礼拝

1999/8/8

Tペテロ4:7〜11

「終わりの時代に生きる」


Tペテロ4:7〜11

1999年の7の月も終わりまして、無事8の月を迎えまして・・・・

ノストラダムス(Nostradamus 150366という人の預言とかで、先月この世の終わりのような出来事があるという事で世間を騒がせましたが、ついにその予言?の7月も無事すぎたというわけです。

しかし、「この世の終わり」という声は、私の生きてきたわずか40年と少しの歩みの中でも度々言われてきました。大げさな言い方をすれば、いつの時代にも共通した時代感覚(誰に教えられたわけでもないのだけれど、言わば本能的とも言うべき、時代感覚)というようなものなのかもしれません。しかし、そこに共通している雰囲気は、一言で言って、「不安」という言葉、仕事のこと、老後のこと、家庭のこと、健康のこと、いや、何かこれといった原因があるわけではないのだけれど何となく不安だというような不安感です。

色々な分析はあるのでしょうが、こうした時代的感覚、終末観というべきものは、もう明日はないかもしれないという、絶望的な雰囲気、時代感覚を表すものでしょう。その雰囲気というのは、不安という言葉に続いて、あせりへ。そして次に、あきらめへ。あるいはまた、もう人のことなんかどうでも良い、将来のことなどどうでもいい、という傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な生き方、自分勝手な生き方になる。あるいは、浮き足だって、その日その日が楽しければいいというその日暮らしの生き方になっていく。それが、このこの世の終わりを盛んに言い出す時代の雰囲気だろうと思います。今の日本、今の若者はどうなっているでしょうか。

 

それでは、聖書はどのような時代感覚を私たちに教えるのだろうかと言いますと・・

実は、「この世の終わり」をいつも意識しなさい。明日は無いかもしれないと思いなさいと薦める書なのです。

しかし、この聖書の違いは、この世の終わりを意識するほどに、自堕落になっていく(ダラ〜っとなる)のとはちがって、むしろ人間がシャンとしてくるはずだと教えるという点にあります。

 

さっそく、今日の所を読みましょう。

4:7「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」

心も体もシャンとしなさいと教えるのです。

それで、もう明日はないかもしれないのだから人のことはほっておいて、やりたくてもやれなかったことをこの際やってしまおう、道徳の倫理もあったものではない、自分勝手に生きようと言うかというと、むしろ人のことに気をかけ親切に愛し合いなさいと命ずるのです。

4:89「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」と。

「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」という言葉があります。これは、特別なことを指してペテロは言っていると思われます。それは、旅人をもてなすと言うことです。

ちょっと、当時のことを解説しますと。

当時の旅というのは、今とえらい違いがありました。宿賃は高い、不潔、また、不品行ということにおいても一般的で、特にクリスチャンやパウロなどの巡回伝道者とって、クリスチャンの家庭の個人的なもてなしなくしては、伝道活動そのものがストップしてしまっていただろう(バークレー)と言われるような状態でした。聖書の中にも、よく見ると、そういう自分の家庭を解放した人々が出てまいります。使徒10章では、ペテロが皮なめしシモンという人の所に宿泊しています。21章を見ると、パウロが、クプロ人マナソンという人の家に宿泊しています。聖書を読んでいてもあんまり聞いたこともないような名前かもしれませんが、しかし、聖書に本当に一回限り名前しか出てこないこうした人々の、家庭の解放、もてなしなくして、ペテロもパウロも伝道できなかっただろうというのは、大げさな言い方ではないのです。

それだけではありません。旅人をもてなすと言うことだけではなくて、キリスト教会の最初の200年というのは、教会の建物らしいものは、なかったのですから、どうやって集まっていたかといいますと、部屋を借りる必要がありまして、例えば、ローマ書やコリント人への手紙などを見ると、アクラとプリスキラの家が教会に解放されました。ピレモン書を見ると、ピレモンの家を教会にしています。自分の家を喜んで解放してくれる人がいなかったなら初代教会は礼拝すら出来なかったのです。(バークレー)

「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」とありますが、時にはつぶやきたくなることもあったかもしれません。

当時、教会の人々は、キリスト者でなくても宿がない人に泊めてあげたりしたものですから、それを良いことにキリスト者の家を狙って泊まり込み、強盗に早変わりしたなどということがあったという記録があるくらいです。なかには、巡回伝道者だと言って、本当は泊まることが目的で、何日も何日も帰らないで泊まり続けるような人もいたとか・・・

「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」

見返りはないかもしれない、時にだまされるような目にさえあることもあるかもしれない、「もてなしたって損をするだけだ。」というようなつぶやきも出るでしょう。いや、終わりの時代だとペテロは言っているのです。見返りなどないと言っているのと同じです。ペテロは、それでも、もてなすようにと言っているのです。

ペテロは、はじめに、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」と言いました。「心を整え」という言葉の意味の中に、「(終わりの時代だからこそ)何が大切で何がどうでも良いことであるかをよく見極める。」言う意味があると言われます。

なぜ、つぶやかないかと言えば、祈りとそれに基づく心の準備があるからだと思います。

たとえばそれは、「損をしても、もてなす。」という祈りの結果与えられた、心の準備であり、また、たとえばそれは、「見返りは期待しない。いや、すぐにも来る天国で見返りは受けるからいい。」という心の準備です。

先日、サマーキャンプのおり、喬木教会を皆で訪れ、何より、教団教派を超えて共に礼拝をすることが出来たことは本当に意味の深いことでした。後から、牧師の北村先生から、お手紙をいただきました。「先日は、良きお交わりをいただき、ありがとうございました。・・お礼のお電話をいただき感謝です。小生の無計画と力不足からか、何も、もてなしが出来なくてスミマセンでした。」と。

私たちは、本当に温かいもてなしをいただきました。謙遜ではない先生の言い方に、ああキリスト者という者はこういう者なのだなあと、本当に嬉しくなり感謝しました。してもしてもし足りないと感じる。そういうもてなしの精神でないといけないのだなあと、かえってこちらが心迫(せま)られた思いでした。

私たちに終わりの日に備える心の準備が出来ているでしょうか。

 

さて、ペテロは続けて、万物の終わりに生きるキリスト者のあり方をこのように付け加えます。

4:1011「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」

一時の親切、もてなしという段階(レベル)を超えて、さらに末永く、また、しっかりとお互いに関わり合い、支え合っていくことをペテロは命ずるのです。

ここでちょっと、難しい言い方でまとめますが、前半の部分は、キリスト者のホスピタリティー(親切・もてなし:ホスピスというのは病院という事ですね。)という面で、この後半の部分は、キリスト者のスチュワードシップという面なのです。

「管理」とか言うときに使われる言葉ですが、この言葉の反対のところにある言葉は、ロードシップ(支配)という言葉です。10節に、クリスチャンは、ロードシップ(支配)ではなくて、スチュワードシップ(管理)なのだと言うのです。

支配者あるいは会社のオーナーと管理人の関係というのは、管理人は、あくまで主人のもっているものを管理するだけだということです。

管理人の姿勢には、いくつかの気をつけなければならない点があります。何にしてもいちばん大切な事は、自分が管理しているものを、自分のものだと勘違いしてはならないということです。主人から預かっているものを処分したり、それを増やしたり、ある程度の権限は委ねられているでしょうけれど、やっぱりいつも主人に確認したり、主人ならどうするか考えて扱わなければならないということです。自分のものであれば、人のことは考えなくてもいいと思いますが、管理人の場合は、あたりまえのことですが、そのことが大切です。

終わりの日に備えるクリスチャンは、自分に与えられた能力あるいはこの健康、時間、財も人生の経験も、何もかも、自分のものではなくて、神様から預かって管理しているものだという事ですね。

ところで、ここでうんと難しい話をしますね。

この管理という言葉なのですが、ギリシャ語で、オイコノミア(管理すること)と言います。経済って言葉、英語でエコノミーって言います。オイコノミアがその語源です。そもそも経済って言葉が、幅の広い言葉で、何も金銭のやりくりをするって事だけの意味じゃなくて、辞書引くと、例えば「人間の共同生活を維持、発展させるために必要な、物質的財貨の生産、分配、消費の活動。また、それらを通じて形成される社会関係をいう。」ということになりますし、経済するなどという言い方をすると、その意味は、「国を治め、民を救済すること。(すなわち)政治。」となりまして、ほとんどすべての生活に関わる非常に幅の広い意味です。

一生懸命勉強して、良い会社に入り、あるいはいっぱい能力をみがいて、たくさんお金を稼ぎ、家の買い、便利に生活して、旅行もして、家族を養い、豊かな老後を過ごす。ほとんどそれは、経済活動ということになります。

となりますと、キリスト者は、その生活の、すべての領域において、「神のさまざまな恵みの良いオイコノモス(エコノミスト:経済人:管理者)として、・・・互いに仕え合いなさい。」

「互いに仕え合う」ために、それらをする、能力を生かす。便利な機械も、快適な家も、家族も、老後も、最後には、隣人のため、私以外の人のために生かす。すべての生活においてそれを考えるという事になるのです。

もう少し言えば、そのためには、「(その賜物の)良い管理者として、その賜物を積極的に用いなさい。」という点に注意が向けられています。

あなたが、子供に素晴らしいクリスマスプレゼントを贈りました。子供は喜んでそれを開けます。中を見てしばらく喜んでいました。そのうち、クリスマスツリーが片づけられ、飾り付けがはずされました。あれ?プレゼントが、そこに放り出されままです。こんなに送った人の心を傷つけることはありません。

あなたが、貴方が神様から与えられた賜物(能力だけじゃなくてすべてを含む)を、隣人のために用いないで、ただほくそ笑んでいるだけなら、例えば、私は人より優れている。こんなに成績がいい、こんなに出世した。こんなにお金をもうけた。こんなに良い家をもった。と喜んでいるだけなら神様は、どうおもわれるでしょうか。いつか私たちは、神様の前に出て、決算報告、収支報告をしなければならないときが来るのです。

4:11「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」

教会を念頭においてペテロは話していますが、奉仕ということは、私たちの生活のすべてを含んでいます。

 

最後に。脱線するかもしれませんが・・・

5年ほど前に、ロバート・ゼメキス監督(「バック・トゥ・ザ・フューチャー」)、トム・ハンクス主演の、「フォレスト・ガンプ」という映画がありました。IQ70の知的ハンデキャップをもった主人公を中心とした物語です。

小学校に入ったものの、頭が悪い上、脚にギブスをはめたフォレストはバカにされてばかり。遊んでくれるのはやさしいジェニー(ロビン・ライト)だけであった。ある日、同級生たちにいじめられていたフォレストは、「走って!」というジェニーの声で猛然と駆け出した。脚のギブスが吹き飛ぶほどの勢いで。そして、そのまま彼は風のような速さでどこまでも走り続けた。その俊足を買われ、数年後、フォレストはアメリカン・フットボールの選手として大学に入った。ルールさえ理解できないまま、とにかく走り続けた彼は、ついに全米代表選手に選ばれ、ケネディ大統領からも激励を受ける。

その後次々と、ジョン・レノンだとか、アップルコンピューターの社長とかに出会い、彼らに強烈な印象を与えていく。元になった小説では、卓球の世界大会に出て中国を訪れたガンプが、川に溺れている毛沢東を助ける。

最後には、彼の愛するジェニーは、彼の元を去る。彼はまた、ただ走り続ける。3年余り、彼はアメリカ中を走り続けた。多くの人がガンプの後を走ってついてくる。またも、ガンプは時代のヒーローになっていたという話です。

ストーリーは、なつかしい音楽が流れる中すすみます。ベトナム反戦デモ、ウォターゲート事件、卓球外交による米中の国交回復の幕開け、その他ジョンレノン、プレスリーへの影響など・・・。一方のジェニーが時代に逆らい、時代を変革しようと反戦運動などにも参加して必死に生きている。ガンプはといえば、ただ与えられた人生を一生懸命生きるだけ、ただあるのは、彼の優しさと思いやりだけ、将来に対する野心とかいうようなものとは無縁です。しかし、結局、世の中の変革の節目になった事件や人物に、彼が不思議な影響を与えていくという話です。

で、この映画の副題が、「ー期一会(いちごいちえ:人生に一回しか会わないかもしれない出会い)」。この言葉は、茶道から来ている言葉だそうです。茶会の心得をいうことばで、「(茶会)は、一期一会といひて、たとへば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり、(よって)主人は万事に心を配り、いささかも麁末(そまつ:そそう)なきやう〈略〉実意(まごころ)を以て交るべきなり、是を一期一会といふ」〔茶湯一会集〕 (ちなみに、千利休は、キリシタンから多くの影響を受けたと言われるのですが・・)

 

ペテロがこの終わりの時代に生きるためにとこのところで語りはじめるとき、この一期一会という言葉を思い出しました。一日一日を一瞬一瞬を、特に人と人との関係、出会いを本当に大切にする事の大切さでしょう。しかし、何の野心もないもてなしや優しさが事を起こす。それが私の映画の解釈ではあります。

 

ペテロが、いよいよ、終わりの時代が近づきました。もう明日はないかもしれません。よく祈り、今私たちが何をしなければならないか、何がいちばん大切なことであり、何がいちばんしなければならないことか神様に教えられなさい。そして心の準備をしなさい。

すなわち、ホスピタリティーとスチュワードシップの心をもって生きなさい。自分のことより隣人のことを考え、親切にし、また、あなたの能力や持ち物は神様からの賜物と心得、思い残すことなく、精一杯人々のために用いなさいと。

何と優れた言葉でしょうか。

何か偉大な事が成されるとすれば、どのようながんばりや野心によってでもないし、ましてや損得勘定でもない。一日一日を、明日終わりかもしれないと言う気持ちで、大切に使命を果たそうとするなら、事がなされるのは、様々な出会いをチャンスを与えて下さる、神様なのだという事ではないでしょうか。

そして、ペテロは、このように締めくくります。

「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」

 

ここに一本の、リストバンドがあります。英美さんが確かアメリカから買ってきてくれました。アメリカではクリスチャンがこういうのをはめるのがはやっているのですね。F.R.O.Gと書いてあります。”Fully relay on God”「完全に神に結び合わされ(神に結び合わされ満たされる)」とでも訳しましょうか?

前に、ファーミントンヒルズの方々が来られたとき、プレゼントされたリストバンドには、W.W.J.Dと書かれています。”What with Jesus do?”「主と共に何をするか」

いつも、神様といっしょ、イエス様といっしょ。さて、何をするのかという事をいつも意識するようにという事でしょうね。

本日は、この時代の終わりに生きるクリスチャンの生き方、態度というものについて教えられてきたんです。

最後にいちばん大切な事をもう一度確認したいと思います。それは・・・

私たちの賜物が、あるいは私たちの一日一日の日々が、神様によって与えられた、大切な贈り物であって、一日一日が二度とない大切な日々であるという事であろうと思います。そして、そのように心得るなら、主人である神様が本当に意識されることによるなら、どのように貴方の生活がかわるだろうかと、今朝神様に私たちが迫られているのは、そういうことだと思います。

 

あのベニディクト修道会の会規(会の規則)から、ラテン語の四つのかしら文字をとって、I.O.G.D(イン、オムニブス、グロリフィケトゥール、デウス:すべてのことにおいて、神に栄光があるように)という合い言葉みたいのがあるそうです。

私たちの教会では、I.O.G.Dというリストバンドを造りましょうか?

今週の歩み、見えないけど、この合い言葉をもって、このリストバンドを心に飾って、終わりの時代に生きるキリスト者にふさわしい歩みを、心がけていく歩みを今週あゆまさせていただきましょう。