礼拝

1999/11/28

使徒2:37〜47

「全ての民に好意を持たれ」


使徒2:37〜47

一昨年前の12月に、ソニーの創業者である井深大(いぶか・まさる)氏が亡くなりましたが、そのニュースで「葬儀が、東京都品川区のキリスト品川教会で行われた。(97.12.22)」とありました。更に、「中曽根康弘元首相、羽田孜元首相の姿も見られた。祭壇には、真っ白な花で作られた十字架が飾られ、産業界でただ一人受章した文化勲章も添えられた。」(佐賀新聞12.23)と伝えられました。

私は、品川教会に聞いてみたのですが、井深さんは、日本基督教団の富士見町教会の会員で、ソニー本社が近いことから品川教会で行われたとか。ソニーと言えば、〈ソニー神話〉といわれるほどの急成長を、不況と言われる90年代に入ってもいっそう成長して、今やホンダと並んで世界中に知られた会社ですね。

「知ってるつもり」というテレビ番組で、井深大さんのことを見ました。彼は小さいころから物を発明して作るのが好きでした。自分で仕事を始めて、テープレコーダー、ウォークマンなどを作り、世界のソニーと呼ばれるまでにした人です。彼は仕事一筋で家庭を顧みなかったため、離婚する羽目になりました。子どもを引き取りましたが、ひとりは知的ハンデキャップを持った子です。彼女を施設に入れ、自分も施設と関わりをもつようになります。そのうちソニーの会社に、そういう子どもたちが自立していけるような「希望の家」を設立しました。あるとき、大きくなった自分の娘が、エプロンを付けてテーブルに食事を運ぶ姿を見たのです。自分の子も社会に貢献ができた、と感動したそうです。後に井深さんはこう書いています。「娘は私にとって重い十字架だった。それが光になった。彼女の存在をとおして、物作りの私が、物よりももっと大切な人間の心を見させてもらった。」と語りました。

私は井深さんについては、ほとんど知りませんので、話はそれだけです。

日銀の総裁を決めようとしたとき、橋本総裁が誰にしようかと決めようとしたとき、日本を駄目にした人は駄目だ、業界と癒着をした人は駄目だ、日銀出身者は駄目だと、日本の景気の舵取りをする一番重要な舵取りをする人は誰かとなったとき、最後に残ったのはクリスチャンの速水総裁でした。あの人に任せておけば大丈夫となったのです。(速水さんについても知りませんが・・毎週礼拝を守る熱心なクリスチャンであることは聞いていますが。)

小渕総理になったとき、目玉として経済戦略会議を作り10人の委員を選び議長を誰にしようということで、アサヒビール会長の樋口廣太郎(1998年、アサヒビールは販売量、売上高、利益でキリンを抜き、ビール部門の三冠を達成した。シェアが9.6%まで落ち込み、後発のサントリーにまで抜かれかねない危機的状況にあったアサヒが、どのようにしてトップ企業になりえたのか。成熟市場では不可能といわれたシェア逆転を、どのようにして勝ちえたのか。アサヒ成功の原因として樋口廣太郎会長の功績が喧伝されている。:アサヒはビールだけの会社ではないでしょうが、ビールは勧めません。)を議長にしました。彼はクリスチャンです。

笹川財団(競艇)の会長が亡くなって、すったもんだの末、決まったのがクリスチャンの曽野綾子さんです。

14年前に、わずかの人数で始まったインタンシャルVIPクラブというビジネスマンの祈祷会(毎週木曜日夜)は、今、渋谷、新宿、池袋、赤坂など11カ所で行われていて、今年600人の集会が開かれると聞きました(もう既に終わっているが)。

この厳しい時代の中でなお、クリスチャンが用いられている?ことを思います。少なくとも期待されていることを思います。

 

 ペンテコステの出来事の後、ペテロのメッセージを通して、3000人の人々が救われました。そして、

2:47「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

この一年間に結婚した九州エリアの四百人を対象にリクルート九州支社(福岡市)が実施した調査で、挙式の形式は「神前式」が50%と、「キリスト教式」が362%、「人前式」が115%。まだ、「神前式」が半分を占めているが、希望≠フ段階では「キリスト教式」が482%と最も多い。関東に比べれば比較的因習の強いと思われる九州でこの数字、全国では半分を超えたと聞いたことがあります。

「すべての民に好意を持たれた」

その中身とか、良い悪いは別にして言いますが(「好意を持たれるキリスト教は危ない。」という見方もある。)、この御言葉、このキリスト教の特徴は、教会が始まって、最初からのものであったことがわかるのです。

(11/27慶友病院から、1時間でメッセージと礼拝を信徒の方と共に来て行って欲しいと依頼があった。プログラムはまかせるとのこと。行うかは、これから話し合いますが。)

前回も、触れましたが、今日ももう一度強調させていただきます。

今日の箇所、2:41「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」

一日で3000人が洗礼を受けるという光景を想像してみてください。ペテロは、宮か広場で説教をしたわけですから、青梅で言えば、人が集まっていて、水がある広場といえば、さしずめ、河辺駅前の噴水のところあたりになりますか、といっても数百人でもたいへんな騒ぎですが、3000人が洗礼を受けたとなると、大変な事ですね。

ついさっきまで、イエス様が十字架にかけられて、いつ自分達の身の上にも迫害が及ぶかもしれないと、小さくなって祈っていたペテロらは、イエス様を十字架にかけたことを深く後悔して、イエス様の弟子となるべく、ユダヤ人が次々と洗礼を受けているという事実を、どういう思いで受け止めたのでしょうか。

そして、ほどなくして、先に読みましたように、この群が「すべての民に好意を持たれた」という地位を手に入れたのです。ペンテコステの不思議な出来事も奇跡でありましたが、この現実にもっと大きな聖霊の働き?と言わざるをえない、神の力を感じるのです。

ただ、ここで多少解説しておきますと、その「好意」とは、単に良い人たちという程の意味ではなくて、43節にある「心に恐れが生じ」という、これは、「尊敬」とも訳すことが出来ますが、この世に妥協的に振る舞って勝ち得たものではなくて、むしろ、神への敬虔と厳しい罪の意識と悔い改めによって、一本筋の通った信仰者の姿勢の中でこそ勝ち得たものであることを理解しておきたいと思います。

私は、今も、クリスチャンはその神の力を信じて良いし、信じなければならないと思います。もちろん、この後同じようなことが起きたかと言えば、信仰の渋滞の時期もあったし、すぐに迫害の時代が始まるのです。たといそうであっても、私たちは、それでも毅然(きぜん)として神の計画と勝利を信じるべきであります。

さて、既に内容的なことを教えられておりますが、あと何点か教えられていきたいと思います。

 

最初の数節、ペテロの宣教の締めくくり、結論とも言うべき大切な箇所を読みましょう。

2:3739「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」」

世界で最初の、キリスト教の宣教の、最大のポイントはなんでしょうか。

今朝は、一つの点だけ注目しておきます。先にも少し触れましたが、「悔い改め」です。

山室軍平は、このペテロの説教に触れて、教会は、「罪人の心が砕けて、救いを呼び求めるような宗教を宣伝せねばならない。」と言いました。

悔い改めというは、どういう意味でしょうか。

旧約聖書でも、新約聖書でも、この言葉が使われるとき、それは、「帰る」という意味で使われます。神を礼拝し、人を愛し、神の像に似せて創られた、罪人でなかった人間が、罪人となり、神を礼拝せず、感謝せず、心が空しくなって、本来求めたり、願ったりしてはならないものを願い、目標としている、次の40節にある、「この曲がった時代」、この曲がった生き方から元の人間に戻るということを意味するのです。

二つの間違った悔い改めを指摘します。

一つは、悔い改めと後悔とは違うと言うことです。過去のことで失敗した、間違いであったと悩むだけ(それ自体は尊いことですが)の事が悔い改めではありません。そこから、私たちを創ってくださった神を礼拝し、感謝して(それをキリストが十字架について可能にしてくださったので)歩む決意をしてこそ、悔い改めです。

二つ目は、例えば、昔柿を盗みましたとか、電車で料金を払わないで乗りましたとか、だから悔い改めますというような、細かいことではなくて(それも大切ですが)、もう考え方と生き方を方向転換するという事であるということです。神を知らず信じなかった歩みから、これからは、私たちの家庭には、もう一人家族が増えました。神様がいつも気になる存在としておられます。家族5人で相談しても、最後には神様に聞きます、私の人生には、良き伴侶と共に、神様もおられます、仕事でも学問でも、この神様を意識しないで、祈らないですることはありません。そのように、考え方や生き方(前回も、ちょっと人生の考え方、価値観というものについて、一つの考え方を紹介しましたが)、走っている線路を変えるという事なのです。悔い改めとは。

それから、大切な、世界で最初の宣教のポイントは、「バプテスマを受けなさい。」「そうすれば賜物として聖霊を受ける。」ということではあります。 

どうぞ、イエス様を信じたら洗礼を受けて下さい。そうすれば、疑わなくても、確かに貴方の中には、目には見えないけれど、聖霊が下って、貴方の中で働きはじめて下さいます。

 

今朝、もう一つの点として、それでは、「信じてクリスチャンになったら、どのようにして信仰生活を送るのか?」(本当は二回に分けて話すべきであったかもしれませんが・・)という点についてポイントを教えられましょう。

42節を見てください。

2:42「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

信仰生活の4つのポイントが語られています。

1つ目は、「使徒たちの教えを堅く守り」ということです。色々な教えがあり、堅く守るという点についても考えたいところではありますが、ルカが、この点で大切な点を指摘しています。

46節「心を一つにして宮に集まり」という事であります。聖書の教えをそのようにしていつも(ここでは毎日とある)聞き、礼拝していたということです。

妹尾河童(せのおかっぱ)という舞台美術家で随筆家の方の『少年H』という小説が売れています。テレビでもやりました(ちなみに、母親を演じた桃井かおりの祖父が牧師。父は、防衛庁?役人。妹尾家の壁には、「いつも喜んでいなさい絶えず祈りなさい。」Tテサロニケ51617が掛けられている)。その中で熱心なクリスチャンの母親とクリスチャンの父親が出てきます。北野たけしさんの番組に、妹尾さんが母の聖書を持ってきましたが、たけしさんは手にとって、余白が全て書き込みだらけなのをみて、何が書いてあるのかと尋ねると、「牧師のメッセージと、感想で、余白がいっぱいになると聖書を買い換えるので、これは、二冊目。」と紹介していましたが、教えを、学ぶことは、クリスチャンの生命線です。

 

2つ目は、「交わりをし」ということです。この具体的な例が、4445節に書かれています。

2:4445「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。」

ただ、どこかの宗教を思い出すように、まるで弟子になるときの条件のように全財産を差し出し共有とし(クムラン教団という教団が当時、そのようにしていた)、あるいは、完全な共産主義(近いのですが)というようなことを考えることは出来ません。ちょっと注意深く見ていただきたいのですが、「それぞれの必要に応じて」と書かれています。資産や持ち物は基本的にそれぞれが所有し、必要に応じて助けていたという事です。

今朝、私は一つの点を強調したいと思います。それは、助けることの大切さと同時に、クリスチャンは助けられることを受け入れることの出来る人だという事です。むしろ、助けられ上手、助けられて心から「ありがとう」と言える(これがなかなか難しい。年をとるほどに、助けられたくないと思うもの。淀川キリスト教病院の柏木哲夫医師が、お年寄りの最大の問題は、助けれ乗ずかどうかと言うことだと言った。ペテロの姑の接待をあえて受けられ、人の手に自らを委ねられたキリストに習えと言う。)

クリスチャンは、いつも財産、持ち物、また、この事も言いましょう、賜物(才能)、時間を、誰か必要な私以外の人にいつも分ける(特に心の)余裕を、取り分けていなければならないと言うことです。そして、それと同じくらい、兄弟姉妹に祈ってもらい、助けてもらうことを、受け入れ感謝する心の余裕を持たないといけないと思います。

 

3つ目は、交わりをするということです。

46節に、「家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし」とあります。パンを裂きというのが聖餐式を連想させますが、家とは、教会ばかりのことではありません。正確に訳すと、家々でパンを裂きとなります。家庭が解放され、あるいは、家庭ごとに聖書研究や祈り会、また礼拝が行われていた事を示しています。クリスチャンは、家庭も、いつも兄弟姉妹や道を求めている方々のために喜んで解放されていなければならないのです。

 

4つ目は、祈りをするという事です。

どうぞ、皆さん祈祷会に来てください。毎日家でも祈ってください。事あるごとに祈ってください。道を歩いていても。交通に注意して。

 

急いで、最後のクリスチャンの生き方については教えられました。

最後に、もう一言言いますが、この4つの点を見るとき、私たちは、人に喜ばれようとは思いません。全てが神様との深い交わりの中から出ることです。この世に妥協するのではありません(40節にあるように)。しかし、だからこそ、人々に恐れが生じ、いや、むしろルカは、このように言いますが、ほとんどの場合、クリスチャンは、敵意を持たれ、迫害されたに違いないのです、にも関わらず、確実に「好意を持たれた」、しかも「すべての民に好意を持たれた」という言ってはばからない程の信頼と尊敬を勝ち得ていったクリスチャン、そんなクリスチャンとして歩めるように、今週の歩み、たしかに今日の御言葉にならい、堅くならい守って歩むものとして歩みたいと願います。