礼拝

1999/6/6

Tペテロ2:11〜17

「国家とキリスト者」


Tペテロ2:11〜17

キリスト者である内村鑑三が、1891(明治24)年に、教育勅語に対する不敬事件を起こして、第1高等中学校の教職を追われた事件は、教科書などで習うのですが、この教育勅語は、天皇に忠誠を尽くし、国を愛することを天皇からの命令(お言葉)として国民が尊重すべき教えとして、またこれに子供たちに頭を下げさせて従わせたわけです。

この教育勅語は、内村鑑三の不敬事件の前の年、明治23年に発布されたばかりでした。そして、実はこの前の年、一人のクリスチャンが暗殺されました。日本ではじめての文部大臣である森有礼(もりありのり 42才。著書:『日本における宗教の自由』)です。彼はイギリスとアメリカに留学して信仰を持ちました。キリスト教的確信に基づいた政治が災いして、「彼は、キリスト教を日本の国教とする考えだ」という噂がたって、殺されたと言われています。まってましたとばかり、明治政府は、翌年、天皇制を強固とすべく教育をはじめました。

近頃、戦前の道徳教育(修身教育)を復活させようというような意見があるのですが、教育勅語とほぼ同時に始まった修身教育の教科書には、天皇を中心とする国家作りが明確に書かれていました。しかし、最近知ったことですが、実は、その明治22年より前にあった、教科書にはこのように書かれていました。

日本ではじめての小学校の教科書、文部省が発行した『小学読本』の最初に、このように書かれていました。ちょっと長いのですが、驚くべき内容ですので、引用させて下さい。

「天の神は、月、日、地球を造り、後、人、鳥、獣、草木を造りて、人をして諸々の支配をなさしめたり。」「神は万物を創造し、支配したもう絶対者なり。」(明治6年)

「神は常に、我々を守るゆえに、は、にて、に、歩行するをも、恐るることなし。又、眠りたるときにも、神の、守りあるゆえに、暗き所も、恐るることなし。(詩篇121:2〜「私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。・・・・主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」まんま!)神は、暗き所も、に、見るものゆえ、人の知らざる所と、思いて仮にも、悪しきことを、なせば、ち罰を、ふるなり、人の知らざることをも、神は、く知るゆえに、善きものには、幸を、与へ、悪しきものには、を与ふるなり、」(113-114 ページ)「それこの世界は、全く人の住居する為に、神の造りたるものにて、世界は、人の住所なり、既に人の為に、此世界を造り、日あり、月ありて、物を照らし、また目を歓ばしむるには、地上に、を生じ、(枝の先)に、美花を開かしむ、」(139 ページ)

 「これ皆神の賜ものにして、所として、これ有らざるはなし、地上、の万物は、、虫、魚、山林、草木の花実に至るまで、皆人を養ふ為に、神の与えたるものなり、神、既に此諸物を、人に与へて、足らざるものなからしむ、故に人々慎みて、神の賜ものを受け、我身の生活を、計るべし、」(139 ページ)

日本で最初の、文部省が発行した教科書ですよ。へたなミッションスクールより聖書的ですね。明治のはじめに進歩派キリスト教的教育が開始されようとしていたのです。こうした国の流れは、しかし、森有礼(もりありのり)の暗殺によって完全に絶たれ、また数年後に起きた内村鑑三の不敬事件なども契機にして、息の根を止められました。江戸幕府のやったことと同じです。

難しい話になりますが、江戸時代の仏教の檀家制度(地方)、氏子制度(自治会)も、キリシタン弾圧が大きな目的でした。キリスト教の息の根を止めようとしたのです。日本はまるでキリスト教とは関係がないところで歴史が進んできたと多くの人は思っていると思いますが、実は、むしろキリスト教、あるいはキリスト教的ものの考え方といつも戦って来た歴史であったのです。

私は、ここで政治批評をしようと思いません。ただ、先頃の日米ガイドライン法案や、通信傍受法案、君が代日の丸などの法制化などの問題も、そういう視点で考えることは必要なことと思います。もう少し、おおざっぱな言い方をすれば、少なくとも、私たちの信仰と、あるいはクリスチャンと、国の事、政治のこととは、無関係でないということを、どこかで理解していただきたいと思います。

 

さて、今私は、ここで政治批評をしようと思いませんとは言いました。しかし、司会者に読んでいただいたとおり、今日の箇所は、きわめてはっきりと、国家と信仰者との関わりのあり方、どう関わったらいいかと言うことを教えているのであります。

ただ、これから教えられていく、Tペテロ2章以下の、言わばキリスト者、この世にあっていかに生きるべきかという、具体的な教えは、時代的背景なしに語ることが出来ないと言うことを最初に確認しておきたいのです。

それで、この時代ですが、まだエルサレムがローマによって崩壊させられる前の時代(70年以前)、この時代の特徴は、今までも触れていますように悪名高いネロ皇帝の時代でした。しかし、正確に言いますと、本格的に迫害がこのガラテヤなど小アジア地方に及ぶのは、次のドミティアヌスとかトラヤヌスとかの時代に激しくなりました。と言いますのは、今日の内容を少し、はしょって言いますが、一言で言えば、クリスチャンは、出来る限り王様に従いなさい、王様を敬い尊びなさいという内容なのです。口の悪い人に言わせると、こんなゆうちょな事が言えるのは、時代がまだ激しい迫害の時代に入っていないからで、この次の時代に、皇帝礼拝が強要される時代になると、いやおうなしに国家と教会が対立せざるを得なかったのです。そうなる前の時代であるということは、どうしてもここを読むときに確認しておかなければならないと思います。宮村武夫先生が、だからここのところを根拠に、「信仰を国家の統治下に閉じこめる手段として、(ここの聖句→2:13.14)誤用されたり悪用されないように」と釘を指していますが、時代的背景ということを良く考慮に入れなければなりません。

特に、今の時代、私たちが、「この通りに行動しましょう」と私がみなさんにお勧めするとき、2000年の時代の違いをまったく無視するわけにはいきません。時代は、刻々と代わります。キリスト者は時代を超えて同じ天の国の民ではありますが、決して時代を超越したり逃避したりするのではなくて、その時代と対面させられ関わって生きていくのです。

国の政治のあり方の違いをある人が面白い例をあげて説明しました。

題「政治思想の違い」

共産主義:あなたが二匹の乳牛を持っているとする。すると政府は、政府は二匹とも取り上げて、あなたにはミルクを与える。

社会主義:あなたが二匹の乳牛を持っているとする。すると政府は、一匹を取り上げて、その一匹を他の人にわけてあげようとする。

ファシズム(独裁政治):あなたが二匹の乳牛を持っているとする。すると政府は、二匹とも取り上げて、あなたにその牛のミルクを売りつける。

ナチズム(戦争中のドイツのヒトラーの政権):すると政府は、二匹とも取り上げて、あなたを拳銃で撃ち殺す。

資本主義:あなたが二匹の乳牛を持っているとする。あなたは一匹を売りはらって、そのお金で、雄牛を買うだろう。

政治のかたちは、こんなに右から左までかたちがあるのです。ですから一つの方法で通用するというクリスチャンの方法というのはないと思います。いや、逆に言えば、聖書を読むとき、その適応範囲の広さと言うことには驚かされます。王に従いなさいということとは反対の事を聖書は述べているところもあるのです。しかし、それをここでお話しし始めるともっと時間が必要になります。ただ、ペテロの手紙の中で、前々回お話しましたように、ペテロは、ローマの滅びるのをはっきりと見ていると思います。この問題での彼のバランス感覚の良さを私たちは知っているのです。

あらためて、13.14節を読みますが、

2:1314「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」

王であっても、また知事や市長や警察や軍人という役人であってもということです。主のゆえに従いなさいと。

「主のゆえに」という言葉の意味は、国家というものが神様との関わりなくして立てられているのではないと言う確認があるのです。13節に「制度」という言葉があります。まさに先に説明しました、資本主義、社会主義などときの制度ということでもあります。その制度という言葉は、天地創造の創造という言葉です。国家形成に神様が関与している関わっているとも読みとれるところです。国がすることに神が関わっている。

2:15「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」

国の法律に従うのは神の御心なのですと読めます。

私は、こうした御言葉を読むとき、本当にだからこそ、わたしたちは国のやることに無関心であってはならないのであって、本当に神の御心が行われるようにと熱く祈り、また監視する責任がクリスチャンにあるのだということを思うのです。

で、先のペテロのバランスということについて言いましたが、国に従いなさいといいますが、今日のところにもまた、彼の信仰的な柔軟さバランス感覚を見るのです。最後の17節を見て下さい。

2:17「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」

クリスチャンは、政治家だから、未信者だから、異教徒だからといってこの世の人々を馬鹿にしてはならないと言います。すべての人を敬いなさい。クリスチャンは、自分が救われている事を誇っています。しかし、救われていない人や国家を馬鹿にはしません。救われているのは、自分が優れているからではないことを良く知っているからです。全員が救われてもらいたいと願っていますが、神様が彼を愛していないなどということは思わないのです。彼のためにもイエス様は死なれた。彼も神様に愛されている人、だからこそ、彼に伝えるのです。

ただ、バランスと言いましたのは、次の言葉です。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。特に最後の二つの言葉に今朝は注目しましょう。神を恐れ、王を尊びなさい。これは明らかに違う態度です。尊ぶ事より恐れることの方が、強い意味です。逆に言えば、王を恐れてはならない。恐れるべきは神様だけ。しかし、尊敬はしなさい。とも読めます。ある人は、ペテロのささやかな抵抗と言いましたが、私はささやかではないと思う。かなり強固な決意を見ます。

このバランスの良さ、この柔軟さを見て欲しいのです。

ですから、王を神としない時代と、王を神とする時代とは、自ずからクリスチャンの態度は違ってくるはずですし、社会主義と、資本主義と、ファシズムの時代ではクリスチャンの態度は違うのです。違っていいということを理解してほしいと思います。

 

ただ、その事を考慮に入れてもなお、私たちは、ここから神のことばである永遠の真理をくみ取ることが出来るのです。この最後の、ペテロの「恐れるべきは神様だけ。」というはっきりとした姿勢も、どの時代でも変わらないキリストを信じる者の確信でなくてはなりません。ただ、今朝のところは、もう一つの点が特に教えられているのです。

当時、教会は、まだまだ一般にはユダヤ教の一派と見られていました。しかし、だんだんとユダヤ教徒の違いが一般の人々にも理解できるようになりました。特に国家に対する姿勢と言うことにおいては、違いがあったようです。先にも言いましたように、程なくしてユダヤ教はエルサレム崩壊と共に葬られようとされます。それは、ユダヤ教がローマ国家に敵対し対立したからです。ある学者はその事をキリスト教と比較しまして、そんな中で、キリスト教というものは、政治的反乱、反逆を起こしていない宗教として、むしろ珍しいものだったというのです。

パウロも、「人はみな上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ13:1〜)と言いました。

(イエス様は、ポンテオピラトの前で一歩も妥協することはありませんでしたが、福音書を見ますと税金をローマに納め、また、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と言いまして、解釈に幅があるとはいうものの、国に対して納めるべきもの、果たすべき義務を特にクリスチャンだからといって何でも反対せよとかいうような否定はしていないのです。)

キリスト者は、この世と対峙するだけではなくて、抵抗するだけではなくて、別の関わり方があるのです。それは、御言葉で言えば、11.12節の内容になります。すなわち、

2:1112「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」

キリストを信じる者は、既に神の国の国民にされていますから、どの国の人であっても、外国人みたいなものです。この世、この時代に生きているというのは、あるいは旅行先にいるようなものです。この時代の人々は、死に向かって生きています。しかし、キリストを信じる者は、天国に住む日を目指して旅ををしているのです。人生のゴール、目標が違います。だから、この世の誘惑に心惹かれてはなりません。「遠ざけなさい」とありますが、罪を犯さなくても、人を罪に誘惑する場所に行ったり、ちょっと手を出したり、ちょっと見てみる、というような事が危ないのです。ペテロは自分の失敗の経験から述べていると宮村先生が言いましたが、「ミイラ取りがミイラになる:例えば、この世の罪人を獲得しようと罪人の仲間になって、本当に罪人になってしまうこと」とか、「木菟引(ずくひ)きが木菟(ずく)に引()かれる:昼間目の見えないみみずくを、他の鳥がからかいに襲ってきて、みいずく取りの漁師に逆に取られてしまう。→転じて、相手をやっつけようと向かっていって逆に取り込まれてしまうこと。」などということわざがありますが、罪を犯さなくても、罪のにおいを嗅いだら近づかないことです。

旅人は深入りしないこと、そのようにして、この罪の世にあって、すなわち「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」というのです。非常に消極的に思えるのですが、国家に対して、あるいは、この世にあってのキリスト者の大切な生き方なのです。

キリスト者は、この後、まさにペテロの命じた通り、御言葉の命ずるとおり、ある意味で、無抵抗のまま、虐殺されていきました。しかし、キリスト者たちの、穏やかで柔和で、しかし、確信に満ちて変わらない信仰の姿勢は、どんな抵抗や武器などよりも強い力となり抵抗となりました。

迫害も終わりに近づいた4世紀前半、歴史家ユウセビオスは、燃えるような迫害の時代が鎮火した後の、教会とクリスチャンの姿を次のように描写しました。

「しかし、常に変わらない公同の真実の教会の光栄は、(迫害の時代の中で)その偉大さと力を更に加えて、信仰と素朴さと自由を、また生活と考え方(哲学)の謙遜さと純潔の証を、ギリシャ人や異教徒のすべての人々に照らした。同時に、全教会に対してなされた中傷的非難も消失させ、ただ神の教え(聖書)のみが残り、その教えは全世界に行き渡り、威厳や節制において、心的な哲学教理においても、すべてに勝っていると認められた(キリスト教の教えがすべての教えより優れていると認められた)。だから、今では誰も、私たちの信仰に対して、下劣な中傷や、かつて敵が喜んで行っていた誹謗をするものは無くなってしまった。(『教会史』4.7.15)」

(アメリカが日本とフィリピンと戦ったとき、マッカサーが帰るまでアメリカ兵が捕虜になった。Herb and Ruth Clingenという人が捕虜になった時の証。日本軍の司令官小西という人が、殻のついたままの米を食べさせて、体力を使わせ飢え死にさせようとした。まさに飢え死にしそうな時に、マッカーサーが帰ってきた。しかし、ついに解放され、小西という日本人が処刑される日、彼はキリストを信じた。彼の最後の言葉は、「自分が苦しめ続けた捕虜の中で、宣教師たちの穏やかで愛に満ちた姿を見て、深い感銘を受けたと言ってイエス様を信じる」と言って絞首刑台に上ったのを見た。と証。)

一見、消極的に見えるような、勇敢な戦いではなく、平凡な戦い、平凡な日常生活の中で、しっかり罪と戦い、この世に流されることなく、食べるにしても飲むにしても、何をするにしても、神様に喜ばれるようにと歩む、信仰の歩み(Tコリント10:31)が、かえって大勝利につながる。ペテロはそのことを。また、特にこの時代の中で、御言葉は、私たちに示していると思うのです。

次回からは、さらにでは、平凡な日常生活の中でいかに神様に喜ばれるように歩むのか、教えられていきたいと思います。

キリストは、十字架について下さり、私たちのために勝利をしてくださいました。キリストを信じる者は既に神の子どもとされ、この罪の世から解放されています。

ですから、この自由にされている幸いな立場を口実にして欲望のままに歩まないで、むしろ敢えて時には自由を捨て、欲望を切り捨て、御言葉にしっかりと従い、イエス様の愛に支えられた者らしい、本当にこの世の人々の模範となるべく、御言葉に誠実に従う、本当に晴れ晴れしい、キリスト者の日々の歩みでありたいものです。祈りましょう。