97/4/20(礼拝)

 

「どこが狂ってるの?」〜愛&逢い〜

ローマ5:6〜11(:1〜11)&5:21

 

 5:6〜11「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

5:21「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」

マーガレット・パワーズというアメリカの女性の書いた詩で、世界中の多くのクリスチャンに愛されているフットプリントという詩があります。こんな詩です。

「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは主と共に、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。

一つはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。

そこには一つの足跡しかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しいときだった。この事がいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主におたずねした。

『主よ。わたしが貴方に従うと決心したとき、貴方は、すべての道において、わたしと共に歩み、わたしと語り合って下さると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番つらいとき、一人の足跡しかなかったのです。一番貴方を必要としたときに、貴方が、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分かりません。』

主はささやかれた。

『わたしの大切な子よ。わたしは、貴方を愛している。貴方を決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみの時に。足跡が一つだったとき、わたしは貴方を背負って歩いていた。』」

「わたしは貴方を背負って歩いていた。」一番つらいときには。

聖書に、こんな言葉があります。

イザヤ46:3,4「胎内にいるときからになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなた方が年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

あなたが、つらいときにも、ひとりぼっちだと思っているときにも、お母さんのおなかの中にいるときから、白髪の老人になってもいつも貴方に関心を持ち、いや、あなたを背負っている。貴方には見えないかもしれないけれど、わたしは貴方を見ている、貴方を愛している。そんな神様がおられると聖書は言います。

先々週の土曜日に、私たちの教会で役員会がありました。伝道所のお披露目と言うことでしたが、ある役員は役員会にご夫妻で来られていました。夕方役員会が終わり、お二人は帰られました。途中の道路で何台かパトカーがとまっていました。事故があったようです。誰かが事情聴取を受けています。中学生くらいの背の高い男の子。それは、彼らの一人息子でした。

彼が自転車で角から出てきたところを、50キロ以上のスピードで走って来た車が接触したのです。ハンドルが曲がっただけで、彼は肩をそのハンドルにぶつけたくらいで何でもありませんでした。次の日も、教会に彼は来ました。

その現場に偶然彼ら夫婦が出くわしたのです。警察も驚いていたということです。まだ連絡もしていないのに、どうしてわかったのかと。

次の日にその父親と話をしていました。不思議だねえ。わたしは冗談に、親子が偶然そのような場面であうというのは、たいていは、死に際と相場が決まっているんだがね。

しかし、彼もわたしも、そのとき、ぞっとし、はっとしました。もしかしたらそうだったかもしれないと。

もし、神様が彼と息子を会わせたとすれば、どういうことだろうか、わたしは貴方の息子を守ったよ。さあ、連れて帰りなさい。神様はそう言っておられるのではないだろうか。彼を背負うようにして守り、そして、そのままいだくように父親と母親に引き渡したのだろうか。

聖書は(マタイ18:10)、子供たちを価値がない者だと言って見下げたりしてはならないと言います。そして、このように言います。「まことにあなた方に告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」子供たちに対するあなたの扱い方を天使たちは逐次神に報告しますということです。それほどに、子供たちを見守っていると。前の礼拝でその御言葉を特に開いただけに、私たちにとっては、またとりわけ深い意味を持ったように思います。

神様は守って下さっている。そして、神様は生きておられる。

 

「どこが狂っているのだろう?」ということで、昨日お話させていただきました。そのときに、町沢静夫さんの『貴方の隣の狂気』という本を紹介させていただきましたが、この町沢という精神科の医師が、こんなことを言っておられるとご紹介しました。

現代人の多くが、精神的にしかも非常に日常的に病んでいる。その原因の一つとして、本当に愛さているという感じがない、満たされていない、そういう問題だと。だから、どう自分がみられているか気になってね。容姿を非常に気にして、思い詰めて精神的にまいってしまう。また、こんな事を言っています。しかし、愛情の飢餓状態の、時代の潮流の中でも、みごとにその時代を乗り切る力のある人たちがある。情報をいち早く仕入れて、適切にコンピューターのように、処理する能力、抜群の人たち。

しかし、そういう世の中の流れについていけず、精神的に挫折して、精神の病院に入って来る人たち。精神病連の中で、彼らは震えるうさぎのように、(あわれである。)しかし、わたしは、そんな震えるウサギのような患者の方に、心の安らぎを覚える。狂人もしょせん時代に流されている。しかし、その根底には、彼らは、時代のアンチテーゼを秘めている。たとえば、人の心の優しさ…(のような)。

ある日の事だったと言います。前の夜、緊急入院で分裂病の患者さんが入って来て、保護室に入れられました。彼が血圧を測ろうとした時です。彼は突然、渾身の力を込めて、両手で彼の首を絞めたのです。ここで死ぬのかもしれないと、意識が遠くなる中で思ったと言います。

そのときです。普段は、無表情で何を考えているのかわからないで、ただ一日ぶらぶらしているだけでの、ふとったり、冗談を言っているだけの、若い患者たちが、一斉に寄ってきて、彼を助けたのです。普段は何も話す事のない(できない?)患者が、「先生。大丈夫ですか。」といってくれた。その優しさに、わたしは言葉に言い表せないほどのうれしさを感じたと。

(ちなにみその男性は、土下座してあやまった事で、彼は殺されるという恐怖で襲ったようでした。)

 

町沢さんは、精神的に病んでいる人たちに共通して言える原因が、愛されているという感じの欠如だと言います。愛されることにおびえている。というより裏切られることを恐れている。傷つきやすく、挫折しやすい。

 

当たり前のことだと言われるかもしれませんが、あえて言います。私たちは互いに愛されることを望んでいます。

えらそうなことを言っているようで、わたしもそうです。

家内と結婚するとき、わたしは牧師になる、牧師になったらね、貧しいかもしれない、路頭に迷うかもしれない。牧師なんて言っても、欠点だらけだ。それでも、ついてきてくれるだろうか。今から思うとひきょうな言い方ですね。それでも愛してくれと結局言っているのでしょうね。

そしたら、家内は、言いました。わたしは、顔は長いし、太っているし、目は悪いし、それでもいいかと。恋愛中はそういう欠点は見えなくなるのですが、あらためてそういわれてみると、そうだ。太いような気がする、長いような気がする。正直言いますが、一瞬とまどいました。自分のことは棚に上げてね。

互いに、愛されていることを必要としているのですね。しかも、好きだからと言う事を超えて、本当に愛されることを願っているのですね。私たちの二人の言葉にあったのは、それでも愛してくれるかと言うことです。

「それでも」それがキーワードですね。本当の愛の。こんな顔でも、この財布の中身でも、この性格でも、これでも、あれでも、それでも。

 

「それでも」

 ローマ5:6〜8「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

愛されているという感じが、私たちには非常に大切であると思います。それは、人をどんなにか強くすることでしょうか。

聖書は、私たちが、神に愛されていることを受け入れることが救いに至る道だと教えます。神がわたしを愛されて、ご自分の一番大切にしておられる主キリストを私たちの、罪が救われるために、神の一人子によってわたしが裁かれるために、わたしではなくて、わたしに代わって、一人子であるイエス・キリストが裁かれるために、差し出された。

これは、私たちに対する愛でなくてなんでしょうか。それを信じるなら、その神の愛を受け入れるなら救われる。

ヨハネ3:16(開いて下さい)「神は、実に、その一人子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

(貴方を、)愛されたからお与えになった。

一人として例外なく、罪が深いからとか、性格が曲がっているからとか、根気が足りないからいつ神を裏切るか分からないよ、そんな事はいっさいおかまいなく、あなたに永遠の命が与える。

いかに神が私たちを愛しておられるかと言うことの最高の表現は、その神の一人子を送られたと言うことです。

 先ほどお読みしました、ローマ5:8「私たちが罪人であったときに」「死んで下さった。」

「死んで下さった。」貴方が罪人であったとき。あなたが真人間になって、イエス・キリストを心から愛して、イエス・キリストのためなら死んでもいいと誓っているから、よし良く言った、わたしも貴方のために命を捨てる。そうではない。罪人のままで。

失礼ですが皆さんは、あまり深く、ご自分の罪に気づいておられないかもしれない。何もイエス様が私のために死ななければならないほど、私は悪いことをしていない。多くの方はそう思っておられるでしょう。

昨日お話ししましたように、ガンの患者が風邪くらいにしか思っていないように。はっきりと言いますが、でも、それでもいいのです。所詮わかるはずがありません。おそらく、天国に行ってから、天国を見てから、私に約束されていた、神の子供としての立場が、どんなに身に余る多くの祝福であるかを経験するんでしょう。私もそうです。分かっちゃいない。本当のところは。

そのとき始めて、自分が、いかにそれを受けるにふさわしくないか、私の罪深さを本当に後悔するのだと思います。かなりはっきりと罪の告白ができた人でも、恵みの大きさからするとまだ足りないのだと思っています。

 

ですから、私たちの罪の自覚以上に、本当に私たちには、何か一方的に私の罪のために死んで下さったように感じるのです。

ですから、罪の自覚もそうですが、私は何でそんなに私が愛されているのかと不審に思うのです。しかし、わかり始めると、本当に神の愛に心が満たされていきます。

 

パウロも同じでした。

:8「これが神の愛なのです。」この書はパウロという人が書いているのですが。

 パウロは、キリストの愛をここで、確認しました。そして、この愛を受け入れ、この愛に生きるものでありたい彼は願いました。

 パウロは言います。この愛に生かされているので、私は、本当に嬉しいのです。と。人生が喜びでいっぱいなのですと。彼は、このように言いました。

 :11「大いに喜んでいます。」

年老いた使徒パウロは長い年月にわたる伝道生涯の果てに、ローマの牢獄に捕らわれの身となりました。彼の生涯は、苦しみに満ちた迫害と災難続きの一生でした。そのような迫害と苦しみ、災難と欠乏の中にあっても、彼の生涯は力と喜びと希望に満ちていました。そんな彼は、大胆にもなんと患難さえも喜ぶ事が出来ると言い切りました。

:3「艱難さえも喜んでいます。」

 

この愛を知っているか、知らないかで私達の生きかたは随分と違ってくる。その事を知っていただければと思います。それは、確かに人を変えます。

 

 ex.

マーガレット・パワーズの詩を最初にお読みしました。最近出された彼女の本の中に、ポールというご主人の事が書かれています。

彼女の夫のポールは、不幸な境遇の持ち主でした。子供の頃、父親から、盗みを教えられました。子供の頃から人を脅して人の物を取るような日を送っていました。少年の時、相手から奪った拳銃でその相手を殺してしまいました。

彼は、そんなことがあって、クリスチャンになり、今度はそういう不幸な子供たちのために、子供伝道の伝道者になりました。手品をしたり腹話術をしたりして、神様の事を伝えます。

しかし、幼いときの彼の不幸な境遇は、根深いものがありました。伝道者として、はじめのころの生活は大変に苦しいものでした。あるクリスマスの晩、家に帰ると、彼は、娘の部屋で何か金色の大きな包みを見つけます。彼は、烈火のごとく怒りました。家族が苦しいときに、プレゼントなど買える余裕は当時なかったはずでした。母親が子供のために無駄遣いしたと彼は思います。彼は、妻の前で、子供を殴りつけます。何回も。それは、ちょうど子供の頃に自分が荒れ狂う酒飲みの父親にひどく虐待された事が、フラッシュバックと言って、再現されているようでした。(後から、自分自身に、「君は駄目だ。父親とそっくりだ。卑怯者だ。だめだ。だめだ。」と言いながら彼自身も苦しんでいました。)彼は、娘に対して皮肉たっぷりに言います。「お母さんが無駄遣いしたあの包みを持ってきなさい。」と。翌朝、彼女の父親に対するそのプレゼントを彼女は父親に渡しました。箱に金の紙を貼って、セロハンテープで、ぐるぐるにした箱でした。

彼女は、父親に対するプレゼントだと言って渡します。彼は、それを引き裂いてあけます。中には何も入っていないのです。また父親は怒りだします。娘は言います。「パパ。私。その箱の中に私のキスをいっぱい入れたの。パパ大好きっていう私の気持ちがいっぱい入っているの。」

彼はひざまずき、娘を抱きしめ、彼は泣きました。今でも、それは、彼らにとって、本当に大切な宝物だと言います。

彼女は言います。「神様は、こうしている間もずっと私たちを背負って歩いていてくださいました。」

一人の神に仕える聖職者が、その幼き日に受けた、心の傷、またそこから来る罪。どんなに罪は私たちの心に根深く根ざし、私たちを苦しめているかということを思います。私たちが予想する以上に、罪は、私たちの心を暗くし、空しくし、また支配しています。

その心のむなしさを神だけが、本当にその空しさを埋めることができます。イエス・キリストによって、埋めて下さるのです。根の深い罪人であって、そうやすやすと改まらないような罪人であっても、見捨てず、命がけで愛し、私たちをそのままで、あわれな罪人のそのままで、背負い運んで下さると言うことです。

 

難しく考える必要はありません。むしろ難しく考えて眉間にしわを寄せているような歩み方をやめて、貴方を愛しておられると言っていてくださる、神様に貴方自身を委ねればいいのです。

ex.

私、ちょっと心の扉を開きます。私はもともと気が弱いのです。本番に弱い性格でして。説教が長いと言われて(今日みたいに)傷つきます。うちの教会の人たちはきついですから、牧師としてちゃんとやっていないのではないかなどと愛情をこめておっしゃることもある。2,3日眠られない夜を過ごすのです。私が傷つく原因は相手にもありますが、多少牧師として威厳を保ちたいと思っている自分にあることも十分知っています。一言では言えない私の問題があることもそういうときには良く見えてきます。だからよけい苦しむのです(思い当たるところがあるから。)。

でも多少自信をもって言えることがあります。私は、解決の方法を知っているということです。私の罪も、相手の罪も、引き受けて下さる方がいるということです。それでも受け入れられていると思っていいのだと思える根拠があるからです。それで、私は旧来のいい友達より、身近にいる人々(時に身近にいる人々ほど、人間関係がぎくしゃくするのですが)を愛することができます。

神に愛されていることを知ることは、それが絶対的な愛であることを確信するほどに、それは、本当に人を強くするものだと、思います。

この愛を、私と共有してほしい。それが、私の心からの願いです。

:11「私たちは大いに喜んでいる。」何か空しくて、何か暗くて、何か狂っているこの時代、でも「喜んでいる」そう言えるようになってほしい、いや、きっとさせて下さる。委ねて下さい。そう言いたいと思います。

貴方を愛してやまない神様に、イエス・キリストによって、貴方の罪をゆるし、まるごと貴方を受け止めてくださる神様に、委ねる決心をしていただきたいと心からお勧めします。

 

祈りましょう。