1997/6/29

ローマ3:22〜24

「いわしの頭も信心から?」

 

いわしの頭(あたま・かしら)も信心(しんじん)から」という(鰯の頭のようにつまらないものも、それを)信仰する人には尊く思われるところから、信仰心が不思議な力を持つと言う意味でそう言われます。

 

21世紀は宗教の時代だと言う人がいます。

多くの人が人間の限界に気づきはじめています。科学万能の時代を謳歌してきた人間が、科学の発展が人間を幸せにしないという事に気づきはじめています。

しかし、その一方で、最近の話では、何十億もお寺の金を自分のために使ってしまって、警察に捕まったお坊さんがいます。

人殺しをして罪を感じないという宗教が裁かれています。

何でも信仰心が大切だというような事はありません。

コンピューターをしていて、一つのプログラムを少しいじりました。言うなれば歯車を一ついじったのです。そうしたら、コンピューターが暴走しはじめました。あれよあれよという間に、何かがとりついたのかと思うほどに、時間がたつほどに、画面がめちゃくちゃになっていきます。

結局最初からプログラムを入れ直さなくてはならなくなりました。

ただ、私は半分、面白がってそれをみていました。いまだにコンピューターより人間の方がはるかに複雑だと思います。

植木兄弟と話しをしていました。人間の体の中にあるつぼを一つ押すだけで肩こりが治ったり、立てなかった腰が立つようになったり、なんて複雑に絡み合っていることだろう。プログラムが。

コンピューターではありませんが、素人がやると恐ろしいですよ。肩が痛いので、人に思いっきりたたいてもらったりしていたら、とたんに肩が壊れてしまいました。植木さんの所にいって痛くはない、そっと触れられているだけのようなのに、後からえらくすっきりしました。

 

まして、人間の心を問題を、自己流に解決しようとしても、人類が何千年もかかっても、いまだに人間が人間の力で、幸せになる方法がみつかっていないのでしょう。2000年前より今、私たち幸せですか。

30年前の世界より、科学が進んで、それだけ幸せになりましたか。

 

さて、リビングバイブルっていう聖書の訳があるから、もういちど今日与えられた聖句を読んでみます。

:21〜24「しかし今や、神様は、天国へ行く別の道を示して下さいました。その新しい道は、『善人になる』とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません。・・・神様は今、『もし私たちが、イエス・キリストを信じ(き)るなら、あなた方を受け入れ、罪のない者と宣言する』と言われます。

どんな人間であろうと、私たちは皆、キリストを信じ(き)るというこの方法によって救われるのです。そうです。すべての人は罪を犯しました。神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じ(き)るなら、神様は私たちを『罪のない者』と宣言して下さいます。このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにして下さるからです。」

 

私は、ここで、あなたが、本当の救いを理解するために、二つのことを知らなければならないと、言いたいと思います。

一つは、信仰と言うことです。もう一つは罪と言うことです。

 

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先日、洗礼を受けられたk姉妹を話しをしておりまして、姉妹が、キリスト教を知る前の今までの自分の考え方だと、何といいましょうか、功徳を重ねて、努力をして、それで煩悩を退け、あるいは少しでも善人になるのだと考えてきたしそのように教えられてきた、しかし、聖書に接し、キリストの教えを受けて、ただ信じるだけで、何かがんばるのではなくて、むしろ重荷を下ろすように神様に自分を任せる事によって、救われるのだという事がわかって本当に良かったとおっしゃっておられた。

私は、k姉妹が、みごとに信仰について、罪について、本当にその中心部分を、良く握っておられる。さすがに宗教的なセンスがおありになるというのか、本当によく学ばれたと言うべきか、たしかに主が導いて下さったと感じさせられました(ので、がんばって下さいね。)。

 

今までのところをお読みになってすでにある程度おわかりかと思いますが、私たちが救われるのは、努力ではなくてただ信仰によるわけです。それだけでいいのですかとおたずねになる方がおられるのですが、それだけでいいのです。むしろ、それだけしか、自分には方法がないと、自分自身の弱さ、努力の限界、罪の深さに気づいているということが、本当の信仰を知ると言うことと、表裏一体のようにして、罪を知ると言うことが、大切な事なのですね。

もう一度、今度は、新改訳の聖書の方で、ここをみてみましょう。

3:22「

                        」

 

ex

教科書にも出てくる宗教改革者ルターが(愛姉によると最近はずいぶんと詳しいそうですね。学校で習ったのだけれどうちの教会はルター派なのかカルヴァン派なのかと聞いてこられた。ルターとカルヴァンの違い、そんなことを学校で習ったというのですね。)こんな事を言いました。

 ルターの「塔の経験」(ルターは宗教改革の嵐の中で一時塔に隠れていたのですが)と呼ばれている有名な証があるのです。この経験がもとになって宗教改革を力強く行ったと言われております。それを読んでみたいと思います。特に、22節の神の義という言葉にこだわって言われたことでありますので、少し理解しにくいかもしれませんが。

「(私は、)神様の義という言葉を嫌っていた。それは、罪人や犯罪人を罰せしめるように強いる神の資質であると理解していた。私の良心は極度に不安であった。私は、そのような神を嫌った。私はこの1節(:22)を休みなく研究した。ついに神様は、私に哀れみを与えた。神の義は、ここでは神様の与える義を意味し、信仰を持つならば、人は義によって生きることを理解しはじめた。直ちに私は生まれ変わったように感じた。そして、私は広く開かれた門から天国そのものへ入ったように思った。」と。

彼がいかに自分自身の罪のしつこさ、努力によっては簡単に乗りこえられない自分の罪、それに気づいていて、それで、このままでは必ず裁かれるだろうと彼が考えていたという事を示していますね。

そして、同時に、人の義、人の正しさではなくて、神の義、神の正しさによって、神が解決して下さることによってこそ、救われると言うことを理解することの開放感。まさに救われたという思い、その思いを理解し、共感する事が出来ます。

 

私は、今回このローマ書を読んでいて、特に今朝引用いたしました、22節以下のところは、ローマ書5〜8章の要約と言われますので、5〜8章を繰り返し読んでおりまして、強く感じさせられましたことは、このローマ書の著者パウロが、どんなに深く重く自分の罪について理解しあるいは苦しんできたかという事です。

彼の場合もユダヤ教の律法主義という、「これをやらなくちゃ駄目だ」「これをやったら駄目だ」規則を与えられて、それを必死にクリアーし、それに必死に臨み、救いを得ようとしてきた、それに本当に疲れた、それは、とりもなおさず自分の罪との戦いに疲れた、自分自身の弱さや罪に打ちのめされてしまったということを白状しているのですね。

この彼の有名な言葉を読みます。

ローマ7:14〜8:2

「・・・私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

 

 その彼が、その後、次のように言っていることを注意深く聞きたいと思います。

「(7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。・・・・・8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。)」

本日の聖句も確認しておきましょう。

:23,24「

 

                    

                             」

罪を犯して、パウロによればアダムが失って以来失っていた神のかたちとしての神の栄光の姿を失っている。この講壇から繰り返し語っていますが、その栄光(天で再び手にする)は、私たちの想像をはるかにこえたもので、これが栄光だと見せるわけにはいかない。イエス・キリストをみればいい、聖さ、愛、穏やかさ、正しさ、能力、神の子としての立場、イエス・キリストに、我々がいずれ身につけるべき神の栄光の姿を見ることが出来ますが、弟子たちを感動させたイエス様のお姿を我らは今みることは出来ません。

「素晴らしい」(死ぬのを)「期待して下さい」くらいかな。

その素晴らしい姿を失っているのが罪人の姿です。

それが、ただで、ただと言っても、いいでしょうか。イエス・キリストの命という、神の一人子の命が代償金として払われているのですが。

→以下私は、どうしても難しくなるのですが、本質的な事を一つだけ言うことを赦していただきたいのですが。

(それは、神の怒りでもありうる。私たちの罪が、一人子の死をもってのみ贖いうるものであるという程の激しい怒り。ただ、その怒りは、バルトに言わせれば、神の愛の燃焼だと言う。真剣な愛は怒るのだと。)

阿弥陀(浄土宗、真宗などの本尊。この仏を信じ、その名を唱えれば、死後ただちに極楽浄土に生まれるという。弥陀。阿弥陀仏。)の慈悲というような、神の寛容さから出たことではなくて、むしろ怒りの表現であり、同時に、そこまで怒っても、それでも絶対に赦すという、神様の決意をあらわしているのです。一人子イエス様の十字架の贖いは。

 

 さてそれはともかく(いや、今私が言ったことを、別の言い方をしたいと思います。)どうしても触れておかなければなりません。それは、信仰によって救われるわけだけれど、どんな信仰でもいいというわけではないということです。

神様が認めた信仰でなければ駄目だということです。

神様が認めた信仰。それはなにか。それはイエス・キリストへの信仰です。イエス・キリストが、私の罪、神の栄光を失った私のために贖いをなして下さったと信じること。これが神に受け入れられる唯一の信仰だということです。それが、冒頭、何が本当の信仰かと問われて、結論を言えば、これこそ、聖書の教える本当の信仰だということなのです。

 

ex

その信仰をたとえてみれば、列車に乗る場合のキップのようなものです。本当の事を言うとキップそのものは、ただの紙です。最近のおもちゃのキップは、本当に良くできていて、そんなものと何も変わらないようにみえるのです。

確かに、正確に言うと、キップがあなたを運ぶのではありません。列車があなたを運ぶのです。

しかし、列車に乗る権利を与えるのがそのキップです。

しかもそのキップはその列車を走らせている会社のキップでなくてはならないのです。

 

ex

私は、N兄弟との学びを終えて、彼が信仰告白を書かれ、いよいよ洗礼だということになったとき、私は、大月の帰りの車の中、本当に嬉しかった。

私は、たしかに彼に、天国行きのキップを渡した。それさえ持っていけば彼は天国に行く。いや、私ではなくて、主が彼を選び、彼にそのキップを渡された。

私もそうだ。一生かけても、このキップを手にする価値があった、そういうキップだ。洗礼式で言いましたように、4人の皆さんはそれを手に入れたのです。

クリスチャンになったということは、世界の教会に連なる(どこへでも転会出来るという意味で)、青梅キリスト教会の会員になるということでもあるし、人からキリスト教の信者ですねと言われることでもある、また、あなたの生き方を示すことでもある。しかし、中心はこれだと。そのようにお話ししました。

 

 

最後にもう一言言いたいと思います。キリスト教の世界も、異端があふれています。しかも、ある意味では、しつこいほどに、いまだに生き生きと。私、言うのですけれど、本物が本物であるからこそ、本物に価値があるから、偽物が出来るのです。ブランドのバックなどにしても同じです。

 

自分で言うのもへんなものですが、私は、この小さな教会の周辺をみるとだけでも、クリスチャンよりも熱心に聖書を読み、聖書に感動し、熱心な人を何人も知っています。

それは、しかしさもありなんと思うのです。それは、偶然ではありません。たしかに、私は聖書に書いてあることが、読むほどに、本物だと、思わされています。これが神の御言葉だと思います。ここに書かれていることが、本当の神様の御言葉だと思います。

 

人が、本当に救われるために、何もかも信じないで下さい。

必ず聖書を読んでから決めていただきたい。

セールスマンのように自信をもっていいます。おそらくみなさんは聖書以上に確かな真理を見いだすことは出来ないのではないかと思います。天国行きのキップをあなたも、生涯の終わりまでに、必ず手にして欲しいと思います。

                  祈りましょう。