1997/4/27

マタイ18:15〜20

「私もその中にいる」

 

ダビデは、信仰者としては理想の人として語られる人です。

もちろんその王としてのリーダーシップ、戦いに長けていたことは、言うまでもないのですが、一言で言えば、その心の良心ということについても、すぐれていました。彼は彼を殺そうとする主君サウルに対して、自分がサウルを殺すつもりがないことを、サウルが寝ている間にその上着のすそを切ってきて、示しましたが、ダビデはそのやり方にさえ、サウルに対する失礼なやり方だと、自分を責めました。言わば良心に責めを感じたのです。

それほど心の良心に敏感な人が、人の妻バテシバを奪ったときには、自分の罪について実に鈍感でした。預言者ナタンが彼を訪れ、遠回しに、「もし、貧しい人が、一匹しかいない羊を大事にしていて、それを、たわむれに金持ちが奪ってしまったとしたら、どうだろうか。」と諭します。そのとき、自分も同じような思いをバテシバの夫に対してしているのだと理解できず、そんな悪い金持ちは殺してしまえと言います。

本当に立派な人物でも、パーフェクトということはありません。誰かに罪を指摘されなければ分からないことと言うのは、あるのです。貴方も私も。ですから、この世では、誰もが必ず罪を犯す事があるのですから、幸いなのはそういうように自分の罪を指摘してくれる人を持っている人でしょうね。

 

教会という交わりもまた、お互いがお互いの罪や弱さについて、指摘しあい、またその忠告に耳を傾けることが出来るほどに、親しくまた心を開いているべきところだと思います。

また、こんなふうに思います。私は、自分の子供に対しても、また教会の一人一人の将来を担う子供たちにも等しく願うことは、人から何か言われて、それが単純に根も葉もない悪口であれば気にしない、しかし、少しでも自分の罪や弱さについて、思い当たることがある、それが指摘されているときには、その事に傷ついて恨みに思ったり挫折してしまったりするのではなくて、かえって、その事をバネにして、素直に、「ごめんなさい」と言い、あらためて、見事に自分を成長させる事の出来る力、能力を身につける事であります。

もし、私がイスラエル民族の強さの秘密、あるいは、なぜイスラエルが神に選ばれたのかと聞かれれば、もちろんそれは、神の一方的な恵み以外にはないのですが、それでも一つだけ指摘しなさいと問われるなら、それは、「彼らには、自分の罪を認め悔い改めて立ち上がる力があったからだ」と答えたいと思います。私は、彼らが特に優れた信仰者だったと思わないのです。何度神に反抗し、御言葉に従わなかったでしょうか。その結果として、彼らは神様から裁きをたびたび受けました。しかし、そのときに彼らは、うなじのこわい者ではあったけれど、結果的には自分の罪をしっかりと認めて、二度と罪を犯さないようにと、あらゆる方策を講じてあらためていこうとするのです。(時に、偶像を破壊し、時に異邦人との結婚を解消させたり)

時分の非を認めて、悔い改めてやり直そうとするのは、相当に精神的にタフでないと出来ないと思います。何が信仰の力かと言って、ほしい物が祈って何でも答えられると言うのが(あえて「それだけが」とは言いますが)、信仰の力ではなくて、むしろそうしたわがままな自分とか、自分勝手な自分に、素直に気がついて、自分をあらためて自分を成長させることが出来る、私はかえってそういうところに信仰の力を見ますね。また、それこそ、信仰の力によらなければ出来ないことだと思います。

 

:15「

               」

「責めなさい」と主はおっしゃられます。これは、既にクリスチャンになっている人で、教会の兄弟姉妹の事が想定されています。この当時は、イエス様は直接弟子同志の事をおっしゃられたのかもしれませんが、はるかに私たち教会のことが念頭に置かれていると思います。

「責めなさい」はっきりと罪を指摘し、悔い改める事(方向転換という意味があるが)を要求するのです。15節で言うのは、当事者同志の事です。すなわち罪を犯した側と犯された(あるいは「傷つけられた」)側です。まず当事者同志でしっかりと言いなさいと言います。

原則として、あなたが相手を責めることが出来ないことを、誰かに告げてはなりません(おそらく牧師にも)。それは、単に告げ口になってしまいます。ですから、まず「ふたりだけのところで」と言うのです。

目的は、「兄弟を得るため」です。壊れていた関係を取り戻すためです。取り戻したくないならいいです。「あんなやつとはだいたい気が合わないんだ。関係をもちたくない。」それなら結構です。あえて責める必要はありません。しかし、聖書は、兄弟をやはり兄弟としてあくまで受け入れるために、あえて責める事を命じます。細かく読んでみると、「行って、そして忠告せよ。」というような悠長な命令ではなくて、接続詞なしで、「行け、忠告せよ。」と何かあわただしく命じられています。一刻の猶予もなく。

私たちが、忠告することを恐れるのは、こう言ったらこう言われるのではないか。こう誤解されるのではないか。と恐れるからです。それは本当のことを言うと、あなたがその人を愛していないし、信頼していない証拠です。親しいほどに素直に言えます。別に考える必要はない。そんな人間関係がないからとおっしゃられるでしょうか。神が結びあわせて下さっている霊的な人間関係を信頼しましょう。神様を信頼して、素直に語りかけましょう。あなたは、罪を犯しているかもしれないと。それはあらためたほうがいいのではないかと。

 

:16「

                    」

時に、責めている方も自信がないし、言われている方も自分が悪いと思えない場合があります。そんなときは、彼自身がもっと客観的に自分の罪について、理解する必要があります。彼が、実は、多くの人たちも、自分が罪人だということに気がつき、認めていることを知って、「ああ、そうなんだ自分が悪かった。自分が罪人である。」ということを理解するようになる必要があります。「すべての事実」というより、「すべてのことば」私の言っていることが筋が通っているのか相手の言うことが正しいのか、理解されるために時には、複数の人が間に入ることが必要になるのです。

:17「

                    」

公にするということです。

また、教会的な戒規が執行されると言うことでもあります。聖餐式停止とか、除名とか。彼は、それではっきりとすべての人が自分の罪を指摘していることを知るのです。人は信仰においてはナイーブですが、罪においてはタフですね。時に人は、それでもみんなが間違っていると言うでしょう。みんなが間違うことがありますが、人はなかなか罪においてはタフですよ。それは、他人事ではなくて自分自身の胸に手をおいてみれば十分わかります。でしょ。

しかし、その場合も何が目的であるかと言うことを忘れてはなりません。「兄弟を得るため」です。

パウロは言いました。(Tコリント5:1〜5)

クリスチャンだと言っても、世の中にもそうめったに無いほどの罪を犯すことがある。それほどはっきりした罪なのに、誇り高ぶって罪を認めないということもある。非常に人間の罪についてパウロは現実的ですね。教会だからと言って、ユートピアではない。そういう人のために教会は悲しまなければならない。取り除かねばならない。しかしパウロは言います。なぜ取り除くのか、彼の肉が滅ぼされても、彼の霊が主の日(いずれ神に会うとき)に救われるために。

クリスチャンは、必ず気づくときが来る、神に選ばれている限りは、神様が必ず悔い改めさせて下さる、そして、共に天国で彼に会うのだ。そういう信頼があるのですね。神様に対して、あるいは、兄弟姉妹に対してと言ってもいい。

:18「

                    」

これは、教会がそれを勇気をもってやるための神のエールの言葉です。

私は素直に言いますが、教会が歴史の中で、間違った判断をして来なかったかどうかということは、自信がありません。

しかし、一つ言えることは、祈り深く、誠実に罪の取り扱いがされてきて、しかもその目的が、その人を地獄に追い落とすためではなく、「兄弟を得るため」であり、「ついに最後の日に、必ず救いから漏れないために」ということがはっきりしているときに、神様は私たちを守って下さると言うことを信頼していいのだと思います。

:19,20「

 

 

              」

私たちが心を合わせ、祈って決断しようとするときに、それは、人間的な決断ではなくて、イエス様がいつも共にいて下さると言うことを信頼していい。そう言われているのだと思います。

 

ただ、この最後の言葉は非常に印象的な聖句です。

本日は、何か教会的で、何か私たちの日常に役にたつだろうかというような、とまどいに満ちた教えであったように思います。

ただ、この最後の言葉。

心を合わせて祈るときにこそ、主はそこにおられる。

この真理を大切にしたいと思います。

神様と私との個人的な関係はとても大切なものです。それは、もっとも大切にしなければならないことです。そして、神様とその人との関係は人様々です。これもまた麗しい事です。しかし、私の思いやビジョンに相手を引きずり込むのではなく、むしろ相手のビジョンなり祈りを我が事として、共有しながら、共に祈る。時には自分の思いを殺してでもそうする。私はそのときに自分が期待した以上の、多くの祝福を得ることが出来るのではないかと思っています。

主のもとで心を合わせて祈る。私は気のあう者同志より、かえって、罪を犯しあるいは、罪を犯された者が赦しあって手を取り合って祈るときに、主はそこにおられ、奇跡を行われるのだと思います。

それが、教会です。はじめからユートピアがあるのではありません。それは互いに祈りながら、互いの罪が示されながら、痛みと悔い改めを伴ってこそ、受け入れあって作っていくのです。

 

ex.

交響楽団の様々な楽器を巡ってある方がおもしろいことを言いました。

低くゆったりと響くトロンボーン(長くて、270センチにも達する)という楽器があります。どちらかというと控えめで、トロンボーンについてこう言いました。「まるで牧師のようだ。」「物静かで鈍く、とても道徳的で善人。文句はちっとも言わないで、おとなしく無駄なく仕事をよくする。人に刃向かうことを知らない男だ。」なんかねえ。私も基本的にそうと言うところがあるんですよ。そういわないと理解していただけないでしょうが。

それに反して、ホルンという楽器。モーツアルトのホルン協奏曲なんてのがありますが、(ターラッタラーラ、ターラッタラーラ、ラララ、ラララ、ターラッタラー)なんて、スイスの高原を思い浮かべるような、ゆったりとしてはいますが、偉そうに主人公のように前に出てくるのです。

だいたいホルン吹きの性格は、たいてい反逆者であり、労働組合の指導者なんかにすぐなる男だと言います。(ボストン交響楽団のハリー・ディクソンというバイオリニストの言葉)

みんな、そんなにくせがあり、まるで正反対のような人々が寄り集まりながら、それでも交響楽団というものは生まれてくる。一つのハーモニーが生まれる。

 

依然、新約教団の青年の集まりで、ディスコードという集まりがありました。これは、不協和音と言う意味です。不調和なのだけれど、ちゃんと音楽としては存在する。そういう意味だったようです。さすがにその英語の意味を知る宣教師たちから反対されてやめましたが。

やっぱりディスコードはまずいでしょうが、いろいろなタイプがあっても本当に心を合わせて祈り、お互いに助け合い起こしながら、罪にも目をつむらないで、正直に指摘しいやしていくときに、見事な、ハーモニーを響かせる。それが願いだったという青年たちの気持ちがよく分かりました。

 

去年は、明星大学シンフォニーオーケストラ(交響楽団)に、来てもらいました。ちょっとハーモニーには遠かったのですが、私は、単純に、皆が、一生懸命、音を合わせて吹いたり引いている様子に感動しました。本来あうはずのない楽器の音を必死にあわせようとしている。そのことが本当に麗しいものとして伝わってきまして、教授に、言ったのです。「よく見てくれました。それが喜びでやっているようなものなのです。音があったときの喜び。」

青梅キリスト教会シンフォニーオーケストラ。

いろいろな個性といろいろな罪人が居るけれど、真の意味での一致、御霊による一致をもって、神様の御栄光を表していく教会であれるようにと、祈ります。教会での努力は無駄ではありません。

教会で行われることは、私たちの日常生活のあらゆる場面で必ず役に立つし、反映されていくはずです。家族の中でも、会社でも学校でも。近所でも。あらゆる人間関係の中で。

イエス・キリストによって、罪を赦され、本当に受け入れられた者同志が、心から受け入れあい、また、多くのまだ神様を知らない人々を愛し、福音を伝え、悔い改めに導いてあげられるようにと、願います。