礼拝

1999/9/5

Tペテロ4:12〜19

「迫害に備えて」


Tペテロ4:12〜19

先週お話ししましたように、この手紙は、2000前に、今のトルコ共和国に宛てられて書かれた手紙であります。今回トルコの地震で大きな被害を受けたのは、1:1に書かれている、ビテニヤという地域にあたります(イスタンブール、イズミトなど)。私たちは、この手紙から教えられるごとに、今生きているその地域の方々のことを考えずに教えられることは出来ないと思います。祈りつつ教えられましょう。ところで、このビテニヤ地方には、有名な都市で、ニカイア(イズニク)という地があります(多くの被害を受けた今のイズミトのあたり)。この数百年後、紀元325年。歴史的に重要な教会会議がこのニカイアで開かれました。「我らは,主イエス・キリスト,神の御子,御父より,すなわち御父の本質よりただ独り生れたるもの,神より出でたる神,光より出でたる光,真の神より出でたる真の神,造られず,御父と同質なる御方を信ずる。」感動的な、キリストの神性を表したニケア信条が決められた会議でした。

ところで伝説によると、その会議には、318人の代表者が集まっていましたが、そのうちから、目の見えない人と、手を失ったか、あるいは、足を失った人を除くと、そういう人は、12人以下しかいなかったと言われます。あとはすべてローマの迫害による拷問によって傷ついた人々でした(Vance Havner)。この会議の開かれる約10年前、313年に、皇帝コンスタンティーヌス1世はミラノ勅令を発布してキリスト教を公認しました。しかし、それまでに非常に激しい迫害がキリスト者に対して行われました。その前のディオクレティアーヌス帝(284305年在位)の時に、皇帝礼拝を拒否するキリスト者に対する迫害が強化されたからです。生き残ってなお傷だらけの教会の代表者たちが、しかし心は晴れやかな思いで、その体を引きずって集まり、キリストこそ神。我らの主である。勝利者であると、高々と宣言したのです。

しかし、この手紙が書かれていた当時、ニカイア会議までの、数百年に及ぶ迫害の歴史がまさに始まるばかりの時であったのです。

 

4:1213「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」

「燃えさかる火の試練」記録によれば、キリスト者への迫害はあらゆる残酷な事が考えられてなされました。クリスチャンを棒の先にくくりつけて油をかけ火をつけて競技場を照らすたいまつの代わりにしたと言います。まさに言葉通りの「燃えさかる火の試練」でした。

今年のはじめ、信じられないような出来事がありました。アメリカのコロラド州で、二人の高校生たちが、13人の高校生を射殺しました。一人の少女が証言しました。「この中にクリスチャンはいるか。」犯人が言うと、一人の少女が立ち上がりました。彼女は、射殺されました。

ある学者が、20世紀になってクリスチャンだからという理由で、殺されたり土地を追われたりした人は200万人を超えると計算しました。共産圏やイスラム圏、アジアやヨーロッパで起きた迫害を数えると、この数字は非常に控えめな数字だという人もいます。とにかく、この2000年の歴史の中で実は、この20世紀が一番迫害が激しかった時代なのだと言うのです。

本日は、ペテロが、ローマから迫害の火がついた、その迫害にトルコのクリスチャンたちも、いずれ苦しむことになるだろう事を告げる、その心の準備をさせるためにここが書かれています。

ただ、当時のクリスチャンにとって、迫害の時代にいかに死ぬかとか、その死を恐れないようにするかとか、そういう命を奪われるような迫害が来る、いつ来るのかというような事以上に、信仰を持つ者としての肉体の苦しみ以上の困難がありました。それはおもに、ユダヤ人クリスチャンより、トルコ人クリスチャン異邦人クリスチャンにとっての問題でした。その困難とは、「信仰を持っている人が苦しむことがあるのか?」という問題でした。むしろ、苦しみから救われるために信仰をもったのに。どうして、クリスチャンが苦しみに合うようなことがあるのか。という問題でした。私が、「特に異邦人にとって」と言いましたのは、ユダヤ人は、信仰者であっても苦しみを受けることがあり得ることを、彼らの歴史を通して良く知っていました。たとえばヨブ記は、「なぜ正しい人が苦しむのか。」という事を扱った書と言える書です。信仰者が神に守られ、たくさんの喜びをいただくことが出来る、本当の意味で祝福されるという事を確信しつつも、時に苦しむことはあり得る事だということを良く知っていました。異邦人は、信仰者として始めたばかりです。

ユダヤ人は、神の導きの中で、(今、祈祷会でも教えられているのですが、)あのエジプトで奴隷として苦しみ、エジプトを脱出し、荒野の旅の40年、その苦しみの中でこそ、恵みの契約が結ばれ、苦しみの中でこそ確実に祝福(乳と密の流れる地カナン)へと近づいていたことを学びました。エゼキエルは、バビロニア帝国によって国を失い奴隷とされて連れて行かれるユダヤ人に、これはかつての、エジプト脱出の出来事と同じだと言いました。出エジプトが奴隷からの解放であって、バビロニア捕囚は、国を失って奴隷化される逆の出来事であるにもかかわらず、苦しむことは、次に本当の意味で国を再建する訓練であり準備であることを、罪が浄化され信仰が高められて、今度こそ名実ともに神の民として始めるためのスタートなのだ、そういう意味で、一見奴隷化のように見えるけれど、実は罪の奴隷から解放される事なのだと言いました。そういう経験を重ねているユダヤ人のクリスチャンには、「燃えさかる火の試練は、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむこと」ではないことを比較的理解していました。ペテロが、異邦人の彼らに準備をさせようとしたのは、心の準備でした。どういう準備かと言えば、誤解を恐れずに言えば、「クリスチャンでも苦しむことがあるのだ。」という考えを持たせる事でした。

CSルイスというイギリスの作家でクリスチャンがいますが、彼にある人がこのように質問しました。「なぜ、正しい人が苦しむのでしょうか。」と。CSルイスは答えました。「なぜ、正しい人が苦しまないということがありうるだろうか。」と。

ルイスに言わせれば、この罪の世で正しく歩もうとして苦しまない方がおかしいのであって、正しく歩むからこそ苦しむのは当たり前だと言ったのです。

宗教改革者ルターは、「ゴルゴダの十字架を考えてみなさい。一人は悪人。一人は罪を犯したことない正しい人。一人は、人生を後悔している人。でも、3人とも同じように苦しみ死を迎えたのです。」と。すなわち悪人も苦しんで死に、全く正しい人も苦しんで死に、その中間の人も、みんな苦しんで死んだんだと。

なぜ、クリスチャンだけが苦しまないと言う発想になるのか?というのです。

ペテロは言います。誰も苦しむ。だから、何に苦しんだのかということが大切なのだと。

4:1516あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」

ただ、今日の所は、ちょっと(聖書を俯瞰(ふかん)でながめて)距離を置いて見る必要があります。ペテロは、実は、クリスチャンでも苦しむことがあり得るということを教えながら、「なぜ苦しむのか。」という事に対する答えは(まあ、12節などで、「試練」というとき一つの答えが与えられてはいるのですが)、あえて語っていないということです。

例えば、ヘブル12:10「(神は、)私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」というような答えは与えていないのです。

ある人が、面白いことを言いました。なぜ、燃えさかる火の試練を通すのか。それは、金を精錬するのと同じだ。金の細工人は、不純物を含んだ金を燃えるばかりに熱して、どろどろに溶け始めて不純物が浮き出てあるいは燃えてしまい、あるいは取り除くようにする。神も金細工人のようにクリスチャンをそのように試すのだと。私も一つのイメージがあります。電気も抵抗がなかったらただ流れるだけで何の仕事もしません。これに抵抗を与えると、良く流れる流れやすい銅線の間に、電気の流れにくい(抵抗が強すぎても駄目です。適度な抵抗を与えると、)金属を間に挟むと、そこで電気は熱に変わり、熱を発し、やかんの水を沸かし、おいしい料理を作るのです。水をせき止め、流れの間にプロペラのかたちをした抵抗をつけることによって、水の力は電気に変わるのです。信仰者が苦しむのは、より大きな力を発揮するためです。ヘレン・ケラー(1880-1968米。目が見えず耳が聞こえず、話せないという3重のハンデを負った)が、私は楽しいときより苦しんでいるときにこそ成長しましたと言いましたが、苦しみは力になる。それは、特にクリスチャンに言える。だから、ペテロは、ろくでもないことで苦しむのならともかく、正しく生きて苦しむのは良いことなのだ。そのように考えるようにと言うのだと思います。

でもやっぱり、繰り返し言いますが、ペテロは、「なぜ」という問題には答えようとしていないように思えます。じゃあ、何を教えようとしているのか。宮村武夫先生は、「(なぜ試練が記を信じ従う者に襲いかかってくるのかという問いにペテロが一切説明を試みていない点である。)ただ、苦しみに直面しているという現実問題から出発し、その現実の中でキリスト者はいかに生きるべきかをペテロは語り告げているだけである。」と言います。

ペテロは、現実を、その現実の厳しさを真正面から見つめています。

苦しみはむしろ教会から始まる。

そう、例えば戦争が始まるとき、考え方の変わった少数者、特に神様が一番偉い神様にだけ従うなどという人たちは一番最初に迫害を受ける。そして、次に自分で逃げ回れず、体の弱いような弱者が犠牲となり、そして、最後に、権力者も権威ある者が裁かれていく。教会は歴史の中で、たいてい、そうした悪い時代のはじまりに、最初の犠牲者になりました。

何か思いがけないことが突然起きてびっくりして逃げ回るようなネズミか何かのように振る舞うのではなくて、むしろ、苦しみの真正面に立ってそれを、待っていました、予想していましたという心の準備をもって真正面から受け止めるようにと言っているのです。

4:1718「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」

魂の救いをいただいて、天国への希望があるキリスト者はともかく、心配なのはむしろ救われていない人たちですと、ペテロは、信仰者についての心配より、心配なのはもっと他にたくさんいますと、余裕を見せるのです。イエス様が、十字架にかかられたとき、イエス様が祈られたのは、目の前でわけもわからずイエス様の衣を、くじを引いてわけ、ののしっているだけの人たちの事でした。「神よ。彼らを助けてください。彼らは何をしているのかわかっていないのですから。」

「クリスチャンは。」と、ペテロは言います。

4:19「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」

評判が良くても悪くても、旅人を思いやり、迫害する人(王や主人)にも敬意を示して、善を行うべきで、あとは、神様にまかせなさい。」と。

 

キリスト教の歴史はじめての迫害はいつからはじまったのでしょうか。それは、キリストがローマ兵に連れて行かれ十字架につけられたときからでした。そのとき、何か思いがけないことが起こった、こんなはずではないのにと思って、うろたえ、驚き、あやしみ、何とか足だけはイエス様についていったのだけれど、ついに私はクリスチャンではありません。キリストに付く者(クリスチャンの意味)ではありあませんと、ついに裏切って逃げてしまったのは、とりもなおさず、「驚き怪しむことなく」とクリスチャンを励ましている、このTペテロの著者ペテロでした。

彼は成功した強いクリスチャンとして、彼らを励ましているのではありません。弱い弱い、本当に情けない存在だけれど、何とか神様に支えられてきた、でも確実に神様に支えられてきた信仰者として彼らに勧めているのです。

 

話が横道にそれるようですが、以前、ある兄弟から、一冊の本をいただきました。柳田邦男(国語学者のあの人でなく、元NHK記者。『零戦燃ゆ』など)という方の『犠牲(サクリファイス)』という本です。ご自分の息子さんを25才でなくされた。心臓が止まり、脳死状態になられて、ついに呼吸もとまる。その死にゆく息子を前に、息子を無駄死にさせてたくないという思いから、臓器提供を考えながら悩む。彼は、脳死という事に理解があって一つの結論をもっていたはずであったけれど、実際に息子を目の前にして悩む。彼の結論は脳死移植慎重派に変わっていた。

彼は言います。脳死の問題が、一人称と三人称でしか語られない。患者の立場と医者の立場。二人称ではかたられない。彼ではなく貴方。お前、私の息子と語りかける親の立場に立つと、まだ呼吸して、語りかけると偶然かもしれないが血圧が上がる、死んでいると思えない親の苦しみが語られます。

精神的なハンデキャップを持っていた息子さんが、大学になってから教会に行きはじめた。彼は、その本のあとがきで、何人かの方々に感謝の言葉を述べて、息子さんの葬儀の後にもらった手紙など3通の手紙を載せています。一人は大学の助教授であってやはり息子さんを自殺で亡くされたクリスチャンのお手紙、一人は、彼が教会に行き始めて、洋二郎君が慕っていた教会でお姉さんのように親しくしてくださったクリスチャン。もう一人は、洋二郎君が尊敬をしていた教会の神学生の女性です。

特に最後の彼女は言います。

「処刑を前にしたイエスが、ゲッセマネの園で祈っているそばで、弟子たちは眠りこけていた、という記事が聖書にあります。・・・・

イエス様は十字架にかけられ、弟子たちは逃げて生き延びました。洋ちゃんがいないことを、本当に悲しく思いながら、でも(私は)食べて寝て、私は、生きていっています。弟子たちの鈍感さは、まさに私のものです。ただ、イエスは、眠っている弟子たちを裁かず、「もうこれでいい、時がきた。」というのです。そして、「立て、行こう」と弟子たちを誘います。私の鈍感さ、残酷さがなくなるわけではないけれど、このイエスのことばに嬉しくなるのです。

どうもクリスチャンというのは、クリスチャンの文脈で考えてしまいます。ごめんなさい。・・・・」

柳田邦男さんはいいます。「洋二郎は、キリスト教に懐疑的で、時にはキリスト教に冷や水をかけるような発言をしていたにもかかわらず、なんと暖かい青年たちに囲まれていたかと感無量である。」といって、柳田さんは、「こうした励ましの言葉が、父親として再生への活力につながっていった」ことをあえて隠しません。

また、先の大学の助教授であった西村という一人息子を鬱病(うつびょう)の末自殺で亡くされたクリスチャンの彼は、親と何もしてあげられなかった「敗北感にさいなまれる。」と自らを責める柳田氏に、「真実に歩んだ人生に敗北はありません。うち倒されて低くなるほど、見えない神の命は確かにそそぎ込まれるのです。私もそのように生かされていきたいと思っています。」と証しました。

彼は、クリスチャンではありませんが(とご本人は言われますが)、洋二郎さんの墓石に、「いのち 永遠にして」と文字を刻みました。

ペテロは、イエス様が十字架についていく様子を横目で見ながら、深く後悔しました。また今、このように多くの愛する方々がイエス様を信じ救われていく、イエス様の勝利を見せられながら、その意味あるイエス様の十字架の苦しみに参与出来なかったことを深く後悔したのだと思います。しかもなお、そんな情けない、弱いクリスチャンである私を最後まで、励まし通して下さったイエス様。こんどこそ、その苦しみにあずかりたい。意味のある苦しみにあずかりたい。みなさんも、来るべき迫害、また襲い来る苦しみや悲しみを、正々堂々と喜んで、待ってましたとばかり受け止めて下さいと、本気でそんなことを考えていたのではなかったでしょうか。

 

クリスチャンであろうとなかろうと、苦しみや悲しみは確実にやってきます。まして、信仰者として生きていく上には、信仰者であることの故の疎外感とか孤独とか、戦いがありましょうし、また具体的な迫害もあるかもしれません。それに加えて自分の信仰の弱さ、愛のなさにさいなまれます。

でもそんなこんなの一切がっさいを、ゆだねていい方に私たちは愛されているのです。

:19「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」あなたを創り、あなたの人生を確実に導くことの出来るお方に、どんなに驚き怪しむような事がおきてもゆだねることが出来るのですよというのが、ペテロの結論だと思います。

今週の歩み、どんな迫害も、また襲い来るあらゆる苦しみや悲しみを、正々堂々と喜んで、待ってましたとばかり受け止めて、というより、ゆだねることの出来る歩みを、歩まさせていただくことを感謝しながら勇気を与えられてクリスチャンとしての正々堂々とした歩みをここから歩まさせていただきましょう。祈りましょう。