礼拝

1999/7/18

Tペテロ3:17〜22

「罪のために」


Tペテロ3:17〜22

来週、教会のサマーキャンプで、何人かの方々は、長野県の喬木村に行きます。

椋鳩十という動物文学の作家の作品は小学校などの教科書などにも出てきて有名ですが、喬木村の出身です。今度のキャンプでも鳩椋十記念館を訪ねる予定ですね。何年か前に亡くなられましたが、生きておられれば広瀬姉とおない年くらいです。(明治37年生)

私も喬木村出身ですが、あまり椋先生の本を読んだことがありませんでしたので、あらためて図書館で借りてきて読んでいました。私はお寺にあった保育園を卒業しているのですが、その安養寺というお寺での出来事が書かれたものがありました。

こんな話です。(ちょっと長いのですが、読んでみます。)

「そのお寺は安養寺と言いました。

(おばあさんとお経をあげてもらいにお寺に行く。そばに座っていると飽きてしまう。すると、お寺の奥さんが出てくる。そして言うのです。:私の時代はおばあさんで、私もお世話になった。)色の白い太った奥さんだった。そして、本堂の脇の座敷に連れていくのです。

奥さんは、私を座敷に連れていくと地獄や極楽の話をしてくれるのでした。針地獄の話は体が続々するほど恐ろしい話でした。生前にわるいことをした死人は、針の山に追いやられるのです。山にはいちめん針がはえています。一足、一足、足を下ろすたびに、針は足の裏にざくざくとつきささる。・・・・

それにひきかえ、極楽は、大変美しく楽しいところでした。

・・・・・・・・

ぶどう、なし、リンゴ・・・世界中のくだものは、極楽の庭には、一年中ありました。いくら食べても次から次にどんどん実るので決して、なくなることはないのです。こんな話をしながら、お寺のおくさんは、「ぼきん!それ、極楽で、いちばんおいしいくだものじゃ。それぼうや、お口を、あーんとしなさい。」などと言って、あーんと開けた私の口の中にドロップを一粒ぽとんといれてくれたりするのでした。(実は、私もそうでして、いつも、特別扱いで入れてくれるのです。私がそれを自慢するものだから、家の人にお寺の奥さんからしかられた事があるそうです。)

・・・・・・

おさない私は、こんな話を何回も何回も繰り返し聞いているうちに、ほんものの、極楽のくだものを、食べてみたいと思うようになりました。けれど極楽にいくには、死ななければいけないし、一度死んだら、母の所へも祖母の所へも、もうそれっきり、帰ってくることが出来ないと思うと、恐ろしくもありました。ごくらへ,ちょっと行って、また、逃げ帰ってくる方法はないかと、色々考えているうちに、良いことを考えつきました。海と陸との間にさかいがあるように、隣村ととの間には村境があるように、生と死と間にも、さかいがあるに違いない。その生と死のさかいまでいって極楽の庭の方に、手を伸ばしたら、極楽のくだものを、ひとつぐらいならとることが出来るかもしれない。私は、こんな風なことを考えました。これは、うまい考えだと思いました。そこで私は二つ下の妹に私の首をしめさせることにしました。私の首をしめて、私の息が止まり、止まりかけたら、すぐ、手を離すように、何回も、何回も、良く言い聞かせました。そして、いやがる妹をだまして、首を、しめさせることにしました。こうすれば、生と死とのさかいめのところまでいけると、私は思ったのです。妹は、ぽろぽろ、涙を流しながら、私の首をしめました。けれど、私の息の止まらぬうちに、妹は、大声で泣き出しました。『兄ちゃんが死ぬる。兄ちゃんが死ぬる。』妹は、さけんでなきました。父と母が驚いてかけてきました。妹から、わけを聞いて、両親は、あきれかえったようでした。『ほんにまあ、このばかこぞうめが、頭が、ちっとばかり、どうかしちょるぞ。こいつめ。』と父は、かんかんにはらをたてて、私の頭に、思いっきり、げんこつをくらわせるのでした。私は、たいへん恥ずかしいと思いました。このことがあってのちしばらくは、家の人の前を、こそこそ、かくれるように歩いたものです。これは、私が、6〜7才のころのことであったような気がします。」

 

今日の箇所は、少し変わったところで、一口で言えば、「イエス・キリストは、地獄(あるいは、ハデス:ゲヘナとこの世の中間。あるいはゲヘナ?)に行かれ、また、今天国におられる。」という話なのです。

椋鳩十さんは無理でしたが、まさに、イエス・キリストは、地獄と天国を自由に行き来出来たお方であったわけです。さらに、つっこんで言えば、イエス・キリストこそ、私たちのために、天国の門を開いて下さって、いや、「既にあなた方は神の国に入っているのである。」と宣言され、私たちに今、既に、天国に手を伸ばし、天国(永遠の命の歩み)に足を入れることを、可能として下さった方であるということなのです。私たちは、今生きているときに、天国の命の木の実(永遠の命)に手を伸ばし、それを食べることが許されているのです。妹に首をしめてもらわなくても。どうしたらいいのですか?十字架について、私たちの罪を贖って下さったイエス・キリスト信じることによってであります。

(ところで、私も、その奥さん?:おばあさんには、お世話になりまして、私が、大学に入ったときにご高齢で亡くなられたのですが、死の近いおり、病院に無理を言いまして、面会謝絶の所を、「ああ、桂司君なら」というおくさんの許可を得て、病室に入り、「今私はキリスト教の牧師になろうとしている」と言いまして、そのお寺のおばあさんのために、お祈りをしました。イエス様を信じて、本当の天国にいけるようにと。)

 

今日の所、特に18節からをもう一度見てみましょう。

3:1820:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。・・」

18節を簡単にお話します。

二つのポイントがあります。1つは、17節からの続きでして前回のことを思い起こしていただきたいのですが、キリスト者が迫害を受けるとき、迫害をする人を、同じ兄弟姉妹を愛するように、態度を変えないで、愛しなさいという事なのです。キリストは、罪人のために(訳によっては、ずばり「不正な人々のために」)死なれたのですからと、言うのです。実に驚くべき事です。

アメリカ人の7割近くが、地獄を信じていると言います。しかし、貴方が行く可能性がありますかと聞くと、その中の25%もいないと言います。8割近くは、他人がいくはずだと考えているというのです。(USA Today poll, 12/86

はじめから結論のような事を言いますが、ペテロが、ここで強調したいことは、イエス・キリストは、地獄に行くべき罪人のために死なれ、必要とあれば地獄に行ってでも御言葉を宣べ伝えるお方だという事なのです。地獄に行くべき罪人をどこまでも愛したもうキリスト。必要とあれば、地獄にまで追いかけていって救いを語るお方。あなたたちも(罪人を愛しなさい)。ということなのです。

ただ、このことは既に教えられたことですので、二つ目のことをさらにお話しします。特に後半の、「(キリストは、)肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」という事ですが、こう読んで下さい。「肉においては死に渡され、霊において生かされた。それは、私たちを神のみもとに導くため。」18節の中心点は、前半の1つ目のことにありますが、ここには大切な真理が語られています。

大切なのは、「肉においては死に渡され、霊において生かされた。」お方は、キリストだけだと言うことです。人は誰も罪人ですから、肉において死んだら、霊は生かされることはありません。霊もしにます。もう少し言うと、人は肉において死んだら、霊も地獄に移され霊的な死を迎えるのです。(苦しみから解放されるという意味ではありません。)

しかし、キリストは、霊においては、真の意味で生きるものでありました。難しい説明はやめます。いや、むしろ難しいという事を理解していただければ結構です。宮村先生に言わせれば、「この大きな矛盾をおったキリストがおられるからこそ、虫けらのような私たちもなお生きることが許されているのである。」という事になります。ペテロはその事が言いたいのです。肉に死んで霊に勝利されたという誰も経験しなかった理解不能の事をして下さったのは、キリストは、人間の罪のため、人間として身代わりとなって死なれ(人間の身代わりは人間でなくてはならないからです。)た。ただ、身代わりは、罪のない人間でなければならないのですが、罪のない人間はいないのです。それは、神でしか出来ません。イエス・キリストは、人であり、神でありましたから、それが出来た。そして、当然の如く神として復活された。(私は、歴史的に有名なキリストの2性1人格の話をしているのですが、やめときます。)とにかく、結論は、「この大きな矛盾をおったキリストがおられるからこそ、虫けらのような私たちもなお生きることが許されているのである。」となります。

世俗的な言い方をします。無茶するなと。イエス様は無茶なさるなと。しかしいっそう、そう思うのは、次の19節です。

どこにも行き来出来る霊になったついでに、地獄を訪問されたというのです?

3:19「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」

ここも少しだけ、お話しします。私は、地獄地獄と言ってきましたが、「とらわれの霊たちのところ。」ですが、とらわれの霊たちというとき、色々な解釈があります。

次の20節との関係で、ノアの箱舟の時、ノア以外はすべて亡ぼされましたので、その人たちの所に行った。行って救いを述べたと。

あるいは、イエス様の来られる前、旧約の時代のすべての人たちという解釈があります。イエス・キリストの救いを知らないで死んだ人たちに救いのチャンスを与えるためです。

そういう人たちは、地獄と天国の間にいたのです。ですから、地獄と言わず、カトリックでは煉獄(れんごく)、色々議論がありますが、聖書でも、地獄のゲヘナという言葉に対して、ハデス(日本語では「よみ:黄泉」と訳す場合有)を使い分けているようにも感じます。

さらに幅を広げて、旧約時代以降も、世界中のイエス様を知らないで死んだ人たち。カトリックはもっと広げて、福音を聞いたけれど信じ切れなかった人たちも。

私は、カトリックの理解は聖書的とは思いません。ノアの時代に限定するのは、限定のしすぎだと思います。しかし、結論はありません。むしろ、聖書が、それを知ることより、もっと大切なことを知るべきであると言っているのです。

ひとつには、それは、死んだ人のことより、今、あなた方はどうなのか、また、今生きている愛する方々のために何をするべきかということです。少なくとも、カトリックのようにまだチャンスがありそうだと考えて、信じることを先延ばしにするべきではありません。

しかし、もっとここで強調されているのは、私たちのことより、イエス・キリストの事であります。

もう少し正確に言えば、イエス・キリストは、私たち罪人のために何をして下さるのかという事なのです。

 

加藤常昭牧師が、森有正氏(キリスト者、思想家『いかに生きるか』)について、お話をしておられます。彼は、何年か前から話をしている最中に、目が見えなくなったり体が不調になる。と。早いうちに死ぬかもしれないという思いが沸いてくる。そして、こんな事を言っておられると。「私にとっては問題は朝です。非常に具合が悪いときは、朝起きたときがいちばんつらいのです。また一日が来たかと思うと、目の前が灰色にふさがってしまう。しかし、その時に本当に信仰がはっきりしてきて、実は一番大事なことは、キリストにおいて、赦されているのだと言うことを考えると、急に元気になります。それをひょっと忘れると本当に灰色の一日になります。」実によくわかると、加藤先生は言われるのです。

「実によくわかる」とどれほどの方が思われるかわかりませんが、私は、その加藤先生が「実によく分かる」と言われた言葉が良く分かるような気がします。最近、家内の母教会で加藤先生がお話をされたおり、朝起きてきて首からコルセットをはずされ、神経を圧迫していてコルセットをつけて寝ないと痛くて寝られない。この病気はなかなか説明しても誰もわかってくれなくてね。と話しておられたと言うことを聞いて、あの首の痛みの中で、朝暗いうちに痛みの中で起きてしまって、「ああ、人間の体も、冷蔵庫やテレビやコンピューターなどの機械みたいに寿命があるんだなあ」と悟ったと言いましょうか分かりました。朝の疲れは死を思わせると加藤先生が言われますが、わかるようにおもいます。死というよりも、誤解を招くかもしれませんが、このまま地獄に堕ちるのではないかと。森有正先生は、自分は死ぬために生きているとつくづく言われたとか。でも大丈夫。イエス様の救いをいただいているから。

加藤先生は、イエス様が地獄に行って下さったことに大きな慰めを受けると言いました。なぜなら、イエス様は天国にも地獄にも行くことが出来、また、地獄でさえ救いを宣べ伝えて下さる方だから(地獄の人が、救いを受け入れたかどうかは別として:個人的には、地上で受け入れられなかった人は地獄では一層難しいのではないかと思う)。まるで、「地獄に堕ちても大丈夫」とでも言うがごときに、とにかくイエス様は、何処までも墜ちてしまったような罪人をも助けることが出来ると思ったからだと言われるのです。(「イエス様はよみがえられて、上にも下にも道が通じるようになった。」)

確かに、キリストは、当然の事ながら、天にもおられる。3:22「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」とあるとおりです。上にも下にも自由にイエス様はおられる。

詩篇139篇にこんな言葉があります。

「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみ(黄泉)に床をもうけても、あなたはそこにおられます。」と。

誤解を恐れずに言います。もちろん、そんなことはないのですが、もしクリスチャンが間違って地獄に堕ちるようなことがあっても、イエス様は、そこからでも必ず助けてくださる。宮村先生は、ここでいわれているのはとにかく、「キリストの十字架による救いがどれほど徹底(完全)したものであるか。」という事なのだと言われました。

 

21節で、洗礼(バプテスマ)の事について書かれています。

ルターは、悪魔の攻撃を受けたと感じたとき、何と言ったか。具体的には、彼は、時々、神様が自分を裁く、自分は裁かれるかもしれないと、カトリック教会に抵抗している中で不安になって、地獄に堕ちるかもしれないと不安になって、言ったことは、「私は洗礼を受けている。」と。そのように自らに言い聞かせたと言います。

ペテロは、バプテスマの根拠は、何か水で表面を洗うような事ではなくて、このキリストの御業、特に復活の勝利の御業によって、徹底的に神の子どもとされる事を意味すると、言うのです。

たしかに、当時、ペテロは、その死におののき、自分の行く先に不安を持った、小アジアのクリスチャンたちに、救いに対する、キリストの御業に対する確かな約束を伝えているのだと思います。イエス様の贖いは、一回限りで十分なものという18節の言及も、どれほど、キリストの御業が確かかを伝えるものです。

 

今日の所は、少し変わったところですが、本当に信仰の確信を、信仰の安心を与えられる所です。何という平安を、キリストを信じる私たちは与えられていることでしょう。

そして、最後に、もう一度最初のことを思い起こして終わりたいと思います。あえて17節から引用させていただくのは、その事を想うためです。

イエス様はイエス様を信じる私のために死んで下さっただけでなく、私たちから見ると、絶対地獄行きの、時に私たちを苦しめるような罪人のために命を懸け、どこまでも命を懸けて時には地獄までおいかけてでも愛して下さる方だということなのです。

そのキリストを信じる人は、自ら案ずるばかりでなく、まだ救われていない多くの人々のために、この福音を伝え、この愛を伝え、具体的に愛さなくてはならないという事です。

今週の歩み、このキリストを仰ぎみつつ、世にない平安に心満たされながら、まだ救われていない人たちのために熱く祈っていく歩みでありたいと願います。祈りましょう。