ペンテコステ合同礼拝

 

1998/5/31

使徒の働き2:14〜21

「老人は夢を見る」

 

 

今日は、ペンテコステの合同礼拝です。

ペンテコステというのは、似たような言葉に、ペンタゴン(アメリカ合衆国国防総省の通称。五角形をしたアメリカの国防総省のビルの建物の形状からいう。:5角形)、カメラのメーカーで、ペンタックスなんてありますが、これもレンズのプリズムから取った名前だそうですが、いずれも、ペント=5という意味から来ています。イエスが十字架で死なれ、復活され、ユダヤでは、過越の祭りという祭りから数えて50を意味するペンテコステ、すなわち50日目。このペンテコステと呼ばれる日に、天から弟子たちに聖霊が下りました。

また、この日が、これからお話しますが、教会の誕生日なんです。キリスト教会では、この日を、そう言う意味で、ペンテコステと言うようになりました。少しはしょって話してしまいますが、今、教会の誕生日と言いましたが、その教会の誕生日に、ユダヤ人もギリシャ人も、ローマ人も、当時考え得る限りの様々な人種の人々が集まっていて、聖霊が下ると、様々な国語を使う者が、みんな通じ合うようになりました。教会の誕生日には、このように人種や地域を超えて、ひとつになって神を礼拝するということが、教会のスタートの大きな特徴でした。

どんなに控えめに言っても、今やキリスト教は世界最大の、また最も多くの国々によって信じられている宗教です。ヨーロッパやアメリカは言うに及ばず、南アメリカにおいても、アフリカにおいても、アジアにおいても。かつて共産圏と呼ばれた国々においても。また、もっとも生き生きとしている宗教であると、そのように言っても過言ではないと思います。マッケミー宣教師は、先週の金曜日に、かつてソ連であったラトビアに、キャンプ伝道を教えるためにまいりました。彼らにとっては、その勉強会の参加費用は、ほぼ一月の給料分です。しかし、にもかかわらず、真剣にラトビアに聖書の教えを広めようと、多くの人々が集まるというのです。

ザンビアは、猿橋キリスト教会に遣わされているルツ宣教師の国であります。なぜ、ザンビアなのか、貧しい国なのにと皆さんは思われるかもしれません。ザンビアは、現在、はっきりとキリスト教国であることを宣言している世界で唯一の国なのです。ルツ先生によれば、日曜日のこの時間には、ラジオは、しかも国営放送ですが、聖書の説教を流すのです。それ以外の放送を聞くことが出来ないのです。特に1991年10月の選挙において、明確な信仰を表明するフレデリック・チルバが大統領となりました。また、議会の大半はクリスチャンによって占められていますが。選挙後の記者会見の席上で、『新しい憲法を書く予定はあるか』と聞かれた時、チルバ大統領は『その必要はありません。』と答えた。『それはすでに書かれているのです。』そう言いながら、世界各国の記者団に向かって聖書を高く掲げたのです。

弟子たちに御霊が注がれたという神様の業は、たしかにこのような形でなお実を実らせつつあると、いろいろ問題はあるにせよ、言えるのだと思います。

私たちは、このペンテコステの記念の日に、毎年、合同礼拝と言いまして、二つの教会が一つであること、今は持てませんが、過去には、猿橋、ペルー集会など、出来る限り一緒に礼拝しよう、そのように考えるのには、神様の計画がいっそう実現していくように、ペンテコステの意味はここにある、と、このような根拠があるわけであります。

本日の箇所は、使徒の働きの中でのペテロの最初の説教の箇所です。というよりも、世界で初めての教会の最初の説教と言ってもいいと思います。2章1節からのところで、クリスチャン一人一人に、天から、聖霊が降りてきました。イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時には、聖霊は鳩のような形で降りて来ました。弟子たちには、炎のようで、その炎が、この舌のような形に分かれて一人一人に下りました。聖霊が下るという出来事について言えば、旧約聖書においては、例えば、最初の王、サウルの上に下りました。「主の霊が激しく下ると預言をして、あなたは新しい人に変えられる。そのしるしが起こったら、手当たり次第に何でもしなさい。」(Tサムエル10:6)と約束された、その聖霊が下りました。同じ霊がダビデにも下りました。また、聖霊がサウルを離れると、途端に悪霊が臨み、聖霊に満たされたダビデを殺そうとすると、ある時には、聖霊がサウルを押しとどめ、サウルは一昼夜裸のまま狂ったようになってしまうなどと言うことが起こりました。さらに言えば、聖霊は、人々を動かして、聖書を書かされた。(Uテモテ3:16)イザヤに、預言する特別な力を授けられた。(イザヤ61:1)士師記においては、信仰者に臨んで、神の民を敵から救うようにされています。(士師6:34)更に言えば、イエスを母マリヤから、地上での父親がなくても産む力を授けられてさえいます。(ルカ1:35)聖霊がその人に下るというのは、人が新しく変えられ、また何でも手当たり次第にしなさいと言われるほどに、その人は圧倒的な力によって守られ、必ず正しく導かれていくという事を意味します。またその働きは、あまりに大きくてすべてを言うことが出来ないほどです。使徒たちに聖霊が降りたとき、様々な国語で彼らは話し始めました。恐らくそれは、彼らが何処に伝道に遣わされても、すでに言葉という壁が取り去られ、自由に伝道が出来る、もちろん言葉の事だけではなくて、必ず伝道が進む、彼らが用いられるという神の守り、導きがある、ということを意味していると思われます。聖霊が下ると言うことはそういうことなのです。

今日ここのところで、ペテロがしている教会最初のメッセージは、その聖霊が、ダビデとかサウルとか、特別の人に注がれるのではなくて、娘も息子も、青年も老人も、しもべにもはしためにも、すべてイエス・キリストを信じる者、イエス・キリストの名を呼ぶ者に、注がれると言うことなのです。かつて、すでに預言されているその約束(預言)が、成就しまた、成就するのだというメッセージなのです。

もう一度14,15節を私がお読みしますのでお聞き下さい。

2:14〜15「そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。」

この記事を読んで私が思うことは、あまり本筋とは関係のないことかもしれませんが、実は今青梅では、福音書のペテロやユダの裏切りの場面から教えられていますので、このメッセージは、本当にあのイエスを知らないと平然と言ってのけ、最後には男泣きに泣き崩れる哀れな、あのペテロなのか?まずその事であります。

そこにいたすべてのクリスチャンである120人の弟子たちに、確かに聖霊が下ったのだと、「今は朝の9時だし」と、こんこんと説明するのですが、私から言わせると、この堂々として余裕のある、このペテロの変わり様に、「ああ、なるほど、確かに聖霊が下ったのだなあ」とそう思いますね。彼は、「今は朝の9時ですから」酔っているはずはないでしょうと言います。でも宗教改革者カルヴァンもは、いや朝からでも酒を飲む人がごろごろ居るのだ(500年前の話ですが)、だから、ペテロのこの話は成功していないと、たぶん冗談混じりで言います。山室軍平という救世軍の昔の牧師も、中国に「酒のう飯袋(しゅのうはんたい)」という言葉があって、なすことなく無為に日々を過ごす人間を、酒の袋、飯の袋にすぎない、人間じゃない、でもそう言う人がいる、人間は、聖霊をいれる聖霊の宮にならなくちゃいけないと、民衆の聖書という本を書いた彼らしい楽しいコメント加えます。恐らく、このペテロの「朝の9時ですから」という表現は、本当に、にこやかに、むしろ半分ジョークのように、確信が与えられた者として、力強い人間となって、余裕のコメントだと、そういう雰囲気がいたしますね。私はその彼の変化にビックリするのです。聖霊が下って変わったのは、言葉がしゃべれるようになっただけではなくて、このように人間を変えたのですね。

私は、人がイエス・キリストを信じて、聖霊が下ると言うことがどういうことなのか、実感をもって知ることが出来るように思います。

その彼は、旧約聖書のヨエル書を引用します。

2:16〜21「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」

「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」

終わりの日とは、2000年前から今の時代、この教会が始まってからの時代を言います。特に大切なのは、「私の霊をすべての人に注ぐ」という言葉です。「すべての人に」ダビデとか、イザヤとか、特別の人にではありません。ただし、この事は前提です。「主の名を呼ぶ者は」主とは神という意味もありますが、イエス・キリストを知り、信じるという事ではじめて、主の名を呼ぶという事になります。なぜなら、イエス・キリスト以外に、世界中にこの名以外には、わたしたちが救われるべき名としては、どのような名も人間には与えられていないからです。(使徒4:12)これは、ペテロがまた別のところでした説教の中にはっきりと言われていることです。

だから、イエス・キリストを信じるなら、必ず、誰にも、老いも若きも、すべての人に注がれるのです。私は注がれていない。という人はありません。これは約束ですから。自覚のある人もあるし、ない人もあると思います。また自覚のある人も、それが聖霊が降りたときの初めての事でないかもしれませんし、聖霊でないという事もあります。聖霊の働きは、私たちが自覚する以上に遙かに、大きな力をもって私たちを導いています。そこが大切です。

ここで大切なのは、聖霊の働きは、特に預言、幻、夢、そこに現れてきます。何か気分がいいとか、何となくハッピーだとか、何となく心が満たされているとか、そういうことが聖霊の主な働きだと、たぶん、聖霊というような何か空気のような何かパワーのようなそんなこの言葉から来るイメージから誤解しているのでしょうね。聖霊はそういうものであるより、特に今日のところでは、英語で言えばビジョンという事になりますか?預言はもちろんのこと、夢にしても幻にしても、現実とは思えないにしても、はっきりと、それは映像に現れるほどに否定できないはっきりとしたまさに、ビジョンとして、現れると言うことなのです。聖霊が降りたクリスチャンはビジョンを持った人だということです。しかもそのビジョンはそんじょそこらにあるビジョンではなく、本当に確かで若者も老人でさえも見ることの出来るビジョンです。

「老人は夢を見る」何と素晴らしい言葉でしょうか。これが、今回のメッセージの題としてつけさせていただいた題です。

ある無名な方の私小説のような小説(「太助」太助書店ホームページhttp://www.tky.threewebnet.or.jp/~fang/roujin.html)を、少し長いですが、引用させていただきます。

「祖父の自殺からとても永い時間が過ぎていった。父親は、脳溢血であっという間に死に、母親は、アルツハイマーにおかされ、赤とんぼを唄いながら無邪気な笑顔で死んでいった。そして、自分自身も長年勤めた会社を定年退職し、息子達の計らいで、最高のサービスを誇る老人ホームに入る事になった。

 ・・・何もしなくても、他の人間が全てしてくれる・・・

 最初はこれほどなく楽だったが、次第に何不自由ないその生活に嫌気がさしてきた。・・・・・・退屈でしょうがなくなって怒りすらおぼえるようになった・・・・・

 ・・・もう何もやることがない、これから何を目標に生ればいいのか・・・もう、夢すら見ない、夢が無いという事はこんなにも苦しい事なのか・・・無い、無い、何にも無い・・・ああ、気が狂いそうだ・・・・

真っ赤に赤くなった太陽を、屋上で見ていた。遥か遠くには、墓標の様に天を争って立っているビルが霞んでで見える。希望と絶望の渦巻く都心を見つめながら思った。

・・・あの頃には、抱え切れない程の目的があった・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・きみと、人生を共にしたい・・・

・・・我が家の長男を浩一と命名する・・・

・・・おめでとう、君は部長に昇進だ・・・あ、有難うございます!・・・

・・・ねえ、どう?住宅ローン組めそう?・・・ああ、何とかな・・・

・・・父さん、話があるんだ・・・何だ、急に・・・俺、あの人と結婚する事に決めたんだ・・・そうか、一杯呑むか・・・

最後の記憶は、自分の頭蓋骨が潰れる鈍い音と、あくまで赤かった太陽の光景だけだった。(この主人公は投身自殺をするのです。)

・目標を失った人間は、その時からただの生る屍になる・・・」

(私は、この小説が、時代の雰囲気をよく表していると思います。)

失業率が、4パーセントを超えた、特に60歳以上の就職が難しい。テレビや新聞が大げさに報じています。私たちはどんな夢を見たらいいのだろうか、夢も希望も描けない、そういう時代だと思います。本当に経済においても、若者の倫理においても、教育においてもまるで閉塞状態のようなこの時代の中で我らは、いったいどんな希望をもったらいいのか、どんなビジョンを持つことが出来るというのか。絶望だけではないのか。

しかし、あらためて、私たちは、このヨエルの預言を良く読むと、彼らが夢を見、あるいは青年が幻を見、息子や娘が預言をする時代は、いわゆる夢と希望に満ちた時代というよりも、何か恐ろしい震え上がるような恐ろしい時代であるということがわかります。

2:19.20「また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」

彼ら使徒や弟子たちがこれから出ていく時代、それは、迫害の嵐というような時代でした。聖霊が激しい風がふいてくるように彼らに臨みましたが(2:2)、同時に迫害の嵐が突風のように彼らを襲うのです。

時代はいっそう厳しくなる。いや、そう言う時代の中でこそ、聖霊をいただいた人たちは希望を語り、ビジョンを語る。語りうる。ペテロは、はっきりとそう語るのだと思います。また聖書は預言するのだと思います。

2:20.21「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」

イエス・キリストを信じるなら、必ず皆、神の子供とされ、永遠の命が与えられて、天国への希望が与えられます。イエス・キリストを信じる者にとっては、死は終わりではない。明確に聖書は語ります。これこそ我らの最も大切な希望です。そう言う人は、たとえあと、数日の命しかないとしても、希望を語りうるのです。

前に、青梅でしたお話ですが、こんな話を書いた本があります。

「彼は彼の友人たちによって「チャーリー (Charlie) 叔父さん」と呼ばれた小さいけれども屈強な男でした。 彼は伝道に熱心で、布の複葉機(飛行機)を持っていまして、例えば、農業祭なんかがあると、その上を飛んで、大きなかご一杯の、ゴスペルトラクトを蒔くのです。また、拡声器を使って空から福音を語るのです。まあ、言うなれば彼の異常行動は、彼自身の葬儀にまでつづきます。死ぬ前に、彼は、彼の息子にテープを与えて、言いました、「私が死ぬ時、私の友人たちを集めてください。 そしたら、このテープをかけてくれ。それ以外何もしなくていいから。」そう言います。チャーリーの葬儀の日が来た時、彼の友人たちはそこにいました。彼の体もそこにありましたが、もちろん彼はそこにいません。テープレコーダーのボタンが押され、人々は彼の声を聞きました。「こんにちは、そこに私の友人たち、チャーリー・フィッシャーです。私はこちらの、天国にいます、そこは素晴らしいです。」彼はそのように話し始めて、延々と、天国の素晴らしさについて、話し始めました。そして最後に、彼は「私は、そこにいる貴方達、みんなが来て、そして天国で私に会えることを心から望みます。」と、言いました。("Believe in Miracles, but Trust in Jesus," AdrianRogers, pp.165-166)

私たちは思います。

聖霊が一人の人に降りると言うことは、こういうことが起きるということではないでしょうか。一番つらいときでも、たとい死の間際、死の時でさえも、神を信じ、希望を語り、感謝することが出来る。

おざく台の教会は、今年で一周年を迎えます。このあと、食事会を開いて下さいます。本当に嬉しいです。もちろん、こういう時代の中で、教会も順風満帆というわけではありません。しかし、一年を振り返ってみると、経済的にも満たされ、本当に支えられました。1998年度も後ろ向きになったり自己保全的になったりするのではなく、私たちは、夢を語り、幻を語り続けたいと思います。

老人であっても夢を語る。語りうる。それが聖霊の力です。私たち、老人も青年も壮年も婦人も、少年も、この年、一層神を信じ、どのようなときにも感謝し、希望を語り続ける歩みでありたいと心から願います。そこにこそ聖霊の働きが素晴らしく働くはずだから・・・・・です。