礼拝

1999/9/19

Tペテロ5:1〜5

「互いに謙遜を身につけ」


Tペテロ5:1〜5

洗足学園(足を洗う)という幼稚園から大学までの学校(5000人程のマンモス校)が、神奈川県にあります。イエス様は、十字架にかかられる前、いわゆる最後の晩餐の日、使徒達一人一人の足を、イエス様自ら、その足をぬらし、手ぬぐいで、ふかれました。

洗足学園は、ミッションスクールではありませんが、この洗足の命名は(目黒区洗足の地名などではなく。最初の学校はそこに建てましたが・・)、熱心な女性のクリスチャンであった前田若尾 (1888 ?)という創立者の命名によるものでした。彼女は、裁縫(さいほう)の女学校を出て、裁縫の学校で教えておられる時(明治の終わり〜大正のはじめ)に、クリスチャンになりました。クリスチャンになってから、ミッション系の学校へと、青山女学院に移り、やはり裁縫や聖書などを教えました。しかしその後、豊かな人たちより、もっと貧しい人のために裁縫を教えようと、製紙工場の女工の監督になります。大正12年。おりしも、関東大震災で、かつての教え子などが学校にいけないで働きに出ざるを得ないような状況を見ます。「全身全霊を尽くして奉仕すべき」との決意をもって、彼女は自宅を開放して、平塚縫製女学校という学校を開きます。と言いましても、生徒数6人でした。それがルーツでした(『洗足学園70周年記念誌』)。彼女は、学校が高校を併設していくようになった折り、聖書からとって、洗足学園と名をつけたそうです。「洗足学園の教育理念を表したものには、「キリスト教を厚く信仰し、賛美歌を愛唱した前田若尾先生は、迷うことなく、洗足と命名されたことでしょう。『たがいに足を洗えとのりし み教え守るここの学びや』、前田若尾先生作詞の洗足学園校歌の一節です。その教学の大理想をキリスト教の感謝と献身、犠牲と奉仕の信仰の中にうちたてられ、洗足学園はスタートを切ったのでした。」

有名なのは、青山学院の時、彼女の祈りだと言います。その熱意あふれる祈りに、多くの人が心動かされたと言います。

 

最初の、本日の最後の部分をお読みします。

5:5 「・・・みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」

はしょって内容に触れますが、長老も、若い人々も、仕える者も仕えられる者も、お互いに、謙遜でありなさいと結びます。その表現の仕方ですが、「みな互いに謙遜を身に着けなさい。」と言います。これは、大変に面白い言い方です。

「身につけなさい。」何か服か何かを着るという意味です。謙遜という服を着ろというのです。

最後の晩餐の時、イエス様は、上着を脱ぎました。そして、手ぬぐいをとって、腰に巻いたと書かれています。(ヨハネ13:4)弟子達の、土で汚れた足を洗って、前が濡れないように前掛け(エプロン)としてかけたのですね。そして、この着るという言葉が日本語に訳しきれない特殊な言葉で、前掛け(エプロン)のようなものの、ひもの部分を「結ぶ」という意味なのです。そして、この前掛けというのは、例えば日本で言えば主婦のトレードマークのようでありますが、当時は、それは奴隷のトレードマークのようなものでした。イエス様は、手ぬぐいを前掛けがわりにしたのでしょうが、確かに、イエス様のその格好は、弟子達にとって奴隷のように見えたかもしれません。ペテロ、「私の足を洗わないで下さい。」と激しく抵抗しましたが、その理由はそういう所にあったのかもしれません。尊敬するイエス様が、小汚い奴隷のような振る舞いで、自分達の足を洗っておられる。

ペテロが、「お互いに謙遜であれ」という時に、この特殊な言葉を使ったのは、あの時の記憶が鮮明に彼の中に刻まれていたからだったのではないでしょうか。キリスト教も歴史を重ね、牧師や長老、執事などの就任式が儀式にのっとって、うやうやしく行われるような時代になれば、私なら、みんなで主婦のエプロン(これはあくまで安っぽい木綿の白いエプロンでなければいけません。出来れば使い古した汚れがあるもの。・・・当時は、麻で出来ていたと言われますが・・いずれにしても安物のダサイやつ・・)を身につけて、牧師と執事がずらっと並んで、按手(祈り)を受けたら良いじゃないかと思うのですがどうでしょうか。

 

さて、もうすでに内容的なところに入ってしまいましたが、本日の所は、ペテロが、この手紙の最後に、教会の指導者達たちに対する勧めをなしているところであります。また、それと同時に、教会が、教会の指導者達を重んじるようにとの教えをなしているところであります。

すでに結論的なことをお話してしまったわけでありますが、5節にありますのは、そうした流れの中で、いずれにしても、すなわち、指導する側も仕える側も、謙遜でありなさいという事が書かれていたわけです。で、4節までは、その指導する側、教会の指導者達に向けて書かれているわけです。今しばらく御言葉を直接見てましょう。

ただ、その前に、あまり面白い話ではないのですが、当時の教会がどういう組織であったのかという事についてお話しなければならないと思います。ここに「長老」という言葉が出てきますが、大体、これは確かに組織的に位置づけられた、教会の役職の名前であっただろうと思います。青梅キリスト教会の執事や役員のように。規約か何かで位置づけられた名称ですね。聖書の中には、ほかに執事とか、監督とか様々な役職の名前が出てまいりますが、新約聖書だけでも少なくとも数十年にわたって書かれていますし、また、書かれた地域もアジアからヨーロッパに広がっておりますから、手紙によってその教会の状況や組織も違っていると思います。(ただ、違いがあるようだと発見すること自体は、大切な事で、教会の組織は違っていいのだと思います。おざく台、猿橋、そして、他の教会。監督制。長老制。会衆制。そういうことで教会がケンカしたり、共に歩めないという事であってはなりません。)ですから、ほとんどここだけで、見ていくしかないのですが、参考になるのは、長老と呼ばれる役職はローマの政治制度の中でもありますし、他の宗教の中でも確認することが出来まして、そういうことを総合して考えると、今でいうたしかに青梅で言えば、執事のような立場と言っていいと思います。でも一番近いのは、牧師でしょう。ですから、私たちの感覚では、おおざっぱに言って、牧師や執事達、教会の指導者という言い方で良いと思います。

で、内容をさらに見ますが。

5:1「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。」

「私」というのは、この手紙の著者ペテロ。長老達というのは、当時のトルコの教会の指導者である長老たちです(ところで、トルコの地震では、99%がイスラム教徒と言われるトルコで、本当に少数のプロテスタントのクリスチャンが、イズミットで災害対策センターを作って、海外からの援助物資などを受け付けて被災地で働いています。今日まで献金を玄関で受け付けますので、ご協力下さい。)。注目したいのは、彼が、自分を、「同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者」と言っていることです。彼は、12使徒の一人であって、当時、使徒は、イエス様に直接選ばれた証人達であって、特別な存在とされていたはずです。その彼が、自分も長老の一人だと言います。その心構え、その働きにおいて、その働きの尊さ、重さにおいて、それは、自分とあなた方とは同じだと言います。ここに、すでに、彼の長老達へのひとつのメッセージがあるのです。

で、その長老達へ。その同じだという、心構え、その働きについて、あるいは、その重さについて、次の2節から語ります。

5:24 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」

長老の目的は、羊を養うこと。兄弟姉妹のことを羊と呼ぶのは、イエス様が、私たちを羊と呼んで、イエス様が羊飼いとしての模範を示してくださったからで、ペテロは、こういう言い方をすることで、役割としては、驚くべき事に、イエス様と同じ役割を担うのだと言うことを示唆しています。

心構えとしては、3つ。

一つ目は、いやいやするのではなく、喜んで、思いっきり、すすんですべきことです。

私たちは、自分ですすんで神様のために奉仕をする場合もありますが、実際には、多くの場合、総会で選ばれてとか、牧師に言われてとか、自分にあってはいない奉仕だけれど、必要とされているからとか言う場合がほとんどでしょう。中学キャンプである姉妹のスタッフと話していました。本当にまだ幼さの残る大学生でした。でも、実に精力的に良い奉仕をしておられる。「失礼だけど、最初のイメージと違うね。あなたがそんなに積極的に奉仕する人とは思わなかった。」失礼な言い方ですが話の流れがありました。彼女は、言いました。「牧師から、言われたんです。『中学生キャンプには、年寄りが行ってもね。若い貴方、行って下さいね。』私は思ったんです。中学生キャンプは、毎月準備がある。家に帰ると夜12時過ぎてしまう。『自分がいけよ。』と、心の中でおもったんです。」私は、「恐ろしい。」と思いました。「恐ろしいでしょ。信徒は心の中でそんな事を思っているかもしれませんよ。」笑いながら言いました。でも、本当に彼女が、献身的に奉仕をしておられる様子を見て、とにもかくにも、心の整理が出来ていることがわかっていたので、そんな会話も交わすことが出来たし、笑って話したのです。

牧師が教会に招聘されるときでさえ、連合にかかわって実際に見ていますと、その年にこの教会が牧師がいなかった、調度その年に、この人が神学校を卒業される。10も20も選択肢が与えられれば、最後に選んでいたかもしれない教会であったとしても、その人はそこに遣わされます。実際にはそれで良い、本当に、導かれた教会であったなあと思う良い奉仕をしておられる。ある宣教団体の理事が言っておられました。「林先生ね。新しく来られた若い宣教師の方に、日本の必要としている宣教地を紹介しますでしょ。5つ紹介しますと、6つ目を選んで、そこに行きたいと言うんですよ。」いや、人ごとではないのです。私もあと5つくらい宣教地を示されたら、青梅は一番最後に回したかもしれません。でも、今は本当に神様は御心に従って導いて下さったと心から感謝しています。

「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをしなさい。」言葉を変えれば、どんな奉仕も尊いのです。いやしいと思われる奉仕こそ、時にもっとも尊いと聖書は教えます。昔、神学生の時代、告白しますが、私は、トラクト配布をする時間があったら、神学生である私は、それは他の信徒の方々に任せて、私は、他の奉仕をしますみたいな言い方をしたことがありました。今日は、私もトラクト配布をします。それは、本当に楽しい尊い奉仕であることは、配ってみてわかりました。先月の夕拝にも、トラクトを見ましたという人が来られました。私たちには、奉仕の優劣とかは、全部は見えていないのです。どのように始まった奉仕であっても、信仰者は、まずは、熱心にやる、積極的にやることを心がけること。そこから考えましょう。そういう態度が求められるのです。

 

2つ目は、「卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。」という事です。

これも、基本的に、心を込めてすることということですから、一つ目と同じです。ただ、卑しい利得。卑しいというのは、「少しの」と言っていいと思います。実際、当時の、牧師は、ほんの少しの生活費しかもらっていなかったという事だと思います。日本の教会でも、牧師の仕事をお金に換算すれば、学歴をみても、仕事量からいっても、公務員並の仕事はしているのではないか、大学の講師くらいの報酬がいいのではないかと、判断したことがありました。でも、実際には、そんな基準が実行されているのはごくわずかでしょう。パウロは、(長老。特に、教えを主にする長老。すなわち牧師には Tテモテ5:17)普通の人の、2倍の報酬をもらってもいいとあるところで言いました。宮村牧師は、「私は、1千万円もらっても驚かない。」とあえて言いました。このペテロの言い方は、もしかすると、「あなたは、まさか、その少しのお金のために、それに見合う仕事とか、それをくれるからとか、そんなけちなことを考えているのではないでしょうね。」という皮肉のようにも思えます。いずれにしても、たぶん、ペテロは、かなり長老達の、心のひだの問題にまで触れながら、「とにもかくにも、心を込めてそれをしなさい。」と言うのです。まして、執事や長老や役員が、自分の会社か何かの仕事と比較して、これだけ働けば、会社なら、このくらいの日当になるはずなのにと、考えているとしたらやってられないでしょ?執事役員に限らず、教会学校の先生や、教会の奉仕者の兄弟姉妹を、私は、同労者として尊敬しています。

「心を込めてそれをしなさい。」そうしたいと思います。

 

3つ目の長老の心構えは、5:3「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」ということです。

「割り当てられている」というのは、くじで当たったという意味です。転じて、割り当てられていると訳していますが、ペテロが言いたいのは、長老として立てられた教会の会衆は、あなたが選んだとか獲得したというのではなくて、あなた達にゆだねられたと言うことです。

「勘違いしてはいけない。兄弟姉妹達は、あなたにとって、支配する対象であるのではない。」と、中には、その長老達が導いた信徒もいたかもしれません。いや、むしろ、そう考える方が現実的です。多くは、彼らの祈りと具体的な導き、関係のなかで導かれ、また、彼らの特に御言葉語る長老のメッセージによって導かれたかもしれません。「しかし」とペテロは言うのです。「やっぱり違う。」と。くじにあたったように、たまたま貴方を通して導かれてのであって、あなたの力ではない。というより、あなたに神様がゆだねて下さったのであって、だから、彼らを支配するというような根拠は一つもない。勘違いしないようにと。

「むしろ、群の模範となるような態度を心がけなさい」と言うのです。

 

さて、ここまで見てきますと、既に、お気づきになっておられると思いますが、ここで語られていることは、単に教会の指導者、長老、などに向けられたということ以上に、すべての信仰者に共通する、奉仕者としての姿勢であることにお気づきと思います。(というより、ペテロが、使徒職を主張せず、長老の一人という事で、すでに、制度としての役職を超えて語ろうとしているのです。)

ペテロは、最後に、ですから、すべての神様に仕えておられるクリスチャンに、こう言います。

5:4「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」

ローマの競技場で、競技をする者達が、最後に、月桂樹の冠を与えられて、多くの人たちが称える様子を、彼は、ある種の感動をもって見ていたかもしれません。でも「しぼむことがない。(枯れることがない)」という事で、それ以上の栄誉だと言っています。彼は、1節でも同じことを言っていますが、「栄光」を、それは、例えば、イエス様が、ある山で、ペテロらの前で、光り輝く栄光の姿になられたのを目撃していました。そして、自分も、死を通してであるけれど、栄光を表すことを(ヨハネ21:19)、教えられて知っていました。

 

最初に読みました、最後の言葉を、もう一度確認します。

5:5 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」

私は、執事や兄弟姉妹について、時々(?)、「えらいなあ」と感じる事があります。それは、良くも謙遜に、こんな者を何事においても、立てていて下さる、立てようとしていて下さる。先生、先生は、一番上席に座って下さい。(まあ、慇懃無礼(いんぎんぶれい)という面もあるにはあるのですが)たといどんな者でも、神のしもべだという理由で、仕えて下さることに、大胆に言いますが、いさぎよいことと尊敬いたします。(マタイ10:42「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」という言葉を思い起こします。)「豚もおだてりゃ木の上る」と言いますが、尊敬することは、その人自身を高めます。それは、実感です。

冗談はさておき、あえて言いますが、私たちの教会では、教会の兄弟姉妹達が、執事や役員を尊敬し、役員を尊敬し、祈る事を、尊いと考えます。尊いと考える教会であり続けたいと思います。それは、私たちは、この世の価値観と多少違いがあっても、聖書の教えこそ尊いと考えるからです。

府中南伝道所の委員としての仕事を終えました。2年にして、独立することが出来ました。素晴らしいことです。教会の名前は、出来たばかりの役員会で、「キリスト教たんぽぽ教会」と決まりました。牧師に聞きました。先生の第一候補の名前は?「府中南キリスト教会です。せめて、府中南たんぽぽ教会を望みました。しかし、役員会の決定に従いました。でも、良い名前だと思っています。」立てられた役員には従う。こういうやり方が正しいのです。

 

しかしまた、だからこそ、執事たちや牧師は自覚をもちたいと思います。伝道師の就任式に読まれる式文にこんなくだりがあります。

「主、イエス・キリストの父なる神は、あなたがたを御言葉を宣べ伝えるために遣わされました。これは栄光ある重大なつとめであります。それゆえに、おりを得ても得なくても、伝道に励まなければなりません。また、あなたは主がその血をもってあがない取られたこの群を守らなければなりません。もしあなたの過失と怠惰によって、檻から迷い出る者があれば、あなたは主の前でその責任を問われるでしょう。たえしのんであなたのおかれた馳せ場を走りなさい。」と。

 

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。」

 

私たちは、知っています。神の一人子が、なんと神の一人子さえが、身を低くして、弟子達の足を洗われ、また、むち打たれ、ののしられてもなお、私たちのために救いを実行しようと、十字架の死にまで、堪え忍ばれ、救いを実行して下さったことを。

 謙遜でないクリスチャンなど誰一人としてありえません。今週の歩み、ここから出かける人は、全員、白いエプロンをして、主の僕であることを誓って、神様に仕え人に仕えるものとして、ここから出ていきたいと思います。