礼拝

1999/4/25

Tペテロ1:3〜12

「救いを得ている」


Tペテロ1:3〜12

ある経済学者が(肥田日出生:明治学院大)、日本がバブルの真っ最中、アメリカによるいわゆるジャパンバッシング(アメリカの上院下院議員の人たちが日本のラジカセをハンマーでたたいて壊してみたり・・などの光景を覚えておられるかもしれません。)をなぜするのかという事に触れて、何といってもアメリカはキリスト教の国だ。聖書というのは、イエス・キリストの言葉の寄せ集めとかではなくて、聖書全体には、強固な論理がある。

その論理がいかなるものであるにせよ、人間というものは、確固とした行動原理をもっていなくてはならないと考える。アメリカには、“マン・オブ・ノープリンシプル”(行動哲学のない人間)という言葉があって、この言葉が使われる人は、「市民の権利を与えるに値しない人」ということになってしまうのだと説明しまして、日本人の場合、それとは反対で、自己の信条をあまり外に出すのは、はしたないこととされ、あまり強い哲学を持たない人が人畜無害で安心な人と尊敬される。それでいて何かありそうで仏頂面しているような人が、みこしに担がれることが多い。集団体質というのですか?ですから日本の組織は上に行くほど、マン・オブ・ノープリンシプルで占められている。アメリカは80年代に入ってようやくその事に気づきはじめた。言葉の説得は、ノープリンシプルの人間には通用しない。だから、「これははり倒してでも変えるしかない。そこでジャパン・バッシングとなったわけである。」と説明しました。

 

本日の聖書の箇所は、キリストを信じる者が持つ希望について、「希望」について書いてあると言っていいと思います。

ただ希望と言いますと、適うか適わないかはわからないけれど希望を持つのは良いことだというような、むなしい慰めのような希望ではなくて、例えば、1:3に「生ける望み」と書いてあるように、死んだ望み、かなわない望みではなくて、確実な望み、必ず成就する望みについて、書いてあるのです。キリストを信じる者は、希望を確かにもって、その希望を疑うことなく、堂々とかかげ、確かにそれは、キリストを信じる者の行動原理となるほどに確かな希望となって歩む者であるのです。

ところで、今日のところは中身が濃く、また長い所であります。今日の所に書かれれている事をおおざっぱにまずお話ししたいと思います。

前回教えられましたように、キリストを信じる者は天国に行く希望を持っています。イエス様は、復活を見せて下さって、私たちも同じように死を乗り越えて、永遠の命が与えられることを保証して下さいました。(:3)私たちの命も財産も天にあります。(:4)ただし、この地上にいる間も、キリストを信じる者は、その財産を手にするまで守られています。(:5)

ですから、迫害があっても、守られていて、またたとい命を落とすような事があっても、永遠の命という財産を失うことはありません。(:6.7)

ですから、私たちのもっている希望は単なる思いこみとか空想のようなものではありません。確かにいずれ手にするのです。その時、イエス様にお会いします。今は見えないけれど、天国に行ったら、イエス様がいつも私たちを守り愛していて下さったことがわかるでしょう。(:8)本当に言葉に尽くすことの出来ないほどの喜びがあります。(:9)ただ、これこそイエス様を信じた事で与えられた救いです。(:10)実は、2000年以上前の旧約時代から預言者たちは、薄々知らされていまして、イエス・キリストが現れて以後に、未来に、信じる人々に用意された凄い救いの約束であることを気づいていました。いや、天使たちもあこがれていた程のそれは救いであるんです。(:11.12)

こんな例をあげてみたいと思います。

みなさんのばく大なお金が天国銀行という銀行に預けてあります。この銀行は、不良債権もない極めて健全な銀行です。で、そのお金の額たるやあまりにもばく大なものなものですから、あなたの日常生活には、銀行からガードマンが派遣されて、家はガードマンが守り、外に出るときは銀行の車が迎えに来て、護衛の車がつきます。トイレに入るときも、屈強なガードマンが、トイレの入り口を固め、またあなたのそばに張り付いています。しかしそれでも、やはり貴方は大金持ちですから強盗や暴漢に襲われます。でも守りは確かで、その大金を手にするまでは、むやみにそこらで殺されるような事はありません。

あなたは、預金通帳を見ながら、ほくそ笑んでいます。笑いが止まりません。現金は見ていないけれど、その預金通帳は確かなものです。みんな貴方のことを羨ましく思っています。松下幸之助さんも努力したのですがあなたの程の財産を持つことが出来なくて羨ましく思っていますし、小渕さんもあなたの財産を見て羨ましく思っています。外国の人も羨ましく思っています。でも、彼らも、その大きな財産はあなたのものであるということを良くわかっていますのであきらめています。

かえって分かりにくくなりましたか?

言うまでもなく、ばく大な財産とは、永遠の命の事であります。天国銀行は天国の事ですが。どんな感想を持たれましたか?

素直に、キリストを信じる人は、凄いものをもっているのだなあと思ったくれたかもしれません。

ただ、あまのじゃくで、ちょっとうがった解釈をする人は、結局まだ手にしていないのだと感じた方もあるかもしれません。確かに、キリストを信じる者が、この地上であって救われていると言うことは、まだ全部の良いものを手にしているわけではないということがわかります。かえって、大金を手にして人から恨まれたりして、危険なこともありますし、逆に言えば守られなければ生きていられないような厳しい境遇に置かれたと言うことにもなります。クリスチャンになるということは、即、幸せになると言うことではないのかもしれません。何か窮屈で、おびえるような不安なような気持ちにさせられることもあるかもしれません。

ただ、大金を銀行に預けている人の例を考えてみて下さい。彼は不幸せでしょうか?そんなふうには感じていないはずです。ガードマンは彼の誇りであり、預金通帳を失って心配がなくなることより、多少の心配があっても、預金通帳を失うことよりもいいのです。衆目の的となるほどに凄い財産をもっている事のゆえに、幸せだと感じているはずです。

彼は、正確に言うと、希望に生きているのです。でもそれは、馬鹿に出来るものではありません。どんなに安全で、食べ物も豊かにあり、快適な家に住んでいても、もし、希望がないなら、例えば明日貴方の命が取られるとするなら、将来に希望が持てないなら不幸なのです。

キリストを信じる者は、素晴らしい希望をもっている、しかも確かな希望を持っている。

それを、教えるのが、今日の所なのです。

 

ドイツで一番古い大学であるハイデルベルグ大学の神学部の教授で、説教学などを教える、ルードルフ・ボーレンという教授がいます。バルトやブルンナーなどというドイツの歴史上の神学者などとも交流のあった方で、横山先生が、今度説教集の中に先生の説教を載せなさったのは、このボーレン先生の日本での第1の弟子というべき加藤常昭牧師の下で、何人もの牧師が説教学を学んでいて、その一人として記念のために学んでいる多くの先生方と一緒に説教集を載せたのです。ほとんど意味のない言い方ではありますが、一応、ボーレンという教授は、牧師たちにとって、説教者の中の説教者、世界で随一の説教者という事になっているわけです。

実は、私も去年、このボーレン先生が、日本に来られる、最後の機会になるかもしれないということで、品川教会まで聞きに行ってまいりました。

今、私はみなさんの聞く立場にならないで、語る立場として語っているようで申し訳ないのですが、説教者は、何を語るべきか、特に今の時代。ボーレン先生はその事をお話になりました。

17世紀ドイツでの30年戦争の時には、エレミヤ哀歌が語られた。20世紀中頃、ヒトラー率いる褐色の偶像崇拝がドイツを襲ったとき、預言書ダニエルから説教した。戦争が終わったとき、エレミヤ書から語れ、500万人以上のユダヤ人がガス室などに入れられ虐殺された時代は、教会とは何かと語られイスラエルとは何かと語られた。それでは、現代、何が語られるべきか。

ずいぶん大仰(おおぎょう)な言い方ですが。こういうことで、牧師が御言葉を語るときの、勇気とその重さの自覚を教えているのですが。

東京神学大学で、ボーレン先生の講演の後、司会者が、「先生、ここは一つ、21世紀を視野に入れつつ、将来牧師になろうとする学生たちに何かおっしゃっていただけませんか。」と向けましたら、実は、その時は、はっきり言えなかったのだけれど、今ならこう言おうと思うと言いまして、一言おっしゃいました。

「どうぞ十分に注意して、殉教に備えて下さい。」と。

・・・・・・

 こんな平和な時代に。とみなさんは思われるかもしれません。私も思いました。

そして、続けておっしゃいました。

クリスチャンは洗礼を受けて救われている。新しくされている。でも、

自分が新しくされたことをまだ、十分にわかっていません。(牧師は、)新しくされた人間に、それをいわなければなりません。もう新しくされているのだと言うことを。それは王(王様)の位置には高められている事を、はっきりと見せてあげなければなりません。(この時代、あなたがしなければならない説教は)福音の説教です。その説教が、新しい人間がもつ王としての尊厳、イエス様と共に、墓から出て明らかになった命を尊厳を得ていることを、確かなこととしてあげることです。それが、今の時代にあなたがしなければならない説教ですと。

 牧師として、また御言葉を語るものとして身が引き締まるような思いでした。

ペテロが、この手紙を出した動機は、前回も言いましたように、まもなくやってくるローマからの激しい迫害の嵐に備えて、まさに殉教に備えさせるためでありました。そして、今日教えられているのは、殉教の備えて一番大切なことは、希望を持つことであるということを教えられているのです。

そして、その希望とは、キリストが獲得して下さってキリストを信じる者に与えて下さった命、永遠のいのちの素晴らしさ、あるいはその尊厳とも言えるものを既に得ていること。この希望に確信を持つべき事を教えていると言うことなのです。

1:9「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」いずれ得ると言っているのではありません。既に得ていると言っているのです。

1:8「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」

ペテロは、イエス様を見ました。

彼は、「あなた達は、見ていないけれど」と言います。でも、見ていなくても愛することは出来るし、喜ぶことは出来る。そして、それは空想ではなくて、本当にキリストによって救われているのだ。いずれキリストにお会いすることになる。と、約束しているのです。

 

ところで、最近知ったことですが、ボーレン牧師についてのこんな証を聞きました

今から20年ほど前に奥様を亡くされています。自殺でした。うつ病による自殺でした。病気のゆえとはいえ、ヨーロッパのキリスト教国にとってそれは、大変な事です。牧師の妻が自殺すると言うことは大変なことです。その日は、ボーレン牧師は、大学の神学部に「自殺をしたいと願っている人間をどう扱ったらいいか」という課題を巡っての演習をするため出かけていました。その日大学に行っている間に奥さんが自殺をしたのです。

ボーレン先生は、(後の説教で)言いました。クリスチャンであった自分の妻の柩(ひつぎ)が、お墓の中に下ろされていくとき、私ははっきりと悟った。この妻は、ここから出てくると。ここで終わっていないのだということを私は深く感じたと言われるのです。よみがえるのです。神の戒めに背いて自らの命を絶ったものさえも、(救われた者は)引きずりあげる力が神にはあるのだということを自分は悟ったと言うのです。胸が痛くなるような厳しい状況です。私は、精神病による自殺は、言わば病死というべきものだと思います。しかし、それにしても、牧師としても信仰者としても、一生かかえていかなければならない重い課題です。

私は、今朝、みなさんに、キリストを信じると言うことの価値を、本当に重いものだと伝えなければならないと思っています。誤解を恐れずに言えば、キリストを信じて救われたと言うことは、その人が、たといろくでもない一生を過ごしたとしても、キリストの恵みと救いの確かさは、取り消すことの出来ないほど確かで重い、私たちの持っている希望は、私たちのミスによって取り消されるものではない、それほど確かだと。

キリストを信じる私たちは、愛されている。恐ろしく愛されている。そう思います。

 

今朝、この事を教えられた私たちは、何を学んだらいいのでしょうか。

愛されているのだから、救われているのだから、がんばって人を愛し、神様に感謝して生きていきましょうと言いましょうか?それは、いずれそういうべきだと思います。しかし、それ以上に、愛されていることを、ただ、感謝したいと思います。この確かな希望が与えられていることを喜びたいと思います。

 

パウロとペテロは、ローマのネロの迫害によって命を落としたと思われます。次の時代のドミティアーヌス皇帝によって使徒ヨハネは島流しにあい、その次のトラーヤーヌス帝(98117)のとき、アンテオケのイグナティオスという人が、ローマで殉教しました。殉教の死を遂げようとしたとき、彼は言いました。「今、私はよやく弟子であることを始めます。」(ローマ教会への手紙5:3)と。

デートリッヒ・ボンヘッファー牧師は、1943年4月5日に、ドイツのナチの体制に対する政治的な活動のためにゲシュタポによって逮捕されて、そして刑務所に入れられました。2年後、彼が絞首刑を受けるその日、日曜日に、牧師として礼拝を導き、説教をしました。その時の様子が、後に、やはり死刑囚として同じ牢に入れられていたイギリスの陸軍の士官で結局解放された、その人によって、書かれています。

彼は書いています。彼(ボンヘッファー)ほどに、神が近くにおられる人であることを感じた人はいない。と。

1945年4月8日主日のその日。礼拝を終えると、二人の兵士が入ってきました。「ボンヘッファー。私たちについてきなさい。」その意味ははっきりしていました。絞首台に連れて行かれるためでした。

彼は、私たちに「さようなら」と言いました。私たちも、彼にさようならと言いました。

行きがけに、彼は私を近くに呼んで言いました。「これで、終わりです。でも私は、私にとっては、これは命の始まりであると思っています。("This is the end, but for me it is the beginning of life.")」と。(Copyright© 1996 Discovery Publishing, a ministry of Peninsula Bible Church.

イグナティオスは、死は、私にとって弟子であることの始まりだと言いました。ボンヘッファーは、命の始まりだといいました。

終わりの日にあっても、希望を語りうる。私たちは、そんな確かな希望をいただいていることを今朝、共に覚えたいと思います。

そしてペテロは、御言葉は、こう言うのであることを最後に聞きたいと思います。

1:3「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

言葉に尽くすことの出来ない、栄えに満ちた喜びに踊りつつ、今週の歩みも歩みたいと思います。