礼拝

1999/7/25

Tペテロ41〜6

「罪を想うことの大切さ」


Tペテロ4:1〜6

私も野球を時々見ます。甲子園には3回ほど行きまして、高校野球を見ました。みなさんは、阪神ファンですか?巨人ファンですか?大阪の人は大体、阪神ファンです。それは、本音の部分で、関東を代表しているような巨人に勝つのが快感なのでしょうね。

実は自分も、巨人をやっつける阪神を応援しながら?自分の胸に手を当てて思うのです。特に大阪の人たちを思うと、阪神を応援したり巨人を応援したりする心境と言いますか動機は、400年前の関ヶ原の戦いと同じなのかな?ということであります。関東の代表徳川方と、関西の代表豊臣方と、あの決着を、復讐を、リベンジをと。確かに、あれ、バットを刀に持ち替え、ボールを手裏剣か弓に持ち替えたら戦争ですね。けんかですね。でも野球は、戦争でもけんかでもありません。武器を持たないから戦争にはなりません。しかし、特に大切なことは、野球にはルールがあるということです。ルールがあるから、動機はどうであれ、けんかとはならないわけです。

 

私たちには、神様から与えられた、生まれつきの本能のようなものがあります。食べたい、飲みたい、遊びたい、休みたい、また、異性に対する思い、愛されたいという思い、愛したいという思い。色々あります。しかし、もし私たちの心の中にルールをもっていなかったら、コントロールできなかったら、とんでもないことになっていきます。

昨年の夏、『徹子の部屋』というテレビの番組に、奈良林祥(やすし)という医師が出演されました(98/8/7)。婦人科の医師(主婦会館クリニック)で、とても良い証をされておられるクリスチャンです。彼は、ハンセン死病のクリスチャンの女性の証によって救われた方で、クリスチャンになって、おなかの赤ちゃんの問題で、性のカウンセラーに方向を変えられた方です(妊娠中絶の医師をやめ、避妊などを教えるセックスカウンセラーに。)。若い人から夫婦やおとしよりにまで至る、現代の男女の交際の乱れは、難しい言い方ですが、「今は、カウンセリングの問題ではなく、モラル(道徳:心の中のルール)の問題だ」と言われました。

心の中にルールをもっていない。持てない。

しかし、これをコントロール(制御)出来ることは、とても素晴らしいことであって、例えば、「性のエネルギーも、水をためるダムのようにある程度せき止めたときにこそ、素晴らしい働きをする。」と言われるのです。「スポーツに例えてみれば、ラグビーなどは、ルールがあるからこそ、試合になり感動があるのです。そこにルールがなければ、ただのいかつい男のケンカでしかありません。」(1987/11『信徒の友』)とおっしゃいました。

「男と女も、恋がめばえ、じっとくい止め我慢する過程(プロセス)があってこそ、はじめて心の底から二人を揺さぶる感動を生み出す力になるのです。」と言われます。心のルールを守る訓練の出来ていない、人格が未成熟で、自己中心の強い人間が、増えていると言います。男女の問題を専門に扱う医師として、「本当に豊かな日本になるために、クリスチャンの与えられた使命は大きい」と言います。

別の言い方をします。

神様を信じている人は、聖書の基準に従って、心の中の罪と戦うことを軽く考えてはなりません。

ある人がこんなことを言いました。「罪を持っていると言うことは、どんな心の痛みや苦しみより問題だ。罪は死ぬことよりも深刻で。罪を犯すと言うことは、悪魔があなたを誘惑することより悪い事だ。あなたが罪を持っていると言うことは、あなたが地獄にいることよりももっと深刻だ。」と。(Ralph VenningThe Plague of Plagues1669

みなさんは、罪をどの程度、重く考えておられるでしょうか。

パウロは、徹底的に自分の心の中の罪と戦いました。

「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法(ルール)を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法(ルール)に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ7:22〜24)という程に、罪を深刻に考え戦いました。

ペテロは、今日のところで、罪としっかりと戦い、あるいは、武装し、またこれを裁ち切り、罪と親しくならないようにと言います。

4:12「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」

パウロは、罪と親しくならないで、善と親しくなりなさい。(ローマ12:9)という言い方をしました。

ペテロは、特に、欲望(罪とは違います)に流されないで(これをしっかり制御し)、神の御言葉(みこころ)に従って過ごすようにと言います。

またさらに、ペテロは、流されやすい欲望、あるいは罪がどのようなものであるかを具体的に指摘して言います。

4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」

多くの解説をしませんが、欲望の項目があげられています(好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、)。この前半が、男女関係(性:りっしんべんの性)に関することで、後半が、主にお酒に関することです。

そして、最後の「忌むべき偶像礼拝などにふけった」というのは、偶像崇拝が、男女関係とお酒の問題は、ローマにおいて、いつもセットで行われたのですが、神の御言葉から離れ、自分の欲望のままに生きようとする人が、自分勝手に自分に都合のいいルールを作って(気持ちよければそれで良い。人に迷惑をかけなければそれでいい。とか・・・)、自分勝手に偶像をこしらえる事は、神のルールを持たないで、自分のルールで行動しようとする人の当然の帰結(結果)と言えるでしょう。

ペテロは、それは、今言いましたように、神のルールを持たない、異邦人の特徴だと、3節で言うのです。

 

さて、再度聞きます。

あなたは、心の罪と戦っていますか?例えばパウロのように。欲望と戦っていますか?

聖書の基準では、罪を非常の重く考えます。

神様の目から見ますと、罪というのは、私たちが考えるより、はるかに重いものなのです。前に、言いましたように、罪は、100個あっても、ただ1つしかなくても、天国に入る事は出来ません。罪にはそういう性質があるのです。(ガラテヤ書での教え)

みなさんは、ちょっとくらいの罪なら、いいじゃないかと思うかもしれません。

ミューちゃんを、だっこして、タカイタカーイってして、おむつからウンチが一粒、カレーに落ちました。ちょっとだから気にならない?気にならないのは、孫を目に入れてもいたくない鮫島兄だけかもしれません。

天国の前の門では、誰も、申し開きをしなければなりません(4:5)。神様の目から見ると、1つの罪も、100の罪も、量の違いはありません。そのままでは、入ることは出来ません。

先週、ダビデ・マーチン宣教師が、猿橋の特別集会で、罪についてこんな話をされました。

私は、一時、CAJ(東久留米のアメリカンスクール)で教えておられたときの話をされました。最後の試験で、一人の生徒が42点であった。60点以下は落第なのです。彼は、本当に沈んだ顔をしていました。顔が青いのです。それがわかりました。その彼が、隣の人に尋ねました。君は何点?24点。彼は、とたんにニコニコ顔になりました。落第であるのに変わりがないのに、自分よりまだ下がいると思って、ニコニコ顔になったのです。オウム真理教の事件を見て人は、「よしよし、自分はそれほど悪くはない」と思うのです。テレビは、多くのとんでもない人々を紹介します。それは、自分がまだましだと思うためではないだろうか。と。

また、こんな話をなさいました。

罪は、どんなに小さな罪も、大きな影響力をもつものです。

石を水に投げ込むと、波紋が出来るように影響力を持ちます。あなたの小さな罪が世界に影響を与えます。朝、あなたの奥さんが、一言の冷たい言葉を夫にかけます。夫は、寛容な心で聞き流したように思えました。しかし、彼は、心の中ではむかむかしていて、会社に行って必ず部下に非情な言葉をもって命令するのです。部下は言い返せませんが、彼が家に帰りますと、子供にあたるのです。冷たい言葉をもって。子供は言い返せませんが、今度は、友達を冷たい言葉をもっていじめます。そのように、あなたの罪の一言が、世界中に波紋を広げていくのですと。

みなさんは、特に今の時代、こんな話は、教会でしか聞かないかもしれません。

いや、正直言います。私は、先週の火曜日のダビデ・マーチン宣教師の罪に対する理解に、恥ずかしながらもう一度目覚めさせられた思いでした。80才になんなんとする、あの金沢教会、北秋津教会の開拓をされたマーチン先生、宣教師を定年で迎えられて、日本人と結婚され、なお、日本のために宣教に再びおいでになられた、しかし、わたしにとっては古いメッセージを、古いと感じなつかしいと感じている自分を恥じました。その罪の理解。あまりにも、自分は、まさにこの時代、この世に飼いならされ、流されているのではないか。

「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」

「それは、過ぎ去った時で、もう十分です。」そのようなものの考え方、そのような生き方とは決別しなさいと、御言葉は、言うのです。

前に、他の教会の大学生と話したことがありました。罪のことについて。彼は、自分は分かると言いました。しかし、問題は・・と言いまして、そのような生き方をし、そのような事を例えば言うと、友達から馬鹿にされ、笑われるのだと。

それは、そのような生き方をすることの苦労より、もっとつらいと言いました。

4:4「彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。」とペテロは言います。

「こんな話は、教会でしか聞かないかもしれません。」そう、今の時代、このような話を聞き、そのように生きることは、二重の難しさがあります。1つは、この時代の誘惑の激しさ。もう一つは、この時代から取り残され、この世から孤立していくことの孤独と恐れです。あるいは、時代に乗らないのを、損をしたというような感覚です。

東京神学大学の熊野義孝先生が、日本の教会史の祖のような植村正久先生、数々の名説教?とよばれる説教を残しておられる植村先生を(孫引きになりますが)評して、「植村正久という人は、泣ける人だった。」それは、感傷的で涙もろいという意味ではなくて、「自分の罪に泣ける人だった。」(加藤常昭)というのです。心の中の罪と戦うことの出来る人。

私は、宗教改革者のルターのことを思い起こします。

彼が、聖書を読んでいるとき、自分に迫る悪魔の影を見て、それにインクビンを投げつけたとか。そのインクのシミがついた壁があるとか。伝説に過ぎないかもしれません。

私は、それは、誰が何と言おうと、かっこいい生き方だと言いたいと思います。

月報に書きました。一人の兄弟が、「ボクは罪深い」と言われた一言。私は、神の前に、これほどいさぎよく、自分の弱さを言い放つことが出来るだろうか。彼の顔を見ながら、本当にかっこよく見えました。本当に人間の人間らしい戦いを戦い、時に自分を一刀両断に切ってみせるほどに、自分の弱さを認めることのかっこよさです。この世の中には、自分が罪人だと認めようとしないで、人の責任にし、何とか言い逃れようとし、絶対に責任をとろうとしない、悪いのは全部他人だと思っている人が何と多いことでしょうか。

4:5「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。」

この世では大したことはないと思っていることも、人は誰も必ず、神の前に出て、罪を嫌う神の前で、聖にして、また同じように聖であることを人に求められる神の前に立たなければならないのです。

 

さて最後に。

ペテロは、こんな事を言います。

4:6「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」

死んだ人々とは誰を指すのか。霊に生きるとあるから、クリスチャンの事か。それとも、前回の続きで、地獄にいる人たちの事か。だとすると、生きるとは何を意味するのか(御言葉伝えられて死んだクリスチャンが救われると言うことか?地獄の人々のことを指すとすれば、万人救済ということか?生きるとは、ただよみがえって裁きを待つという意味か?)。実を言うと、ここの解釈はむつかい所なんです。

ただ、少なくとも、「霊においては神によって生きるため」という言葉は、前回のイエス様が、3:18「霊においては生かされ」という、新しいからだで復活をされたことと、同じ状態となる、クリスチャンも、イエス様と同じように復活し、新しい永遠の命に生きるということを指しています。

私たちは、今朝、罪の厳しい解釈を教えられました。その基準(スタンダード)を知って、しかし、ひるがえって自分たち自身のことを思うとき、例えば、みなさん、夜眠るとき、(顔をあげて)「私は、今日、神様、隣人を愛しました。私は一点の曇りもなく、神様を信頼して歩みました。」と堂々と言えるでしょうか。

私たちは等しく、ボクは罪深いと告白して眠りにつかなければならない存在です。

イエス様が十字架で裁かれたように、私たちも、この肉の命は、もはやアダムとエバの時とは違って、裁かれ、そして死ななければなりません。しかし、私たちの罪は、イエス様が十字架で裁かれて下さったので、そのイエス・キリストの救いを信じて、神に信頼する者には、赦されて、イエス様と同じように、よみがえって天国に入る約束が与えられているのです。ここでは、そのことを言っています。

あの奈良林医師が、一人のライ病の方と接する中でクリスチャンになったと最初に言いました。彼女は、ライ病で、玉木愛子という両手、両足を切断し、目も見えませんでした。まだクリスチャンになる前の時代です。俳句仲間であった、彼女と、瀬戸内海の長島愛生園で、会う機会がありました。まだ、戦前の頃で、戦争にかり出されることになって、死ぬかもしれないと言う心の安らぎのない中で、彼女の強さ、平安、明るさが、どうしても忘れられない。終戦後、その秘密を知りたいと思った。彼女がクリスチャンであったことを知った。特に洗礼を受けてはじめて分かったことは、彼女が、復活の主を信じ、それこそ死にものぐるいで信じて、その結果得られた平安であり明るさであることを知ったというのです。

彼女の一句

「エス様のふところにいる菊日和(より)」

「めしい涼し、祈る幸せあればこそ」

そして、

「毛虫よみがえり蝶となる日を夢見つつ」

すなわち、「私はライというみにくい病気に冒され、世の人々から忌み嫌われ、まるで毛虫のように畳の上をはい回っています。でも私は信じているのです。いつかは、きれいな蝶になるように、私のこの体をきれいな体にしてくださった天国のあなたのおそばにおいていただける日が必ず来ることを。」

私たちも、この希望に生かされています。

 

蛇足になるかもしれませんが、もう1つお話させて下さい。

先日(7/4)、お隣の日本基督教団の特伝で、関田寛夫という方が来られました。私は、この方の授業を受けるために、何年か前、町田市の農村伝道神学校まで通いました。実は、ちょっと挨拶に行ってきたのですが。

集会の題は、「寅さんと私」でした。後からテープでお話を伺いました。

あの、山田洋次監督の映画、「男はつらいよ」の寅さんです。まあ、ああいうメッセージがあるのかと、びっくりしましたが、あの寅さんの実家のだんご屋は、あれは教会だというのです。恋に破れ、意気消沈して帰ってくるとら屋、とら屋の人々は、拒否しないで受け入れ、また寅さんの連れてくるどんな、芸者でも、わけの分からない人でも、誰でも受け入れる。そして、とら屋が教会であれば、工場のたこ社長、寅さんの妹さくら、おいちゃん、おばちゃん、さくらの旦那ひろしは、教会の役員だというのです。次々問題をかかえて帰ってくる寅さんをあるいはしかり、あるいは受け入れ、しかし、他人であっても誰でも、よってたかって、みんなで親身になって真剣に向き合う。あるとき、男にだまされて大金を取られた芸者が寅さんといっしょに、とら屋に転がり込む。よってたかって、たこ社長も、おいちゃんもおばちゃんも、みんなで、とられた大金をどうとりもどうそうかと、例によって、激しく議論する。すると、突然その芸者(加茂さくら?)が、泣き出す。寅さんが、お金が取られて悲しいのか?と訪ねると、「違うの。こんな者のために、みんながこんなに真剣になってくれて、それで、泣いてるの。」という。ここに、教会の型がある?と。

で、寅さんが、第何話かで、寅さんが自分は、「キリシタン(クリスチャン)になります。」と宣言する場面が出て来るというのです。長崎で、ミサに参加して、感動して、自分もこういう人間にならなければと思い立って。それで、葛飾柴又に帰ってきて、帝釈天(たいしゃくてん)のお寺のごぜんさま(和尚さん)を訪ねて、寅さんは、「長い間お世話になりましたが、自分はキリシタンになることにしました。」と言います。妹サクラは心配して、ごぜんさまのところを訪ねます。そのとき、ごぜんさまが、こう言うのです。「寅も、こんどこそまじめに生きてくれんとな。トラも、キリストに捨てられたら終わりだからなあ。」

関田先生は、他の宗教への理解を示す寛容な心に一通りの評価をするのですが、最後にこのように締めくくります。

しかし、キリストは、寅がどれほど、はちゃめちゃな人間でも捨てない方なのです。と。

そして、最後に、あの「男はつらいよ」のテーマソングのこの部分を朗読して、このように終わりました。

「どうせおいらは、やくざな兄貴。

わかっているんだ妹よ。いつかお前の喜ぶような、偉い兄貴になりたくて。奮闘努力のかいもなく、今日も涙の陽が落ちる。陽が落ちる。」

唯一、腹違いの妹サクラのために生きるということが生き甲斐の寅さん。でも、いつも自分の弱さに挫折し、涙を流す日々。「奮闘努力のかいもなく、今日も涙の陽が落ちる。陽が落ちる。」そんな日々。

あの姿は、私の姿。と。

 

ルターは、カトリックに対する宗教改革のきっかけを作った。彼は、あるお城の扉に、95箇条の抗議文(提題:免罪符のことなど)を張り付けました。その勇ましいはずの、抗議文のその第1条は、このような文章で始まるのです。

「キリスト信徒は、一日一日を悔い改めて過ごす者である。」と。

熊野先生は、「罪というのは格闘すべきものである。それこそ、ルターがインクビンを悪魔に投げつけたようなもので、そういうことが植村にはよく分かっていた。」と。罪との戦い、それは、まさにキリスト者の、恥じることのない、堂々たるキリスト者としての歩みだ、歩みとすべきだというのです。

 

今週の歩み。

私たちは、罪との戦いに逃げてはいけません。それは、キリスト者として意味のあることです。むしろ、その事を通して、キリスト者は成長します。そのような生き方を、無駄だと思ったり、あるいは、恥ずかしく思ったりしてはなりません。

そして、何より、はちゃめちゃな人間でも捨てない、そして、ついに天で迎えて下さるキリストを仰ぎ見て、2節にありますように、「地上の(あと)残された時」を、神の御心にこそ従って進みたいのです。祈りましょう。