礼拝

1999/11/21

使徒2:14〜36

「青年は幻を、老人は夢を」


使徒2:14〜36

さて、前回は、ペテンテコステ、すなわち神の聖霊が弟子達の上に下りて彼らが様々な外国語で話し出したという聖霊降臨の出来事から教えられました。今日の箇所は、その出来事を受けてペテロが立ち上がるところから始まるペテロのメッセージが書かれているところです。

ところで、私はこの2章の出来事を見ていて、一つ疑問に思うことがあるのです。イエス様の生涯から始まって(ルカ伝)、使徒の働きへと書きつづっているこの書の著者ルカも同じようなことを感じたのではないかと思うのですが、41節の御言葉に目を留めると、このペテロの説教を通して3000人が弟子となったというのであります。

弟子という言葉にも色々理解のあるところではありますが、ルカはルカによる福音書の10章で、その時イエス様が伝道に遣わした弟子の数を70人と記しています。使徒の働き1章では、120人の弟子達が最終的にエルサレムで祈っていたと書きます。パウロは、イエス様が昇天されるとき500人の兄弟達が目撃者としていたと言っています。しかし、そのパウロの言い方は「兄弟達」であります。もし言葉通りペテロの説教を聞いて弟子となったとうのが、まさに弟子であるとすれば、イエス様の説教によってよりペテロの説教によってはるかに多くの人々が弟子になったと言えるわけです。いや仮にその弟子という言い方が、単に兄弟姉妹達という言い方とおなじものであったとしても、イエス様はガリラヤで4000人、5000人の人々を前に話をしたと書かれていますが、それに匹敵する人数であります。本日、ペテロの説教から教えられるわけではありますが、(たぶんこういうことをいう人はあまりいないと思いますが・・)正直私は言いますが、あのイエス様の魅力に満ちたたとえ話、そして権威ある教えに比べて、確かに論理的ではありますが、けっこう難解でもあり、少なくともイエス様のメッセージよりも魅力的だとは言えないのでありまして、なぜ、このメッセージで3000人も弟子になったのかと不思議なのであります。疑問なのであります。

みなさんは、司会者に読んでいただいてどう思われましたか?

なぜペテロのメッセージで、3000人も弟子になったのでしょうか。「聖霊の働きがあったから」それも言えましょう。しかし、今日のペテロのメッセージの主旨を理解していただくと分かると思うのですが、何故弟子達にこのように不思議なことが起きたのか、他国語で話すようになったのか、なぜ聖霊がこのように下りたのかと言うことを前提に、それは、神様が約束されたことであって、イエス様の十字架と復活を通して約束通りに下ったのであって、その目的は・・うんぬん、と、異様な風の音がし炎が下りてきて学問のない漁師達が外国語で話をし始めているという出来事に、人々が、まずびっくりしていると言うことを前提に、人々に語っているという事なのです。

聖霊の働き、あるいは奇跡、復活も含めてそういうものを頭から否定する人がいますが、私は、ペテロには申し訳ないのですが、このメッセージ!で、しかも今日の最後の終わり方を見てください、イエス様が十字架にかかってからまだ2ヶ月もたっていないエルサレムで、当のユダヤ人に向かって、36節「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは(が)十字架につけたのです。」と慰めではなくて責めの形で終わるこのメッセージで、繰り返し言いますが3000人も弟子となったというのは、ペンテコステの出来事が、これが、目に見て否定できない事実であって、いかに彼らにとって衝撃的な事実であったかと考えないならば、私には、奇跡が信じられない、聖霊の働きが信じられないというような事以上に、それは信じられないことであるということなのです。私が言っているのは、確かにペンテコステの出来事は事実であったということが分かると言っているのです。

 

さて、今日の箇所。

大変に長い箇所でありますので、まとめてみたいと思います。

聖霊の不思議な働きに目を丸くしている人たちに向かってのペテロの第一声は、「今まだ朝の9時ですから、私たちは酔ってはいませんよ。」という言葉でした。ペテロのユーモアの気持ちがそこにあらわれていると言われますが、余裕に満ち自信に満ちあふれた言い方で話し出します。繰り返し言いますが、このような言い方が出来たのは、ペテロらの思いこみとかではなくて、事実が事実としてあったからこそであります。

ペテロは、旧約聖書のヨエル書から引用して、そこに聖霊が下りることの預言が書いてあると言います。で、聖霊の下りた目的は、21節にありますように、「主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」ためだと引用して説明します。主の名と言えば私たちには分かるのですが、当時としてはどちらかというと、時の権力者である王たちを指して使う言葉であって、ダビデのことか?と思った人もあるかもしれません。

そこで、ペテロは、この「主」の意味を説明します。彼らが主と思っているダビデの言葉を引用して、詩篇から語ります。25節以下に書かれています。詳しい説明は省きますが、こう言うことです。

34節から先に見ますが、ダビデは神のことを「主」と呼び、その神である主が、もう一人の主に言われた。ダビデは、天を見上げながら、神の右にいるもう一人の主なる方を見ているのですと。

『主は私の主に言われた。』と。

で、25節以下に戻りますが、27節に注目しましょう。

27「あなたは私のたましいをハデス(すなわち黄泉:よみ)に捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」

で、この主であって朽ち果てない人は、実は、来るべきイエス・キリストの事を言っているだと言うのです。

29節を見ると、このことが面白い言い方で語られています。朽ち果てない、すなわち腐らない人間なんていますか?ダビデだってご存じの通り、墓の中で腐っているのですよ。イエス様はよみがえられたのですと。

ところで、脱線しますし、脱線しない方が良いのではないかとも思うのですが、「人間の死体が腐らないはずないではないか、ダビデといえようとも」と言い方を見ていて、最近、連日のようにカルト宗教の一つが、腐らない死体、検死官から見ると明らかに腐りつつある死体を、そのように主張している教祖たちの姿が映し出されていまして、さっとこの御言葉を通り過ごすわけには行かない、よりにもよって神様は、どんな摂理か知りませんが私をこういう時期にこういう箇所に当たらせると言うことに不思議も感じ、困惑しています。

そこで、このペテロの言い方を確認しておきたいのですが、ここでのペテロの話の主旨は繰り返しますが、人間は必ず腐るのだという事であります。しかし、注意していただきたいのは、彼に、腐ることのない主なる神、永遠の命をもちたもう神、キリストの絶対なることを信じているからこそであるということであります。

聖書の言葉というのは、まるで無神論者であるかのような言い方をすることがあります。イザヤ書81920には、「占いに頼るな、死者に尋ねるな、降霊術みたいなことをするな。」その理由は、「生きている人間のことを、死んでしまった人間に何がわかるというのか。」という極めて冷めた言い方であります。

ヨハネ934では、盲人を弟子達が指して、これは、この人の罪でしょうか、それとも(両親)先祖の罪でしょうかという、今でもどこかの宗教で聞きそうです。ライフ(スペース)なんやらというカルト宗教が出たと思ったら、法の(華)何とかという宗教が、足の裏を診断して、先祖の供養をしないと、貴方をお清めしないと、すぐに死ぬと言って脅されてお金をとられ、裁判沙汰になっているというニュースが流れたりして、いつの時代でもそんなことに惑わされる人たちがいるのですが、イエス様は、はっきりと「誰に罪でもない、この人に栄光があらわれるためだ」と言って因縁という鎖からこの盲人を同時に解放されたのです。カルト宗教の手法とは全く違うものなのです。

ただし、何かを信じることが危険だと思ってはなりません。何も信じないと言う人、その空白の心、その不安な心にこそ、偽の宗教は入ってくるのです。ペテロが、冷たくもユダヤ人が最も尊敬しているダビデを、彼も人間でしょ、腐るでしょと、言い放つことが出来たのは、彼が無宗教だからではなく、かえって絶対なる神を信じていたからであります。だから、因習や占いや先祖か何かの霊に恐れるというような事がないのです。

こういう事があるたびに、東北学院大学の浅見定雄というクリスチャンの旧約学の学者がテレビにひっぱり出されて、私には最も説得力のある説明を冷静にしてくださいますが、冷静であれるのは、絶対なる神を信じているからであります。だからどんな凄いと言われる教祖が現れても、あまりびっくりしないのであると思います。あらためて聖書の真理の真理性、天地が滅びても御言葉は永遠であると自ら言ってはばからない聖書そのものの確かさ、そしてそれに従う者の確かさを思うのであります。

神などいない、人間の力があれば人間の能力と人間の知恵だけによって生きることが出来ると誇り高ぶっていた無神論者にとって、その技術の最先端であったロケットが落ち、世界一安全だ言われ一時代前の日本人の誇りであった新幹線が一歩間違うと大惨事になるようなトンネルのセメントのはがれが起き、かつてのエリートと呼ばれる人々が研究に携わり、23重どころか45重の安全対策が施されていると言われてきた核開発の分野で放射能漏れどころか空中で核分裂が起きてしまって一歩間違ったら茨城県が広島化していたかもというような事故が起きてしまった。そして、人間の力だけでは説明しきれないものがあると落ち込んでいる魂につけ込むカルト宗教が出て生きて、まさに世も末の時代に、どんなに立派な人でも、ダビデでも死んでみにくく腐りうると言い切れる真理こそが必要とされていると感じるのではありませんか?

さて、ペテロの言うのは、腐ることのない神の計画であります。

すなわち、神がキリストをよみがえらせ、(そう腐らなかったのは、後にも先にも神の子キリストだけであります)そのキリストが聖霊をこのように不思議な形で下されたのですというのであります。

2:3133「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」

これで、ここのところは、大体説明したと思います。すなわち、ここまでのところでペテロが明らかにしたいことは、聖霊の不思議は、神の計画によることであって、一番強調したいことは、キリストは復活をされ、そのキリストが今も天の神の御座近くに生きていて力を行使し、聖霊を下されたのだと言うことです。

 

さて、全体として教えられることがあります。

それは、ペテロは、起きた事実をこれ見よがしに宣伝するのではなくて、あくまで聖書の言葉を使って神の御心を明らかにしていると言うことであります。すなわち、いかにこの御言葉が確かであるかという事を強調していることであります。また、この御言葉に従って、キリストの復活を確信し、その確信を持ってこそ歩まねばならないと言う事であります。

彼の説教の動機、あるいは目的、この御言葉に従って私たちがどうならなければならないか、ペテロは私たちにどうしろといっているかが後の方に一言で書かれているので確認したいと思います。

2:40「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。」という事であります。

「この曲がった時代」

確かな希望であり指針であり道である今も生きておられるキリスト、そしてその事を教える御言葉をこそ信じるべきなのであります。そのようにして、この曲がった時代に影響されないようにしなければならないのです。

ヨエルの予言に従ってペテロが教えた最初の御言葉を最後に引用したいと思います。

2:17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』

この曲がった時代の中でも御言葉に従うならキリストを信じて救われるなら、確かなビジョンとドリームあるいは目標を持つことが出来るのです。また、御霊が与えてくださるビジョンと夢を持つべきなのであります。

例えば。

へたをすると、信仰者といわれる人でも間違うことがあることを指摘しておきたいと思います。私はちかごろの教祖と言われる人々を見ていて襟を正されるような思いが致しました。例えば、この青梅キリスト教会。どんなビジョンを持つのか。青梅キリスト教会はより多くの伝道所を生み出す教会となるべきです。青梅キリスト教会自体も2003004000人でもいい、もっと大きくなるべきです。いや、日本福音キリスト教会連合青梅キリスト教会ばかりでなく、青梅にある教会が底上げされて全ての教会が大きくなるべきです。ただ、私は自分の胸に手を当てます。しかし、それは教会のビジョンであって青梅キリスト教会の私たちのビジョンであっても、私、林の人生のビジョンではない。私は、多くの教会を造り、大教会の牧師となって60才を迎え、教団からも肩書きをもらって、最後は悠々自適な牧師の生涯を誇り高く終わる。そうではない。ある牧師が転任するときは、いつも今の教会より困難で弱い教会に行くべきだ。むしろ、年をとるほどにむしろ自分の使命を自覚し、ある牧師は、その賜物に従って、やりのこした研究に、ある牧師は、その賜物に従って誰もいない田舎でじっくりと御言葉を教えるために、すなわち、牧師が何か出世街道を上り詰めるようなこの世の曲がった考えに流されてはならないのです。神のビジョン、御言葉の道をこそ、この世の流れに影響されずにビジョンとして描き道を決断していく。神のビジョンにこそ目をとめなければならないのだと。

若い人たち、そして、働き盛りの中年の方たち、そろそろ定年も間近になり、あるいは、定年になって人生を振り返っている人たち。

いや、聖霊の注がれているはずのクリスチャンたち。課長になって部長になって社長になって、会長になって引退して立派な社葬をあげてもらうことだけが目標であるようなビジョンや夢をもっていませんか。それが持てなかったからといって何か卑屈になっていませんか。それは、聖霊から与えられた幻であり夢でしたのでしょうか?チェックしてみてください。

課長となって部長となって、例えば、そうですね、それから北海道出張所に行って、ヒラメ飼育係長になって、でもヒラメ飼育こそ賜物とついに気づいて、まじめにヒラメの養殖に取り組み、ヒラメ養殖のノウハウを残して、その会社を退職し、次の時代、そのヒラメ養殖の技術が会社を救ったというような人生もあるのです。

あまりに、この時代の価値観に流されて、聖書の価値観、神様を信じて、何語ものにも左右されないで与えられる確かな希望とビジョンに生かされていないのではないですか。

この「曲がった時代」、この曲がった価値観の時代、学生から年寄りまで、この画一的な価値観に毒されているような、この時代で、キリストを信じて救われたクリスチャンに、聖霊が注がれた青年の見る幻、老人が見る夢とはどんなものなのでしょうか。

私の今朝の宣教も、ペテロの如く、信仰者であるはずの皆さんに、あなたがキリストを十字架につけたのではないかというような厳しい悔い改めと、自らの心を省みる必要を強調することをもって終わらなければならないと思っています。

皆さんに最後に聞きます。

本当に貴方には、聖霊が注がれているのですか。

いや、正確に言えば、聖霊は信じる者の上に注がれます。しかし、聖霊の声を聞いていないのではないですか?キリストは知っているけれど、信じていないのではないですか?聖書は読んでいるけれど、聖書の価値観に従っていないのではないですか?

よもや占いや何かに影響されていないと思います。しかし、人の脅しや惑わしや、そんなことに影響されない信仰者の確かなあゆみをしておられますか?

チェックしていただきたいのです。

 この世界で唯一、よみがえられて生きておられるキリストをこそ信頼し、御言葉にこそ生きる基準を置いて、本当の勝利のあゆみを今週も歩んでいきたいと願います。祈りましょう。