礼拝

1999/11/7

使徒2:1〜13

「聖霊降臨」


 

使徒2:1〜13

私たちは、毎年5月にペンテコステの合同礼拝を行いますが、本日の箇所は、そのペンテコステ(聖霊降臨)の出来事が起きた、その記事であります。ユダヤ教の過越祭りから数えて50日目、大体5,6月あたりがペンテコステとよばれるユダヤ教の祭りの日でありますが、教会におきましても、弟子達に聖霊が下った日として特別の日として祝ったり覚えたりする歴史があります。おざく台の週報を見ていただくとわかるのですが、聖霊降臨後第何主日などと書かれています。5月(あるいは6月)の聖霊降臨の日曜日から数えて、この日曜日は、聖霊降臨後第5主日とかといって数えるのです。おざく台の週報には必ず書かれています。ちなみに、本日は、聖霊降臨後第24主日と書かれるのです(クリスマスまで)。

例えばドイツ、フランス、スウェーデン、スイス、私の調べた限りでも、年間の祝祭日として、イースター(復活祭)、クリスマスなどと並んで、ペンテコステを休みにする国は多いのです(もっとも、これらのキリスト教の強い国では、年間10数日の祝祭日の8割方が、キリスト教の何らかの歴に関する祝祭日なのですが)。

 

で、本日の箇所ですが、1年前のペンテコステ合同礼拝では、この後の14節から、私は皆様にお話ししたと思いますが、むしろ、ペンテコステの礼拝では、普通、今日のこの箇所が開かれるのであります。(いや、その時も今日の箇所を念頭に置きつつお話ししたと思います。)

私にとっては、今日の箇所は、最近忘れられない箇所となっています。最初から、難しい話になるかもしれませんが、私は、キリスト教出版社すぐ書房の代表者で、今年73才になる有賀寿(ひさし)という方と、あの1年前のペンテコステ礼拝の次の日に、JEAの会合があってホテルの一室で、何時間もペンテコステの出来事について話したことを思い出します。

次回の話になりますが、この後、ペテロは皆の前に立って大説教をします。かつてイエス様を裏切って悔いくずおれていたあのペテロと違って。そこには、この神の聖霊がペテロ始め、弟子達に降りたからでありました。少なくとも私はそれまではそのように思っていました(今でも、それは半分、事実だと思っています。)。有賀先生と話していて、しかし、その説明は必ずしも全ての説明ではないということに気づいたのです。

有賀先生は言われました。「それでは君は、聖霊が降りる前に、すなわちペンテコステの出来事の前に、ペテロが立ち上がって、弟子達を励ました。それを、どう考えるのかね。ペテロは、既にしっかりと立ち上がっているではないか。」と指摘されたのです。私たちは、前回、そのことを確かに見ました。

たぶん、そのとき、私は、「しかし、聖霊が降りて、もっとしっかりと立ち上がったのではないですか?」というようなことを答えたと思います。そしたら、有賀先生は言われました。「(これは次回の内容になりますが)しかし、君、ペテロらに、イエス様は全世界に出て行けと言われて(1:8)、ペテロは、出ていかなかったじゃないか。イエス様が夢に現れて、やっと外国人に対して偏見が取れたのではなかったかね。いや、その後だって、ずいぶん、パウロの伝道の邪魔をしているぜ。どう変わったというのかね。」

どの聖書の解説書を調べたって、そのような理解にお目にかかったことがなかったので、私は唖然とし、言葉を失ってしまいました。すぐ書房の本はすべて買っても良いと思うほど良い本を出している日本では貴重な出版社なのに、この人は、信仰がないのか?とさえ思ったのです。久しぶりに若者のように食い下がって、先生もお疲れだったと思いますが、たぶん3時間以上議論をしていました。

今日の結論になるような話ですが、先生はおっしゃいました。

弟子達に神の聖霊が下った。それは、確かに。

しかし、神の聖霊は、何か、特効薬か何かのように、彼らの人格を変えたのではない。彼らは、多くの賜物が与えられた。特に外国語を話す能力が与えられた。しかし、それは、神様の業が進む為なのだ。

「使徒の働きを良く見てみたまえ。弟子たちの素晴らしさによって伝道が進んでいるのではない。ペテロ始めとして、みな弱さを持ち続けているじゃないか。神様の邪魔をしてばかりで、罪人じゃないか。でも神様が、進めていて下さるのだ。そこを、間違ってはいけない。」そのような話であったと思います。この後、ペテロのメッセージによって3000人以上の人が救われます。しかし、それはペテロの名説教のゆえではない、神様の働きなのだ。と。

 

私は、使徒の働きを見る上で、一つの大切な視点が与えられたように思いました。

その視点をもって早速今日のところを見てみたいのです。

2:1「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」

たしかに、その視点をもって見ると、この一言でさえ、一つの発見があることに気づきました。

「皆が一つところに集まっていた。」

前回の1:13,14を参考にしていただきたいと思いますが、そこには、弟子達もいる、イエス様の親族がいる。ペテロがいる、マルコがいる、そして、イエス様の母のマリヤがいる。その彼らが、14節でも、「心を合わせて祈っていた」とある。考えてみるとペテロら、弟子達は、イエス様を捨てて逃げ去った弟子達です。我が子を裏切ったものたちが、どういう顔でマリヤの前に現れたのでしょうか。マリヤはどういう思いで迎え入れたのだろうか。一つ家に迎え入れ、心を合わせて共に祈ることが出来たのだろう?そこに、確かな赦し合いや、豊かな慰めがあったことを思わずしては理解できないのです。イエス様が、既に、彼らの罪を赦しがあったからこそ、また、その事、すなわち、イエス様が彼らの罪を受け入れて赦し十字架につき、贖って下さった、そして復活の後もなお、ガリラヤを訪れ、彼らを慰め、ペテロをこんこんとさとして、また励まし、そのようにして、赦し慰めて下さったからこそ、共に祈り得たことを私たちは忘れてはならないと言うことなのです。

「皆が一つところに集まっていた。」

この一言の中に、すでに奇跡が起きていることを、私たちは理解しなければなりません。時々、あのペンテコステの出来事のような聖霊をくださいと祈り、椅子から転げ落ちてみたり、まるで特効薬か何かのように、異言と呼ばれる聖霊の業を求めてみたりする事にも注意が必要であります。確かに今でも聖霊は確実に私たちに働くし、私たちに主の働きのために賜物を与え、人を神の像へと成長させますが、具体的に共のために祈り、赦し、祈る事なくして、クリスチャンの成長はありえないことを理解すべきでありましょう。

以下、ざっと見てみたいのですが、聖霊の下ったその出来事は、次のようなものでした。すなわち、

調度、ユダヤのお祭りの日でしたから、外国から里帰りのように、多くの外国在住のユダヤ人が故郷に帰っていました。弟子達が家の中で祈っていると、神の聖霊が、目には火の炎のように弟子達の頭に下ってきました。また、耳には、台風の風のようなゴーゴーとものすごい音で下ってきました。目にも耳にも分かるかたちでというところには、意味があったでありましょう。

宗教改革者カルヴァンが、目に見えない聖霊が、目にも耳にも分かるかたちで降りてきたのは、今後、目には見えなくても、聖霊は、信じる者の上に目にも耳にも分かるほどに確実に降りることを神様が彼らに知らせるためだと解説しましたが、そうだと思います。というより、私は、これも神様の彼らへの励ましだと思います。外に出たらまだ、ユダヤ人が、イエスの弟子はどこだと探し回っているような状況でしょう。彼らは、確かにペテロは立ち上がりましたが、家の中で小さく固まって、そう、まるでオオカミに囲まれた羊たちが身を寄せ合って震えているような状態でした。それが、衆目の関心を抱かせるほどに、逃げも隠れもできないかたちで、聖霊は、まさに大げさに天から下ってきてしまったのです。それは、イエス様が、長血をわずらった女が密かにイエス様の衣に触れた事を察知して、「誰が私に触ったのだ?」と彼女の存在を衆目の目にさらせ、人々から偏見の目で見られていた長血の患いをもって女を社会に復帰、あるいは復権させたようにであります。

2:6「この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。」

逃げも隠れもできない「大勢の人たちが集まってきた。」のであります。

神は、神の御言葉を伝えようとして使命を託された、弟子達を、このようにして、逃げも隠れもできない状況に追いやったのです。

その後の聖句を続けて最後まで読みましょう。

2:713「彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。」

パルテヤ人、メジヤ人などと続く地名は、今のイラン方面から、地中海の東、北、西、そして、南のアフリカ方面にまで及ぶ広い地域からの人々です。外国に住むユダヤ人、またユダヤ教に改宗した外国人などあらゆる種類の人がいました。

この出来事に色々な反応がありました。

驚き惑っている人。(:12)

彼らなりの納得をしている人たち、新しい強いぶどう酒に悪酔いしているのではないか。」(:13)と。

しかし、明らかに、分かる言葉、理解できる言葉、外国語で話している事には非常な不思議を感じました。「驚きあきれてしまった。」(:6)という言葉は、特に強い驚きを表す言葉であります。

このような驚くべき事が起きたのが、ペンテコステの出来事でした。

 

最初に、2:1に注目しましたが、今朝、もう一点、特に注目したい言葉があります。それは、2:7です。

2:7「彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。」

「みなガリラヤの人ではありませんか。」

たしかに、ほとんどが、イエス様の生まれ故郷ガリラヤ出身の者たち。外国から来た人たちは、まだ、彼らがイエス様の弟子であってガリラヤの漁師達だとは知りません。おそらく、ペテロが、祭司の庭でエルサレムの人たちから指摘されたようにことばになまりがあったからではないでしょうか。「外国語を話している。しかも、ガリラヤ人ではないか。」一回で分かったと言うことは、ガリラヤなまりの外国語を話していたからでしょうか。

「デス、イズ、ア、ペン↑」(東北なまり)って言うんだぜ。東北の人は、英語も東北なまりなんだ。と笑って話していた英語の得意なクリスチャンの友達が話してくれました。ちなみに、彼から年賀状が来るたびに、毎年、家内に言うのは、「彼の日本語の下手さ、漢字力のなさはあいかわらずだな。」と言うのですが・・・・(彼にいつも言っているので許してくれるでしょう。そのかわり抜群の英語力。)

「ガリラヤからは預言者が出ない」「ナザレ(ガリラヤ)から、何のよいものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)と言われるほど、田舎者と馬鹿にされた人たちでした。

御霊が働いて、これから世界に宣教に出ていくために、大きな贈り物を彼らに神様がしてくださった。しかし、彼らのガリラヤ臭さは残ったままです。私は、思います。弱さも罪も残したままです。(もちろん、悔い改めて赦され、愛されている事は別にして)

聖霊が下って彼らが何かソフィスティケイト(雄弁に)なっているわけではないと思うのです。

彼らは、「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」と驚きましたが、弟子達は、ただ、外国語がうまく話せるようになったことを喜んだだけではありません。神様を誉めはじめたのです。特にイエス様の復活と、十字架の贖いの意味も語りはじめた、福音を語りはじめたのではなかったかと想像することは、十分出来ると思います。(14節以下にペテロが話しいるように。)

私は二つのことを、ここで、教えられたいのです。

この、聖霊の降臨の出来事は、彼らに勇気を与えました。特に神の言葉を人々に伝えていく勇気を。彼らは、ここから世界中に散らばっていくのです。少なくとも12カ国以上の言葉が彼らに与えられました。聖霊は炎のように分かれた舌があらわれて、一人一人の上にとどまります。一つに集まっている彼らが聖霊の力によって、それぞれに違う賜物が与えられて、自立して、世界に出ていくのです。前回、イエス様が、ペテロを自らの足で立たせ自立させたように、彼らも自立して出ていくのです。しかし、自立とは何でしょう。ある人が、自立とは、自分のために生きるのではなくて、他者のために本当に生きられる人のことだと言いました。自立と孤立とは違うのです。孤立とは自分の為だけのために勝手なことする人です。それは、自立ではありません。彼らが自立して、外国人に仕えるための言葉が与えられたというのは意味の深いことでした。神は彼らに人々にもっとも良く仕えることの出来るために言葉を与えました。聖霊は、真の意味で人を励まし自立させる働きをするのです。

しかし、もう一つのことは、聖霊は、彼らの弱さを残したままに働いていると言うことであります。

いや、むしろ、こういう言い方が良いと思います。聖霊は、(皆に馬鹿にされている、なまりの強い)かかる「ガリラヤ人」の言葉を器としてあえて選ばれたということです。それは、かつて、「口も重く、舌も重い」(出エジプト4:10)モーセを選び、「汚れたくちびるの者に」(イザヤ6:5)すぎないイザヤの口をきよめ、「ただ若者に過ぎず、どのように語って良いのか知り」(エレミヤ1:6〜)もせぬエレミヤの口に御言葉を入れた神の恵みの選びと同じであります。

ガリラヤの漁師や、貧しい大工の一家を中心とする(マリヤやイエス様の兄弟)人々にどれほどの雄弁と説得力のある論理が期待できたでしょうか。しかし、そのような彼らにこそ福音の伝達をまかせるべく聖霊は下ったと言うことです。

日本の東北のような、イスラエルの北部ガリラヤ、例えば寒い北の人たちは、口もこわばるので、短い言葉をとつとつと話す優れた方法を手にしたとも言われる。彼らもまた、御霊が働いたとはいえ、素朴な神の恵みの事実を、口ごもり口ごもり、とつとつと語ったのではなかったでしょうか。しかし、「御霊が語らせるままに。」

しかし、それで十分なのです。

ある者は、ガリラヤ人ゆえに、あるいはその言葉ゆえに、あざ笑った。しかし、ある者は、確かに神の大きな御業を、生まれ故郷の国語として、親しく聞くことが出来たのです。彼らは、有賀先生の言われるとおり、驚くべき才能が与えられたけれど、一方では、あまり変わっていないという面もたくさんある。でも、落胆してはいけない。その弱さを通してでも、神は確かに彼らに働いて下さるからです。

 

カトリックの兄弟が話した、ある一つの話を紹介いたします。

ある小教区に二人の司祭がいました。一人は弁舌さわやか、説教ともなれば思わず拍手が出るくらいに聴衆を魅了し、聞く人に深い感銘を与える若手司祭。もう一人は彼とは正反対で、お世辞にもうまいとは言えない語り口で、わざわざこの司祭を選んでミサに与る人など一人もいないといった老司祭でした。あるときその彼(青年)の一人がこの若手司祭にいたく感銘を受け、このような話は信者の私たちだけではもったいないと思い、知り合いの学生を誘って、ミサに与らせようと計画しました。心うきうき、内心すでに一人の信者を手にいれたという勝利感に酔いしれながら教会に向かいました。いざミサが始まってみると、驚いたことに若手司祭は入堂せず、かわりに例の老司祭の司式でミサが始まりました。彼は落胆し、「今日の説教ではキリスト教に興味を持つことすら期待できまい。かえって煙たがられるかも知れない」と考えたと言います。予想に違わず、老司祭は引っかかり引っかかり、何度も同じことを繰り言のように話し、説教を終えたのでした。ミサが終わって、青年は友人に申し訳なさそうに、こう言いました。「ごめん。てっきりぼくは若い司祭の当番のミサだと思って、君を誘ったんだけど。悪いことしたね」。ところがこの友人は彼の予想とは裏腹に、何と、ミサに来て本当によかったと答えたのです。信じられないといった様子の彼に、友人は言いました。「うん。君の言う通り、神父さんの説教は実にまずかった。けれども彼がイエズスという言葉をていねいに、そして確信をもって声に出していたのは分かった。あの老司祭は、きっとイエズスという人を知っているに違いない」。聖霊はこの老司祭を奮い立たせ、ミサに誘った友人だけに分かる言葉で話したのではないでしょうか。(長崎:カトリック太田尾教会。こうじ神父)と。

 

ある人は、あなたが、イエス様の事を言うのをあざ笑うかもしれません。あなたが口ごもり口ごもりながら話すのを、馬鹿にするかもしれません。しかし、その言葉が理解できる人には、確実に伝わるのです。聖霊がしてくださることと言うは、そういうことです。聖霊は、じゅっぱひとからげに人間性を無視して特効薬のように働くのではありません、たとい、あなたの弱さがそのままであっても、かならず、必要な備えをもって、神様が選んだ人のために、あなたをその人のために、ちょうどいいあなたを、特別に選んで用いて下さるのです。

今週の歩み。ここにおられる方々に、神を信じる人々に、聖霊は下ります。聖霊は、みなさんを、自分のために生きるより、隣人にイエス様の救いを伝えるために励まして遣わして下さいます。今のあなたのままでも聖霊は必ずあなたを用いて下さいます。その確信をもってここから出ていきましょう。