礼拝

1999/6/27

Tペテロ3:1〜7

「妻たちよ。夫たちよ。」


Tペテロ3:1〜7

百万人の福音という雑誌が玄関にあります。教会用にも新聞ラックにありますので、また時々見て下さい。3月号に、「ある臨床報告ホスピス【胸にのこる言葉】」という事で、クリスチャンで、福岡亀山栄光病院ホスピス長の下稲葉康之医師の証(あるクリスチャンの夫妻の証)が載せられていました。ちょっと長いのですが読んでみます。

車椅子で入院して来た三十五歳の婦人があった。その傍らには沈痛な面持ちの夫と,まだあどけなさの残る三人の幼い子どもたちがいた. この夫婦は高校時代に剣道を通じて知り合い,やがて相思相愛の仲となり,そして結婚した. 夫は派出所でお巡りさんとして昼夜をおかず献身的にその務めに従事し,妻は派出所に住み込んで夫を支え,女流剣士として地域の子どもたちを指導もした.この仲むつまじい夫婦に育てられた三人の娘たちも,実に明朗に伸び伸びと育っていた.

この平和な家庭を,青天のへきれきのごとく,病魔が襲った.愛する妻であり,慕うべき母親である彼女が子宮がんに倒れた.手術がなされ,抗がん剤が使用されたが,再発した.免疫療法や放射線療法が相次いでなされたが効なく,病巣は骨盤内に拡大した.入院時の検査の結果,病状はさらに厳しい状態にあることが判明した.腎機能がかなり悪化しており,医学的には腎不全と呼ばれる状態であった.夫を呼んで説明した.「腎不全がかなり進行しており,余命一ヶ月,場合によっては三週間.  したがって,今後の方針として,医療上の手当てをいろいろと施しつつも,どうしたら限りある日々を悔いなく有意義に過ごせるかを考えましょう.そのためには,まず本人に病状を説明し,そのうえで家族がいっしょに過ごせる環境作りをし,そしてたましいの平安が得られるように祈りましょう.」と,私も真剣に訴えた.時として,涙を拭いていた彼が私の説明にうなずき,そして,妻に対して彼自ら病状の説明をする,と落ちついた口調で応じた.思わず,私は彼の手を取り,堅く握手を交わしたのだった.その晩,彼は妻のベッドの傍らで横になった.ひょっとして一睡もできなかったのかもしれない.翌朝,病室から彼女のすすり泣きが聞こえてきた.驚いた看護婦が訪室すると,彼女が夫の胸に顔を埋めるようにして泣きじゃくっていた.夫も大粒の涙を流し,妻を抱きしめていた.「ねえ,私,もう治らないの?子どもたちと遊べないの?    ねえ,お父さん,怖いよ.お父さん,本当のことを聞かせてよ!」

夫の胸をたたきながら,彼女を泣き続けた.「怖い,怖いよお・・・・・」と泣く妻を抱きしめて夫が,意を決したように,彼女の両肩に手を置き,顔を見つめて告げた.「よし,俺が話す.話すからちゃんと聞け.      俺が話すから・・・・・」彼女はしゃくり上げながらうなずき,夫の胸に顔を埋めた.夫はまさに断腸の思いで説明したに違いない.「がんが再発,転移しており,一ヶ月ももたない.」と.約三十分後,二人とも泣きはらした目つきではあったが,落ち着いた表情で寄り添い,「さっきはどうもすいませんでした.もう大丈夫です.もう泣いていません.」とかすかに笑顔をつくりながら会釈した.その翌日,夫婦は三人の子どもたちに率直に語った.「お母さんは一ヶ月後に死ぬんだよ.これからは,お父さんと四人でがんばらねばね・・・・・お母さんは死ぬんだけど,いつもあなたたちといっしょよ.ずっと守ってあげるからね.あなたたちがどこにいようと,いつもいっしょだよ.」子どもたちは時として涙を流すことはあったが,病室での家庭生活を楽しく過ごし,父親の送り迎えで病室から通学した.神の奇跡は現代社会のどこに見られるのかと問われるならば,私は躊躇なく答える.それは決して超自然的な病いのいやしにではなく,絶望的な状況にあ末期がん患者に生き生きとした望みを与える神の働きにあると.まことに,神の力は弱きのうちに現される.この夫婦に神の働きあれかしと心から願いつつ接し,語った. 二人は真剣に耳を傾け,質問し,そしてついには手を取り合って神に感謝し,天国に召される日を望むようになった.そのようなある日のこと,訪室すると,彼女は起き上がって,ニコニコしながら話し始めた.「ここに来てよかった.先生に会えてよかった.今,本当にうれしい.もうすぐイエスさまの所に行けるから.」「Mさん,強いね.どうしてそんなに強いのかなあ.」と問うと,「それは私が強くないからもうそんなに長くないから,うれしい.天国に行けるので,胸がワクワクして・・・・・」 厳しさのただ中で,何とも澄んだすがすがしい感じの会話だった.そして圧巻は,夫婦の結婚十周年記念と長女の九歳の誕生日のお祝いであった.スタッフはメッセージを託した色紙と花束を贈り,賛美を歌った.私は聖書を手にして,「キリストを信じる者は,死んでも生きる」と霊の感動に声を震わせながら復活の希望を語った.夫は声をつまらせながらも,「これからは,五人の輪がやがて四人の輪となりますが,仲良く一生懸命生きていきます」と,子どもたちの手を取りながら挨拶した. 彼女は涙している長女を慰め,励ますように終始ほほえみかけていた.その表情には,ある種の気高ささえ感じられた.そしてその周辺には,何とも形容しがたい穏やかな感動と,おごそかな雰囲気が漂っていた.参加した看護婦は,看護日誌にこう書き記した.「今のこのなごやかな家族の幸せが過ぎ去る悲しみ,憂い.イエスさま,この大切な一日,この大切な時間をそのまま止めてほしいと祈りの思いで一杯です.」「あなた,再婚しては駄目!再婚するのなら,またこの私とよ.」とニッコリしながら語りかける彼女に,これまたほほえんで応じる夫.死別という厳しい現実に対峙し,相思相愛の夫婦の絆(きずな)が絶たれようとしているただ中で,確かに神が働き,その絆はますます真実な,不変不動なものとされていった.(〒811-22 福岡県粕屋郡志免町別府58 福岡亀山栄光病院 092935-0147

下稲葉医師が、最後に、「相思相愛の夫婦の絆が絶たれようとしているただ中で,確かに神が働き,その絆はますます真実な,不変不動なものとされていった.」と結びました。

私は、この話を読んで、今日のメッセージは、この話をご紹介するだけで、みなさん夫と妻である方々にとっては十分かもしれないと思いました。夫婦の絆を神様が支えて下さる。逆に言えば、神様に信頼するなら、夫婦は神様によって支えられる。いや、もっとも良く神様に任せ、もっともよく御言葉に聞く夫婦こそ祝福を受けると。それは、親子関係でも同じであろうかと思います。

 

さて、今朝は、妻のありかた?夫のあり方?が教えられているところです。「ああ、結婚式の時の、誓約の言葉だ。」と気づかれた方もあると思いますが、そうです、結婚式の時に必ず読まれるところです。

ただ、今朝も、当時の時代状況と言うこと、特に夫婦の時代状況をお話しておきたいと思います。

いや、日本でも、つい50年前は、夫人は政治に参加することは出来ませんでした。アメリカでも80年前までは。2000年前のローマでは、夫人の立場は奴隷か、せいぜい子供に近いものでした。お酒を飲むのは禁じられ、妻が酒を飲んでいるというと殺されてしまったなどという例があるくらいで、夫は持参金を返せばいつでも離縁できたのです。

しかし、当時の状況をご説明する上で、特に触れなければならないのは、この2000年前の小アジア(トルコ近辺)の、キリスト教会で、女性がどういう立場で教会に来ていたかと言うことです。それは、前回の奴隷なども、だいたい同じですが、妻が夫の信じている宗教以外の宗教を信じるということは、極めて困難であったという事です。いや、「考えられなかった(バークレー)」のです。

前回と、同じなのですが、今回も、この状況の中でこそ言われた事であることを良く理解しておきたいと思います。

私たちは、二回に渡って、具体的な事について教えられてきました。王と臣民との関係。主人と奴隷との関係。考えてみれば、現代の私たちにはほとんど関係のない関係です。その3番目に夫婦の関係が語られているということです。この三つの関係に共通していることは、いずれも、きわめて特殊な関係であるということです。今ではない、夫婦関係の時代であったという事なのです。ですから、おのずからそこには、一言で言って丸飲みにしてはいけない点はあると最初にはっきりと言っておきたいと思います。

しかし、ここに表れている聖書の真理について、しかし、それはいささかも差し引かれるものでないことも述べておきたいと思います。それは、奴隷と主人との関係の中で述べた事と同じです。

当時の状況について、今少しお話ししますが、前回二つの話と共通するもう一つの特徴を言っておきたいと思います。それは、教会員の多くが、臣民であり、また、奴隷であり、また女性であったのであろうという事です。今日は、決算総会でありますが、教勢の報告を見ますと、礼拝出席者の大人のうち、男性が17.8人、女性が32.4人であります。青梅キリスト教会の2/3が女性であります。多くの教会の特徴です。いや、私たちの教会はやや男性が多いくらいかもしれません。

今日のところで、夫に対するすすめより、妻に対するすすめの方が量が多い(6倍)のは、そのまま、当時の教会員の状況を示しているのかもしれません。彼女たちは、神を信じ、既に神の子どもとされ、既にばく大な天の資産を受け継ぐべき(1:4)立場に置かれたことが約束された人々でありました。前回の、教会の中では既に奴隷解放が行われていたのだという事と同じように、ある意味、女性解放が既に行われていたと言うことです。時代状況と言うことで言えば、だからこそ、女性たちが、むしろ、名誉ある立場を与えられているからこそ、かえって見下げることなく、夫を積極的に愛し敬うことが出来るはずだという論理なのです。

3:12「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」

女性が先に救われて、夫が、教会にきていない、クリスチャンでない(「みことばに従わない夫」とはそういうことを指しています。)、そういう場合がたくさんあったことが想像されます。

5、6節には、アブラハムに対するサラの例、また、旧約の女性たちの例に目をとめよと書かれていますが、正確に言えば、こういう例は、旧約聖書にはないのです。信仰においても夫がリーダーシップをとっていくべきでした。これは新しい事態でした。また、先にも触れましたように、いわば既に、多くは夫に逆らって信仰をもった人たちかもしれないのです。このことだけはと命がけで、信仰をもったのです。そんな中で妻のとる立場は、夫に服従すること、そして、言葉で何か言うのではなくて、その毅然として神を信じ、同時に、(信仰以外では)夫に服従し通して、無言のふるまいによってということでした。これ以上事を起こすと大変なことになるというペテロの彼女たちに対する高度な判断による助言とも言えます。しかし、そこには、事態は新しい事態だけれど、創造以来の妻と夫の立場は、たとい信仰をもっていてもいなくても変わらないという事を述べているのです。また、むしろ、言葉によって説得するより、あなた達の服従、特に、4節にある、「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを(飾りとする、)神の御前に価値ある」キリスト者らしい、神様から与えられた女性特有の賜物をしっかりと用いることによってこそ、きっと、まだ神様の事を知らない、あなたを認めていない夫も、導かれ、救われることになるだろう、いや、必ずなる(by加藤常昭)ことを期待していいと言っているのです。

何度も言うようですが、このように時代に制約された、あの時代の、妻の判断、ペテロの判断と言うことがあると思います。しかし、その中にも、変わらない真理があることも思うのです。

今、アメリカでは、80以上の都市の市長が女性で、弁護士・教師・会計士などという専門職の半分が女性で、医者の1/3が女性だそうです。世界的にも、マーガレット・サッチャー氏や、コラソン・アキノ氏が女性のリーダーです。この数十年、特に夫婦の間にあって女性の権利が高められていくなかで、それでは、たとえばアメリカの、また日本の夫婦関係は理想に近づいてきたのかという事で言えば、極めて疑わしいということを多くの人は認めると思うのです。アメリカでは、30年前に比べると、子供が産まれたとき、まだ両親が結婚していないというケースは、黒人の場合で、16%から68%へ。白人の場合、4.8%から22%へ。そして、結婚した10組の内6組は離婚か別居するというのです。(Mike McManus Source: Policy Review. Winter 1994, pp. 50-54.)

もう一度、聖書の原則を思い起こすべきではないでしょうか。

どのような団体や集団でもリーダーが2人いるという組織がうまくいくケースはないと思います。どちらかがどちらかに従う事でうまくいくのです。聖書の原則は、創造以来、この原則にかわりはありません。妻が夫に従いなさいと言うことなのです。

夫人たち。この真理を是非実践していただきたいと願います。

ただ、ここの最後で、とりわけ重要だと思われる6節を読みます。

3:6「たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。」

サラについての例があげられていますが、今朝は特に、後半の部分の言葉に注目したいのです。ペテロは非常に注意深く言葉を使っているのです。

「どんなことをも恐れないで善を行なえば」という言葉です。これは、注目すべき言葉です。2章で、臣民の王に対する姿勢の中で、「王を尊敬し、神を恐れなさい。」(2:17)とペテロは言いました。すなわち、王を恐れてはならない、恐れるべきは神、しかし、だからこそ、王を尊敬できるはずという論理です。これは、奴隷の主人に対するすすめと同じであることは先に言いました。

妻に対して、最後にペテロが言葉を選んで結ぶのは、「何も恐れるな」ということでした。彼女たちの多くは既に、毅然としてキリストを信じることを選び取っています。夫を恐れるべきではない。なにか、強制され恐れてびくびくしながら夫に従うのではない、そうであるなら間違いだ、何も恐れてはならない、しかし、従いなさい、夫に対して良いと思われることは(善)すべて行いなさいと言っているのです。すべての柔和さと穏やかさをもって仕えなさいと。

三浦綾子氏は、戦国時代に生きたクリスチャンの細川ガラシャ夫人に「私は(何も)怖じ恐れません。・・・(しかし夫には、)聖書にも『夫にはキリスト様の如く仕えよ』という言葉がござります。私は神の言葉に従いまする。(夫に、従います。)」と、死を前にしたガラシャに言わせます。

横道に逸れるかもしれないのですが、細川ガラシャ夫人は、戦国時代の終わり、明智光秀の三女として生まれ、細川忠興(ただおき:細川家は後に九州の大大名)の妻となりますが、当時の権力者織田信長に父が謀反をおこして、一時期離縁され、その間にキリシタン大名の高山右近などの影響でクリスチャンになったと言われます。

「(その)容貌の美しさ比べるもの無く、精神活発にして鋭く、決断力に富み、心情高尚、才知抜きんずる。(日本西教史)」と表されて、一般には、「戦国時代の封建的な時代に、自我に目覚めた、現代に通じる女性。」などと言われるのですが、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立の中、徳川家康にくみして戦いに出かける中、ガラシャを、三成の目を引くため、大阪城下の細川家屋敷に留まらせ、しかも、石田三成に人質にとられてもならないという政治的駆け引きの中で、夫忠興(ただおき)に、それが死を覚悟することであることを言外に言われながら、屋敷に留まり、多くの大名の妻が三成の追ってを避けて、屋敷外に非難する中、家臣らの「逃げるように」という説得の中、三浦綾子が彼女に言わせたのが、先の言葉でした。

「私は(何も)怖じ恐れません。石田三成も。・・・(しかし夫には、)聖書にも『夫にはキリスト様の如く仕えよ』という言葉がござります。私は神の言葉に従いまする。(夫に、従います。)」

彼女の時世の句「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」(死ぬときは死にます。花も散る、人も死ぬ。)という毅然として、忠興の脅しを恐れずに神を信じ、しかし、神を信じるからこそ、何ものも恐れないで、夫に従い通したガラシャの生き方を、三浦さんは、描いているのかもしれません。

彼女は、家臣と子供たちを逃がす中、自殺はクリスチャンとして出来ないと、なかなか逃げようとしない子供たちの前で、家臣に長刀(なぎなた)をもって胸を刺させ、屋敷に火を放たせました。この辺いかにも戦国時代ですが。細川ガラシャ38才。慶長5年7月17日の事でした。

記録によれば、葬儀は、関ヶ原の戦いの後、キリスト教式の葬儀が大阪と九州において2回行われ、高山右近らも出席したと言われます。ガラシャの主君に忠誠を誓って壮絶な死を遂げたことは、少なからず関ヶ原の戦いで家康側に勇気を与えたと言われ、後の細川家の繁栄のきっかけになったと言われます。忠臣は、葬儀の際、ガラシャの通った教会に、金200両を献げたと記録は語ります。

4節で、女性は「柔和であれ」と言われています。この言葉が使われている印象的な箇所は、イエス様が毅然として、しかし、柔和で、ロバの背にのって、エルサレムに入城されたと言われた時です(マタイ21:5)。民数記では、その柔和という言葉が、モーセに使われています(民数記12:3)。毅然として神に従うことと、柔和であることに矛盾はないのです。

私は、この6節について夫人たちに今朝、十分黙想していただきたいと思っています。

 

さて、7節は、夫についてです。

ほとんど時間がなくなってきました。(1/3の時間はかたらなくちゃいけないかもしれませんが。)

(Ex:「妻を道具とみるなら大変なこと!」Michael Minton on the monetary value of a wife's services in the home. First he listed the various functions she performs: chauffeur, gardener, family counselor, maintenance worker, cleaning woman, housekeeper, cook, errand runner, bookkeeper/budget manager, interior decorator, caterer, dietitian, secretary, public relations person, hostess. Using this impressive list of household duties, Minton figured the dollar value of a housewife's work in today's (1981) labor market. He came up with the amount of $785.07 a week. That's $40,823.64 a year!

ただ、なぜペテロは、夫については、この1節しか語らないのかといえば、信者の数と先に言いましたが、そうではなくて、「もう十分だった」のではないかと言われるのです。

すなわち、7節冒頭。夫たちに対して、「同じように」というだけで。

妻たちへの並々ならぬ、「神を恐れ人に仕えよ」と、ペテロの、愛と、また、その時代の中にあって、ある覚悟とをもってすすめるそのすすめに、「同じように」と付け加えるだけで。

3:7「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

秩序の違いこそあれ、自らを弱い立場に置く妻たちの立場に気遣い、自分と同等なんだから自分のことは自分でやれなどと言わず、思いやり。「共に生活し」これは、妻を子供を産む道具のようにして住まわせよそに妾(めかけ)をつくるというような状況があった事も繁栄していると思いますが、いつも関心を持って、一人だけ独走してはいけない、時間的にいっしょにいるというだけでは「共に」といえない、本当に夫からすすんで理解し合い、共に歩むのだというすすめです。

そして、神の子という立場では、同じく天国に入るものとして、価値を低く見てはならないというすすめです。

最後の言葉は印象的です。不平不満にさせたうるさい妻は、祈りの邪魔だという意味ではありません。私が祈れる、私が牧師を出来るのは、妻があってのこと、妻がなくては祈れない、牧師は出来ないという意味だと思っています。

妻を愛さない夫が信仰生活をすることは、無理だと言っているのです。

私は、主人たちに、この7節を、今朝十分黙想していただきたいと思います。

 

今朝、妻でない方もおられる、夫でない人もおられます。具体的な事例は、だいたい今回で終わりますが、すべの人間関係が、いや、その絆が絶たれようとしているただ中でさえ,確かに神様が働くときにこそ,その絆はますます真実な,不変不動なものとなることを、理解していただきたいと思います。すなわち、御言葉の原則に従ってこそ、不動のものになるということを。

今も我らを命をかけて守り、教会をキリストの花嫁と言って下さって悪しておられるイエス・キリストに服従し、またそれゆえにこそ、すべての人間関係が正しく、豊かに導かれていく歩みを、今週も、御言葉に従って豊かに鮎増させていただきましょう。