礼拝

1999/10/10

使徒の働き1:1〜14

「神にゆだねる人生」


使徒の働き1:1〜14

 

最近、面白い話を聞きました。

それは、ナポレオンに関する話です。19世紀のフランスの皇帝ですね。「我が辞書に不可能(という文字は)はなし」と言ったという。(ナポレオン・ボナパルト。在位1804141769-1821)彼は、ヨーロッパ中を支配し、ヨーロッパの支配者となりました。

こんな話を聞いた事がありました。

ナポレオンは晩年、こんな事を言ったとか。「ローマの皇帝カイザルも、アレクサンダー大王も忘れられた。私もいずれ忘れられる。しかし、ナザレのイエスは未だに歴史の中に名を残し、未だにこの世を支配している。」と。

ナポレオンについては、ナポレオン伝説と言われるくらい、ちょっと眉唾(まゆつば)ものの伝説が多いのですから、出典がわからないと、みなさんには言えないなあと思っていました。

最近、この話の出所がわかりました。

ナポレオンは、1812年ロシア遠征に失敗すると,ドイツ解放戦争が開始され,1814年パリも占領されて、1815年には、アフリカのセントヘレナ島に流されました。

そこで閉じこめられていたときに、遺書を遺したと言われるのです。

その遺書が、シカゴ大学の図書館にあって、それには、こんなふうに書かれていると言います。(シカゴ・レイキサイド教会 葛原千秋牧師 訳)

「私は、大胆に、キリストを信じますと、大声で告白できなかった。 そうだ、私は、自分がクリスチャンであると、告白すべきだった。 今、セントヘレナにあって、もはや遠慮する必要はない。 私の心の底に信じていた事実を告白する。私は、永遠の神が存在していることを信じる。・・・・・・・私の天才的なすべての能力をもってしても、このお方と比較する時、私は無である。・・・・・私は、今セントヘレナの島につながれている。一体誰が、今日私のために戦って死んでくれるだろうか。誰が、私のことを思ってくれているだろうか。私のために、死力を尽くしてくれる者が今あるだろうか。昨日の我が友はいずこへ。
 ローマの皇帝カイザルもアレクサンダー大王も忘れられてしまった。
 私とて同様である。これが、大ナポレオンとあがめられた私の最後である。
 イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私の間には、大きな深い隔たりがある。キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界を包んでいる(のに)。(これを、死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。イエス・キリストは、永遠の生ける神であることの証明である。私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。)」と。

はっきりと言って、この話の真偽(ナポレオンの本当の言葉か)については、未だに私も確信がありません。

ただ、確かなのは、彼が言ったと(あるいは言わせたと)言われるその言葉は、確かに真実であるという事です。

本日から、使徒の働きを通して神様から教えられていきたいと思います。

というより、この聖霊の働きの書、聖霊行伝とも言われる使徒の働きです。まさに私たちも聖霊に導かれていく経験を、私たちの実生活の中でも体験さていただく、そういう学びであり、そういうスタートであるようにと願いつつ教えられていきたいと思います。本日は、その最初の14節です。弟子達が復活されたイエス様に出会って、当時のクリスチャンたちが、世界中へ出ていくように、伝道を命じられ、また、聖霊の降りるのをエルサレムで待てと命じられたその場面であります。

さて、早速ですが、1:15を見て下さい。

1:15「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。」とあります。

イエス・キリストが十字架につけられてから、一時は逃げ出してしまった弟子達でありましたが、次第に集まりはじめます(というより、集められ始める)。最終的には120名の人々が、残りました。パウロによると500名以上の人々が復活をしたイエス様に会ったと証言しています(Tコリント15:6)。

要するに、この人たち(人数)が、今の私たちから逆に見れば、世界中に広がるキリスト教の、最初の人たちであったということです。当時、パレスチナに住むユダヤ人の数は400万人くらいであったと言われています。約3万人に一人のクリスチャン。青梅で言えば、5人くらいのクリスチャン(14万人として)であったと言うことです。

彼らの心境は、一言で言って、非常な心細さという事だと思います。行き先を知らず、荒野にぽつんと残されてしまった羊たちのように、「いったい自分達はこれからどうしたらいいのか。」と。そんな心境でした。

そんな中です。

1:3「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」

私は、こういう言い方をしたいと思います。

イエス・キリストは、死なれてもなお、よみがえって彼らを導かれたのだと。イエス・キリストというお方はそういうお方だと。

イエス・キリストは、そして、今も生きておられ、私たちを導いておられる。結局の所、教会が始まったのは、キリストご自身によるのであり、いや、世界中に教会が拡がり、多くの人々が信じているのも、結局、イエス・キリストの働きであると。

誰かがナポレオンにこう言わせました。

「これを、死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。イエス・キリストは、永遠の生ける神であることの証明である。私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」

「これを、死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。」

しかし、今日のこの箇所から私たちが教えられるのは、ただ単に、キリストの影響力が世界に及んでいくという程の意味ではありません。今朝、ここから、はっきりと私たちに伝えられていることは、キリストは目には見えなくなるけれど、死んでなお生きておられ、聖霊なる神によって、あるいは共に、教会と共に、クリスチャンと共に、この世と共にいつも、現実におられるのであることを、主が、自らよみがえってまた、40日、弟子達共にいることによって、まさに、

「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され」て、おられるのです。

 

長かったですが、今までのところがイントロです。

さて、ここで、使徒の働きという書について、もう少しご説明しておく必要があると思いますので、知っておられる方々も多いのですし、おいおいお話していくつもりですが、簡単にご説明しておきます。

(著者)この使徒の働きという書ですが、福音書の中の、ルカの福音書というのがありますね。第3福音書。その続きとして、ルカが書いたものです。

ルカは、医者でありました。早くからパウロの弟子となりました。前回のTペテロを執筆したシルワノがギリシャ語を得意として、役に立ったのだと言いましたが、このルカもギリシャ語が得意でして、というより、彼はギリシャ人でした。ちなみにルカの福音書と使徒の働きをいっしょにすると、新約聖書の中では、パウロの次にたくさん御言葉を記した人になります。

ところで、ちょっと小難しい話をしますが・・・・

ルカは福音書、すなわち、イエス様の生涯を主に書いた書の後に、このようにその後の教会の様子、そして、その後のイエス様の臨在、聖霊の導きを書きました。同じ事を、ヨハネがしているんですよ。ヨハネの黙示録。使徒の働きよりさらに後の時代の、聖霊の働きを記しているのです。

先ほどの事を繰り返し言いますが、ルカにしてもヨハネにしても、イエス様の働きは、十字架で終わったわけではない、あるいは復活で終わったわけではない。今も共におられるし、働いておられる。ルカにとっては、ヨハネにとっては、絶対に、福音書だけで終わってはならなかったのです。マタイは、あえてその後の歴史を省略しました。それは、マタイは旧約との関係、イエス様は、旧約の時代から預言され、備えておられた、すなわち、過去との関係に重点をおいているので、終わって良いのですが、それでも、マタイ伝の最後の言葉は印象的です。マタイ28:20「私は世の終わりまでいつも、あなたがたと共にいます。」マタイも、この言葉をもってしなければ終わってはならなかったのです。マルコによる福音書は、むしろもっとも中途半端なかたちで終わります。なんか尻切れトンボで、それで、括弧付きで、もしかしたら後の人がまとめなければなりませんでした。私は、個人的に前からマルコほどに、この福音書の続きと言うことを意識している人はいないと思って読んできました。続きはあなた方の心の中に住んでおられる聖霊が教えて下さる、キリストが共にこれからは教えて下さると。(事実、以前にそういうメッセージをさせていただきました。)

今も共におられるし、働いておられる。

福音書の中に閉じこめられているイエス様ではない。福音書はどれも、そのことを一番強調しているのではないかとさえ思うのです。

ルカも、福音書の後に是非とも、この使徒の働きを書かなければなりませんでした。

 

(宛先)この手紙の宛先は、テオピロと言うローマの役人です。ルカとテオピロの関係については聖書は何も書いていませんので想像ですが、ルカがテオピロの主治医というのですか専任の医者であったのかもしれません。彼は、ルカの福音書のはじめに、「尊敬するテオピロ殿」と書き始めます。ちょっと気になるのが、使徒の働きの方では、「テオピロよ。」という呼び捨てですが、一つの解釈では、ルカの福音書とは時間に空きがあり、ルカの福音書が書かれた頃にはまだ、クリスチャンでなかったテオピロが、この時点では、同じ兄弟姉妹としてのクリスチャンになっている可能性があると言われます。それで、ルカもこのように、本当の家族に語りかけるように語りかけたのだと思われます。

 

(内容)今日の箇所の内容については、既にお話しはじめています。一つは、イエス・キリストは十字架で死んだままではない、今も生きておられるという事です。

他にここから学ばなければならないことはいっぱいあります。しかし、一つの事だけ今日は確認しておきたいのです。

それは・・・・・・・

神様は、私たちに偉大な事をさせようとするときには、私たちを待たせるということを私たちは学ばなければならないということです。もっと言えば、祈ることを学ばせるのです。

キリストは、復活をされ、40日の間、使徒や弟子達を教えられました。そして、聖霊が下るまでにさらに10日間、彼らを待たせました。主は、彼らに待つことを教えていると言うことです。

1:4「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」

私たちは、神様が偉大なことを始められる前には、待つことの大切さをまず学ばなければならないのです。

彼らは、焦っています。

1:6「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」」

ユダヤ民族が、ローマの支配下から解放されるときですか?と聞いたのです。

実は、イスラエルは、紀元70年に完全にローマによって亡ぼされ、国を失います。(1948建国。)使徒達がイエス様にこの質問をしてから40年後です。イエス様は、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」とだけ答えられ、要するに、その答えは自ずと出る、あなた達には、その事を知る前に、さらにしなければならないことをある、それは、聖霊が下る時を待て。具体的には、「祈りなさい。」という事でした。

1:1314「彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」というより、主は、彼らにまず祈りに専念させたのです。

今朝、ここから私たちが教えられるのは、神様に用いられようとするクリスチャンは、また目指すものが偉大なものほどに、まずは静まり、祈って待つことを神様は私たちに教えておられるという事です。

子供は、お母さんのおなかの中に10ヶ月と10日居ます。人間の場合、他の動物と違って、その後の子育ての期間も長いのです。馬や牛は、数時間もすると立ち上がって親の後をついて行きます。しかし、人間の場合、1年にもわたって、世話をし育てるように神様は人間をつくられました。マリヤとヨセフの場合、マリヤが身ごもっていることを、天使からヨセフは教えられました。出産までの間、彼は、悩み苦しみ、耐えました。そして、神様に信頼しゆだねることをその間に学びました。彼にとっては、その数ヶ月こそ、大切な期間でした。

イエス様は、30年にわたってヨセフと兄弟達につかえ、さらに、イエス様にとっては、永遠と思われるような苦しい悪魔の試みを、40日間、荒野で受けたのです。

私たちの人生に生じる問題の多くが、事を焦って、早く知りたい、早くやりたいという性急さによって引き起こされるのではないでしょうか。

神様に用いられる人は、どんな事をするにも、まずは、「祈ります。」と言う人でなければなりません。私は誤解をしないように言っておきたいと思います。それは、良く考えるというのではないのです。世の中では、行動する前に、考えろと言います。しかし、私は言います。行動する前に、いや考える前に、神様にゆだね、祈ることをしなければならないと。問題が起きたら、その原因、その解決方法を必死に私たち達は考えようとします。しかし、たいていは、そう、彼らが、エルサレムが数十年後に崩壊するなんて考えも及ばなかった。そして、数百年後にはキリスト教はローマの国の宗教にまでなるなどとは、考えも及ばなかったのです。考えすぎてへんな答えをあなたが考えついてしまう前に、まず祈りゆだねる事をしなければならないのです。

私は、高校生の時既にクリスチャンでありましたが、先生からお前は、理系か文系か選ぶようにと言われました。自分にはどちらがあっているか考えました。才能の面から言うと、多少理系かな?次に自分の将来のことを考えました。お金をもうけるなら文系かな。高校受験に失敗して父に苦労をかけているし、父のように信用金庫に入るような事になっても、文系ならつぶしがきくかもしれない。いや、待てよ。社会心理学なんてのがあるぞ。これは、理系でもあり文系でもある。これならどちらにも行ける。名案だと思ったのです。

しかし、こういう時こそ祈らなくちゃと思ったとき、50年の人生を神様に見せられたように思いました。一度しかない人生。その後の事も見せられました。そして、死ぬ。死んで天国に行く。(はず・・)「では、何をしたらいいのでしょうか主よ。」牧師の道を選びました。5年後父は亡くなりました。宮村武夫牧師に出会い、横山牧師に出会い、新井姉妹と出会い、植木家と出会い、岡村さん、岡村友三重さん英美さん(あのー、あいうえお順です。)、愛する兄弟姉妹と出会えることは、当然の事ながら計算外の事でした。ほとんど想像もしていなかったことばかりです。神様にゆだねて良かったと今思っています。

私は言います。行動する前に、いや考える前に、神様にゆだね、祈ること。それこそ、もっとも優れた知恵であると。どうしたら人生を成功者として歩めますか?と尋ねられたら、はっきりと答えます。それは祈ることですと。(私は牧師としての成功者だと思いませんが、人生ということにおいては、神様にゆだねて良かったと思います。自信を持って神様にゆだねて下さいとお勧めしたい。)神様は、私たち以上に私たちの将来を知り、また、偉大なことを私たちにゆだねて下さる方だからです。

待っていなさい。そして、祈りなさい。そうすれば・・・

主は言われます。

1:8 「(そうして、10日後、)聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

山室軍平は、「力とは、爆裂弾という。我ら、爆裂弾を取って立ち、進んで悪魔の堅城を陥れ、・・神の国を拡張する。」(大正14)と勇ましく解説しました。

そして、全世界に遣わされる証人になる。というより、そうしますと、約束されました。彼らはただ・・

彼らは、命じられたとおりに、待ち、また祈りに専念したのでした。(:14)

それが、今日のところまでです。

 

みなさんはリビングストンという名前を聞いたことがありますか?

ルツ・コンバルメ宣教師の国ザンビアの都市で、有名なビクトリアの滝がある場所です。(木村夫妻川上夫妻などが、先月行かれたイエローストーン国立公園にも同じ地名がありますね。)リビングストン(1813-1874)は、人の名前です。調度、ナポレオンが亡くなった頃、スコットランドの貧しい労働者(産業革命の落し子である綿紡績工場の労働者)の家庭に生まれました。勤勉で敬虔なキリスト教徒だった両親の影響で医療宣教師となった。初め中国行きを志したがアヘン戦争であきらめ,ロンドン伝道協会派遣の医療宣教師として,184149年南アフリカに赴任しました。彼の乗っていた舟が突然現れたカバによって転覆し、行方不明になります。当時は、彼は、奥地奥地に行き新しい発見をしてくるものですから、探検家としても世界中に有名になっていましたので、そのニュースは世界中に伝わりました。アメリカの、ニューヨーク・ヘラルド紙が、救助隊を組織して、実に200人近い大捜索隊を派遣したのです。その代表として、H. スタンリーという記者が派遣され、ついに発見されました。いっしょに帰ろうと勧めるスタンレーの誘いを、しかしリビングストンは断って、ザンビアの伝道に命をかけました。まさに、命を賭(と)して、一年程して、最後にはマラリヤによって現地で亡くなりました。60才でした。

スタンレーは、クリスチャンではありませんでしたが、彼もまた、リビングストンとの別れ際に、このように思ったのだと伝えられています。

「もし、これ以上リビングストン博士といっしょに生活すれば、博士は何も言わないけれども、わたしは完全にキリスト者にさせられてしまう。」と。

 

一人の偉大な、その知恵と力によって歴史を動かした一人の人物について最初に紹介しました。最後に、神様に全くゆだねて、まさに神様の福音の証人として生きた人を紹介しました。

ただ、どちらも既に偉大すぎて、伝説の人になっていますので、比較をするのは大変に難しいことです。

また、どちらの死に方が悲しかったのかといえば、どちらも惨めで、つらい死を迎えたように思います。また、どちらが立派な人生であったかということは、彼らが、神に愛され、クリスチャンとして生涯を終えられたかどうかという(そのことだけはこだわっていいとおもいますが)、私としては確かめることの出来ない、このこと以外には、判断は出来ません。

ただ、リビングストンの事よりも、ナポレオンのことよりも、いやその事を考え想像を巡らす中で、みなさんの人生を考えて欲しかったのです。

 

イエス・キリストが、使徒達に、もっとも伝えたかったことは、「私は生きているということです。」

そして、私は貴方の人生を大きな力で応援していると言うことではないでしょうか。

だから、貴方の人生を私にゆだねなさい。具体的に言えば、祈りなさい。神に祈る人になりなさい。神から聞いて人生を歩む人になりなさいと言うことです。

 

どうぞ、これからの人生を間違わないようにして下さい。

神の業を待ち、祈り、そして進む、今週の歩みとさせていただきましょう。