしていると話された。

 月20万円の年金(障害年金ではない普通の厚生年金)を貰うには、最低20年は仕事に就かなければ貰えない金額である。どんなに、入院させようとも、息子の為にと退院したら息子の好きな仕事に就かせた、このお父さんは出来た親だと私は思った。
 私は参加した親に、子のすることを親が何でも包み込むのではなく、やりたいことを子にさせよと言った。そして、親亡きあとが心配という、親に、死んだ後のことまで心配するな、それより、今好きなことを子に思いっ切りさせよと話した。子に自由をと話した。

 そういうことを話した後、このお父さんがこれまで自分の息子にしてきたことを話してくれた。私の、これまでやってきたことを親に話すと、「うちの子と貴方は違いすぎる」とある親から言われたが、親がいつも子にかまい過ぎて、親自身疲れ切っていると私は思うのである。自分の子供から離れて、自分自身を見詰め直すことが親には必要だと思う。

 灯台下暗し(先の他人のことはよく見えるが、手前の子のことは何も見えていないという意味)、おんぶに抱っこの状態が続く限り、親の子離れ、子の親離れは出来ないと思う。

 この話し合いの後、バーベキューを囲みながらの交流会があり、花火大会があった。
よもやま話会では、学生が当事者に話しかけ、精神障害者のことや、医療のことを聴いてきた。しかし、中には学生だけ集まり、騒いでいるのも多くいた。何故、多くの当事者がいるのに、聞こうとしないのかが不思議でならなかった。この夜、当事者をから何かを聞きだそうとした学生は、就職が出来、自分たちだけで騒いだ学生は就職に苦労するような気がしてならなかった。ケースワーカーの仕事もすでに狭き門になろうとしているこのご時世である。来年は、もっと多く学生が、当事者を捕まえて質問攻めにしてくれることを夢見ていよう。

 二日目は、雨のため体育館でネットを敷き行われたスイカ割り大会があったのみであった
 妻は、クタクタで、今日も横になっている。


らら

2003/08/30

同じひきこもりで メールのやりとりを
してくれる人をさがしています。。

それも、現在のひきこもった生活から
打破したい、何とか動きたいと思っている人が
いいです。
慣れてきたらTELでおしゃべりなどもしたいです。
年齢、性別、地域は問わないので
本気で前向きに考えている方
よろしくお願いします。
     (20代、♀ らら。)


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