礼拝

1999/9/26

Tペテロ5:6〜11

「固く立て」


Tペテロ5:6〜11

ジョナサン・エドワーズ(EdwardsJonathan170358)という、アメリカがまだ独立する前の時代に生きた、牧師また聖書学者がおられまして、アメリカの教会の歴史にあっては、アメリカのもっとも最初の有名なキリスト教神学者ということで、また、日本でも、アメリカの独立に思想的影響を与えた人として、アメリカ研究の一般書(森本あんり『ジョナサン・エドワーズ研究――アメリカ・ピューリタニズムの存在論と救済論――』創文社、1995年)にもとりあげられる、有名な方がいます。

もっとも、彼は、当時はアメリカの教会とケンカした人(洗礼を受けていない人に聖餐を受けるべきではないと言って、教会を追い出された。)で、アメリカ社会の中では伝道できず、インディアンに伝道した人でした。ただ、その間に、後の時代に大きな影響力を与える多くの著作を残し、最後には、プリンストン大学の総長に推されますが、ほどなくして55才の時、天然痘に冒され死にます。

彼がアメリカの歴史の形成にどれほど大きな影響力を与えたかという事で、世の中には、色々なことを数えてみる人がいるもので、彼に関してこんな事を調べました。

20世紀までに彼の子孫があれから929人を数えることが出来ると。そして、それらの人たちについて調べると、そのうちの実に430人が合衆国の大臣となり、そのうちの一人は、副大統領にまでなり、他に86人が大学教授になり、そのうちの13人が大学学長になりました。この事を調べた人は、この辺はいかにもアメリカらしいのですが、ついでにこんな事を調べました。当時、彼と同じ州に住んでいたある人(JukesNew York 州に実在した人の仮名.)を取り上げました。彼は、1,026人の子孫がいまして、そのうちの300人が平均13年間刑務所生活を送り、190人は売春婦であり、680人はアルコール中毒患者であることがわかったと。そこまで調べなくてもと思うのですが、それで彼の一族が国家に与えた損害は、42万ドルだと。国家に貢献した人と、貢献しなかった人を比較してみせたのです。

それは、ともかくとして、彼の信仰、彼の著作がどんなに大きな影響を後世に与えたかと言うことは事実です。ちょっと、彼に関する著作から紹介したいのですが、あるとき、同じ町に住むクリスチャンになったばかりの婦人から手紙をもらいました。クリスチャンとなってこれからの心構え、注意すべき事を教えて下さいと。

彼は、一つ一つ、箇条書きに心構えを手紙に書いていきました。

1,     救いを受け入れてしまえばもう気をゆるめてよい、というわけではありません。いえ、前にもまして注意深く、怠らず、ひたむきに、信仰生活上のあらゆるわざに励んでください。

2,     心の中にキリストの愛が満ちあふれるように祈りなさい。こうした点は、たとえどれほど信仰に進んでいる人であっても、さらに祈り求めていく必要があります。

うんぬんと。

「うんぬん」と言いましたのは、このあと、17項目にわたって助言を与えているのです。おそらく私なら、3つか4つしか書けないし、書かないと思います。

彼が、死んで後、プライベート(自分のために)に彼が書き残したメモが見つかりました。それは、自分自身の信仰生活に関する注意書きでした。

そのメモの冒頭に、「週に一度、下の決意を読み返すこと。」と書いてありました。

1.         このいのちの続く限り、たとえ久遠の年月をかけようと、最も神に栄光を帰する・・・・・あゆることを行なうこと。また自分の義務と思うこと。すべての人の幸福と利益のためになろうと思うことはすべてこれを行なうこと。このことは、どれほど大きな困難を伴おうとも、やり通すこと。

2.         常に上の決意を促進する新しい工夫、良案を見つけ出そうと務めること。

3.         もしも心くじけて無気力になり、少しでもこの<決意>を破るようなことがあったときには、その後で立ち直ってから思い出せる限りすべてのことを悔い改めること。

4.         肉体においてであれ魂においてであれ、神の栄光のためにならぬいかなることをも、自分の力の及ぶ限り決して行なわないこと。

5.         一瞬といえども無駄にせず、時間を可能な限り最も有益に用いること。

6.         生きている限りは、常に全力をつくして生きていくこと。

うんぬんと。

「うんぬん」と言いましたのは、このあと、70項目にわたる注意書きが書かれているからです。人に17の注意を与える彼は、自分自身に対しては、それ以上の70にわたる注意をこころがけていました。

ちなみに、その63番目には、このような注意書きがありました。「仮に、あらゆる点で正しくて、キリスト者的性格が常に真の輝きを放っており、あらゆる面、あらゆる角度から見て傑出していて高潔な、完全なキリスト者といっていい人が、世界中で1つの時代にひとりしかいないものとしたとき、この時代におけるそのひとりになろうとして、すべての力を尽くす者であるかのように行動すること。」

彼の時代ではそうでなかったとしても、後から見ると、たしかに、(マッケミー師が、彼は、アメリカの教会の歴史では最も有名な人だと言われましたが、)あらゆる角度から見て、その時代の中で、本当に傑出した人になったと思います。

 

前置きが長くなりましたが、本日の所は、Tペテロの手紙のほぼ最後のメッセージです(次回は、個人的な挨拶がおもなもの)。11節にありますように、あたかも礼拝の最後であるかのように祝祷(benediction)が出てきますように。

で、その内容は、キリストを信じるキリスト者に対する、特に迫害が迫るその時代の中で、どういう点に注意したらいいのかということが、ジョナサン・エドワードではないのですが、箇条書きに書かれているところなのです。

信仰生活の心構えが、おもに3つの点で書かれています。

5:6は、前回の続きであります。

其の一

今朝は、5:7からお読みしたいと思います。ここに信仰生活の心構えの、「其の一」が書かれています。

5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

イエス・キリストは、神の子であるのに人としてマリヤから生まれました。ですからイエス様は、あらゆる意味で、人間と同じ気持ちを経験されました。イエス様は疲れて眠りを必要とされました。のどが渇き、またおなかが空いて、イチジクの木から実を探されました。イエス様は、(正しい意味でではありますが)いかりました。あらゆる点で人の思いをわかっておられたのです。例えば「不安」とか「心配」を経験しておられたと思います。イエス様は不安や心配を感じたことがあるのか?十字架につかれる前にイエス様はオリーブ山(ゲッセマネの園)で祈られましたが、この杯(使命:死)を避けることが出来るでしょうかと祈られました。十字架上で、「神よなぜ私を捨てたもうのか?」と祈られました。私たちは、死とか、生活とか、将来へのとか、人間関係とかに不安とか心配とかを覚えることがありますが、少なくともそうした、心配な心、不安な心、あるいは、ひとりぼっちで寂しい思い、そんなことも良く分かっておられる方です。

ここでは、「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」と言われるのです。神様が私たちに代わって私たちのことを心配していて下さるというのです。

だから「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」と言われます。

「ゆだねなさい。」

先ほど、6節をばっさりと省いてしまいましたが、やっぱり引用します。この7節の前にこの6節があるのですが、「ゆだねる」という事のもうひとつの言い方として、5:6「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。」とあります。「神の力強い御手の下に」

ゆだねるとは、「神の力強い御手の下に」であります。

じつは、この言葉。旧約聖書では、神の裁きが下る、神の裁きを受けるという意味に使われる言葉なのです。そして、それは多くの場合、死を意味します。

神にゆだねると言うことは、悩み事を忘れるためにゆだねるという意味を超えて、言うなれば献身を意味します。語弊はありますが、神様になら殺されても構わないという覚悟をもってゆだねるという事であります。クリスチャンになるということは、日本においても現状は、やはり、親戚はどういうだろうか、友達関係はどうなっちゃうのだろうか、宗教を信じたら、人生がとんでもないことになっちゃうのじゃないかしら、キリスト教も同じじゃないかな?

まだまだそんな恐れがあると思います。でも、そこは腹を決めて、神様に委ねる。たとえそうであっても、御言葉をとる、神様と共に生きてみる。そういう決断が必要であります。

其の二

クリスチャンの心構え、其の二は、身を慎み、目を覚ましているということであります。

5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ペテロは、イエス様が、ゲッセマネの園で、不安や、あるいはその眠気と戦いながら、祈っておられるとき、ヤコブとヨハネと共に不覚にも眠ってしまったことがありました。あの時、心配し、心を騒がせ、まさに血の汗をしたたらせるような思いで祈っておられる方の隣で、彼らは、寝ていたのです。

たしかに、それは、私たちの現実であります。

私たちは自分自身について何も心配する必要はない。寝ていて良い。神様が、私たちが寝ているときもまどろんでいるときにも(詩篇に約束されているように)私たちのために心配し、私たちのために最も良いことをなして下さる方ですから。

主にゆだねて寝る。それは、信仰者のひとつの見識であるとも思います。信仰者は、良く眠ることの出来る人です(病気は別にして)。嵐の中でも、船の中で寝ておられたイエス様のように。それほど、神様に委ねられる人であります。

しかし、ペテロは、たしかにそれは、第一に大切にしなければならない、クリスチャンの心構えではあるが、ある人(George Morrison)が、「"God does not make His children carefree(心配がない) in order that they be careless(不注意:気にしない)." 神様は、神の子供たちのために、不注意であるほどにまでは、心配が内情対にはさせないものだ。」と言いました。

心配がないということと、不注意であるという事とは、別なのです。心配ないよ心配ないよと言いながら、平気でがけの上を歩いて下に落ちてしまうような、あるいは、人をさそって下に落としてしまうような事があってはならないのです。クリスチャンは、時として間違うことがあります。人の心の痛みが分からないほどに、例えば、心の底から苦しんでいる人に、「大丈夫、大丈夫。神様が守ってくれるから大丈夫」なんて、彼の痛みを聞く耳を持たないで平気で言ってしまえるほどに、平安であってはならないのです。それは、平安ではなくて鈍感なだけです。

目の前で何が起きているのか、それがどんなに危険なことであるのか、みんなはそのくらい大丈夫だといっても、そこに潜(ひそ)んでいる悪魔の罠(わな)を、しっかりと見据えている人でなくてはなりません。愛する人がどんなに痛み苦しんでいるか、その痛みで、寝てなんかいられないという(そう、イエス様がゲッセマネの園で、実は彼らのために傷み苦しみ悩んだように。)程に、目を覚ましていなければならないのです。

わたしは、このことは、クリスチャンが神様に根本的に委ねるからこそ、将来に対する心配がないからこそ、現実を深刻に受け止められるべきものだと思います。(だから「其の一」と矛盾しません。)

 

其の三

クリスチャンの心構え、其の三は、「悪魔に立ち向かいなさい。」ということです。

悪魔の働きを目を覚ましてみているだけでは駄目です。立ち向かう覚悟をもって見ている必要があるのです。

ヤコブ4:7には、こうあります。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。」

悪魔に、「あの人達は(クリスチャンは)、どうせ抵抗してこないぞ。」と思わせてはなりません。プロテスタント教会と言われる私たちは、たしかにプロテスト、すなわち、「抗議する」「異議を申し立てる」「主張する」という性質を特徴とします。

こんな話を読みました。

南フランスに、エグモントと呼ばれる町があります。ジョナサン・エドワードら、ピューリタンと呼ばれる人たちもそうですが、やはり同じプロテスタントの流れでフランスではユグノーと呼ばれる人々がいました。その町には、カトリックの信仰を受け入れず、多くのプロテスタントの人々、ユグノーが、閉じこめられた塔があるそうです。特に有名なのは、マリー・デュランという婦人だそうですが、彼女が38年間閉じこめられた部屋というのがあって、観光客は、彼女のその部屋の一部をガラス越しに見ることが出来るそうです。床の縁石に、「レジステ(抵抗せよ。)」と刻まれているのです。それは、マリー・デュランが、自分の爪で刻んだと言われるのです。(by加藤常昭)

 

正直な感想を言いますが、ペテロの言わば、これらキリスト者の生き様の、注意書きの最後に、「レジステ」(抵抗せよ。立ち向かえ。)と、そう、まるでマリー・デュランが爪で刻むように、渾身(こんしん)の力を込めて書いた事にいささか、私としては、抵抗を覚えています。

特にペテロの手紙は、むしろ、権威に従いなさい。主人に従え、王に従えということを教えてきた、そういう面を強調してきた書であります。その最後の言葉が、プロテストせよ。レジステせよ。プロテスタントとなれ。レジスタントとなれ。とはいかにもペテロらしくないのではないか?と思うのです。

宮村武夫先生は、いや、ペテロは、最初から何も変わっていない、例えば1:24「草はしおれ、花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに変わることはない。」と言ったあの時にも、暗にすなわちローマは滅びると言っているのであって・・・と言われます。確かに、次回13節の「バビロン」との言葉は、実はローマを揶揄(やゆ:馬鹿に)した言葉ですが、ペテロは、そう、虎視眈々(こしたんたん)と、トラが獲物をねらうように鋭い目で見つめ、機会をねらっているように、一歩も引いていないのです。

 

神様に徹底してゆだねるべき事。しかし、ゆだねるからこそ、他に恐いものはない。むしろ、戦うべき時には、相手がどのように強い、たとい相手が、悪魔であっても、抗議し戦います。そういう覚悟をもって下さい。

今朝は、クリスチャンの心構えということを教えられてまいりましたが、結局そういうことであろうかと思います。

実に、身の引き締まる、襟を正されるような思いにさせられるのであります。

 

さて最後に、ペテロは、彼らを励まします。

5:910「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

苦しみはやがて、栄光に変わる。

苦しみはあなたを成長させ、確固としたクリスチャンとさせる。当時既に多くのクリスチャンが迫害を受け殺されていたと思います。彼らのその信仰の上に、私たちは立たされている。あなたちも次の時代の礎(いしずえ)となるべくしっかりと立ちなさいと言うのです。

ここで「立ちなさい。」という言葉が印象的です。繰り返し出てきます。

「立つ」

すなわち、この迫害の時代に、この終わりの時代に、何か腰が浮いて、舞い上がることではなくて、むしろ、地にしっかりと足をすえて、立つようにと励ましているのです。

いったい、彼らは何処に立つのでしょうか?

それは、トルコ共和国にであります。ペテロは、1:1「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々」へと挨拶を送りました。あなた達は、そのビテニヤやアジヤに住んでいるけれど、国籍は天にあると。今、ペテロは言うのです。だからこそ、ビテニヤに、アジアに踏みとどまれ、そこでしっかりと立てと。そういうことではないでしょうか。

先に言いましたように、ペテロは知っています。ローマから火が燃える如く迫害が広がっていることを。いずれ、トルコにも及ぶ。しかし、逃げるな。そこで立て。抗議すべきなら抗議せよ。いや、そうではない、神様が、あなた達を、固くしっかりと立たせ、強く、まさに不動のごとく強くそこで立たせて下さるのだから。と励ますのです。

 

今週の歩み。私たちは、会社に、学校に、家庭に、この世に遣わされてまいります。そこは、私たちにとって、危険な場所かもしれません(家庭でさえ)。心安らぐ場所で無いかもしれません。逃げ出したいような場所かもしれません。しかし、そこに留まる力を、神様が下さる事を、今朝、私たちに、約束していて下さるのです。

私もこのあと、11節の如く、みなさんに祝祷を送ります。

どうぞ、神様の力に支えられて、神様にゆだねて勝利をする歩みを、歩んでいただきたいと思います。祈りましょう。