1998/3/29

ヨハネ15:5

「ぶどうの枝」

 

今朝は、クリスチャンであるということは、どういうことなのか、クリスチャンとは、どれ程恵まれた存在であるのか、というその事を教えられたいと願っています。そして、すべての人がクリスチャンとなり、既にクリスチャンである人が、本当にクリスチャンとしてとどまれるようにということをお勧めしたいと思います。

コンピューターの使い方の電話相談で、一番多いトラブルは、実はコンピューターの電源コードが電源につながっていなかったというようなそんな、簡単な問題だそうです。人間がなぜ不幸であるのか、トラブルがあるのか、調子がおかしいのか、その原因は実は、そんなに複雑なことではなくて、実は単純な問題かもしれないのです。

テレビやラジオ、これらは、電源につながれていなければ、用をなしません。ガスコンロもオーブンもガス管でガスにつながれていなければ火をつけることは出来ません。

実は、人間も同じように、神とつながっていないと、ちょうど糸の切れたタコのように、行方しれずになってしまうのです。糸の切れたタコは、海におちたり、電線にからんで電車を止めてしまったり、時には大変なことになってしまいます。

聖書のはじめに、人は神によって創られたと書いてあります。人間の原点はここにあります。それを創った方とつくられた者がしっかりと結び合わされていないと良いことは何もありません。むしろ、それは、危険なことです。私達が人間の幸せについて考えても、人間の罪について考えても、人間の営みの中で起きてくるあらゆる問題の原因、根っこにこの問題があるのだと聖書は私達に教えています。

すなわち、神と私達がつながっているかどうかという問題なのです。

 

15:5 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

聖書は、イエス・キリストをぶどうの幹(みき)、そして、人間をぶどうの枝に譬えます。当然のことですが枝が幹につながれていなければ、死んでしまいます。枯れてしまってぶどうの実をつけることは出来ません。

(解説)ところで、この5節ですが、あるぶどう園がありまして、農夫がこれを管理しております。というより育てております。農夫は神であって、ぶどうの木はキリスト、ぶどうの枝は私達を指しています。

農夫がぶどうの幹につながる枝を決めます。すなわちキリストと私達とを結びつけます。多くの枝は幹から切り取られてしまいますが、最終的に幹にしっかりと結びつけられたままに残される枝を残します。その枝はクリスチャンを指しています。

1節から4節までのところを読んでみます。

15:1〜5「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

今年のぶどうは高いそうです。それは、今年の大雪で山梨のぶどう棚が軒並み雪の重みで壊れてしまったからです。猿橋の修養会を、先月、山梨の勝沼で行いました。ぶどうの栽培で有名な場所ですが、至る所、無惨にぶどう棚が倒壊していました。お百姓さんたちにとっては、一年かけて、いや何年もかけて育ててきたぶどうの木です。さざかし大変な気持ちだろうなと想像します。ぶどうはほっとけば実がなるのでお米や麦を作るのに比べて楽だろうと考える人もあるかもしれませんが、これがなかなか大変な作業のようです。ぶどうを育てている方に言わせると、よく観光客の人に、「袋かけが大変ですねぇ。」と言われることが多いらしいのですが、袋かけできる状態までくれば、楽なんで、それまでが大変だというのです。

たいていは、苗木をビニールハウスのなかに植えます。根を適当に張らせて、風邪をひかいないように、わらをかけて、大切に育てます。育つまでに何年もかかります。今の時期はそろそろビニールかけがはじまります。たくさんの人で協力してやる必要があります。草刈りもしなければなりません。春先は特に温度に気を使います。また猫や鳥が芽を触らないように注意しなければなりません。そして、12月頃には剪定(せんてい)の作業があります。今読みました、農夫のする刈り込みですね。

この剪定は、大変に気を使うそうです。ぶどうが仮眠している12月から2月くらいに行われますが、畑作業は色々とあるいのですが、この作業が、一年で一番重要な作業と言えるそうです。なぜならば、このときに選んだ枝の芽の数で、ほぼ収穫量が決まるからだそうです。剪定は、ただ枝を切っていけば良いと言うわけではなく、頭を使わなくてはならない仕事です。なぜならば、枝を選ぶときには、どの枝を選んでも良いのではなく、必ず二年目の枝から出ている一年目の枝を選ばなくてはなりません。また、同じ二年目の枝でもより状態が良く、より幹に近いものを選ばなくてはなりません。また全ての選択は、翌年の剪定のことをも考慮していなくてはなりません。(ドイツのやり方ですが)本当にプロのやる仕事なのです。

葡萄の木の形は、そのぶどう園によって、というか、剪定する人によって癖があるようで、やはりお互いに、見なれない形の剪定結果を見ると、なんか気持ち悪い感じがするって言います。「もちょっと手入れして欲しいなぁ。」などとお互いに思うそうですね(山門ぶどう園)。そういうこだわりが生まれるほど、プロの仕事なのです。

 

聖書では、言います。イエス・キリストがぶどうの幹であり、私達はその枝。もし私達がイエス・キリストとつながっているのだとすれば、それは偶然の仕業(しぎょう・所業)ではなくて、農夫である神様の計画の中にあることである。しかも、熟慮に熟慮を重ねた末に間違いなく選ばれた貴重な枝であるという事なのです。

ヨハネ15:16をお開き下さい。いっしょに読みましょう。

15:16 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

私は聖書を読んでいます。そして、神を信じています。またもし、あなたがイエス・キリストを信じています。というのであれば、それは、貴方が言ったのではなくて、神様が貴方に言わせている、貴方が神様を選んだというよりも、神様があなたを選んでいるのだということを理解していただきたいと思います。私達がイエス様を信じているということは偶然で出来ることではないし、人間の努力で出来ることでもないのです。神様が貴方を選んで下さった。

 

ここから少しわかりにくい話をします。なぜ、聖書がこのような言い方をするのか。なぜ、神様が選んで私達が選んだのではないと。旧約聖書を見れば明らかです。旧約聖書を読んでいると、一つ確実に分かることがあります。いかにイスラエルの人々が神様を何回も裏切り罪を重ねるかという事です。アダムとイブは言うまでもなく、信仰の人と呼ばれるアブラハムでさえ、そう呼ばれるようになるまでは、子供が与えられると言われても信じられず、不信仰の人として描かれます。ヤコブも罪人でしたしダビデもそうでした。ホセア書やマラキ書が評価するように、彼らは、ただ神様が彼らを選んで下さったので、祝福されたのです。イスラエルが優れていたのではなくて、いと小さき者であるにも関わらず選んで下さった神様が優れていたのです。

しかし、私達がこの事を知ることは、とても幸いなことです。なぜならその事を通して、聖書ははっきりと、私達が神様につかまっているのではなくて、神様が私達を捕まえていて下さるのだと言うことをはっきりと教えているからです。私達のような罪人がつかまっているのであればいつ手を離すかしれません。しかし、神様が私達をつかまえていてくださるのであれば、離れることはないからです。聖書の救いの教理の一つに「不可抗的恩恵」というのがあるのですね。不可抗力という言葉があるでしょ。天災、地変、偶然の結果などのように、人の力では抵抗したり防止したりすることのできないような事態の事。誰の責任でもない不可抗力の事故によって亡くなったんだとかね。不可公的恩恵というのは、逆らえない恵みという意味ですよ。ボーとしていようが、反抗しようが、一方的に向こうから恵みを下さると言うことです。なかなかイエス様の愛とか神様の愛とか分からないし、かえって神様を傷つけたりしているような生活を送っていても、神様は、いつも変わらず愛し続け、いつも恵みに導こうとして下さる。もう少し難しい言葉に生きましょうか。これも聖書の救いの教理の大切な言葉に「聖徒の堅忍」という言葉があります。聖徒というのは、学校の生徒ということではなくて、聖書の聖に生徒の徒と書いて、クリスチャンのことです。問題はこの堅忍という言葉ですが、堅く忍ぶと書きます。堅忍不抜の精神という言葉をご存知?心のぐらつかないこと。かえって難しくなった?とにもかくにも、堅忍という言葉は、かたく耐えしのぶことです。我慢強く。聖徒の堅忍というのは、神様が出来の悪いクリスチャンでもいつも聖徒として見ていて下さって、愛し続けていて下さって、決して心をぐらつかさないという事なのです。

すなわちイエス様を信じてクリスチャンになったということは、神様の一方的な恵みであって、逆らうことの出来ない一方的な恵みによって愛して下さって、救って下さって、どんなことがあっても決して心変わりしない、けっして捨てないということなのです。

理由はわからないけれど(無条件的選び)、とにかく神様が剪定して、残して下さっていて、キリストと決して離れることなく結ばれている。それがクリスチャンだということです。実はそもそもクリスチャンというのは、ギリシヤ語クリストス(キリスト)に,所属や特徴を表すラテン語の語尾イアノスがついたギリシヤ語クリスティアノスの英語訳で、意味は、ですから、キリストに属する者,キリストにひっつく者という意味なのです。

最後に、この5節をもう一度読みます。

15:5「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

特に後半部分を見て下さい。

「そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

特にクリスチャンにお話ししますが、私達が救われたと言うことは、新しく生まれたと言うことなのです。以前とは違う命に生きているのです。この体も、その中を流れている血も以前と変わらないかもしれませんが、神様との新しい契約が結ばれて、今は、ただ死ぬだけ、そしてついに地獄に行くのではなくて、天国に行くべき者として、すでにそのレールの上を走りはじめたのです。だから契約的にと言いますか、約束的にといいますか、すでに天国に連なる命をもっているのです。私達の体の中には、すでにキリストの命があるのです。

ですから、クリスチャンとは、キリストのうちを流れる命が、私達に注がれ、私達はぶどうをならせていく者なのです。

ぶどうというのは、愛とか喜びとか、聖さとか、そういう新しい性格を形作るそういう面があります。いろんな良い性格に変えられていく。それから、私達を通して、多くの人々が神様に新しく導かれていく。そう言う意味もあります。それから、様々なこの世に与える、地の塩世の光としての影響力という事もあります。

ちょっと話が外れるかもしれませんが、文化という言葉があるでしょう。文化会館とか、文化ホールとか。学問も文化の一つだし、芸術、それから倫理道徳、それから宗教も、こういう何かしら、人間の生活を高めてゆくような素晴らしい価値観というようなものを、総称して文化と言いますね。英語でカルチャーと言いますが、このカルトという言葉は、崇拝するというような宗教的な言葉ですよ。

私達は、何かを崇拝しながら生きている。優れた哲学とか、優れた人間である場合もある、尊敬する恩師とか良心とか。文化レベルは低いかもしれないけれど、お金ということもある。もちろん宗教ということもある。人間は多かれ少なかれ何かを崇拝しながら生きているんですね。何かに属してしまっているのだと思います。

クリスチャンは良く知らなければなりません。キリストに属していないなら、この世に属しているのです。

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

クリスチャン(人)が、キリスト(神)を離れてものを考えようとするとき何も良いものは生まれてきません。それが、聖書の私達に教えるところです。

先日、宮村武夫牧師が来られました。拡大全国運営委員会に、沖縄を代表して出るためでした。その委員会のなかで、こんな発言をなさいました。この日本福音キリスト教会連合の全国総会がどうあるべきか、どのような発言を許し、どのような段取りでこれを進めていくのか。詳細に議論されました。しかし、宮村先生は、肝心の事を言われました。それは、こういうことです。結局、連合の総会に私達が望む姿勢として大切なのは、連合の総会を礼拝と考えることだと。礼拝に集うつもりで神を恐れながら発言し、神のご栄光をあがめるために発言をすべきだと。

ヴァン・ティルというカルヴァン派の学者が、「聖書が教える神の御旨とは、世界のあらゆる領域を礼拝(カルト:崇拝)の場に変えることである。」と言いました。

私とイエス様がつながっているという事が、会社でも家庭でも、道を歩いているときにも、寝ているときでさえ、変わらずに現していくべきだと言うことです。学問、芸術、道徳、あらゆる人間の営みの中で、キリストにつながれていくものであることを明らかにしていく。

今、私達は、最高に神様に耳を傾け、心から神様を讃美しようとしています。あたりまえです礼拝ですから。しかし、クリスチャンは、どこにあっても最高に神様に耳を傾け、心から神様を讃美しましょう。

そうでなければ、何もすることが出来ないし、そうであれば、多くの実を結ぶのです。

 

先程来強調していますように、私達と神様、とくにただ許された入り口であるイエス・キリストと結び会わされている事は、恵みによってすでになされています。しかし、その事が自覚的でなくてはなりません。引き離されたり引き離れてしまうことはありませんが、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら」とあるように相互通行がなくてはなりません。

私達が、神様から離されることのない、ぶどうの枝である事を知れば知るほどに、感謝と讃美をもって、いっそうキリストにつながれていることを意識しなければならないのです。

EX.先日、堀籠兄が膨大なノートを持ってこられた。びっしり書かれたディボーションノート、聖書全筆写、膨大な暗唱カード。仕事の関係で、しばらく教会に行けなかったこの数年。必死にイエス様にひっついていた。

EX.先日、百万人の福音に「三谷康人」。*カネボウ薬品社長、会長。(株)カネボウ取締役(ナンバー2)*奥さんが信仰。1962新興宗教の盛んなとき、人事部部長として、社宅での奥さんの聖研の禁止。悩み受洗。*クリスチャンとしてトラブル多く、営業部長。1979。酒も飲まない、面倒見も良くない営業部長。八味地黄丸ののぼり。「毎朝集中的に祈りの時を持った。」(当時、私はその異様な祈りを聞いていた。)御言葉から確信をいただいて出勤。途上でもさんびのカセットを聴いて出勤。バブルの頃、向上拡張に反対。社長に「辞表をもってきて言っているのか。」と迫られながら、コスト削減策に着手。バブルがはじけて、「三谷さんのおかげ」と感謝。「今自分は神様に喜ばれているだろうかと常に自問しながら働いてきた。」(1994年全社25000人の中のナンバー2、筆頭取締役に就任。去年67才で退職。献身し、伝道活動に専念している。

(EX.山本兄:常議員会に出席するため、タイでの大きな商売を延期を祈る。延期が副大統領から。「私は御利益のために商売をしているのではないかといつも怖れている。だから、神様をいつも優先したいのだ。」)

キリストにつながっている人たち、いや、つながろうとしている人たちの証です。しかし、そのとき、かならず、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」との御言葉が現実のものになります。

特別集会などで確信をいただいた方々、キリストを信じたことを誇りに思って下さい。確信を持って下さい。貴方が選んだというより貴方を神様が選んで下さったのです。また、クリスチャン、今週も、同じようにキリストにつながれていることを、喜び感謝し、感謝するほどに、一層キリストにつながろうと、はっきりとそこを確認しながら、この世の歩みに出ていきたいと願います。

祈りましょう。