礼拝

1999/7/4

Tペテロ3:8〜17

「心の中でキリストを主とし」


Tペテロ3:8〜17

先週は、二人の愛する兄弟姉妹が、洗礼を受けられて仲間に加えられたことは本当に嬉しいことです。猿橋と青梅からそれぞれ高校生から加えられ、猿橋の人も青梅も兄弟姉妹が掛け値なく喜んでおられる姿を見ることで、私の心は一層喜びに満たされました。

3:8「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」

兄弟愛に満たされ、こころがひとつになっている姿を、私たちは、そのような時に本当に実感します。

詩篇133:1「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」

月報の7月号に、「なんという楽しさ」という題で書かせていただきました。奥多摩福音キリスト教会との交わりの中で、私たちは、そのことを感じさせられました。

今日も、市民クリスマスがバプテスト連盟あけぼの教会においてあります。教団教派を超えて牧師や信徒の方々が集まってきます。お隣の青梅教会は、日本基督教団という教団ですが、日本基督教団は今年から東京の教区をいくつかの支区にわけまして、西支区(中野からこちらで、約70教会)が誕生しました。牧師にお願いされて、コンピューターのお手伝いをしています。西支区の資料を突然、先生がもってこられまして、コンピューターに取り込んで欲しいとおっしゃられるのでお手伝いしました。先週の月曜日は、朝一番で来てくれと言われまして、先生のお宅で西支区の住所録を作るのをお手伝いしました。木曜日には、教団の事務所から電話がかかってきて、30分以上も電話でお手伝いしました。

私は、日本福音キリスト教会連合の仕事が終わったと思ったら、日本基督教団の仕事です?!

でも、「なんという楽しさ」を味わっています。(もしかしたら連合の時より?)教団教派を超えて、クリスチャンが1つであることを、特に、この西関東の日本基督教団の、1つ1つの苦闘している教会の名前を確認しながら(伝道献金の資料など)、その特権に預かりながら、感謝しています。

「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」

兄弟姉妹が心を開いて一致し、痛みを分かち合い(同情)、また痛みをすすんで理解しようとし(あわれみ深く)、兄弟の愛をもって、また自分が優秀だと思わずお互いがお互いを尊敬しあって歩むことは、教会にとっても、神とキリストを信じる者にとって、もっとも大切にしなければならない事です。私たちは、前に教えられたガラテヤ人への手紙の中でも繰り返し教えられてきた通りであります。

 

さて、本日は、既に8節を確認するところから始めました。

8節と9節を続けて読んでみたいと思います。

3:89「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

キリストを信じる者が置かれる状態を二つの言葉で表すことが出来ます。最近は、ヘンク兄弟が、宣教を英語になおして下さっているので(これも「なんという楽しさ」を感ずる事の出来ることですね)、正しい使い方かわかりませんが、あえて英語で言いますと、1つはフェローシップ、もう一つはハードシップという言葉で表すことが出来るかもしれません。フェローシップという言葉は、既に日本語でも使われる言葉です。仲間と訳し、また共にあること共にわけあうこと(sharing)を意味すると思います。私が大学の時、聖書研究会の名前をクリスチャン・フェローシップと名付けて、クリスチャンのあり方を示したつもりでした。それは、私にとって、本当に俺とヤツ(fellow)というふうに呼び合う事の出来る、まさに「なんという楽しさ」という関係でした。8節に書かれていることは、それでしょう。

しかし、今日の大切なところは、むしろ、9節であります。

キリスト者が、本当に楽しさを感じることの出来る素晴らしい関係の中だけに置かれているわけではなくて、時に、非常に難しい関係の中に置かれる、いや、それもまた、クリスチャンがクリスチャンであることの1つの姿であることを、驚くべき事でないことを、ペテロはしっかりと書き加えているのです。

キリスト者はもう一つの関係の中に置かれるのです。それが、ハードシップという事です。(両方につくシップという言葉は、状態とか性質を表す時に使うのですが、)ハードシップというのは、苦難とか困難、特に他の言葉に比べて、ほとんど耐えきれないほどの困難や苦労に使う言葉だそうです。(マッケミー師)

悪と侮辱を受ける事が9節で語られているのです。

 

フェローシップとハードシップ、あるいは、やはり日本語にしましょうね。もう少しおおざっぱに、人間関係の良い状態と悪い状態の二つの状態に置かれると言うことです。

ちょっと聖書研究をしてみましょうか。みなさん、聖書を見て下さい。

ペテロは、今日のところで、この二つの状態をいつも意識し、繰り返し述べています。

同じような繰り返しのあるところが、13.14節です。

3:13 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

3:14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」

13節は、いつも良いことに励んでいれば、必ず人に愛され、少なくとも害を加えられることはないはず、良い人間関係になっていくというのです。(フェローシップ)

しかし、14節は、でもそれでも、善を行っていても苦しむこともあるだろうと言うのです。脅かされたりもするだろうというのです。(ハードシップ)

 

次の出てくるのは、16.17節です。

3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。

3:17 もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」

16節では、むつかしい相手も、優しく慎み深く説明すれば、きっとわかってくれるはずだ(「恥じ入るでしょう。」)と、良い人間関係になっていくと、いうのです。(フェローシップ)

しかし、17節では、「もし」と言いまして、善を行っていても苦しむこともあるだろうと言うのです。(ハードシップ)

 

繰り返しますが、キリストを信じると、キリスト者になると、二つの状態を経験するのです。

1つは、フェローシップであり、1つはハードシップです。

すなわち、良い関係と悪い関係です。

しかし、8,9節。13,14節。16,17節のそれぞれを見ていただくと二つの状態、二つの関係のなかで変えてはならないものがあるのです。

それは、それは私たち自身の態度です。ようく見て下さい。例えば13,14節では、良いことを相手にしなさい、そうすれば良い関係になる。しかし、もしならなくても、正しいことをして相手に苦しまされても、心を動かしてはなりませんとペテロは言います。

8,9節にどうしたらいいかが明確に書いてあります。

3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」

良い関係であっても悪い関係であっても、キリスト者の態度は変えてはなりません。愛し続ける。祈り続ける。良いことをし続ける。

ペテロは言います。悪い関係も良い関係に必ずされるから、愛し続けなさい、祈り続けなさい。しかし、されなかったとしても愛しつづけなさい、祈り続けなさい。と。

ちなみに、:10〜12節は、詩篇の引用ですが、キリスト者には、良いことをする以外の態度はありえないのだという事を、旧約の御言葉を借りて、確信に満ちて強調しているのです。

人は、初対面の人を、警戒します。味方であるか敵であるか。味方であったら仲良くし、敵であったら攻撃し、あるいは反撃しようと。いつもどきどきしながら選別しているのかもしれません。

しかし、キリストを信じる者の態度は、味方であっても敵であっても態度を変えてはならないのです。

 

言葉ひとつひとつを取り上げていきたいのです、最後に、このところの締めくくりである、15.16.17節をもう少し詳しく教えられたいと思います。

3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。3:17 もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」

この状態は、ハードシップもハードシップ。ローマによってキリスト者がその命を落とすかもしれない状態を、ペテロは、今まで繰り返し、当時の状態、この手紙が書かれた当時の迫害の迫った厳しい状態をご説明してまいりましたが、そういう状態の中で、まだイエス様を信じていない人々に、あるいは、敵となる人々に、どのように語るべきかと言うことが言われているのです。

特に15.16節には、そのような迫害下にあっての、キリストを信じる者の具体的な証のありかたが書かれています。

1つは、「言葉をもって弁明すべきこと」。もう1つは、「生き方をもって証すべき事」です。また、言葉をもって証するときには、誠実に御言葉を学び準備をして、愛に満ちて話すべき事、また敬意をはらって話すべき事(神と人に)、また正直に話すべき事です。また、生き方においても、正直さと信仰深さということ(言わばキリストの正しさ、御言葉の正しさにささえられた)が、正しい生き方という言葉によって示されています。

 

先日、池袋に、日本にはじめて来た宣教師ザビエルの生涯を展示した、「大ザビエル展」というのに行ってきました。

彼の生涯と、またはじめて西洋人に触れ、またキリスト教(カトリック)を知った、日本人の反応や影響、反発、またその迫害の歴史が、絵や当時の品物、当時の書物や手紙などによって紹介されていました。非常に興味を持ちました。(池袋「東急美術館」〜7/20)

4人の日本人の少年がローマに旅をした遣欧使節に随行した人の、小さい字でびっしり書かれた日記(随行録:15センチ厚ほど)が展示されていました。何が書いてあるか気になって、本を求めて読みました。(松田毅一『天正遣欧使節』講談社)また、ザビエルがどういう風に感じたのか、また日本でどのように伝道し日本人の反応がどうであったのか、ザビエルの残した手紙が紹介された本を求めて読んでみました。(ピーター・ミルワールド『ザビエルの見た日本』講談社)

私の印象では、確かに、当初、キリスト教が日本において広がったのは、ザビエルという人の功績によるところが大きいことを思いました。ザビエルという人が、現地ポルトガルのイエズス会(ザビエルはスペイン人)においても、将来のイエズス会を担う人として嘱望され、インドでも日本でも評判が高かった。ついには聖人に祭り上げられるには、それなりの理由があることを、彼の手紙を見るときに思いました。(商売と覇権が目的であったと言われることがあるのですが、彼の手紙を見ると、自分はポルトガル政府がその目的が強い事を知っている。そして、宣教は第2だと。しかし、私としては、第2であろうと、宣教が出来れば、それでいい。と振り返っています。)

彼がローマに宛てた手紙の中で、日本人がどの国民より道理に従おうとし、自分が間違っていたと分かると、そのためになら生涯研究に没頭し、読書三昧の生活を送ることをためらわない人たちだと言います。日本に送られる宣教師の条件は、日本語は難しくないから、日本語をまず勉強すべき事(ほんと?)、それから、学問の秀でた優秀な学士をイエズス会士を送って欲しいと、書いています。日本人には、世界の創造主の存在から順序立てて説き起こすべきですと言います。世界の創造主の説明をしたときのエピソードが思い出として書かれています。「万物の創造主がおられることを伝えると、彼らはびっくりしました。しかし、世の中には悪いこともたくさんあるのだから、神は、悪いものも創るのかと食い下がったのです。いや、神は、全くの善なる方だと言うと、彼らは、もし神が善なら悪いものを創造するはずがないじゃないかと食い下がりました。また、人間が神を礼拝するためにつくられたとすれば、その人間が罪を犯しやすいのは何故かと聞きます。なぜ、人を、罪を犯さない人間につくらなかったのかと食い下がりました。」今とかわらないなあと思いました。日本人は理屈っぽい。無知な民衆を相手に、西洋の優れた技術を見せびらかせて、キリシタンになっていったのではないかと私も思っていたのですが、本当にしっかりと苦闘しながら伝道が行われたのです。圧巻だったのは、カトリック独特の煉獄の思想を説くと、信じるだけで救われるのではないのかと食い下がってやりにくかったと言うのです。むしろ、正しく聖書を読んでいたのにびっくりしました。

彼がローマに、「私は、日本人から言葉に尽くすことの出来ないほどの恩を受けています。神様は、日本人(という鏡)を通して、私の中に数え切れないほどの罪がある(傲慢さ?)ということを、気づかせて下さいました。自分の中に落とし穴に気づきませんでしたが、日本で多くの試練にあって目が開かれました。神様はそのようにして、私を丁寧に導いてくださって(証をすることが)することが出来たと思っています。どう考えてみても、私のような者が、日本で指導的立場に置かれるほどの指導力は全然ないのに。むしろ、私は、他のクリスチャンたちに、世話になり監督を受けるべき者なのに。」と書き送った手紙を見て、彼が、キリスト者として、誠実に御言葉を学び準備をして、愛に満ちて話すべき事、また敬意をはらって伝道しなければならなかったことを、思わされるのです。いつの時代でも、御言葉のサジェスチョン(助言)の正しいことを思います。また、彼の言葉を借りれば、神様がそのように丁寧に自分を導いて証をさせて下さること(3:16)を、今度は、日本人である私、牧師、そして証をすべきクリスチャンとしての事として思わされたのです。

1549年に彼は鹿児島に上陸し、多くの日本人は、当時の仏教の僧侶の堕落ぶりと比較して、ザビエルらのその人格に打たれたと言います。(「キリストの話をすると、皆涙を流して聞くが、誰も信じない。」と苦労話もする。)イエズス会の神父たちは、当時の蒔絵(まきえ)にも正確に表れるのですが、彼らは裸足です。彼らは、水と米と魚以外は食べないという程に日本人に馴染もうとした。フランシスコ会などの神父たちが来る中で、西洋の文明そのものを持ち込んで生きようとする傾向もあり、またフランシスコ会とイエズス会の反目、スペイン人とポルトガル人の反目、その生き方を見るようになって、クリスチャンの領主たちの心が離れていきます。また、宣教師も、「日本人ほど傲慢でどん欲で、不安定で擬そう的な国民を見たことがない。」(布教長カブラル)という評価になり、また、同時にそうした仲間たちの振る舞いに対して、「この国民は野蛮ではないことをご記憶下さい。信仰は別にしても、むしろ、ヨーロッパ人は賢明に見えますが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると論じます。私は真実、毎日、日本人から教えら得ることを白状いたいします。」(イタリア人神父オルガンティーノ:上方布教長)といさめなければならなかったのではないでしょうか。(400年前の迫害、また失敗の原因の多くの中のしかし、確実な一つとしてのキリスト者、あるいは修道会、教派、国籍のよる内部分裂。)

少し長くなりましたが、今も同じです。

キリストを信じる方々。今、私たちが、神の子どもとされ、永遠の命を約束された者です。そして、この国の宣教師です。私たちの国籍は転にあるのですから。私たちも国を別にする宣教師です。

3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」

本日の強調点は、キリスト者の交わり以上に、この世に対するキリスト者の姿勢です。この御言葉のような生き方をキリスト者として、出来るように祈りたいのです。

 

 

15節の冒頭に、印象深い言葉があります。

3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」

私たちの弱さを弱さとして共有して下さり、真に私たちに同情し、罪人である、私たちを愛し、その罪を十字架で自ら引き受けて下さった方を、私たちの心の中の、主人とするような生き方。

それこそ、私たちの、あらゆる人間関係、それが敵であっても味方であっても、その根拠とすべきことを、このひと月(2:13〜)教えられてきたのです。

この週、教会生活も、そして、この世に出ていく世俗の生活も、いつもかわらない心をもって、すなわちキリストを主人とする心をもって、出ていきましょう。主は、丁寧に私たちを導いて必ず証をさせて下さること、勝利させて下さることを信じて出てまいりましょう。