礼拝

1999/5/23

Tペテロ2:1〜10

「御言葉の乳」


Tペテロ2:1〜10

世の中の宗教には、その宗教に入っている人々に対して、あなた方は選ばれた人々だ、特別に位が高い、ステージが高い人々であると教える宗教があるかもしれません。

また、この宗教が教える教えが最高であって、それ以外の教えや、また権力も権威も、最低であると教える宗教があるでしょう。

あえてペテロといいますが、彼の言っていることを見ていると、非常に独特(オリジナル)で、他にはない特徴があります。それは、キリストを信じる者は、新しく生まれたのであり、永遠の命をもった者であり、特別な存在であると、キリストを信じる者が特別に尊い存在であることを教えるのですが、その特徴といいましたのは、その目的であります。なぜ、尊い存在にされたのか。前回の所を見てみましょう。

1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

その前です。

1:22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。

その目的は、互いに愛し合うためであるというのです。

 

自分は特別だ、自分は価値がある。だから、誇る、鼻高々になって人を見下げる。そういう結論にはならないと言うことなのです。彼の頭の中には、こういう事があるのかもしれません。教会には、異邦人もいる、ユダヤ人もいる。ガラテヤ人への手紙から教えられてきた私たちは、その辺の事情について理解しやすいと思います。そこには、人間的な葛藤がありました。意見の違いがあり、また、憎しみやけんかがありました。ガラテヤ(トルコ)の近くのユーゴスラビア(マケドニアの上:ダルマテヤ)でも民族同士の憎しみがあります。違う民族が一つになって歩むことは難しいのです。当時の教会でも事情は同じでした。奴隷もいるし、ローマ市民もいる。でも、自分は日本人だ、自分はイタリア人だ、自分はブラジル人だという仲たがいは、同じペルージャという誇り高きイタリアサッカーチーム:セリエA(アー)に属し、同じジャージを着たときに、お互いがお互いを尊敬し、国の違いは吹き飛んでしまうように(前に言いましたように)同じ、神の民にされた事が、それが私たちにとっての誇りであって、もはや、奴隷であるとか、国がちがうとか、生い立ちが違うとか、そういう事が誇りとならない、ペテロは、だから言うのではないでしょうか。私たちは、生まれ変わり、神の子という誇り高き身分をお互いに、お互いにです。いただいているのですから、熱く、兄弟として愛し合いましょうと。

先々週、松本の教会でご奉仕させていただいた折り、私は、喬木村中学校で100bの選手でしたとお話ししました。礼拝の後、一人の姉妹が私のところに来られまして、私は、先生の隣の隣の(高森)町の体育の教師をしておりまして、当時先生にお会いしていると思いますという事でした。(5つの学校が対抗で試合をし、その年は、高森町で試合をして、先生は、その時に陸上部の指導をしていた。年をあわせてみると、確かに、自分が中学の時であり、私が喬木を代表して出た高森中学での試合を私も覚えているのです。)

「さすが地元」と嬉しくなり、恐ろしくなりました。しかし、自分が嬉しかったのは、同郷(郷里が同じ)であるという事以上に、私たちがクリスチャンとして兄弟姉妹として、かつての隣町の先生と生徒である私がまるで何年ぶりにあった知友(知り合い。友人)であるかのように話が出来ると言うことであります。

もう一人の若い婦人が私の所に来られました。「私は、隣村(豊丘村)です。」本当に地元ですね。いっそう近い地元であることに嬉しくなりました。姉妹がおっしゃいました。隣村の施設で育ちました。「施設と言いますと?」にわかには理解出来ませんでした。「孤児院です。」一瞬、二の句がついて出ませんでした。どう言っていいのか。だいたいそういう施設があるという事も私は知りませんでしたし。「今は結婚をしてこちらに住んでいます。今日はありがとうございました。」

恥ずかしいとか、また何か気持ちを高揚させるでもなく、姉妹が、堂々と淡々とそのように自らを紹介し、それ以上何も語ることがなくても、姉妹が「今は幸せで、神様に感謝しています。」と言っているのがはっきりとわかったように思いました。もし私たちが唯一のまことの神様を信じていなかったら、ただ同郷であるという事だけでは超えられない壁が、ただお互いに同じ神様を信じている、神様に特別に愛されている者同士だという事が確認できれば、一瞬のうちに超えられてしまうのを実感をもって感じたのです。(もし神様を信じていなかったら私の心には平安と感謝はなかったと思います。)本当にありがたいことです。先ほど、お読みしました、22,23節のペテロの言い方は、私にとっては非常によくわかるのです。(7月には私の教会の修養会で私の田舎を尋ねて下さる予定で、特に喬木教会との交わりを通して、みなさんも同じ兄弟姉妹であることの素晴らしさを味わっていただければと思います。)

 

今日の結論を先に言うことを許していただきたいと思います。

それは、こう言うことになります。

「いっそうこの神、このキリストを信じ、また、(特に前回強調されていました、)御言葉にしっかりと信頼して、基礎をおいて、成長しなさい。もう一度確認しますが、あなた方は、特別に選ばれた人々です。特別に神様に愛されている人々なのです。しかし、言います。そうされたのは、その素晴らしい神様のことを多くの人々に伝えてあげる為なのです。」

特に結論の部分ですが。(御言葉では9節にあたります。)

兄弟姉妹という教会の中で愛し合うだけでなく、前回も言いました、教会は愛の学校である。卒業するわけではありませんが、いつもここから出ていって、さらに多くの人々を愛するのであると。

今朝は、なお残された時間、9節を中心に教えられたいのです。

2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

あなた方とは、キリストを信じた人々のことを指しています。その誇り高い立場をこれでもかというほどに強調しています。

「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」

「選ばれた種族」とは、もともとユダヤ人を指す言葉ですが、ペテロはユダヤ人ばかりでなく異邦人も奴隷も自由人も女も男と例外なくと言っているのです。

「王である祭司」は、(王族の特別に権威をもった祭司という意味が一番近いと思う)難しいことは知らなくて結構ですが、ただ言いならされたキリスト教の言葉で万人祭司という言葉があります。歴史的にはプロテスタントの信仰者がよく使った言葉で、カトリックの司祭とか何かだけではなくて、皆が御言葉を読み、また自分の言葉で祈り誰もが同じように神に近づくことが出来るのだという意味ですが(それはプロテスタントの強調点だけであって)、(当の)聖書では、5節を見ますと、「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とありまして、祭司の特に犠牲を献げる役目に、ペテロは祭司と言うときに強調していまして、皆が祭司だという時に、それはクリスチャンの権利という意味と共に、義務?、誰もが神様が奉仕をするのだという意味が強調されています。(詳しく学ぶ機会は別の機会に譲りますが、要するに、例えば、教会とは、飛行機とは違うと言うことです。飛行機は、操縦士がいて副操縦士がいて、また、スチュワーデスが協力をして空を飛びます。そして、お客さんは座っているだけです。しかし、教会は、みんなが力を合わせて飛ぶのです。みんながんばれという事ではないのですが、空を飛ぶために一人も役に立たない人はいない。教会が一歩前進する時にも、たった一人の存在も大切なんだという事です。)

「聖なる国民、神の所有とされた民」とは、神により分けられ、神のものとされた民だということです。お宝を鑑定して値段をつけるというテレビ番組がありますが、このボールはホームランを何十本も打った大リーガーのホームランボールだという事になると、何百万、何千万、何億という事になるのにびっくりします。薄汚れたそのボールのもともとの価値は、せいぜい数千円のものでしょう。ところがそれを持っていた人が誰であるのかということによって値段が決まるのです。汚いから洗ってやろうか、バットの後も生々しくはがれているので縫い合わせてやろうかなどと考えてはなりません。そんなことをしたら価値は半減してしまいます。汚れているとか破れているなどと言うことは、誰がそれを所有しているのかという事に比べれば、ほとんど問題にならないことであって、下手に自分のやり方でいじってはならないのです。そのままで。

これは、キリストを信じる者がどういう風にされているのかという事を言う上で決定的とも言える言い方です。

それで、ペテロは言い換えます。

「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざ」なのだと。

薄汚れて見栄えのしない人間が、いまどきの事で言えばスポットライトを浴びて、脚光を浴びて、スターになった。ペテロはしつこくまだ言い換えます。宮村武夫先生(前牧師)のように。

2:10 「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」誰からも愛されなかったような者が、今は神様に本当にこのように熱く愛されているのですと。

で、だから結論なのですが、で「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」というわけです。

宮村武夫先生が、ここをこのように解説しています。

「それは(キリスト者が光の中に招かれたのは)何よりも、『ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざ』を、ローマ世界全体に宣べ伝えることである。」と。

前回、1:24,25を解説しますときに、私は、散りしおれる草や花は、500年前のバビロニア帝国の事であり、また、大ローマ帝国のことであると、言いまして、御言葉の価値の高さ素晴らしさを、その滅び行くものに例えて説明いたしました。誤解をしていただきたくないのは、ペテロはそれによって国家を否定したり、まして、最初に言いましたように信仰のない者を卑下したりしているのではないと言うことなのです。むしろ、逆で、少し先の事になりますが、2:13「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても」と言いまして、このペテロの手紙は、国に従えということを堂々と教える、むしろそういう特徴のある書なのです。

宮村先生は、このように言われました。

「確かにローマも滅びる。草のようにしおれ、花のように散る。しかし、・・イスラエルの民が古代オリエント(今の中東)世界で祭司、聖なる国民として生かされたように、しおれ、散りゆくローマ、偶像の満ちあふれたローマにあって、祭司として生きる使命を今、受信人(キリスト者)に与えられているのである。」と。

もしそうだとすれば驚くべき事です。再三述べておりますように、ペテロは、ローマの燃えさかる火の迫害に備えさせるためにこの書を書いているのです。何と皮肉なことでしょう。彼らクリスチャンは、いずれ人々への見せしめとして、獣に食わせられ、また、火に焼かれて偶像への供え物となったのです。

2:5「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とペテロが言うとき、祭司だけではなくて、(何をささげるのか。あなた方自身を。あなた方が)献げ物にもなりなさいと言っているのです。

殉教を薦めたというより、どのようにローマの人々に証をするのかというときに、本当にローマの人々に役に立つように、必要なら身を献げなさいと言っていると言うことなのです。

また、4節で、ペテロは、あなた方は、人には捨てられたけれど、神殿の頭石となった石、それはイエス様を指しますが、あなた方も、そのようになるのですと薦めます。彼は、かつてイエス様から、あなたは教会の礎石になるのだと言われてペテロ(ギリシャ語ペテラ:石)と名が付けられました。彼は鼻高々になったかもしれませんが、最後にイエス様に、あなたはいずれ手が後ろに回って、捕らえられて引き回されるだろう(逮捕される)、しかし、そのようにして人々を愛し、牧会し、証をするのだと言われたのです(ヨハネ21章)。彼は石だと言われた意味を今は理解しています。自分は、確かにイエス様を裏切って本当に役に立たない石ころだ。でも、そんなわたしが神の国の、また教会の基礎になりうる者にされた。ただ、それは誰かの上に権力を振るい、誰かを従わせるためではなくて、かえって人に引きずり回され自由を失うような形になるやもしれないけれど、それでも役目が果たせるし、そのようにして役目を果たすのだと。

事実、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジアの彼らの多くは、命を落とし、しかし、その様子を見ていた、多くのローマ人、ヨーロッパ人、アジア人が、かえってそのキリストにつく者の言葉に言い表せないシャローム(平安)をみて、爆発的にキリスト教会は成長したのです。

 

宮村先生がおっしゃるとおり、敵であり憎むべきローマに対して、むしろこれを愛し、これに神様の素晴らしさを宣べ伝え証をしていけと。なぜ、キリストを信じる者が、そんなに素晴らしい権威が立場が与えられたのか。それは鼻高々になるためではなくて、愛するため。国や立場を超えてまず兄弟姉妹を愛し、更には敵である人々をも愛し、神様の愛とそれを信じる者の幸いを伝えていくためなのだと、ペテロは言うのです。ペテロもローマで逆さに張り付けられて死んだと伝えられているのですが、いったいどこからそういう発想が出てくるのだろうかと、読みながら驚嘆します。最初にも言いましたように、いったいこういうことを教える宗教はどこにあるのだろうか、また変な言い方ですが、こう言うことを教える聖書とは、いったいどういう書なのだろうかと、驚きを覚えるのです。

「主のことばは、とこしえに変わることがない。」(1:25)と言われるこの御言葉(聖書)の、私たちの考えをはるかに超越している事を思います。

 

2:1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るの(ため)です。

 

私たちには、極めて素晴らしい目標が与えられており、またそのために信じ従うべき極めて素晴らしい御言葉という宝が与えられています。

汚れを知ることのない、乳飲み子のように、本当に疑うことなくお母さんのおっぱいを慕い求める赤ちゃんのように、今週も御言葉をこそ開き、また心に覚えながら、歩みたいのです。目の前には、華々しいものがいっぱい見えます。自分を見るとなんと醜く見えることだろうかと思うかもしれません。しかし、見えるところによって歩むのではなくて、見えない神とその約束、何よりもこの御言葉に従ってこそ道を決め歩むのです。

アメリカでのこと。ある日、6年生の女の子が教室に座っていました。先生は、進化論の話をはじめました。

先生が、男の子に質問しました。

「トミー。そとに木が見える?」

「はい。」

「トミー。そとに芝生が見える?」

「はい。」

「外に出ていって空を見てきてごらん。空が見えるね。」

(トミーは、外に出て数分して帰ってきました。)

「はい。先生。空が見えました。」

「じゃあ聞くけど、あなたはそこに神様が見えましたか?」

「いいえ。」

「そこが大切な事よ。神様はいないのね。だから、私たちには神様は見えないの。」

その時、女の子が手を挙げて、「私も、トミーと話したいんだけど。」と言ったのです。先生は、それを許しました。それで彼女は言いました。

「トミー。外に木が見える?」

トミーは、いやいやそうに答えました。

「ああ」

「トミー。外に芝生が見える?」

「ああ、ああ」

「空が見える?」

「ああ、ああ」

「トミー。先生が見える?」

「うん。」

女の子は言いました。「じゃあ。先生の脳みそは見える?」

「いいや。」

「それって、先生は頭の中に脳みそが無いってこと?」

 

「はい」って答えたら面白いのですが。もちろんそうではないわけですね。ここにいる私たちは、見えるところに従ってでなく、当然のことですが、見えない神とその約束、何よりもこの御言葉に従ってこそ道を決め歩むのです。そこのところを明確にしていただきたいと思います。

赤ちゃんに与えるミルクは、ほ乳ビンを良く熱湯消毒して、扱いには本当に人一倍注意をして与えるものです。

ペテロは、この御言葉を、乳飲み子がとるミルクに例えたのです。

ジャンクフードといいますか?ポテトチップや、コーラを飲むように無造作に取るものとは違います。今日与えられた御言葉を注意深く思い起こして下さい。また日々与えられる御言葉をとりわけ大切に注意深く読んで下さい。見える華々しさや、見えるがっかりするようなことに目を奪われることなく、神に、そしてこの御言葉をこそ大切にしながら歩む今週の歩みでありたいのです。そうすれば自ずから成長し、また今朝与えられた確かで尊い目標に向かって進むことが出来るはずだからです。

祈りましょう。